王太子 ー空想ー
「で、どういうことなのです? 空想を現実と思い込むとは」
ユーリンの問いかけにイキンチ伯爵令息は重く口を開いた。
「ご存知の通りカサリンは病のために長い間ベッドから出ることが出来ませんでした。動かない体でベッドの上で出来ることは限られています。」
ベッドから動けないカサリンが出来ることは限られていた。幼い頃は食事の時間くらいしか上半身を起こすことが出来なかった。その頃のカサリンは人と話すか外を見ることくらいしかすることがなかった。
領地の屋敷の使用人は人数が少なく、カサリン専任の使用人はいなかった。それでも誰かしらは必ず側にいて、カサリンに話しかけるようにしていた。
大きくなり少しの間なら上半身を起こしていられるようになったカサリンは文字を少しずつ覚え、簡単な本、絵本なら読めるようになった。
絵本に出てくるお姫様にカサリンは憧れた。どんな苦難困難があっても最後には幸せになるお姫様たちに自分を重ねていた。周りの者たちもお伽噺と片付けず、病気で苦しむカサリンの思いに寄り添っていた。
それは悪いことではなかった。だが、カサリンにとって絵本は夢物語ではなく自分への予言書だった。苦しんだ分だけ幸せになれる。病気で苦しんでいるカサリンも物語のように簡単に幸せになれると信じた。
ページを捲るだけで、段落が新しくなるだけでお姫様たちは変身した。
一度も踊ったことがないのに王子様と美しいダンスを披露するお姫様。
初めて行った城で習ってもいないのに綺麗なカーテシーをするお姫様。
国王の娘と分かっただけで見窄らしい姿なのに誰よりも気品と品格に溢れたお姫様。
見ただけで聞いただけで完璧になんでも出来るようになるお姫様。
カサリンは病気が治ったら自分もそうなるのだと信じて疑わなかった。無邪気に病気が治ると完璧な淑女になると言うカサリンの言葉は生きるための希望と思われ、誰も何も言わなかった。
十五歳の時治療薬が出来たことにより、少しずつカサリンの体もよくなってきた。ベッドから出られる時間が長くなり、動けるようになってきた。
こんなはずじゃない。
カサリンは思った。絵本のお姫様たちは簡単にすぐ幸せになっていた。
思うように動かない体。歩くのにも苦労した。治ると分かってから変わってしまった使用人たちの態度。お姫様のように何でもしてくれたのに使用人は何もしてくれなくなった。使用人はカサリンのために甘やかすことを止めただけなのにカサリンにはとても意地悪をされているように感じた。
カサリンは気がついた。まだカサリンの物語は途中なのだと。カサリンは病で動けなかったが、鞭で打たれたり掃除や洗濯をさせられていて苦労していたお姫様もいた。そんなお姫様の方が多かった。意地悪になった使用人たちも誰かに操られているのかもしれないと思い、操られていると思うようになった。
病も完治し、令嬢としての基礎だけどうにか覚えたらすぐに貴族の義務として学園に編入させられた。そこは未知の世界だった。誰に話しかけたらいいのか分からず、どうやって聞いたらいいのか分からず、近寄ってくる人たちからカサリンは逃げていた。
耳に入ってくる声は全部意地悪を言っているように聞こえた。カサリンにとってはちょっとしたことなのに大袈裟に騒ぎ、扇で口元を隠してコソコソと。絵本の中に出てくる意地悪な人たちと一緒だった。あの人たちは悪者の手下に違いない、カサリンはそう思った。
こんな時は王子様が助けてくれるのに。
カサリンがそう思っていた時、本当に王子様が助けに来てくれた。
王子様は素敵だった。どの物語の王子様よりもカサリンの王子様が一番だった。
物語では王子様には婚約者という悪者がいる。婚約者がいなくても王子様を大好きな悪い女性が必ずいる。そして王子様の思い人であるお姫様に意地悪をしてくる。王子様とその悪者をやっつけて二人は幸せになる。
カサリンの王子様には婚約者がいた。どういう人か従姉妹のリーデル子爵令嬢ラマサに聞くと腹違いの妹を苛める悪い令嬢で王子様からも嫌われていると教えてくれた。
カサリンの王子様にも悪者はちゃんといた。王子様と悪者をやっつけてカサリンは幸せになる。だから、婚約者はカサリンを苛めても当然だった、いや、カサリンを苛めなければいけなかった、物語のように。
「カサリンは絵本の物語のように自分は簡単に幸せになると思い込んでいます」
イキンチ伯爵令息の言葉は意味が分からなかった。
「それはどういう意味ですか?」
ユーリンがもう一度問い直す。
「あっ、はい。三ヶ月前の渡航前にカサリンと面会しました」
ロレンツオは頷いた。イキンチ伯爵から申請が来て許可した覚えがある。その日は一日側妃教育を休みとし、家族でゆっくり出来るように手配した。
「父が側妃教育が進んでいないことに気がつきました。カサリンにどうしてか聞いたところ…」
イキンチ伯爵令息は顔色を悪くして大きな体を縮こませていく。
「側妃になれば出来るようになるから大丈夫だと…」
ロレンツオたちはますます意味が分からない。側妃になれば出来るのなら側妃教育など必要ない。必要だから側妃教育があるのに。
「話を聞くと絵本とか物語のお姫様は何もせずにすぐに出来るようになった、だから自分もそうなのだと。側妃になった瞬間何もかも完璧に出来るようになる、と…」
その言葉に唖然とするしかなかった。空想の物語と現実とは違う。それに描かれていなかっただけで物語のお姫様も必死に練習や教育を受けていたのかもしれない。
「父と私は違うと説明したのですが、カサリンは聞く耳をもたず…」
ジロリとリーデル子爵を睨み付けながら、イキンチ伯爵令息は言葉を続ける。
「叔母上、リーデル子爵夫人にカサリンを学ばせるようよく頼んで出国したのですが…」
「やっぱりあんたの奥さんが元凶じゃん」
頭上から降ってきた声にリーデル子爵は反論したくても刺さる視線の冷たさに項垂れるしかなかった。
「帰国してから、何かおかしいと父と調べようとしていたのですが、取引先でトラブルがあり至急父が渡航せざるをえなくなりました。その封書は父が念のためと私に預けたものです」
もしイキンチ伯爵が今回のことより先にカサリンの状況を知ることが出来ていたのなら、全額返金と側妃候補辞退という形で穏便に終わっていたかもしれない。
「私も父に代わって調べようとしたのですが、商人たちの口が固く思うように進まず…、このような事態になってしまい、本当に申し訳ありません。
そ、それから…」
額を床につけながらイキンチ伯爵令息は言いにくそうに言葉を続けた。
「カサリンが好んで読んでいた本を調べたのですが…、必ずお姫様を虐げる悪者がいました。もしカサリンが物語のお姫様と自分を重ねているのなら………」
ロレンツオたちはその続きの言葉を待った。
「も、もしかしたら、カサリンは王太子妃殿下を悪者と思い込んでいるかもしれません」
ロレンツオにとってその言葉は信じられないものであったが、何故かすんなりと納得することが出来た。
ティーティアを悪者と思い込んでいるから、真偽の水晶も赤くならなかった。ティーティアがカサリンを虐げていると出たのはカサリンが芯からそう思い込んでいたから。
「リーデル子爵の財産を凍結。イキンチ伯爵の方は王太子妃の予算流用分の支払いを命じる」
「王太子殿下、何故うちだけ」
慌ててリーデル子爵が口を開く。
「その一覧表を見て分からないか? 財産を凍結せねば支払えないだろう。イキンチ伯爵家はカサリンの持参金分がある」
「そ、そんな! 好意でいただいた物なのに!」
リーデル子爵は反論するがロレンツオは無視する。
「イキンチ伯爵令息、爵位の件は陛下に進言しておく。後日、沙汰があるだろう」
「御意」
「二人を取調室へ。リーデル子爵は横領と着服の疑いがある。そのように扱うように」
「で、殿下、わ、わわたしはしらなかったのに……」
イキンチ伯爵令息は大人しく衛兵の後ろを歩き、リーデル子爵は衛兵に両脇を捕まれ引き摺られるように部屋を出ていった。
「思い込み、か………」
ロレンツオは自嘲の笑みを浮かべて呟いた。
お読みいただきありがとうございます
カサリンの思い込み理由とロレンツオの最後の呟きのために三話かかりました
インチキを捩った名前なのにマトモなイキンチ伯爵とその息子になりました
誤字脱字報告ありがとうございます