王太子 ーイキンチ伯爵令嬢ー
とりあえず至急決裁が必要な仕事は片付けた。
ロレンツオは昨日纏めさせた資料を手に取った。これに目を通すのは二度目だ。ため息しかでない。
ティーティアと婚姻一ヶ月後から一年かけてカサリンの側妃教育を行い側妃として迎える予定だった。側妃教育を始めて半年、順調なのは学園時代から始めたダンスのみ。その他のはバラツキがあるがほとんど進んでいないと言えた。うまく進んでいないとは聞いていたがこれほどまでとは。どう考えても残り半年で完了するとは思えない。
今度は王太子妃の支払い明細に目を通す。支払いが増えてきた、いや支払いが始まったのが二ヶ月前。カサリンの持参金が底をつきかけた頃だ。そしてこの使い方は散財という言葉が相応しかった。このまま使えば王太子妃の金も瞬く間に無くなってしまう。
「みんな聞いてくれ」
ロレンツオは部屋にいる者たちに声をかけた。
「カサリンを側妃にしない」
驚いた顔をしたのはケラスオだった。バーランとユーリンは気まずそうに視線を逸らしている。
「ロ、ロン、本気か?」
執務机にドンと手をついて詰め寄ってくるケラスオに資料を渡す。
「!?」
引ったくるように資料を手にするとその目はどんどん力を失っていく。
「このままでは横領で捕まえなければならない。カサリンが企てたのか確認しに行く」
既にティーティアからの贈り物では誤魔化せない金額を使い込んでいる。ケラスオも力のない目をロレンツオに向けて頷く。横領となったのなら厳罰は免れない。
「本当なら今の時間は座学を学んでいる。先触れは出さない」
ロレンツオは机の上を片付けて立ち上がった。ユーリンは素早く書類を片付け、バーランとケラスオは剣を装備した。
カサリンはイキンチ伯爵の長女として生まれた。生まれて間もない時に難病にかかり領地の屋敷でひっそりと育てられた。接するのは屋敷に雇われた使用人と時々くる父親、父親がいるときに呼び寄せる商人のみ。二十歳迄生きられないと言われていた彼女はとても大切に大事に育てられた。使用人たちは寝たきりのカサリンをお姫様のように扱い、父親は長く生きられないのだからと許される限り甘やかした。
ある日他国で難病に効く薬が完成し、カサリンの病気も十七歳の時にようやく完治した。そして、貴族の義務として王立の学園に編入してきた。
長い闘病生活のためか透き通るような白い肌、艶のある漆黒の髪、不安に揺れるミルクティー色の瞳、カサリンは多くの男子生徒の庇護欲を刺激していたが見知らぬ者に怯えるため遠巻きに見られているだけだった。
狭い世界で育ったカサリンは学園に馴染めず浮いていた。ベッドの上から動けなかったとはいえ、使用人たちに支えられ、なにひとつ不自由ないよう好きなことをして生活出来た。それなのに学園では色々な制限がありとても窮屈に感じ、屋敷では普通だったことも許してもらえなかった。同年代の者たちとの接し方も分からず、カサリンは一人でいることが多かった。
ロレンツオも婚約者と同じように一人でいるカサリンが気になっていた。長い闘病生活のことも聞いておりそのため学園に馴染めないことも知っていた。
ある日、ロレンツオはカサリンに声をかけた。学園で困っていることはないか、と。
カサリンは泣きながら、学園に馴染めないことをロレンツオに打ち明けた。人にどう接したらいいのかわからないとも。
何も知らないカサリンはロレンツオの言葉を瞳をキラキラさせて聞いていた。詰まらない話も楽しそうに瞳をキラキラさせていた、かつての婚約者のように。
ロレンツオは何かとカサリンを気にかけ、側に置くようになっていった。ロレンツオとカサリンの仲が親しくなるのにつれて、婚約者がカサリンを虐げていると噂が立った。
ロレンツオがカサリンに確認すると事実であり、ユーリンが証言を集めた。卒業記念パーティーでロレンツオは婚約者に罪を突きつけ婚約を破棄しようとしたが、それは隣国との盟約によって叶わなかった。カサリンはロレンツオと婚約者の婚姻一年一カ月後に側妃となるため王太子宮に住み側妃教育を受けることになった。
カサリンがいる部屋の前に着くと、座学の授業にしては華やかな声が聞こえた。扉を守る衛兵が顔色悪く立っていた。
『目が肥えていらっしゃる』
『これがいいですわ』
『私はこれが』
軽やかな笑い声が聞こえて、全部頂きますわという聞きなれた声が聞こえた。
「お邪魔するよ」
ロレンツオは躊躇う衛兵に扉を開けさせて堂々と足を進めた。
部屋には高級品を扱っていると噂の商人とイキンチ伯爵の妹となるリーデル子爵夫人レートス、その娘のラマサ、そしてロレンツオの恋人カサリンがいた。四人は宝石が並ぶ机を挟んでソファーに座っていた。
「カサリン、座学の勉強を見学に来たよ」
ニッコリ笑ってロレンツオが聞くとカサリンは花のように顔を綻ばせてロン様と立ち上がって綺麗なカーテシーを見せた。
リーデル子爵親子も慌てて立ち上りカーテシーをしている。商人は深々と頭を下げていた。
ロレンツオの楽にしていいという言葉に商人は並べてあった品物を片付けようとしたがロレンツオはそれを止めさせた。
「カサリン、座学の講師は?」
「レートス叔母様がバラストを連れてきてくれたので帰っていただきましたわ」
カサリンは嬉しそうに微笑んで言った。悪びれた様子もなく自然体で。隣で慌てているリーデル子爵夫人の様子には気が付いていない。リーデル子爵夫人はイキンチ伯爵からカサリンの世話役としてつけられている者だ。カサリンが望めば商人を連れてくることもある。
「リーデル子爵夫人、どういうことか説明願おう」
ロレンツオは目を細めてリーデル子爵夫人を見た。カサリンの世話役として予定を知っているはずだ。側妃教育の邪魔になるようなことをしてはいけないのを分かっていなければならない。
カサリンはきょとんとした表情をして口を開いた。何故、ロレンツオがリーデル子爵夫人に説明を求めたのか分かっていないようだ。
「勉強したい気分じゃなかったの。だから、ちょうど良くって」
それよりもこの宝石を見て。カサリンはロレンツオの腕を取って宝石の並ぶ机に連れて行こうとする。
「カサリン、彼らも仕事があり、時間を作ってここに来てくれている。彼らの時間を無駄にしてはいけない。それにリーデル子爵夫人が君に付いているのは側妃教育がスムーズに進むように調整するためで勉強をさせないためではない」
ロレンツオは優しくカサリンの手を自分の腕から外す。カサリンは何故ロレンツオの腕が引き抜かれたのか瞬きを繰り返して不思議そうに自分の手を見て口を開いた。
「叔母様も私のためにしてくれたことですから責めてはいけませんわ」
少し前のロレンツオなら下の者を庇う優しい言葉だと勘違いしていた。そして次回からはと声をかけて見逃していた。それが誤りだった。
「だが、君のためになら余計してはいけなかった」
カサリンはいつもと違うロレンツオの言葉に目を見開いて固まり、リーデル子爵夫人は顔から色を失って震えていた。
「ロン…さま?」
いつもと違うロレンツオにカサリンは上目遣いで窺うように顔を見てきた。カサリンの視線に気がついてロレンツオは安心させるように微笑んだ。まだ聞かなければいけないことがある。
「ところでカサリン、バラストと会ってどうするの?」
ロレンツオの問いにカサリンはプッと吹き出していた。それは分かっているでしょう、と言っているようだ。
「君が自由に使えるお金はないはずだが?」
ロレンツオが何を心配しているのかカサリンも分かったのだろう。大丈夫とロレンツオの手を取って嬉しそうに笑って答えた。
「私は王太子妃になるはずだったから、王太子妃のお金を使っていいのですって」
無邪気にカサリンはロレンツオに告げる。支払いの心配はいらないと。本当に自分が使うのが正しいと信じているようだった。
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