悪夢仲間
『こんな時間に非常識なのは分かっているのですが……ここのところ、寝付けなくて』
本当に困ったような声色で、晶子さんはそんな弁明をする。
表情は勿論見えないが、きっと眉を下げていることだろう。
不思議とそのことは察せられた。
「寝付けないとは……また、どうしてですか?」
とりあえず質問を返しつつ、彼女の声を拾うべく壁に身を寄せる。
色々と声を聞き取りやすい体勢を探した末、最終的に壁に背中を預ける形になった。
そのまま座り込んだところを見るに、僕は最初からこの提案に応じる気だったのかもしれない。
「元々不眠症だとか、そういう理由ですか?」
『いえ……その、笑わないで聞いて欲しいのですけど』
「笑いませんよ」
『……実は三ヶ月ほど前から、寝るといつも悪夢を見るのです。それが、怖くて』
──悪夢、か。
それはまた、聞き馴染みのある理由だ。
笑うどころか、親近感を覚えるくらいだった。
『子どもみたいな理由ですけれど、寝るたびに怖い夢を見るのです。だからいつも深夜に飛び起きるのですが……その、この部屋では気分転換もできないでしょう?』
「確かに。外に出て気晴らしをするとか、そういうことはできませんね」
『はい。またあの夢を見てしまうかもしれないと思うと、もう寝付けなくて。一度起きてしまうと、もう後はじっと起き続けるしかないのです』
「……おおう」
次から次へと聞き覚えのある理由が飛び出すものだから、僕はそこでちょっと驚いてしまった。
徹頭徹尾、先程僕が考えていたことと同じである。
まさかこんなところで自分の同類に出会うとは。
『……どうされました、その、笑っていますか?』
「あ、いえ、そうじゃなくてですね」
僕の態度が不安になったのか、晶子さんはそこで心配そうな声を出す。
そんな声を出させたくなかった僕は、慌てて事情を説明することにした。
普段ならば、僕の睡眠事情を他人に話すようなことはまず無いのだけど、同類相手ならまあ話しても良いだろう。
「実は僕も、悪夢を見る癖がありまして……今日もそれで飛び起きたところだったんです。だからちょっと、共通点に驚いていまして」
『まあ、九城さんもですか?』
「はい。僕は中学時代からですけどね……今日もちょっと、何をしようか困っていたところで」
タハハ、と苦笑いを零す。
普通なら話し相手と共通点があるのは嬉しいことなのかもしれないけど、僕たちの場合は内容が内容なので、あまり嬉しいとは思わなかった。
どちらかと言えば、「同病相憐れむ」の心境に近い。
『でも、それなら私たちは悪夢仲間ということになります。だから……やっぱりお話、しませんか?』
「そうですね。悪夢仲間というのも何だか変な言い回しですが……どちらかが眠くなるまでは、そうしましょうか」
恐らくは、晶子さんも苦笑を浮かべているのだろう。
そんな確信を抱きながら、僕たちは流れるように、悪夢仲間として夜の会話に勤しんだ。
「晶子さんは……その、学校とかは通われているんですか?」
『通信制の高校に通っています。日本の治安が悪化して以降、通学時の危険を避けるために通信制の学校が増えたでしょう?ですので、それらの一つに入学しました。だから一応、私も高校三年生になります』
しばし自己紹介混じりの雑談をしてから、ふと気になっていたことを聞くと、妥当な答えがなされた。
まあ確かに、「鳥籠娘」ならそれしかないだろう。
羽生社長も、流石に学校に通わせないようなことはしなかったらしい。
『と言っても、完全にオンライン講義のみで完結してしまう学校をお父様が選択してしまいましたから……本当に一般の高校生程度の知識があるかは、正直不安なところです。どうですか、九城さん。私の話し方、変なところはありませんか?』
「いや、まさか。凄く丁寧な話し方ですよ。外で普通に学校に通っていても、晶子さんよりも教養の無い人ってたくさんいると思いますし……」
『まあ、お上手』
「お世辞じゃないです、本当です」
誤解されたくなかったので、ちょっとムキになって反論する。
実際、幻葬市はともかく、外界の教育レベルはこの四十年余りで大きく下がったと言われている。
治安の悪化が生活を歪ませ、まともな教育を行いにくくなり、そのせいでまともな知識のない人間が増えて、更に治安が悪化して……そんな無限ループがこの時代では繰り返されているのだ。
それに────。
「その、晶子さんの話し方とかには、ちゃんと『品』みたいなものがあると思います。決して羽生家の娘だからとかじゃなくて、こう、晶子さん自身の教養がにじみ出ているというか。だからそんな、心配しなくても……」
『……九城さん、そんなに私のことを褒めても、別に何も出せませんよ?』
「えっと……すいません、ご不快でしたか?」
『不快ではありませんが……そうですね』
僅かに考え込むような間が空く。
それから、背中越しに壁がトン、と震えた。
『私の現状を憐れんで、過剰に褒めて慰めようとしているんだとしたら、ちょっと悲しいかもしれません』
言われた瞬間、心の一部が確かにギクリとした。
内心、図星だったのだろう。
彼女の境遇を憐れんで必死に話を合わせようとしている側面が、確かに僕の中にあった。
「……すみません。過剰な物言いを」
『いえ。でも、やっぱりそうなんですね。ここにいると家族と使用人くらいしか会えませんから、どうにも感覚がずれやすいのですが……今の私は外の人から見て、相当奇矯な境遇にあるのですね。足が悪い中で二階の一室に監禁され、自由に出られないというのは』
どこか淡々と、自分の状況を客観視する様子で。
晶子さんは、それを当たり前の事実として口に出した。
『お父様やお兄様はいつも、これを当然のことだと言うのです。今の時代なら、当然の護身方法だと。どこの資産家の娘も、部屋の中で一生を終えて、部屋の中で生活が完結するのが当たり前だとも言っていました。でも……違うのでしょう?』
教えて欲しいという思いが強すぎるせいか、少し甘えるような声色だった。
どうにかして外の常識を知りたいらしい。
こういう話が聞きたくて僕を夜のお喋りに誘ったのかな、と少し思った。
だとしたら、僕はとんでもない大役を任されたのかもしれない。
微かに震えながら、正直に話すことにする。
「確かに今の時代、『鳥籠娘』は増えていると聞きます……しかしそれでも、こんな山奥でここまで外出を禁じるのは流石に少ないと思います」
『やはりそうなのですね』
「資産家の娘は皆こうだ、というのも言い過ぎです。例えば、終夜は自由に動き回っていますしね。加えてその、足にハンデがある中で介助者もつけず、一室に留めおくと言うのは……」
『私を絶対に逃がしたくないのと……お父様はドケチだから、ヘルパーを雇いたくないのでしょう。私に過保護な割に、そこは無頓着なんです』
冷えた声で、晶子さんは父親を一刀両断する。
羽生社長の言い分を聞いていないので、公平な意見ではないのかもしれない。
しかし彼女の言葉は、確かな真実味を持っていた。
『私がひき逃げにあって、病院から帰ってきた時にはもう、この部屋は今の形に改造されていました。改装工事なんてお金がかかることは大嫌いな癖に、トイレもお風呂も備え付けて、パンや缶詰みたいな保存食まで用意して……そしてお父様たちは、この部屋の鍵を決して内側から開けられないようにした』
「……」
『ここに入ったのが八歳の時ですから、今年で丁度十年です。十年間、この部屋でずっと生きてきました……授業用のパソコンはあっても、自由にネットにつなぐことはできないこの部屋で。テレビも電話もない、この部屋で』
「……」
『趣味なんて、窓からパンくずのような餌を落として、集まった鳥と戯れることくらいしかありません』
──……確かにこれは、悪夢の一つや二つ見るだろうな。
言葉を返せないまま、自然と僕は神妙な顔をした。
改めて本人の口から聞くと、やはりその酷さを実感してしまう。
同時に僕は、世間一般での「鳥籠娘」への認識について、彼女には絶対に言わないでおこうと決めた。
終夜との会話でも少し触れたが、「鳥籠娘」は現代で社会問題化しているにも関わらず、殆ど警察が動いてくれない。
これは他の事件で忙しいからというのが大きいが────同時に、「庶民の問題ではないから」という側面も大きいと聞く。
はっきり言ってしまえば、金持ちの我が儘と捉えられているのだ。
何だって、自由に外に出られない?そんなの、殺されないだけ上等じゃないか、外でテロに遭遇している奴より万倍マシだよ、衣食住の面倒を家族に見てもらえるんだから、寧ろ有難いだろう?飢えないニートみたいなものだ、いいよなあ、金持ちは……。
こんな意見が、探偵狂時代の社会では支配的である。
可能ならば「鳥籠娘」になりたい、という人すら多い。
僕自身、ここに来るまでそういう考えが全く無かったとは言えない。
しかしこうして晶子さんの話を聞くと、やはり彼女たちは彼女たちで辛いのだと実感する。
幼少期からずっと、一つの部屋の中で寝起きするだけの生活。
外界との繋がりも殆ど無い中で、楽しみを見出す方が難しいだろう。
「し、使用人さんとかとはお話できないんですか?食事の用意とか、布団を変える時とかに話すことは……」
せめて救いを求めるように、僕は不要な口を叩いてしまう。
だがその意図はあっさり伝わってしまったのか、壁の向こうでフフッと笑う声がした。
『使用人は短時間しか部屋に立ち入りません……それ以前に、屋敷にいる時間も短いですから。例えばほら、今は使用人がいないでしょう?』
「そういえば……こんなに大きい洋館なのに、泊まりの使用人さんはいないんですか?」
『ええ、料理人や掃除係も含めて、夕食を用意させると全員帰らせるんです。もし泊まらせると、彼らの分の布団を用意したり、電気を使わせたりしないといけなくなりますから』
「それが嫌で……」
『ええ、使用人たちへの経費を支払いたくないあまりに、泊まりの使用人は雇い入れていないのです。もっとも雇った人たちも、しばしばクビになっていますけどね。三ヶ月くらい前にも多くの人が辞めさせられたと、お兄様が言っていました。大方、少ない人数で屋敷を回せないかを試しているのでしょう』
──……確かに「ドケチ」かもしれないな、それは。
晶子さんが父親のことをボロクソに言う論拠を知ってしまい、僕は何とも言えない顔になる。
そんなことをするんだったらこんな洋館を建てなければいいのにと思ってしまうが、そこは終夜の言う通り、成金故の憧れみたいなものがあったのだろうか。
どうも羽生社長、豪華な場所だけは提供するのに、その内実をケチる傾向にある。
娘を鳥籠に閉じ込めるために工事をしたのに、こうしてネズミにやられた壁は放置して。
小麦アレルギーで洋食自体が嫌いなのに、洋装の食事場を作ってみる。
矛盾塗れというか、なんというか。
『お父様がちゃんと拘るのは、きっとお酒だけだと思います。ワイン大好きですから』
「ワイン?」
『ええ、私も見たことは無いのですけど……自室で好きなワインをちょっとずつ飲むのが趣味だと、どこかで語っていた記憶があります。それこそ、今もチビチビ飲んでいるんじゃないでしょうか?』
「そのワインに関しては、お金に糸目をつけないんですかね?」
『いえ。かなりの安酒だと聞いたことがあります。何とか安く済ませる方法を見つけたいとも言っていました。可能ならば生産した蔵から直接買いたい、いっそ自宅からワインのブドウを収獲したい、とも』
「筋金入りですね……」
こういう節約精神が、フェザーフーズをトップ企業に押し上げたのだろうか?
だとすれば、人の親としてはともかく経営者としては優秀なのかもしれないが。
そんなことを思ったところで、ふと僕は寄りかかっている壁に、彼女の声とは違う振動が加わったことに気が付いた。
「あれ……雨?」
ポツポツと、何かに水滴がぶつかる音。
ざああっと、外壁に水がぶつかろうとする音。
間違いない。
いつの間にか、外で雨が降ろうとしている。
それも、結構強めの奴が。
『雨が降ってきましたね……この辺りは山奥のせいか、天気が変わりやすいですから』
窓から空模様を確認したらしい晶子さんは、そこで残念そうな声を出す。
どうしてかと思ったが、理由はすぐに分かった。
雨がうるさすぎるのだ。
壁の中で雨音が反響してしまい、耳を押し当てても晶子さんの声が拾いにくい。
降り始めでこれなのだから、本降りになると会話は不可能だろう。
『音だけじゃありません。この壁は先述の通り薄いので、大雨だと水が染み出してきます。お父様に何度も直して欲しいといっているのですけど、面倒くさがって直してくれなくて』
加えて一つ、晶子さんから有難くない情報提供がなされた。
このまま壁に背中を預けていると、僕はびしょぬれになる可能性が高いらしい。
──これはまた、水を差されたな……会話ができなくなった。
羽生社長が僕のためにこの部屋の扉を開けてくれるはずもないし、残念ながら夜の会話はここで終わりになってしまうようだった。
スマホも持たされていない晶子さんとは、もう会話手段が無い。
『……ここまでですね、戻りましょうか、九城さん。少し早いお開きですけれど』
彼女も同じことを考えたのか、向こうから中止の申し出がある。
残念な気持ちになりながら、僕も立ち上がった。
「……すみません、晶子さん。何というか、楽しい話題を提供できなくて」
『いいえ、まさか。私も愚痴を聞いてもらってばかりで……』
「まさか、晶子さんが話したいことを話すのが一番です」
『ありがとうございます……こんな時代でなかったら、いつでもこういう話ができたのでしょうに。申し訳ありません』
「いえいえ……」
最後は何だか互いに恐縮しながら、僕たちは会話を打ち切ることにする。
そうしているといよいよ雨が強くなり、僕は晶子さんの声を聞けなくなった。
若干の消化不良感を抱きながらも、僕は自室に戻るのだった。
フェザーフーズ社長・羽生辰徳氏の死体が発見されたのは、翌朝のことだった。