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眠れない夜は

 最初にその人の姿を見た時、僕は何となく鉱物を連想した。

 動物ではなく、もっと静かな物質の有様。

 人間の第一印象としては不適切な例えだったかもしれないが、本音だった。


 生まれてから一度も日光を浴びていないのではないかと錯覚する、色味の無い白い肌。

 華奢というレベルを超えて、マネキンのようになってしまった細い手足。

 真っすぐに伸びた長い黒髪に、ノイズとなる部分が一切無い整った顔立ち。


 全てが全て、僕の知る人体のそれとは違う物質でできているように見えた。

 仮に水晶に命を与えることができたならば、それはきっとこんな姿になることだろう。

 そう思うくらい、彼女は透き通った美しさを持つ人だった。


 彼女の名前が羽生「晶」子なのは、ただの偶然だろうけど────羽生社長も適切な名前を付けたものだ。

 ぼんやりと彼女を見つめる僕たちに対して、この水晶は椅子に座ったまま口を開いた。


「初めまして、お客さんですね?……羽生晶子と申します」

「……く、九城空、です」

「終夜雫です、この度はお招きいただいてありがとうございます。お屋敷を訪問した者として、一言挨拶を申し上げようと思いまして」


 彼女の部屋に入れてもらってすぐに雰囲気に呑まれて、ちょっと噛みながら挨拶を返す僕とは対照的に、終夜は冷静だった。

 きっとこういう場に慣れているのだろう。

 晶子さんの方も自然に微笑み、同時に少しだけ眉を下げた。


「ご丁寧にありがとうございます。そして、申し訳ありません。本当はホストの一員として、私の方から出向かないといけませんのに……この足なものですから」


 そう言いながら、彼女は着用しているフリルのスカートを少しはだけさせる。

 露になった彼女の足首は、腕よりも更に細かった。

 痩せている人のことを「骨と皮だけ」と評することがあるが、彼女のそれは骨すらちゃんとあるか怪しそうな様子である。


「十年近く前に交通事故に遭いまして、その時から足が悪いのです。頑張れば立てない訳ではありませんが、長時間は辛くて。本当は挨拶に向かいたかったのですが……」

「い、いえ、そんな」

「気遣いの必要はありませんよ、晶子さん。分かっているからこそこうして伺ったのですから」


 意外な光景に動揺する僕を尻目に、終夜は再び余裕の微笑。

 口ぶりからすると、終夜はこの事情は知っていたらしい。

 親とかから聞いたのだろうか。


 ──羽生社長が娘を「鳥籠娘」にしてしまった理由はこれか……その事故以来、外に出していないのかな。


 元より日本は交通事故の多い国だったらしく、現在でも痛ましい事故は増えている。

 自分の子どもがそんな事故に遭ったということで、羽生社長も色々と拗らせてしまったのか。

 悲しいかな、よく聞く話だった。


 ──しかしそれでも、歩くのが難しい人を二階の部屋に置いておくって……。


 ざっと見た感じ、晶子さんの部屋は十分に豪華な内装をしていた。

 机にはパソコンも設置されていて、大きなベッドも用意されている。

 冷蔵庫やトイレ、風呂の類も室内に用意されてあるようで、一流ホテルのスイートルームだと言われても信じただろう。


 だがホテルの宿泊ならともかく、毎日ずっとここで暮らすというのはどんな気分なのだろう。

 現実問題として、例えばこの屋敷で火事でも起これば、彼女は逃げられずに焼死してしまうかもしれない。

 その時はどうするんだと勝手に心配をしていると、唐突に晶子さんから話題が提供された。


「ところで、夕食はいかがでしたか?私は自室で食べるようになっているので、メニューはちょっと分からないのですが」

「ああ、大変美味しく頂きました……ただ、羽生社長は和食がお好きなのですか?いえ勿論、和食なのは全く問題ないのですが、少し予想外だったもので」


 思い出した、という風に終夜がそこを尋ねる。

 彼女としても、あのことは少し気にかかっていたらしい。

 疑問符を浮かべながら尋ねる僕たちを見て、晶子さんはコロコロと笑った。


「ああ……その理由は単純です。お父様は洋食の類が嫌いですから。お客様が来た時であろうと、メニューを変えたくなかったのでしょう。普段からこの屋敷は、洋食禁止です」

「嫌いなんですか?洋食が?」

「正確には洋食ではなく、小麦粉が嫌いということになりますか……お父様、重篤な小麦アレルギーでして」


 ああなるほど、と僕は頷く。

 それは確かに、パンの類は食べられない。

 命に関わる。


「でもそれなら、羽生社長のメニューだけを変更すれば良かったのでは?洋食禁止にまでしなくても……」

「私もそう思いますが、それだと料理人の手間が増えます。それに別々に主食を買う分、材料費が高くつくでしょう?お父様はドケチですから……」


 そんな非効率は許せないのです、と晶子さんは微笑む。

 僕はこの時、晶子さんの口から「ドケチ」と俗っぽい言葉が出てきたことに驚いた。


「フェザーフーズは元々パンメーカーでした。そこの社長が小麦アレルギーとなると、消費者に誤解を招く恐れがあります。だから、貴方がたにも説明をしなかったのでしょう……そういうことを面倒くさがるから、嫌われるのでしょうに」

「は、はあ……」

「しかもドケチな割に、屋敷を建てる時だけは見栄を張って……娘の私でも、思考回路がよく分かりません」

「……そう、ですか」


 優雅に微笑みながら、晶子さんは物凄くキツイことを言う。

 どうやら彼女、今も廊下で佇んでいる父親に対して色々と思うことがあるらしい。

 頷いて良い物か迷った僕は言葉を濁し、隣で終夜は曖昧な笑みを浮かべていた。


「……ああ、ごめんなさい。初めて来られた客人に述べるようなことではありませんでしたね。申し訳ありません、家族や使用人以外の人と会う機会が殆ど無いので、こうした場ではついついお喋りになってしまいます」


 不意に自分を取り戻したように、晶子さんは口元に手をかざす。

 彼女としては、初対面の人間と話すということにテンションを上げていたのだろうか。

 本人の言う通り、滅多にないことだから。


「何にせよ、御歓待いたします。どうぞお楽しみくださいね」


 それだけ言って晶子さんは話を打ち切った。

 僕たちから視線を外して、部屋に備え付けられている窓に視線を移す。

 ベランダが無い分よく見える庭の景色を、彼女はただ見つめていた。




「終夜、こんなこと言うのもアレだけど……このお屋敷、ヤバイんじゃないかな」


 晶子さんの部屋から出て、入り口近くで待機していた羽生社長に別れを告げてから、僕は廊下でついそんなことを口にする。

 何というか、言わざるを得なかった。


「家族を大事にするのは結構だけど、足の悪い娘を二階に閉じ込めて部屋からも出さないなんて、いくら何でも異常だと思う。幻葬市は『外』よりは治安がマシなんだし、こんな……」

「まあ、そうね……間違いなく、晶子さんの意思を無視した扱いね。ますます結婚したくなくなったわ」


 ちょっと疲れた顔をする終夜相手に、神妙に頷く。

 確かに、ここに嫁ぐとなると後が大変そうである。

 最悪、今の晶子さんのようになるのではないだろうか。


「彼女に会う前にも言ったけど、現状の晶子さんへの扱いは普通に犯罪だ……通報は無理かな」


 いくら警察の信頼が失墜したとは言え、一応この国は法治国家であり、家宅捜索や被虐待児の保護は司法の手でしか行えない。

 一介の探偵が犯人に私刑を加えることはできず、どれほど推理しようが、最後は警察に引き渡すのが原則だった。

 探偵が行うのは、あくまで真相解明までなのである。


 故にこの件を根本的に解決したいのなら、やはり公的な支援に頼るしかない。

 そう思っての問いかけだったが、終夜は静かに首を振った。


「通報自体は自由だけど、対応してくれるかどうかは微妙なところじゃない?『鳥籠娘』って、児童相談所や警察が碌に対応してくれないことで有名だもの」

「……ただでさえ、捨て子が多い時代だからね」


 苦い顔をしながら、すぐに頷く。

 この辺りの事情については、色々あって僕も詳しかった。


 殺人事件や交通事故同様、この時代には育児放棄や捨て子も増えている。

 現状、児童養護施設はどこもパンパンになってしまっているくらいだ。

 必然的に、国の対応はそちらに集中していた。


 そしてそんな状況であるがために、「鳥籠娘」のことは後回しにされてしまうのである。

 何せ「鳥籠娘」たちは大抵の場合、軟禁こそされているが、衣食住は家族によって普通に提供されていることが多い。

 簡潔に言えば親が過保護なだけなので、捨て子や暴力的な虐待を受けている子どもよりも緊急性が無いと判断され、碌に事件化しないのだ。


 それが分かっているからこそ、羽生社長も僕たちを娘と会わせたのだろう。

 彼女の実態を見せたところで、問題にはならないと知っているのだ。


「どうしたって、飢えて困っている子どもとかの方を優先的に助けるから……恐らく、この程度では動かないわ。ただでさえ、質の低下と人員不足にあえいでいるのに」


 淡々と、ある種冷徹な視点で終夜は羽生家のことを評する。

 自ら感情を抑えたような話し方だった。


 彼女自身、何とも思っていない訳ではないのだろう。

 しかし立場やしがらみが、そしてこの時代が、終夜の本音を許してくれない。

 そんな様子だった。


「どうしてもと言うのなら、無理矢理にでも彼女を外に連れ出すことはできるかもしれない。でもそれをしたら多分、私やアンタの方が誘拐で捕まるわよ。誘拐事件なら、流石に警察も動くでしょうから」

「変な話だ……娘を事実上監禁している親が捕まらなくて、解放しようとすると捕まるなんて」

「でも、それが今の時代。分かっているでしょう、九城君も」

「……今日のところは特に晶子さんのことは問題にせず、普通に帰るしかないってことかな、僕たちは」

「そうね……そうなるわ」


 気分は悪いけど、と。

 最後にそう付け加えて、終夜は寝室へと戻っていった。

 そんな同情を零してくれるだけ、彼女はこの時代の人にしては優しい人間だった。






 こうして、その日の夜は更けていく。

 僕にとっては、幻葬市に来て、終夜のお屋敷で変な謎を解いて、彼女から変な提案をされて、更に羽生家に連行され、トドメに「鳥籠娘」に遭遇するという物凄く大変な一日だった。

 当然というべきか、僕は自室に戻るとすぐにベッドに飛び込んだ。


 ただ、ここで唐突に述べるのだけど────僕という人間には、実は少しばかり特徴がある。


 特徴というか、問題というか。

 困った癖があるのだ。

 ()()()()()()()()()()()という癖が。


 ストレスが溜まっていたり、普段とは違う場所で寝たりすると、ほぼ確実に悪夢を見る。

 もう寝る前から、「あ、今日は悪夢を見るだろうな」と思いながら横になるぐらいだ。

 おかしなことに僕は寝つきだけは良いので、悪夢を見ずに済むということは少ない。


 何が言いたいかと言えば。

 来たこともないお屋敷、それもまあまあヤバそうなお金持ちに提供された一室で寝るという状況下で。

 悪夢を見ずに寝ることは、不可能だったということだ。






「……またあの夢か」


 深夜の二時頃。

 悪夢を見て飛び起きた僕は、汗に濡れた背中を掻きながらボソリと呟いた。


 悪夢の内容自体はいつも通りの物でしかなかったため、動揺は少ない。

 見慣れない客室の内装を見ながら、どうしようかとだけ思った。


 僕は二度寝が下手なので、こうして一度起きてしまうともう寝付けない。

 これから朝まで、起きたまま過ごさないといけないのだ。


 これが自宅だったら、いつものことなので適当に暇をつぶすのだけど。

 今日は他所のお屋敷に泊まってしまっているので、あんまり自由に動けない。

 家主たちも多分寝ているであろうこの時間に、客室の明かりを点けるのもどうかという気がする。


「スマホでもいじるか……ああ、その前に」


 手持ちのタオルで汗を拭いながら、ふと僕はやらないといけないことに気が付いた。

 トイレに行きたい。

 終夜と話したり晶子さんと会ったりしていたために、寝る前にトイレに行っていなかったせいか、割と強い尿意があった。


「でも、トイレってどこにあるのかな。客室の中には無いみたいだけど……」


 一人でブツブツ言いながら、僕はそろりとベッドを抜け出す。

 他の人を起こすわけにはいかないので、密かに動く必要があった。

 手間取るなあ、と思いながら僕は廊下に足を踏み出す。


 だが結論から言えば、これは難行だった。

 というのもこのお屋敷、夜になると廊下に電気が点かない。

 後で分かったことだが、羽生社長が電気代節約のために、深夜には電源そのものがOFFになるように設定していたのである。


 そうでなくとも、客人である僕には電気のスイッチがある場所が分からなかった。

 結果、僕はスマホのライトを頼りによく知らない屋敷を徘徊する羽目になる。


 ついでに言うと、これも後から分かったことだが、この家にはトイレが少なかった。

 元々住んでいる人数が少ない──昼には使用人がいたそうだけど、定住者は羽生社長と子ども二人だけだ──ので、少なくていいと踏んでいたらしい。

 これらの要因も相まって、僕は丹念に屋敷内のあちらこちらをうろつきまわることになった。


 最終的に僕がトイレを見つけたのは、晶子さんの部屋に向かう途中で、二階にトイレがあったことを思い出してから。

 微かな記憶を頼りに二階に上って、やっと見つけたのだった。


 勿論、見つかればやることは一つ。

 良かった良かったと手早くトイレを済ませて。

 酷く時間を食ったな、と思いながら僕は一階の客室に戻ろうとした。


 だけど────その瞬間。




『あの……誰かいますか?』




 不意に。

 電気の点かない廊下の奥から、声が響いた。


 何だと思って、反射的にスマホのライトをそちらに向ける。

 しかしそこには、廊下の壁があるだけだった。

 人影など無い。


『すみません……もしかして、お客様ですか?』


 また、響いた。

 間違いない、壁の奥から声が響いている。

 そして僕は、その声に聞き覚えがあった。


「……羽生、晶子さん?」

『はい、晶子です。そしてその声は……九城さんですね?』


 彼女の容姿と似通った、透き通ったか細い声。

 それが壁の奥から聞こえる。


 どうやら、晶子さんが壁越しに呼びかけてきているらしい。

 今僕が目にしている壁の向こうに、彼女の自室が広がっているのだろう。


 しかしそれにしても、どうしてこんな時間に彼女は起きているのか。

 もしかして、僕が音を立てたせいで起こしてしまったのだろうか?

 だとしたら迷惑をかけてしまったな、と思いながら僕はとりあえず返事をしてみる。


「ああ、ええと、はい。九城空です、こんばんは……すみません、起こしてしまいましたか?」

『いえ、元々起きていましたから……そういう九城さんは?』

「まあ、ちょっとトイレに……夜中に起きてしまったものですから」


 互いに壁を見つめながら、僕たちはそこで妙な挨拶をする。

 シチュエーションとしては変な状態だったが、無言で立ち去るのはもっと変だった。

 一応は僕は客人なのだし、屋敷の娘さんには礼を尽くした方が良いだろうと考え、会話を続けてみる。


「ええと、この壁って……」

『ああ、ここですか?実はここの壁、昔ネズミにやられてしまって酷く薄いんです。だから私の自室から呼びかけると、廊下に声が届いてしまう』

「はあ……扉はあんなにしっかりと鍵をかけてるのに、壁はそんな感じなんですね」

『ドケチだから、直すのが面倒なんですよ、お父様』


 クスクス、と壁の向こうから笑い声が響く。

 どうやら、晶子さんは部屋側の壁に寄りかかるようにして話しているらしい。

 壁越しとは思えない程、はっきりとした声だった。


『九城さん……貴方さえ良ければ、少しだけ、夜のお喋りに付き合っていただけませんか?』


 やがてその壁からは。

 興味深い提案が、歌うようになされた。

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