番外編:運命
九城空が幻葬市にやってくる、約二週間前。
「なぎー……いるー?……勝手に入るけど、良いー?」
白昼堂々地下室に響き渡った声を耳にして、香宮凪はうんざりとした顔になった。
顕微鏡で病理組織を観察しつつ、手元の紙にスケッチをしている真っ最中だったのだが、随分と邪魔された形になる。
しかもこの行為は最近頻繁にあることだったので、彼女は自然と口をとがらせてしまった。
「……言葉の意味が繋がっていないわ、雫。勝手に入ると明言したのであれば、良いかどうかを聞くのは無意味でしょうに」
言葉遣いから指摘してみると、ズカズカと地下室にやってきた闖入者────凪の同居人である少女、終夜雫は「そう言えばそうかもね」と不敵に笑った。
間違いなく、凪の勉強を中断させたことを気に病んでいない表情。
それを見た凪は鉛筆から手を放して、いよいよ渋い顔をした。
「貴方がうるさいのはいつものことだけれど……今日は何?何か用事?」
「ええ、二つくらい用事があったから……まあ一つは、いつも通りの定期チェックなんだけど」
そう言いながら、雫は凪が座っている椅子の近くをジロジロと観察する。
ゴミが溜まっていたり、極端に汚れたりしていないか確かめるように。
雫はこの屋敷に入居するにあたって、凪の両親から彼女の世話を頼まれている。
凪は一度研究に熱中すると何も見えなくなる子だから、同居人として管理して欲しいと依頼されているのだ。
だからこそ、雫がこうして地下室の様子をチェックするのはいつものことだった。
「ゴミも溜めてないし、服も大丈夫だし……お風呂はちゃんと入ってるんでしょうね」
「入っているわよ、流石に。貴女がしつこいから」
「いや、しつこくもなるでしょ……あっ、この寝袋!」
不意に机の周囲を見た雫は、床に寝袋が落ちているのを発見する。
凪がしまったと思う間もなく、雫はそれを回収していた。
全体像を確かめるように寝袋をまじまじと見ながら、彼女は責めるような瞳で凪を見る。
「寝袋がまた使われてるってことは……アンタ、また地下室で寝たわね?体に悪いからちゃんと地上のベッドで寝るよう、いつも言ってるのに」
「……研究が遅くまであったのよ。春休みなのだから、別に良いでしょう?」
説教するような雰囲気になった雫の視線から逃げるように、凪は顔をそむける。
この地下室で死体にまつわる研究を重ねる彼女は、深夜まで勉強に精を出した挙句、寝袋や毛布にくるまって地下で就寝することがしばしばあった。
それを体に悪いということで雫に禁止されていたのだが、昨晩は地上に戻るのを面倒くさがる余り、また地下室で就寝したのである。
「春休み云々は関係ないわよ。変な姿勢で寝ると骨に負担がかかるし、そもそもこんな寒い地下室で寝ると風邪ひくって言ってるの!」
「寒いのは仕方がないでしょう。標本の保存のためには、このくらいの温度が望ましいもの」
地下室に並べられている、数多の凪の研究資料。
ホルマリン漬けの臓器たちはそうそう駄目になることはないが、可能なら高温ではない環境で保存することが望ましい。
そのために常に空調をきかせているので、地下室が寒くなるのは仕方がない────そんなピント外れの反論をする凪を前に、雫は嘆息する。
彼女たちが同居し始めて、約三年。
互いにそれなりに距離を縮めてきたつもりだったが、それでも雫は凪のこの手の執着を理解できる気がしなかった。
「そもそも、前から思ってたんだけど……アンタ、ここで寝て怖くないの?悪夢を見るようなことはない?」
「悪夢……どういうこと?」
「どうやったら、死体に囲まれながら安眠できるのかって聞いているのよ」
そう言いながら、雫は改めて周囲に置かれた臓器標本を見やる。
ここにある標本は全て、司法解剖の結果として保存されたものたちだ。
殺人被害者たちの死体が形を変えて並べられている、と言っても良い。
「旧時代の価値観的には……いや、今の価値観でも、十分に不気味な部屋だと思うわ、ここ。凪はこういうのを見ても、特に恐怖はないの?」
「ないわ、全く……私には寧ろ、死体を怖いと思う貴女たちのその価値観こそ理解できない」
さらりと述べながら、凪は不意に立ち上がって瓶の一つを撫でる。
さながら、親しい友人相手と会話しているような優しい笑みを添えて。
「『怖い』というのは普通、こちらに危害を加えてくるかもしれない物に対して抱く感情でしょう?例えば殺人犯が怖いのは、それが自分たちを傷つけてくる可能性があるから。高いところが怖いのは、もし落下したら死んでしまうから……違う?」
「まあ、そうでしょうけど」
「そういう意味では、死体を怖がる必要は全く無いわ。だって、死体だもの。既に死んでいて動けない彼らが、私を傷つけることは有り得ない……無害さという点においては、死体はこの世のどんなものより安全よ。強いて言えば、腐った死体は病原菌や有毒ガスを発生させることがあるけれど、標本ならその可能性すらないもの」
「んー……言いたいことは分かるけど」
「なら、私の寝方も理解できるでしょう?私、生きている人間に傷つけられたことはたくさんあるけれど、死体に傷つけられたことは一度も無いわ……だからこそ、死体に囲まれて寝るのは嬉しいこと。こんな時代では珍しく、安全な環境で眠れるのだから」
それの何が問題なのか、という瞳で凪は雫を見返す。
平然としている彼女を見て、雫はやれやれと肩をすくめた。
夜はちゃんとベッドで寝ろと伝えただけなのに、どうしてこんな屁理屈をぶつけられる羽目になっているのか。
「まあとにかく、この寝袋は没収しておくわ。次はちゃんとするように」
それだけ言って、雫は寝袋をくるくると折りたたんで回収する。
残念そうな顔をした凪は、未練を残すように地下室に置いてある銀色の机へと視線を滑らせた。
流石に直に床で寝ると底冷えするから、次はあそこで寝ましょうか────などと考えたところで、雫が再び口を開く。
「ところで凪、二つ目の用事だけど……学生に部屋を貸す話、考えてくれた?」
「またその話?……嫌だと言ったはずだけど」
忘れていた話題を蒸し返され、凪は僅かに眉を顰める。
最初にこの提案がなされたのは、中学校の卒業式が終わった頃だっただろうか。
その時から、これについて議論するのは、二人にとってある種のルーティンと化していた。
「ねえ、本当に駄目?屋敷の部屋を貸すんじゃなくて、あの倉庫を貸すだけでも駄目?」
「同じことでしょう、敷地内には入ってこられるのだから……仮に入居者に悪意があれば、身の危険があるわ」
「そこはほら、私が殴ってでも言うことを聞かせるから」
そう言いながら、雫はムン、と右腕で力こぶを作る。
凪は一応、その言葉が大言壮語で無いことを知っていた。
元より護身術を学ぶ人の多い時代だが、終夜雫という少女はその中でも飛びぬけた力量を有している。
例えば五人くらいのチンピラに囲まれたとしても、彼女は全員をぶちのめして悠々と帰還できるだろう。
そこまで腕っぷしに自信があるからこそ、こんな提案をしてきたという側面もある。
「凪、本当にお願い。前から言っているけど、私ってどうしても『日常の謎』が解けなくて……そのせいで悔しい思いをしてきたの、中学で見ていたでしょう?このままだと、『名探偵』には遠く及ばない。高校入学を機に宿探しをしている人が多い、今の時期はチャンスなの。だから……!」
パン、と手を打ち合わせながら雫は懇願する。
中学生時代から、殺人事件の真相を見抜くほどの推理力を持っていた彼女の大きな弱点。
殺人に絡まない謎を解くことが苦手という、大きすぎる隙。
これを埋めるためには、「日常の謎」に長けた探偵をパートナーにするのが一番手っ取り早い。
だからこそ、その手の才がある同年代の人間を捕まえて、同居人として長時間一緒にいるようにしたい。
これは雫がずっと言っていることだった。
「……この屋敷の大家は私。入居者の一人である貴女が、新しい同居人を連れ込む道理は無いわ」
故に、凪もずっと言っていることで対抗する。
元より、内向的で外界との接触を疎む少女だった。
治安的な意味以前に、本人の性格として同居人を増やすことを許容するはずもなかった。
この気質のために、彼女たちの議論はずっと平行線だったのだが────。
「じゃあ、凪。逆にこんな人だったら一緒に住んでも良い、という条件はあるかしら?これこれという条件を満たすなら大丈夫、みたいなものは……?」
必死になった雫がそんなことを言い出したために、凪は考え込むことになった。
不意に思ったのだ。
これはチャンスかもしれないと。
ここで「条件は無い、全員駄目」と言うのは簡単だ。
しかしそれでは、雫はまた頼み込んでくるだろう。
これ以上、彼女の懇願によって時間を消費させられるのも煩わしい。
ならばいっそのこと、敢えて同居を認めた上で、うんと厳しい条件を突き付けるのはどうだろうか?
同居自体には賛成しているのだから、一応は雫の頼みを聞いたことにはなる。
しかし条件が厳しいので、そう容易く同居人が増えることはないだろう。
お目当ての人間がどうしても現れないと理解したならば、雫も自然と同居人を増やすことを諦めるはず。
どうしても同居を認めなくないという本心と、曲がりなりにも友人である雫への憐憫。
それらが合わさって、凪は即座にこの思いつきを実行した。
「……分かったわ。幾つか思いつく条件があるから、それを伝えておく。これらを全て満たす人だったなら、同居しても良い」
「本当!?……どんな条件?」
「まず当然のこととして、前科が無いこと。犯罪に手を染めることがない、高潔な人物……落とし物を見つけても、全て持ち主に届けるような人が良いわ」
無理難題を言っている、と思いながら凪は条件を提示する。
前科に関しては、簡単にクリアできる──そもそも前科者は幻葬高校に入学できないルールだ──だろうが、後者が難しい。
探偵狂時代では、そんなお人好しはそうそういない。
「それと、可能なら『外』の人が良いわね。この街の出身者だと、香宮の家のことに詳しい可能性があるから……」
「ああ、そうね。香宮家と親しくなるために同居を申し込む人も現れるかもしれないわね」
「そう、だから幻葬市の事情に詳しくないような人が良い」
適当な理由を付けたが、正直これは建前だった。
候補者を「外」に限定してしまえば、その分、雫の入居希望者探しは難航する。
初対面の「外」の学生相手に、同居の意思があるか確かめるところから始めないといけないからだ。
難易度が上がっていることに気がついているのかいないのか、雫はスマホのメモ帳アプリにそれらを書き込んでいる。
それどころか、催促までした。
「お人好しであること、『外』の人であること……他は?」
「そうね、じゃあ最後は……度胸があることかしら。探偵として頼りにしたい人なのだから、いざという時は、犯人の前で堂々と推理を展開できるだけの気概が必要でしょう?そういう肝の太さがある人でないと、同居する気にはなれないわ」
段々と条件のネタも尽きてきたので、最後はややぼんやりとした条件になった。
しかし、最初から無理難題を吹っ掛ける気なのだからこれでも良い。
実際に目の前で推理ショーでもさせないと分からない、「気概」という条件────これを満たせる人物など、そうそういないだろう。
「私としては、条件は以上よ。この条件をクリア可能なら、倉庫を貸しても良いわ」
「条件を満たす人ね……因みに、性別は?」
「可能なら女子が良いわ。私、非力だもの」
「だった、もし条件を全部満たせる男が来たら?」
「その時は……考慮に入れないでも無いわ」
「了解、探してみるわ。まずは募集をかけて……」
適当に話を終えると、雫は既に意識を次の段階へと移していた。
彼女としても自信がある訳ではないのだろうが、真正面から挑んでみることにしたらしい。
既に凪のことは見えていないらしく、如何にしてこの条件に適合する人物かを考えながら、地下室をゆっくりと出ていった。
「……相変わらず、真面目な子。『名探偵』の血筋とは思えないくらい」
去っていった雫の背中を見ながら、凪は密かにため息を吐く。
ああやって、他人の無茶振りすら真正面から受け止めてしまう性格だからこそ、彼女は「日常の謎」が上手く解けないのだろう。
根本的に生真面目なので、小悪党の軽犯罪を理解できないのか。
「まあ何にせよ、あれで雫はしばらく静かにしてくれるでしょう……」
友人を苦しめる真似をしたことを苦々しく思いつつ、凪は顕微鏡に向かい直す。
自分の身の安全のためだ、と言い聞かせながら。
そもそも、雫が望むレベルで「日常の謎」を解ける人物がたくさんいるとは思えなかった。
凪が条件を足そうが足すまいが、そんなピンポイントな才能を持つ探偵を見つけるのは難しいのである。
だからこそ男性でも良いと、危機管理意識の無い発言までしてしまったのだ。
もしもそんな探偵と都合よく出会えたのであれば、それは最早「運命の出会い」だろう。
常識的に考えて、まず起こらない。
だからこれは、彼女に低確率の事象を諦めさせるための方便であって、悪事ではない────そう思いながらも、凪は「一人も候補者が見つからなかったなら、いつかは意地悪な条件を出したことを謝ろう」と密かに決めた。
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※次回更新は、12/21(土)の午前9時頃です。