胡蝶の夢
「初めて聞いた時は……まあ、ショックだったな。その時まで、自分の出自を疑うようなことは一切なかったから。というか、周囲のことを推理するようなこともなかったし」
「それまで、探偵としての勉強はしていなかったの?」
「全然だよ。こんな時代ではあるけれど、探偵以外の職に就くものだと思ってた」
なまじ、義父さんみたいな探偵の道を諦めた人を身近に見て育ったせいだろうか。
探偵なんていうのは、「名探偵」みたいな特殊な才能を持つ人だけがやるものだと認識していた。
自分が幻葬市に行くなんて、想像すらしていなかったと思う。
「でも、自分の出自を聞いた時から……全てが変わった」
「実の親のことが、気になるようになったということ?」
「……いや、違う。薄情に聞こえるかもしれないけど、そこは全く気にかけてない」
義父さんに真相を告げられた瞬間にも、反射的に返したことだ。
僕の家族はあの人だけだと。
僕を捨てたらしい実の両親など、今更家族とは思えない。
「捨て子だろうが何だろうが、僕は義父さんの子どもとして生きてきたし、これからもそう生きていく。だから実の親がどうこう、というのは別に良いんだ」
「なら、何を気にしたの?」
「……誕生日だよ。僕の、真の誕生日。それだけは気になった。だって誕生日って、生きていると至るところで書く物だろう?」
それこそ、この賃貸契約書がそうだ。
部屋を借りようと思うと、身分証明書の提出と同時に、自分の誕生日を書く必要がある。
警察の取り調べを受けている時も同じ。
本人確認のために、最初に誕生日を聞かれた。
それを確認しないと、何の手続きもできないと言われて。
幻葬高校への願書を提出する時も。
体調を崩して、病院に行った時も。
いつだって言われるのだ────「申し訳ありませんが、本人確認のためにお名前と誕生日を教えてくれませんか?」と。
「正確な誕生日を言えることってさ、何というか、人間の絶対条件みたいなところがある気がするんだ。通帳を作る時も、就職する時も、カードを更新する時も……いつだって言われる。誕生日を教えてください、貴方が『九城空』本人ならば、当然言えるはずですよねって」
「……」
「その度にさ……どうしても、思い出しちゃうんだよ。この九月三日って、本当の誕生日ではないんだよなって」
この九月三日という日付は、あくまで義父さんが僕を発見した日のことだ。
捨て子の多くは、見つかった日を誕生日として登録される。
そのルールに従って、僕の誕生日は自動的に決められた。
しかし診察した医師曰く、当時の僕は既に生後三ヶ月くらいの状態ではあったらしい。
つまり、真の誕生日は九月三日の三ヶ月前……六月くらいの時期になる。
勿論、それ以上の細かい日付は分からないのだけど。
そもそも、この生後三ヶ月という評価だって、どこまで信じて良いか分からないのが実情だった。
児童虐待を受けている乳児や、栄養を十分に摂取できていない子どもは、普通よりも成長が遅れることがある。
僕の実の両親がまともな子育てをしていなかった場合、本当は生後五か月だったのに栄養失調のせいで生後三ヶ月にしか見えなかった、なんて事態も有り得るのだ。
その可能性まで考慮すると、僕が生まれたのは四月や五月なのかもしれない。
本当の誕生日については、春先から梅雨時にかけてのどこか、としか分からないのだ。
人間の基本情報であるはずの誕生日が、僕だけどうもふわふわしている。
「しかも丁度、それを教えてもらった時期が中学校に上がった頃……新しく学校に入ろうって時期だったからさ。色々と不都合が多くて」
「どうしても、誕生日を書く機会が多かったのね。入学に関係する書類を書くだとか、健康診断を受けるだとかで」
「そう……本人確認のために、何度も何度も誕生日を聞かれる。そしてその度に、自分がコインロッカーベイビーであることを思い出していた。気にしすぎだと分かっていたけれど……何だかもう、参っちゃって」
理屈としては、ただの被害妄想でしかないことは分かっていた。
中学生になったばかりという不安定な時期にショッキングな事実を聞かされて、動揺しているだけなのだと。
第一、自分の真の誕生日を知らなかったところで、困ることなど何一つ無い。
真の誕生日から三ヶ月ズレている可能性があるにしても、僕は九月三日生まれの男児として戸籍が作られている。
少なくとも書類上、僕の誕生日は九月三日で確定している訳で────それ以上考えること自体がナンセンスと言えた。
義父さんとの関係だって、なんら変わることは無かった。
中学になってからも、義父さんは普通に僕の面倒を見てくれていたし、生活に不便も感じないままで。
探偵狂時代の現状を考えれば、恵まれすぎるほどに恵まれた暮らしだった。
────だけど、それでも。
「頑張って、自分のこの感覚は抑えようとした。今の生活で十分じゃないか、本当の誕生日なんて別にどうでも良いじゃないかって……それでも、自分を騙しきることはできなかった」
「その後も、気になり続けたのね」
「ああ。特にこの頃から、頻繁に悪夢を見るようになったから」
悪夢の話をするのは、晶子さん以来だった。
他者にポンポン言う話ではないので普段は黙っているのだけど、短期間で随分と禁を破ってしまう。
まあでも、香宮なら別に良いか────そう思いながら、僕は悪夢の内容について解説した。
「本当に、凄くリアルな悪夢で……簡単に言えば、自分が何故か赤ん坊になってしまう夢だ。どういう訳か、僕は赤ん坊になってしまっていて、しかも暗くて狭いところに押し込められている。金属質で、冷たくて、どう頑張っても開かない個室に……」
「……それは」
「その場所がコインロッカーであることを、夢の中の僕はすぐに理解する。扉の奥から駅のアナウンスが聴こえるし、近くで大勢の人が歩いている音がするから。だから僕は、誰かに気が付いてほしくてひたすら泣き声を上げる。ここから出してって思いながら」
「……」
「でもいくら泣いても、コインロッカーは開かない。段々と僕は疲れてしまって、声も出なくなる。喉は乾き切って、口の中は乾燥し過ぎて血が流れる。お腹はずっと空いていて、やがては意識も怪しくなる。周囲を人が歩きまわる音が聴こえるけど、誰も気が付いてくれない。そして……」
「……どうなるの?」
「当然の流れだよ。夢の中で、僕は衰弱死する────その瞬間、現実の僕が目を覚ますんだ。汗まみれになって、心臓をバクバクと跳ねさせながら……まあつまり、コインロッカーベイビーだった頃の風景を、夢に見るようになった」
無論、この夢の光景は現実のそれではない。
赤ちゃんがそんな物を記憶しているはずもないし、そもそも現実の僕は義父さんの手で救出されているのだ。
自分がコインロッカーの中で衰弱死したなんて内容は、あくまで僕の脳が作り出した妄想に過ぎない。
完全に推測となるが、恐らくは義父さんの話を聞いた瞬間から、僕の脳は「その時の自分はどんな状態だったのだろう?」と考え続けていたのだろう。
コインロッカーの中にいた時、自分はどれくらい苦しかったのだろうかと。
その思考と妄想から、遂には「当時の僕はこんな感じだったはず」という一本の映画を作ってしまったのだ。
怖い話を聞いた子どもが、その内容を夢の中で再現するなんてのは、よく聞く話。
脳による脚色が入るために、夢の内容が現実よりもオーバーになるのもよくある話だろう。
ただし僕の場合────この夢を、かなりの頻度で見てしまうようになったのだけど。
「一度その夢を見てしまうと、もうその日は寝られないんだ。もう一度寝てしまったら、またあのコインロッカーの中に戻ってしまうような気がして……日が昇ってくると、そんなことは考えなくなるんだけど。また夜になると悪夢を見て……要するに、不眠症になったんだ」
「病院には行ったの?カウンセラーも……」
「義父さんが連れて行ってくれたよ。でも、駄目だった。色々とやったけど……どんなカウンセリングも、どんな睡眠薬も効かなかった」
ただしこれに関しては正直、カウンセリングの質も問題だったとは思う。
犯罪被害により精神的な問題を抱える人や、トラウマに悩まされる人が増えたので、今時その手の職業はどこも大忙しだ。
そのせいか、別にお金持ちでもない僕はイマイチ真剣に診てもらえなかったところがある。
何にせよ、この悪夢には困らされた。
誕生日を過剰に気にするだけなら、生年月日を書く機会が減ると支障がなくなるのだけど、悪夢の方は寝る度に襲ってくる。
ほんの数ヶ月で、僕は随分とゲッソリしてしまった。
「そうなってくるとさ、何だかもう、悪夢を見ること自体が普通になってきて……夢の中でも、これが夢だって気が付くようになる。ああ、またこの夢か、ハイハイって感じに」
「悪夢に慣れた、ということ?」
「気分的には、多少は。まあそれでも、夢の中の自分が衰弱死する瞬間、飛び起きるのは変わらないんだけど」
何度悪夢を見ても、この瞬間にだけは慣れなかった。
本当に、どうして僕の脳はこんなにもリアルな衰弱の様子を妄想できるのか。
我ながら不思議になるくらいに、生々しい感覚があるのだ。
手足が動かなくなって、感覚がなくなって、心臓の動きが悪くなるのが自分でも分かって────やがて少しずつ、身体の重要な部分が死んでいく感覚が忍び寄ってくる。
夢だと分かっていても尚、あの感覚は怖すぎて。
終いには、こんなことまで考えた。
あの感覚は、本当に夢なのだろうか。
僕は、あの名無しの赤ん坊は────本当は、コインロッカーの中で死んでいるんじゃないか?
「SFみたいな話になるけどさ……僕が現実だと思っているこの世界こそが夢で、あのコインロッカーの光景こそが現実なんじゃないかって。終いにはそう思うようになった。だからこそ、あんなにリアルな死ぬ場面を体感するんじゃないかって」
「……胡蝶の夢みたいな話ね」
「ああ、まるでそのものだ」
胡蝶の夢。
中国の故事として紹介される言葉だ。
自分が蝶になって空を飛び回る夢を見た男が、夢が覚めてからふと考える────はて、人間である自分が蝶になる夢を見ていたのか、それとも蝶である自分が人間になる夢を見ていたのか?
実は現実の僕は赤ん坊で、コインロッカーの中で死にかけていて。
今見えているこの世界は、瀕死の捨て子が見ている最後の夢なんじゃないか?
コインロッカーベイビーが、自分が助かったIFの世界を空想しているだけなんじゃないか────?
「勿論、これは有り得ない話だ。本当に赤ん坊が夢を見たとしても、こんな成長した自分の空想なんてできない。だって、外に出られないまま死ぬんだから……それでも悪夢が続いた末に、僕はこの不安を常に抱えるようになった。今この瞬間も、心のどこかで疑い続けている」
「今目にしているこの世界こそ、夢なんじゃないか……そう思っているの?」
「実際、下手な妄想みたいな場所だしね、今の世界は」
曲がりなりにも探偵狂時代を生きている僕が言うのもなんだけれど、今の世界は空想よりも空想チックだ。
警察の信用が失墜して、探偵が信頼される場所。
治安が悪化した日本に、幻葬市だの幻葬高校だの、旧時代なら存在すら有り得なかった物たち。
かつての人々から見れば、きっと非現実的な光景にしか見えないだろう。
しかしそんな非現実的な概念が、目の前で実体を持って存在している。
そんなだから、また悩んでしまうのだ。
こんな世界は有り得ないんじゃないか。
僕がパンッと手を叩けば、その拍子にこの世界は消え去って、自分はコインロッカーの中に戻るんじゃないかと。
「要するにさ……自分がこの世界に生きている感覚みたいなのが、薄くなってしまったんだ。自分が生きているという事実に、生々しさが感じられなくなったというか」
ある意味では悪夢以上に、これは深刻な問題だった。
自分が生きているという自信がなく、世界の全てが夢の中の風景のように思える状態。
流石に最近はかなりマシになってきたけれど、中学生時代の大部分は、そんな症状に襲われていたと思う。
勿論、何とかしなきゃいけないことは分かっていた。
いくら何でも、こんなふわふわした状態ではまともに生きていけない。
そもそも、睡眠時間が余りにも短いので色々とトラブルも起きている。
変な言い方になるけれど、僕は「現実」に対して「現実感」が欲しかった。
自分が確かにこの世界に生きている、これは夢ではないと確信できる証拠。
そんなものが欲しかった。
だから────。
「何としても、誕生日を知りたいと思った。僕の真の誕生日。名無しの赤ん坊が生を受けた日……それを知りたかった。僕がこの世にちゃんと生まれた証明として」
「だから……この街に来たの?」
「ああ。状況的に、僕を捨てた人間は幻葬市にいたみたいだし……調べるのであれば、この街に入りこむしかない。そしてこの街に入るには、幻葬高校に入学するのが一番だろう?」
自分の誕生日が分からなくなった瞬間から、悪夢を見るようになって、現実感も消え失せた。
だがその誕生日を確かめられたのなら、どうなるだろう。
幻葬市に行って、自分が生まれた時の状況について調べがついたのなら……。
その時初めて、僕は安心できるのではないか。
大丈夫だ、僕はこの日にきちんと生まれていると確信して。
……悪夢のない、そして現実感に満ちた人生を送れるようになるんじゃないか?