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”貴重品は入れないでください”

「おおー、綺麗な月」


 まあまあ服を汚しながら屋上に出ると、すぐに真ん丸な月が目に入った。

 普段よりもずっと明るいお月様が、僕の網膜に残像を残す。


 ふと視線を下に落とせば、月光によってくっきりとした影が作られていた。

 どうやら今日は満月らしい。

 図らずも、風流な光景を目にしている。


「足場の方はアレだけど……」


 ちくちくと剥き出しの足を痛めつける砂利を気にしながら、僅かに苦笑。

 いつも来ている掃除業者も、流石に小屋の屋上までは掃除してくれないらしい。

 そのせいか、屋上には砂利やら埃やらがたくさんあって、あまり裸足で来るような場所ではなかった。


「足は後で洗えば良いし、まあ大丈夫か……」


 足は汚れたが、この月の美しさには代えられない。

 だから敢えて戻らず、僕はぼーっと意識を飛ばした。

 ひたすら月を眺めながら、僕は心を無にする。


 ────どのくらい、そうしていただろう?


 幻葬市に引っ越してからと言うもの、何かと事件に関わりっ放しだった。

 その代償を欲していたのか、僕はこの静寂を楽しむことに専念する。

 ずっとこのままでいい、とすら思った。


 しかし、楽しい時間というのはすぐに終わりが来る。


 不意に、足元で何かが揺れた。

 足場である天井の下、すなわち僕が住んでいる部屋。

 丁度そこで、何かが移動しているかのような揺れだった。


 ──え、誰?泥棒?


 流石に意識を現実に戻して、僕は今更のように警戒する。

 だが幸いなことに、侵入者の正体はすぐに分かった。


 つい先日、確認したばかりのことだ。

 ここに自由に入れて、尚且つ深夜まで起きていそうな人なんて、一人しかいない。


 果たして、すぐに梯子がかしゃんかしゃんと鳴って。

 開けたままの出入口から、香宮がぴょこり、と首だけ出した。

 モグラ叩きのモグラみたいな感じで。


「……こんばんは、九城君」

「こんばん、は……?」


 モグラ状態の彼女と、月を見上げる僕。

 互いの視線の高さに随分と差がある状態で、僕たちは一先ず挨拶をする。

 挨拶以前にすることがあったような気もしたけれど、香宮が先んじて口を開いたものだから、つい呑み込まれてしまった。


 やがて彼女は「んーっ……」と力んだ声を発して、ゆっくりと天井にまで上ってくる。

 あまり体力が無いせいか、物凄く大変そうだった。


 流石に駆け寄って手を伸ばすと、殆どこちらに縋りついてくるようにして這い上がってくる。

 スリッパで足元を確かめた彼女は、パジャマを整えながら恥ずかしそうに目を伏せた。


「ご、ごめんなさい。私もここ、上ったことがなくて」

「あ、そうなんだ……下から呼んでくれたら、僕が下りたのに」


 弁明する香宮にそう告げると、彼女は「その発想は無かった」という顔になった。

 本当に思いついていなかったらしい。

 或いは、月見をする僕の邪魔をしたくなかったのか。


 ──しかしそれにしても、一体どうしたんだろう?こんな時間に……。


 いつも「こんな時間」に起きている僕が言うのもアレだけど、今は人を訪ねるような時刻じゃない。

 明後日には……いや、時間的にもう明日には、幻葬高校の入学式がある。

 それでもやって来るなんて、何か緊急の要件でもあるのだろうか。


 そんな心配をしたところで、突然香宮はポケットをごそごそやり始める。

 何をしているのかと思ったら、やがて彼女は折りたたんだ書類のような物を取り出した。


「これ、引っ越しの時に雫が書かせた書類。賃貸契約書の一部なのだけれど、覚えてる?」

「契約書?確かにそんなの書いたけど……」

「私、少し前に書類の整理をしていて、偶然これを見たの。そうしたら、九城君の生年月日が抜けていることに気がついて……」

「え、本当に?」


 慌てて彼女が指さすところを凝視すると、確かに書き忘れている箇所があった。

 名前欄とは書く場所がずれていたために、これをチェックした終夜もミスに気が付かなかったらしい。

 こんな深夜に要請することかは疑問だけど、確かに重大なミスだった。


「ゴメン、書き忘れてた。すぐに直すから……」


 そう呟くと、香宮は無言でボールペンを出してくる。

 ここでさっさと直せ、ということか。


 正直、下に戻って書いた方が良い気もしたけれど、大家の要請なら仕方がない。

 彼女の急な態度を解せないと思いつつ、僕は掌を机代わりにして、ゆっくりと生年月日を記入する。

 少しだけ、彼女を待たせる形になりながら。


「平正三十年、九月の三日生まれ……はい、これで」


 ちょっと、いや大分歪んだ字になったけれど、何とか書けた。

 読めないことはないだろう。

 そう思って香宮に書類を返すと、彼女はそれをじっと見つめて────不意に、こんな問いを投げかけた。


「九城君、一つ質問、良い?」

「……何?」

「前から聞きたかったのだけど……九城君は……」




 ────自分の誕生日が、嫌いなの?




 まるでその質問に合わせるように、ざあっと大きな風が吹いた。

 庭の草木が揺れ、香宮の髪もさらさらと揺らぐ。

 その全てを、月明かりが明瞭に照らしていた。


「……どうして?」


 怯えた口調にならないように気を付けながら、僕は問いかける。

 詰問するような感じになっていないだろうか。

 一人で気にする僕の傍で、香宮はすっと先程書いたばかりの書類を指さす。


「生年月日って、誰でもすぐに書ける物だと思うのだけど……凄く時間をかけているように思えたから。それを確かめるのも兼ねて、この書類を持ってきたのだけど」

「……それは、机も無い場所で文字を書いたから。夜で暗いし」

「暗いと言っても、生年月日が書かれていないことがすぐに分かる程度には明るいでしょう?」


 苦し紛れの弁明をしてみると、一瞬で論破された。

 実際、満月であることもあってこの屋上は実に明るい。


「それに、この書類だけじゃない。他の契約書も見てきたのだけれど……全部、そうだった」

「そうだった、とは?」

「生年月日の欄に書かれた数字が、全て少しおかしかったの。歪んだり、インクの染みがあったり……まるで、悩みながら凄く時間をかけて書いたような文字だった」


 気づかれたか、と苦笑い。

 実を言うと、僕はとにかく誕生日を書くのが遅い。

 ボールペンでそんなことをすれば、歪んだ文字になるのは当たり前だった。


 ついでに言うと、誕生日を口にするのもかなり遅い。

 だからこそ、藤間刑事との取り調べ中も変に言い淀んでしまったのだ。

 あの場でも相当に不思議がられたが、まさか、香宮に最初に気づかれるとは。


「誕生日って、普通は暗誦できるものでしょう?それをここまで悩んで書くとなると……何か深い理由があるのかもしれない、と思って」

「それで、直に聞きに来た?」


 問いかけると、コクンと頷かれる。

 朝食の時の様子もそうだったけど、彼女は正しく僕を警戒し続けていたらしい。


 思えば、誕生日を何故かスッと書けない同居人なんて怪しすぎる。

 僕が名義を偽装している可能性だってあるのだから、彼女が真相を確かめようとするのは当然だった。


 もしかすると、向こうも問い詰めるタイミングを見極めていたのだろうか?

 だとしたら悪いことをしたな、と思う。

 そう感じた僕は、諦めのため息を一つ吐いて────詫びがてら、真相を語ることにした。


「……まあ、香宮の推理は正解だよ。僕は自分の誕生日が嫌いだ。正確には、この九月三日を誕生日として扱うのに、躊躇いがある」

「どうして?」

「だって……この日は、僕の誕生日じゃないから」


 言葉の意味が伝わらなかったのか、香宮はコテン、と首を傾ける。

 説明求む、とその顔が言っていた。

 彼女の要望に応えて、僕はさらりと真実を述べる。




()()()()()()()()。十六年前、幻葬市のコインロッカーに捨てられていたところを、義父さんに拾われた……だから、分からないんだよ。正確な誕生日が何月何日なのか」




 告げた瞬間、流石に香宮は驚いたような顔をする。

 彼女の驚愕する顔は、何気に初めて見た気がした。

 レアな光景を見たと思いながら、僕は彼女から視線を逸らして、目を細めて月を見る。


 ここから先の話は、本当に個人的な話だ。

 個人的過ぎて、どうにも人の前では話しにくい内容。

 だからただ、月に語り掛けるようにして続きを述べた。


「古い話になるんだけど……ええと、義父さんのことから話そう。僕の義父さんは、十六年前にこの街に住んでいたんだ。大学生としてね」

「……幻葬大学ね、十六年前にはもうあったから。例のゴミ処理センターと同じく、街の発展と共に建造された施設の一つ」

「うん。義父さんは確か、その二期生か三期生だったと思う」


 一般的には幻葬高校の方が有名だが、この街には大学も併設されている。

 高卒で探偵として働く人が多いので、進学率はそこまで高くないけれど、高校三年間だけでは学びが足りないと感じた人は幻葬大学に通えるようになっているのだ。

 十六年前、義父さんはそうやって大学に通う学生の一人だった。


「ただ正直、義父さんはあまり探偵に向いていない人だった。勿論、幻葬大学に入れたくらいだから、そこそこはやれたみたいだけど……大学を出る頃にはもう決めていたらしい。自分に探偵は無理だ、他の職に就こうって」

「なまじ大学で深く学んだからこそ、自分が探偵に向いていないと察する……よくある話とは聞くけれど」

「そう、よくある話。だから、義父さんの就職先は一般企業だった。大学を出てから数ヶ月は就職浪人をして、何とか生命保険の営業マンになって……そこへの就職が決まってから、この街を出ることになった」


 幻葬市は入るのは大変だが、出るのはたやすい。

 卒業により外で探偵として働く者、もしくは義父さんのように探偵の道を諦めて、普通に生きようとする者。

 彼らは僕も使った大きな駅に向かい、街を出ていくことになる。


「その途中で、駅の構内で見つけたんだ……妙に薄汚れたコインロッカーを」


 普通なら、見過ごしてしまうような光景。

 多くの人が使うコインロッカーなのだから、汚れている場所もあるだろうと思うだけのこと。

 やや悪臭もあったそうだが、殆どの人間はそれを気に留めていなかった。


 しかし、義父さんだけは違った。

 探偵の道こそ諦めたものの、在学中の義父さんは「日常の謎」が専攻で、細かな事象から推理を組み立てる勉強をしていた。

 だからこそ、何となく気になったらしい。


「義父さんは足を止めて、その鍵のかかっていないコインロッカーを開けた……そして、見つけた」

「……貴方を?」

「ああ。生後三ヶ月くらいの赤ん坊が、そこに捨てられていた。泣き声を上げられない程に衰弱した状態で」


 コインロッカーの汚れというのはつまり、扉の隙間から漏れ出た排泄物だった。

 おむつを替えてくれる存在がいないので、垂れ流しになっていたらしい。

 義父さんは詳しく語らなかったが、恐らく僕は汚物塗れの状態で見つかったのだろう。


 別段、珍しい話ではない。

 この時代に増えた犯罪の一つだ。


 警察が信頼されなくなり、経済も混乱して。

 子育てが立ち行かない家族や、望まぬ妊娠をする人も増えた。

 だったら、捨て子が増えるのは当然の帰結である。


 この前の事件では、子どもが親を殺して山に捨てていたけれど────今の時代、その逆をする人間も大勢いる。

 それだけのことだった。


「誰が入れたのかは分からない。当時、駅の監視カメラは何者かによって壊されていた。他の目撃者もいなくて、僕の本当の親は分からずじまいだった。確かなのは一つ……恐らくは幻葬市に住む何者かが、コインロッカーに赤ん坊を捨てたのだろうってことだけ」


 再三言っているように、幻葬市に外部の人間が立ち入ろうとすると厳しいチェックが入る。

 赤ん坊を連れてやってきた人は目立つし、わざわざコインロッカーに子どもを捨てるためだけに、外からこの街に来た奴がいるとも思えない。

 つまり僕を捨てたのは、駅を自由に利用できる幻葬市の住民の誰かだ。


「まあ勿論、当時の義父さんにはそんなことは分からないから、普通に赤ん坊を保護した。お人好しなことに、その後のことまで気にかけてくれた」

「引き取ったのね、乳児院から」

「ああ……この時代には珍しいことにさ」


 以前、終夜が財布を届けた僕のことを、お人好しで善人だと評した。

 香宮も似たようなことを言っていた記憶がある。


 でも、二人のあの評価は不適切だ。

 本当の善人とは、きっと義父さんみたいな人のことを言うのだと思う。

 彼の善性が無ければ、僕はとうの昔に死んでいた。


「義父さん、外で就職してからもずっと僕のことを気にかけていて……ある程度仕事が安定したところで、僕を引き取ってくれた。旧時代なら里親の基準ってかなり厳しかったそうだけど、今はその辺りグダグダになっているから。若い独身のサラリーマンでも、引き取ることができたらしくて」

「それで、九城家の人になったのね」

「ああ、僕が一歳くらいの時の話だ。覚えていないけど」


 僕の主観としては、幻葬市の記憶も乳児院の記憶も無い。

 気が付いた時には、僕は九城家で住んでいた。

 母親がいないことは不思議には思っていたけれど、この時代には珍しいことではないので、そこまで気にしていなかったと思う。


「そこからも、義父さんは本当によくしてくれたよ。良いことをしたら褒めてくれて、悪いことをしたら叱ってくれて……学校もちゃんと通わせてくれたし。顔はあまり似ていなかったけれど、僕は義父さんを実の家族だと思って暮らしていた」


 今の時代の状況を考えれば、破格と言っても良い境遇である。

 僕と同じような出自で、しかし悲惨な未来を得てしまった子どもなどいくらでもいるだろう。

 最初から最後まで、僕は恵まれた家族を得た。


 しかし────。


「中学校に上がったタイミングで……義父さんがカミングアウトしたんだ」

「貴方と出会った時のことを……?」

「ああ。何時かは言おう、と思っていたらしい。そういうのを隠しきれないところも含めて、良い人過ぎるんだ。あの人は」


 多分、子どもに嘘を吐き続けているという事実に耐えられなくなったのだろう。

 或いは、僕がもっと成長すれば、義父さんと似ていない顔のことで何か言われると危惧したのか。


 何にせよ、この告白から。

 僕の悪夢と、探偵としての人生。

 この二つが同時に始まることになる。

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