それは空からやってくる
電車を降りてすぐ、駅員たちによるボディチェックと質問への応対に十五分。
ある程度待たされた上で、入学許可証のチェックと住民票その他諸々の提出。
本人確認として生年月日を幾度も聞かれ、こちらはこちらで変に口ごもりながら返答。
預けていた荷物のチェックを済ませて駅から出た時には、電車到着から一時間は優に経過していた。
正直な話、下手な海外旅行よりも手間が多い過程だった。
たかが国内の移動でここまでの時間がかかるなんて、旧時代の人にはとても信じてもらえないだろう。
しかしこれもまた、探偵狂時代においては一つの日常と言えた。
──そう言う意味では、これだけのチェックをしても尚、学園都市内の犯罪がそこそこあるのは大問題なんだろうな……一応、外に比べれば多少は治安はマシらしいけど。
駅の構内からようやく出た僕は、そんなことを考えながら目的地である学校の寮へと歩いていく。
本当ならタクシーを使いたい距離なのだが、生憎と持ち合わせに不安があった。
もっと言えば、初めて訪れたこの都市でタクシー強盗に遭わないかを警戒しているのもある。
いくら何でもこんなに大きな駅の真ん前で遭遇する可能性は低いとは思っていたが、万が一を想定する必要があった。
今の日本で警戒をし過ぎるということは無い。
節約も兼ねて、僕は予め渡されていた地図に従ってテクテクと歩き出した。
「ここが学園都市『幻葬市』か……見た感じ、意外と普通だけど」
歩き始めて五分もしたところで、周囲の光景を見渡した僕はポツンと呟く。
割と失礼な感想なのは自覚していたが、正直な思いでもあった。
念願の学園都市ということで、駅から出てすぐの時は色々と周りの風景を観察していたのだが、この時にはもう飽きてしまっている。
実際、そんな短時間で飽きてしまう程度には、幻葬市は普通の場所だった。
何か気になるモニュメントがある訳ではなく、パッと見てすぐに気が付く特徴がある訳でもなく。
目に映る物と言えば、駅前のビル街とそれを取り囲む民家、偶にコンビニがあるくらいだった。
はっきり言ってしまえば、どこにでもある地方都市の風景。
強いて言うなら、自動販売機が普通に置かれている様子から、この地域の治安のマシさが伝わってくるが──治安が悪い地域にはそんな物は置かれない、壊されて中身を抜かれてしまう──それだけである。
「何だかガッカリした気もするけど……まあ、仕方がないか。元々この街は、何の特徴も無い田舎町だったらしいし……」
暇に任せて、入学説明会で聞いたこの街の歴史を思い出す。
法壊事件が起こるまで、幻葬市は関東の山奥にある小さな町でしか無かった。
人口は年々減り続け、過疎化の心配がされるレベルだったらしい。
しかし、法壊事件で全てが変わった。
治安が悪化して探偵への需要が高まってきた頃、法壊事件の切っ掛けになった探偵──後に「名探偵」と呼称されることになる人物──がこの街の土地を買い取ったのである。
そして、ここに探偵養成学校を作ると宣言した。
恐らく、彼なりに憂いていたのだろう。
自分の行動を切っ掛けにして、随分と壊れてしまったこの国を。
未来の子どもたちのために、治安を立て直せるだけの探偵を育てる。
それをスローガンにして、平正時代初期にこの学校は建てられた。
警察の威信と引き換えに彼の名声は高まっており、そのためかこの学校はあっという間に定員オーバーになった。
入学定員は毎年肥大化し続け、やがては学校を中心としてこんな都市が作られ、外部との繋がりすら薄い独立国家染みた場所と化した。
その成長が急激だったからこそ、中心部以外の街並みは昔ながらの田舎町のそれでしかない────そこまで思い返したところで、僕はくいっと頭を上げる。
途端に、駅を出た時から目にしていた光景が瞳に飛び込んできた。
遠目でも分かる、この街の唯一にして最大の特徴。
幻葬市のど真ん中に居座る、殆ど西洋のお城のような場違いな建築物。
幻葬高校・探偵学科のキャンパスだ。
僕が合格した高校であり、目的地でもある。
良くも悪くもあの学校だけが特異な場所なんだな、と改めて思った。
「荷物、ちゃんと寮に届いているかな……もし配送ミスとかが起きていたら、財布の中身的にかなり寂しいことになるけど」
なまじ学校の姿を目にしたせいで、僕は変に生々しい不安を口にし始める。
この街の規定では、着替えを含めた引っ越し用の荷物は別途チェックの上で配送業者に渡し、予め学生寮の部屋に置いておくことになっていた。
要するに殆どの荷物は別便で送っているので、今の僕は大した物は持っていない。
仮にあの荷物が届いていなかったら、僕は酷いことになる訳だ。
配送ミスがなくとも、近頃は配送業者が中身を盗むような犯罪も増えていると聞くので、心配もひとしおだった。
「仮に何か盗まれたら、また義父さんに泣きつくことになっちゃうしなあ……もう負担かけたくないんだけど」
幻葬高校はその成り立ちから私立高校であり、授業料や入学費もそれなりの額を要求される。
一般家庭の我が家にとっては、まあまあの負担だった。
大喧嘩の末に、そこを押し切ってまで入学させてもらったのだから、どんなトラブルが起きたにしてもこれ以上のお金を要求するのは気が引ける。
「あー、空からお金が降ってきたら、こんな不安も感じなくてもいいんだけどなあ……」
お金の心配をしたせいか、つい馬鹿みたいなことを呟いた。
念願の幻葬市に来たという高揚と、一人でテクテク歩き続けるという暇さから出た発言かもしれない。
偶々人通りが無かったこともあって、独り言を咎めるような人は誰もいなかった。
しかし、その瞬間。
恐ろしいことに、僕の独り言は叶えられた。
ポーン、と。
何の脈絡もなく。
財布が空から降ってきたのである。
「……え?」
あまりのことに、僕はその場でピタッと立ち止まる。
眼前の光景があまりにも奇妙だったので、脳がオーバーフローを起こしたのだ。
網膜が受容した映像を、脳が受け取ってくれない。
「さ、財布……だよな……何で?」
それでも目の前の光景は消えてくれず、僕は途方に暮れる。
僕がお金が欲しいと呟いた、今この瞬間。
どういう訳か、唐突に財布が上の方から飛んできて、目の前の地面に転がった……それで、間違いない。
革製の大きなそれは、地面で何度かバウンドしてから、音もなくアスファルトに横たわっていた。
膨らみからして、それなりに中身も入っていそうである。
とりあえず、落とし物ということで良いらしい。
「いやいやいや……落とし物にしても、誰が?」
首を何度も振りながら、僕は一応その財布を拾ってみる。
手に持った瞬間、パンパンに詰まった小銭による確かな重量が伝わってきた。
かなり入っているらしい。
無言のまま確認を続ける。
ベージュ色をした、どこにでもある折りたたみ式の財布だ。
カードや身分証明書は入っておらず、紙幣も無し。
そもそも完全に小銭入れとして使うタイプなのか、紙幣を収める隙間自体が無い。
代わりと言うべきか、硬貨を数えてみると数千円分入っていた。
「カード類は入れずに、小銭だけ大量に入れてたのか。まあ現代らしい用心だけど……」
旧時代ならいざ知らず、この時代では財布にカードや身分証明書を詰め込むのはかなりの危険行為である。
落としたりスラれたりした時に、一気に詰んでしまうからだ。
昔は財布を落としても、親切な人が拾って警察に届けてくれることもあったそうだが、現代ではそんな善意はとても期待できない。
だからこそ、こういう紙幣が入らない財布がよく使われるのである。
「カード類と紙幣の入れ物を別にして、ついでに小銭しか入れていない財布も作って、複数の財布を持ち歩く……合理的なんだけど、参ったな。これじゃあ誰の落とし物か分からないし、届けられない」
うーん、と僕は分かりやすく唸った。
最初は突然の出来事に戸惑っていたが、状況のややこしさを理解してきたのだ。
どういう理屈で空から落ちてきたのかは分からないが、財布である以上、これが誰かの落とし物らしいのは間違いない。
つまり本当の持ち主が存在する訳で、僕としてはその人にこの財布を返してあげたかった。
この時代を生きるにはお人好し過ぎる姿勢かもしれないが、少なくともここで中身を抜こうと考える程、僕はセコイ悪人ではない。
しかしそうなると、持ち主の名前が分からないというのがネックだった。
返す当てがない。
僕がこうして拾っている間も、人の姿が見えないことからすると、近くにいるようでもなさそうだし。
いつかその人が拾いに来ることを期待して、道端に財布を残していくようなことをすれば、別の人に盗まれて終わりだろう。
次にこの歩道を歩く人が、僕のような性格をしているとは限らない────寧ろ、九割方盗むと見て間違いない。
では、警察に落とし物として届けに行くか?
いや、それも駄目だろう。
かつては有効な手段だったらしいが、この探偵狂時代では「落とし物をした時に警察に頼るな」というのが常識だった。
警察官の質が下がった影響か、落とし物のことをちゃんと調べてくれないどころか、警察官の一部が落とし物に手を付けることすらあるからだ。
交番のお巡りさんが落とし物の財布で一杯飲みに行ったとか、そういう事件が何件も起きている時代なのである。
幻葬市の警察は流石に他所よりはマトモかもしれないが、それでも素直に落とし物を届ける気にはなれない。
はっきり言って、泥棒に財布を差し出しに行くようなものだった。
「そうなると……僕が自力で落とし主を見つけるしかないか?幻葬市に来たばかりで、何も知らないけど」
自分の言っていることが、無理難題であることは分かっていた。
それでも、警察に頼るよりはマシな選択肢……な気がする。
故にそこでため息をつきながら、僕は周囲を見渡した。
「そもそもこの財布、どこから落とされたんだ?何か、上から落ちてきたけど……」
まさか鳥が掴んでいたのか、なんて思って僕は真上を見やる。
だが、それが有り得ないことはすぐに分かった。
近くに鳥の姿は見えなかったし、それ以前に小銭が詰まった財布は重過ぎて、空飛ぶ鳥が運ぶにはキツそうである。
「となると、誰かが放り投げたか……」
そう言いながら、今度は視線を横に。
すると、自分がいつの間にか、随分と大きな建物の隣を歩いていたことに気が付いた。
延々と塀が続いていたので意識しなかったのだが、どうやら大きなお屋敷がすぐ傍にあるらしい。
「他の建物は平屋が多いし……飛んでくるとしたら、この塀からか?」
例えばこの塀の修繕をしていた業者が、足場の上でうっかり財布を落とす。
或いは、庭の木を剪定していた住人が塀の上に財布を落とし、風か何かで時間差で財布が落ちてくる。
そういう事情があれば、こうして突然財布が降ってくるというのも有り得るだろう。
「でも、今は塀の上に人影無いな……というか、何のお屋敷なんだ、ここ?」
状況が意味不明なせいか、次から次へと疑問が湧いてくる。
立ち止まっていても仕方がないので、僕はとりあえず屋敷の正体を確認するために表札を探すことにした。
幻葬高校開設に伴う再開発のため、この辺りの地価はとんでもない額になっている。
そのど真ん中にこんなに大きな屋敷を構えていることからすると、並大抵の資産家ではないのかもしれない。
そう考えながら、僕はぐるっと回ってお屋敷の正門まで足を進めて────。
「……凄っ!」
即座に、叫びながら足を止めてしまう。
我ながら間の抜けた反応だったが、仕方がないだろう。
背の高い塀のせいでよく見えていなかったのだが、そこは本当に、とんでもない豪邸だったのだから。
ライオンやら鳥やらがレリーフとして備え付けられた、豪奢な門扉。
その奥に続く、芝生と石に覆われただだっ広い庭。
これらを乗り越えた先に佇む、御伽話に出てきそうな洋館。
洋館のデザイン自体は、暗めの配色をした二階建ての建築物でしかないのだが、左右の広がりが尋常ではない。
百人くらい住めそうだ。
さっきから幻葬市に対して特徴が無いとか、高校しか目立っていないとか散々言っていたが、その全ての発言を謝りたくなるくらいに特徴的な建物だった。
──幻葬市の中に、こんなに大きな屋敷があるのか……どういう家なんだ?
本気で疑問に思ったが、呆けている場合ではないことをすぐに思い出す。
今のところ、僕がするべきことは財布の持ち主探しだ。
財布を拾った時、真横にあった建築物がこのお屋敷である以上、うだうだしている暇は無かった。
結果、僕は恐る恐る門扉に近づく。
門の近くには、ひっそりとインターホンが設置されていた。
震える手でそれを押してみると、ピンポーン、とごく普通の音が響く。
『……はい、なんですか?』
インターホン越しに聞こえたのは、どこか慌てているような印象を受ける女性の声だった。
てっきり家主が出てくるものだとばかり思っていたのだが、予想以上に声が若い。
お手伝いさんなのかな、と思いつつ僕は事情を説明する。
「あ、突然すいません。僕、今しがたこの近くを通りすがった者なんですけど……その、実は近くでお財布を拾いまして」
『……』
「しかもその、信じてもらえないかもしれないですけど、上の方から突然財布が降ってきたと言いますか……あ、いえ、本当にそうとしか言えない状況で」
『……』
「それでその、中にお金が入っているみたいですので、できれば落とし主に返したいと思っているんですけど……どうも周囲に人影が無くて。だから、ええと、もしかしてこのお屋敷の方なら、落とし主について何か知っているかなあと」
『……』
「あー、あの、最近塀に上ったとか、外に物をぶん投げたとか、そういうことをした人に心当たりはないでしょうか?」
『……』
──不審がられていないかな、これ?
自分で言っていながらアレだけど、言葉にするとかなり怪しい文言である。
仮に僕が実家にいる時にこんな訪問者が来たら、絶対に門を開けることは無い。
新手の詐欺を疑うレベルだ。
どうやったら信じてもらえるだろうかと、僕はその場で頭を悩ませる。
だがその瞬間、一風変わった声がインターホンから響いた。
『……ちょっとそこで待ってて、すぐ行くから』
建前のような敬語も捨てた、完全に素の発言。
その調子の変化に驚いている内に、インターホンがプツリと音を切断し、代わりに門扉の奥で玄関の扉がバンッと開く。
何だ何だ、と思っている内に玄関から飛び出す人影があった。
パッと目に入ったのは、僕よりも背が高そうな女性の姿。
恐らく、年齢は僕と同じくらい。
お嬢様風のジャンパースカートとブラウスを着たその少女は、どういう訳か、陸上選手顔負けのスピードでこちらに走り寄っていた。
え、え、え、と呆気に取られている内に、彼女はダッシュで玄関から外の門扉にまで到達。
金属製のそれを開けるのも手間に思ったのか、一切の減速をすることなくふわりと飛ぶ。
要するに、物凄い助走をつけた上で、彼女は僕の目の前で走り高跳びをしてみせた。
羽毛を思わせる軽やかな跳躍で、門を超えていく少女。
数秒後、猛烈な風を纏いながら、彼女は僕の前に降臨した。
ザザザッと周辺の土を荒らしつつ、視線だけはこちらにはっきりと向けてくる。
一連の挙動は非常にスムーズに行われたため、僕はそのスピードについて行けずにあんぐりと口を開けていた。
ついでに言うと、目の前まで来たその少女の顔立ちが余りにも整っていたことも、呆然自失となる理由の一つだった。
何というか、あらゆることが非現実的である。
「財布を拾ったって言うのは……アンタ?」
僕の混乱も知らず、少女は勝気そうな瞳と決意に満ちた声で問いを投げかけてくる。
どうして彼女がそんなに急いでここまでやってきたのか、その理由を話す気はなさそうだった。
当然、僕は迅速にはその問いには答えられなくて。
──財布もそうだけど……今日は色んな物が空から降ってくる日だな……。
そんな、馬鹿みたいな感想を抱くのがせいぜいだった。