追放をかけて
「……なくなったって言うのは、確かな話?」
香宮の真剣な雰囲気を察したのか、終夜は自然と会話のトーンを落とす。
この場所の気温が、一気に氷点下まで下がった気がした。
「……私、貴方たちが帰ってくるまで、地下室でいつも通り実験や研究をしていたの。冷凍した標本を取り出して、染色をして……その時に、少し高い試薬を使った」
終夜の問いに答える形で、香宮は淡々と昨日の行動を述べる。
どうやら僕たちが羽生邸の事件に巻き込まれる中、彼女は普段通りの日常を過ごしていたらしい。
「その操作自体はすぐに終わって、試薬も元の位置に戻したわ。でも、その実験が終わった時には何だか眠くなって……結局、あまり片付けもせずに仮眠をとったの。いつも、あのくらいの時間にお昼寝をするから。例の机で……」
それが昨日の光景に繋がる訳か、と僕は一人頷く。
どうしてあんな机の上で寝ていたのか不思議だったのだが、どうもあれは彼女の習慣の一つだったらしい。
正直かなりの奇行だが、今回問題となるのはそれではなかった。
「その後、私と九城君が来たのよね。机で寝ていた凪を起こして、入居の許可について話をした」
「ええ。貴方たちが上に戻った後、私は仮眠の続きをするためにもう少し休んだわ。また起きてからは勉強をして、その後で今度こそちゃんと寝て……そして、今朝起きてから、忘れていた片付けをしたのだけど」
「その時に、元に戻したはずの試薬が無いことに気が付いた、ということですか?」
僕が問いかけてみると、コクンと香宮は頷く。
よくよく見てみれば、彼女の顔色はあまり良くなく、髪もほつれていた。
寝起きだからというだけではなく、試薬の捜索をしていたが故だろうか。
「ついさっきまで、地下室の棚を全部漁る勢いで探したのだけど……見つからなかったわ。どうしてか、どの棚にも存在していなかった。まるで地下室から消えてしまったように……私は昨日から今朝まで、一度も地下室を出ていないのに」
「だから、私たちに聞いているのね、凪。ひょっとして持ち出していないかって」
「そうよ。私以外にあの地下室を訪れたのは、貴方たちしかいないもの」
さらりと肯定してから、香宮は僕のことをじっと見る。
そして、もう一度その言葉を述べた。
「九城君……貴方、私の試薬がどこにあるのか、本当に知らない?」
「……状況的には結構ヤバイわよ、アンタ」
南極ですらもう少し暖かいと思えるくらいに凍った空気で終わった朝食から、多少時間が経った頃。
僕と終夜は香宮のお屋敷から脱出して、近くにあったファミレスへと避難していた。
店内は「現在、ロボット配膳実施中!」という広告が目立って目に痛かったが、それに屈せず適当なメニューを注文。
その到着を待ちながら、僕たちは善後策を練る。
「昨日も言ったけど、凪はあの地下室に置いてある物を本当に大事にしているの。その中でも、結構高くつく試薬を盗んだとなれば……許されることはまず無いわね」
「なるほど……まあでも、香宮さんが僕のことを疑うのも当然だ」
終夜の解説を受けながらも、僕はそんなぼやきを零す。
仮に僕が彼女の立場だったとしても、そう考えるだろうと思って。
何せ彼女の目線で言えば、「実験に疲れて寝ていたら、いつの間にか地下室に知らない男子が来ていて、その直後に試薬が無くなっている」と言う状況である。
ここで知らない男子……つまり僕を容疑者にしないのは、いっそ不自然だった。
「でも……僕、やってないよ。信じてもらえないかもしれないけど」
「信じるわよ。何度も言うけれど、アンタがそんなことをする奴には見えないし……それ以前に、タイミングが変だわ。地下室の物を盗んだら追い出すって言われたその場で、速攻で盗みをやるなんて」
「確かに。住む気が無いのかってなる行動だ」
「でしょう?私は『日常の謎』は専攻じゃないけど、それでもこれくらいのことは分かる……凪もそれが分かっているから、まだアンタを追い出していないのよ」
凪の中でも、アンタが犯人だっていう確証はないんでしょうね、と終夜は冷静な判断。
この辺りの疑問が残っているからこそ、朝食では尋問だけで済んだらしい。
「香宮さん、今も試薬を探しているのかな。朝食が終わった時、懐中電灯とか持って行っていたけど……」
少し心配になって、そんなことも聞いてみる。
様子的に、試薬の捜索のせいで十分に休めていない節があったが、身体は大丈夫なのだろうか。
「勿論、捜索は続けているでしょうけど……凪の心配をしている場合じゃないわよ、九城君。いくら今は確証がないとは言え、そんなの凪の主観の産物なんだから。うかうかしていると、アンタは本当にお屋敷から追い出されるわ」
「確かに……自分の身の潔白は、自分でさっさと証明しないといけないってことか」
「そうよ。凪がアンタの追放を決定する前に、頑張ってみるしかないわ。私も協力するから」
「ありがとう……それにしても、また事件か」
うんざりとした気分で、僕は机上の水を飲む。
たった一日前に、羽生邸の事件に関わったばかりなのに。
いくら探偵狂時代とは言え、幻葬市に来てから変な事件にばかり巻き込まれている気がする。
「でもこれ、推理がかなり難しいよ。普通は窃盗事件と言えば、現場を調べるのが定石。でも、今回は……」
「凪が許してくれないわね。今まさに、凪が試薬探しをしている最中でしょうし……犯人と疑っている九城君が、地下室に入れてもらえることはまずないわ」
「だろう?つまり僕たちは、現場を全く見ないまま、この『試薬消失事件』を解かないといけない」
昨日のように殺人は絡んでいないが、それでも難易度の高い事件である。
現場を見られず、当事者から話も聞けないまま、どう解決しろと言うのか。
目をつぶったまま曲芸でもさせられている気分だった。
──でも、僕もこんなことで家を失うのは惜しいし……終夜の言う通り、頑張って解いてみるしかないか。
消えた試薬は、今どこにあるのか。
盗まれたのであれば、僕たち以外の誰が犯人なのか。
そこを考えた僕は、とりあえず思いついた仮説を次々と終夜にぶつけてみた。
「ええと、パッと思いつく真相を挙げてみるけど……普通に考えれば、何かの拍子に棚から落ちて、分かりにくいところに転がっているとか?あの棚は底板が妙に高い位置にあるし、物が隠れる隙間自体はあると思う。僕が転びかけた時に、そこに落ちちゃったとか」
「いいえ。流石にそれなら、真っ先に凪が見つけているわ。現場の棚の下なんて、何度も確認しているでしょうし……あの子、観察力はそれなりにあるから」
「まあ、そうなるか」
部屋の小物がいつの間にか消えているというのは、ズボラな一般人ならあるあるネタだろう。
しかしここは探偵たちの集う街、幻葬市。
専攻が死体に偏っているとは言え、そんな簡単な場所に落ちている試薬が見つけてられていないとは考えにくい。
「じゃあ、香宮の記憶違いとか?実はそんな試薬は最初から使っていなかったとか、置いたのは棚じゃなかったとか」
「うーん……ゼロとは言わないけれど」
普通はない、と言いたそうな顔で終夜が唸った。
香宮のことは、当然ながら彼女の方が僕よりも遥かによく知っている。
その終夜がこんな反応をしている時点で、これが真相じゃないことは察せられた。
「あの子、記憶力も優秀なの。死法学にまつわる勉強では、とんでもない量の知識をあっと言う間に覚えたそうだし……ちゃんと片付けずに寝たこと自体、自分の記憶力に自信があったからだと思う」
「多少物の位置が混乱していても、自分ならなんとかなると確信していたってことか」
「そうそう。それに、自分のうっかりを安易に他人のせいにするような性格でもないわ。実際、今回も最初からアンタを疑うようなことはせずに、まずは地下室を自力で探し回ったんだから」
なるほど、と僕は頷く。
どうも終夜の話を聞く限り、うっかりなくしたとか、勘違いで既に持ち出していたとかは考えにくいようだった。
香宮が消えたという以上、本当に試薬は見つからないのだろう。
「でもそうなると、犯人がいなくなるな……僕は盗んでいないし、終夜も持ち出していない。被害者である香宮も、当然盗んではいないだろうし」
香宮の証言によれば、あの地下室を昨日以降に訪れたのが僕たちしかいないのだ。
この少ない容疑者の全員に覚えがないとなると、正直お手上げだった。
何が起こっているのやら。
「こうなるともう、人間以外が犯人だったと思うしかない気もするな……ネズミのせい、とか」
「ネズミ?」
「実はあの地下室をネズミが徘徊していて、勝手に持って行っちゃったとか……試薬の瓶の大きさ次第では、可能ではあると思うけど」
苦し紛れにそんな推理をしてみると、終夜がふるふると首を横に振った。
これまた、お気に召さない推理だったのか。
「私も地下室についてはそんなに詳しくないんだけど、それでもネズミが出る程不衛生じゃないわ。そんなのが出たら、標本を齧られる恐れがあるでしょ?」
「あー……言われてみれば、確かに。そうならない程度には綺麗にしているってことか」
「ええ。掃除業者は屋敷の地上部分しかやらないから、あそこの掃除は凪が自分でやっているけど……昨日入った感じ、案外綺麗にしていたわ。床も綺麗だったもの」
「ネズミが大量発生する余裕はない、と」
「そもそも、地下室にそんなのがいたら、地上にも出てくるはずでしょう?でも私、自分が住んでいる部屋でネズミもゴキブリを見たことは無いわ」
要するに、ネズミ説は考えにくいということだ。
人間に容疑者がいないからって、ネズミのせいにするのは安易過ぎたらしい。
だけどそうなると、いよいよ疑わしい存在がいないなあ────そう考えたところで、不意に終夜が眉を下げ、小声で話し始めた。
「ねえ……ちょっと、嫌な推理を思いついたんだけど、言っても良い?」
「どうぞ」
「……実は全部、凪の自作自演って可能性も当然あるのよね。自分で試薬を捨てるか隠すかして、その上でアンタが犯人って言い張っているとか。私たちが自由に地下室に入れない以上、やろうと思えばいくらでも事件を捏造できるもの」
──まあ、そうなるよな……。
終夜の挙げた仮説は、実を言うと僕も心の片隅で考えていたものだった。
ただ、終夜の前で言い出すのは憚られたので、口にしなかっただけで。
寧ろ、この可能性を深掘りするのを避けるために、今までの仮説を述べていたと言っても良い。
実際、妥当な仮説なのだ。
香宮は男子を倉庫に住まわせることに不満を抱いていて、地下室の物を盗まれることも警戒していた。
しかし一度は了承したという経緯もあってか、僕が住むことを許可してしまった。
唯一課した条件は、地下室に無断で立ち入らないこと、そして物を盗まないこと。
ならば、その条件を悪用して僕を家から追い出そう、と考えても不思議ではない。
方法も簡単だ。
適当に高そうな試薬を隠して、消えたと騒ぐだけ。
それだけで、僕の罪をでっちあげることができる。
ひょっとすると、隠してすらいないのかもしれない。
彼女は消えたと主張しているが、僕たちはあれから地下室の様子を見てすらいないのだ。
本当は、その試薬の瓶が堂々と棚に並んでいる可能性だってあった。
「もし本当に、香宮がそんなことをしていたら……」
「その時は……詰みね。アンタを追い出すのが目的なんだから、私たちがどれだけ無実を証明しようと聞くはずがないわ。仮に今回は諦めてくれたにしても、凪からすれば、また新しい事件をでっちあげれば良いだけのことだもの」
だから、考えたくなかったんだけど。
そう言って俯く終夜に、僕は心の底から同意した。