地下室の約束
「確かに入居者を募集しても良いとは言ったけれど……私、可能なら女子が良いと言わなかったかしら。私は非力だから、男性を入れると危険が増えるとも言ったはずだけど」
解剖台から──正確には、そう見えるだけの机らしいのだが──静かに下りながら、香宮なる少女はジトッとした目で終夜の方を見つめる。
見つめられた方は、テヘッとわざとらしく舌を出した。
「そうだったっけ?可能ならって言うから、女子じゃなくてもまあ許してくれるかなって思ってたんだけど」
「……はあ」
その一言だけで全てを諦めたのか、香宮がはっきりとため息を吐く。
どうやら男性の同居を許すかどうかで、この二人は以前に揉めていたらしい。
香宮はできれば同性のみと言っていたのか────なんて思ったところで、彼女は僕をじっと見つめた。
「ええと……何です?」
「……貴方のどこを雫は気に入ったのかしら、と思って」
氷のように冷たい眼差しに怯んでいると、やがて彼女は興味をなくしたようにすっと視線を外した。
香宮の目から見て、僕という人間には取り立てて特徴が無かったらしい。
彼女は僕と終夜の顔を交互に見ると、やがてポツポツと言葉を並べた。
「雫、貴女は絶対に彼を倉庫に住まわせたいのね?それが、貴女の夢のために必要だと?」
「ええ、間違いないわ。私が羽生家に泊まっている時、電話で伝えたでしょ?専攻が『日常の謎』の凄い探偵がいるって。私が探偵として勉強していく中で、彼みたいな人が傍にいるのはとても良いことだと思う……この時代に、中身入りの財布を馬鹿正直に届けるような奴でもあるしね」
アピールもあってか、そこで終夜は僕のことを猛烈に褒めてくれた。
ここまで評価されていたのか、と隣で聞きながらちょっと驚く。
いやまあ、入居を許してもらうために過剰に良く言っている部分はあるのだろうけど。
「私はその凄さを目にしていないから、正直よく分からないのだけど……」
終夜の演説を聞いてから、香宮は疲れたような顔をする。
彼女のように極めて華奢な子がそんな表情をするものだから、ある種の悲愴さが滲み出ていた。
彼女はさっきまで寝ていた机に寄りかかりつつ、何かを諦めた表情で指をすいっと立てる。
「雫がそこまで言うのなら……入居は認めても良いわ。男性なのはともかく、一度同意したのは確かだもの」
「そうね……ありがとう、凪」
「ただし……ええと、九城君?一つ約束してくれる?」
「な、何です?」
渋々ながらも許可が下りたのに驚いていると、香宮は再び僕の方を見つめる。
もの言いたげな彼女の瞳に緊張していると、静かな口調で「約束」が述べられた。
「同居し始めてからは、この地下室には絶対に立ち入らないで欲しいの。もし入りたいのなら、私の許可を取ること。置いてある本や標本、試薬の類にも決して触らないで。持ち出すのは論外」
「えっと……要するに、この地下室にまつわる全てにノータッチでいて欲しいと?」
「そういうこと。仮に少しでも約束を破ったら、その場で追い出すわ……良いかしら?」
──何を言われるかと思ったけど……そんなことなら、まあ。
ぶっちゃけた話、この地下室は頼まれたって入りたくない感じの部屋である。
そんなに注意されなくても、標本に触る気なんて一切無かった。
だからこそあっさりと僕が頷くと、彼女は「絶対ね」と念押しをして、それから「もう少し仮眠するわ」と言ってまた机に寝転がった。
「私から頼んでおいてアレだけど、ちょっと驚いたわ。凪、律儀な子だから最後は認めるのは分かってたけど……それでも、もうちょっとゴネるかと思ってた」
香宮の了承を得て少し経った頃。
倉庫に戻って布団置き場やらネット回線やらについて説明を受けている最中に、終夜はふとそんな言葉を漏らした。
大概の説明が終わったので、気が緩んだのだろう。
認められて良かったと言いながら、終夜は意外そうな顔を崩さない。
「その前に、ゴネるって言い方は変じゃないか?アレは香宮……さんが正しいよ。彼女が大家さんなんだし、異性を近くに住まわせるって、こんな時代だとそれだけで高リスクだし」
「まあそうだけど……それでも、凪は本当にあの地下室を大事にしているから。ああいう口約束だけで許しが出たのが意外だったの」
私がうっかり触っただけでも怒るのに、と終夜は零す。
興味を惹かれた僕は、ついつい質問をした。
「彼女は……香宮さんは、昔からあんな感じで?標本や本に囲まれて、地下室に……」
「そうね。小学生の頃から、凪はそっちに興味があったらしいから。凪の両親が海外に行ったのが、凪が中一の時で……そのちょっと後に私が越してきたんだけど、その時にはもう地下室をあんな感じにしてたわ。両親がコネで譲って貰った試料だとかで」
「両親が用意したのか……その時点で、死法学を修めるための教材を」
少し、想像してしまう。
まだ中学一年生の香宮が、両親もいない中、一人屋敷の地下室で臓器の標本に囲まれて研究をする姿を。
旧時代のホラー小説でも中々出てこない光景だろうな、とちょっと思った。
「まあでも、意見をコロコロ変えるような子でもないから、凪との約束を守っている内は入居に関しては大丈夫よ。後から『やっぱり住まわせない』なんて言うことはないわ」
「君がそう言うなら、そうなんだろうけど……気を付けることにする」
「九城君、地下室を出る時、早速約束を破りそうになったものね」
そう言いながら、終夜はくつくつと思い出し笑いをする。
それは言わないで欲しいな、と僕は恥じ入った。
つい先ほど、僕たちが地下室から出ようとした時。
僕は意図せず棚に足を引っかけてしまい、転んで標本に触りそうになったのだ。
結果から言えば転ぶ寸前で耐えたので、ほんの数秒で約束破りをすることは避けられたのだが、バタバタと忙しない僕たちを香宮は実に冷たい瞳で見ていた。
「いや、仕方がないんだよ。あの棚、妙に下の段が高い位置にあっただろう?高床式の……棚の足が長くて、地面と底板の間が広い形というか」
「それで足を引っかけたのよねー」
「丁度足が入るくらいのスペースがあるんだ、アレ……」
最後は何故か地下室について愚痴を言いながら、僕は終夜からの説明を全て聞き終わる。
そうこうしている内に大分時間も遅くなったので、僕は早速、新居で初めての夜を過ごすことになった。
荷物の類は学生寮に郵送されているので、ベッドと机くらいしかない簡素な部屋での就寝となったが、どうせ僕はどう寝ても悪夢を見るので関係ない。
夕食は終夜に貰ったインスタント食品で済まして、僕は意外といつも通りの夜を過ごしたのだった。
而して、翌朝。
「おー……凄い、お姫様の朝食って感じ」
「どんな例えよ、それ」
お屋敷の本館、朝食の並ぶダイニングまで足を運んだ僕は、予想外の光景に目を丸くしていた。
眼前に広がるのは、絶対に高いんだろうなと分かるティーセットに、クッキーやスコーンを載せた名前の分からない器、さらに下に敷かれたセンスの良いマット。
脇には柔らかそうなパンがいくつもバスケットに入れられていて、周囲にはベーコンやらチーズやらサラダやらも設置されている。
完全にイメージだけで語るが、イギリス辺りのお金持ちの朝食風景のようだった。
義父さんの家では朝は和食だったので、僕としては新鮮な景色である。
終夜が香り豊かな紅茶をキッチンで入れてくれていることも、この異国感と言うか高級感みたいなものを底上げしていた。
「終夜たち、毎日こんなお洒落な朝食を?」
「私というか、凪の趣味ね。私一人なら、もっと適当に茶漬けでもかきこむわよ。でもあの子、朝はしっかり取りたいみたいだから」
それで私が用意する羽目になるのよねー、とぶつくさ言いながら、終夜は紅茶を淹れ続ける。
昨日聞いたのだが、この屋敷では家主である香宮が殆ど地下室にいる都合上、大体の家事は終夜がやってしまう方針らしい。
流石に掃除は一人では大変なので、定期的に掃除業者が来るらしいが、食事などは彼女が作ってくれるのだ。
──だからこそ、家主の要望に合わせてしっかりとした朝食を作り続けているって訳か……僕も今日から、そのご威光にあやかる訳だけど。
自分の椅子に座りながら、内心わくわくとした感情を募らせる。
終夜の昨日の説明では、僕も同居人としてこれらの食事を食べて良いとの話だった。
あの家賃は食費も込みだからと、割と太っ腹なことを言ってくれたのである。
終夜がこうも食事に凝ってくれるタイプだと分かると、途端に食事が楽しみになってきた。
昼食や夕食はどうなるんだろう、と思いつつ僕は家主の到着を待つ。
流石に、大家よりも先に手を付ける訳にもいかない。
「終夜、香宮さんはいつも、何時くらいにここに?」
「もうすぐじゃない?いっつも地下室に籠ってばかりだから、せめて朝くらいはここで食べるように言ってあるのよ。あの子も聞き分け良いから、朝食だけは遅刻せず来てくれるわ……昼と夜は地下室の扉前に食事を置いておくと、いつの間にか消えているんだけど」
「あの中で食べているのか……慣れているんだな」
「でしょうね。とにかく朝食は余程のことがない限り来てくれるから、九城君も落ち着いたら?別にパンは逃げないから」
ちょっと揶揄う感じでこちらを嗜める終夜の言葉に、僕は恥じ入って俯く。
見たことない食事を見て、テンションを上げ過ぎていたらしい。
だからこそ恥ずかしく思っていると、上手いこと空気をかき消すようにして小さな足音が響いた。
「……おはよう」
「あら、おはよう、凪」
「あ、おはようございます、香宮さん」
昨日とほぼ同じ服装──実は寝間着なのだろうか──で現れた香宮は、起き抜けなのか目は半開きで、ボーっとした感じの顔をしていた。
その状態でも容姿の美しさは決して曇っていないが、実に気の抜けた格好である。
朝はこんな感じなのかと密かに思っていると、彼女はのそのそと歩いて真ん中の椅子に座り、小さく「いただきます」と呟いてからパンをもそもそ食べ始める。
「はい、いただきます」
「……いただきます」
香宮が口をつけると同時に、僕と終夜もタイミングを合わせて食事を始めた。
特に会話はなく、互いに目を合わせることもなく黙々と食事が進む。
僕と言う余所者がいるせいかとも思ったのだが、他二人が自然体であるところを見るに、このお屋敷ではいつもこうらしい。
そうであれば、別に気まずさを感じる必要はないだろう。
僕は遠慮なく、今まで飲んだことが無い味をした紅茶と、どこで売っているのか教えて欲しいくらいに柔らかいパンを口を運ぶことにする。
どれも本当に美味しかった。
──ああ……財布事件の時の三人が、ここへの入居を申し込んだのも分かるな。いやまあ、あの三人は結局詐欺に走ったんだけど。
悪いとは思いつつも、どこか優越感のような物を感じてしまう。
しかし、そんな感覚は一瞬で消し飛んだ。
不意に、香宮が口を開いたからである。
「……ねえ、九城君」
「は……はい?」
ずっと無言だったものだから、声をかけられたこと自体が意外だった。
何だ何だと思って顔を上げると、そこには何故か糸のように目を細めた香宮の姿がある。
傍から見ると眠っているんじゃないかと勘違いしそうになる様子だったが、口の方は雄弁に動いた。
「九城君……昨日来た時、私の地下室から何かを持って行ったり、移動させたりしていない?覚えがあるのであれば、正直に言って欲しいのだけど」
「……いや、してませんけど」
本当に覚えが無かったので、即座に否定する。
何を言っているんだ、とすら思った。
昨日、僕は彼女と「地下室には入らない、何も持ち去らない」と約束したばかりだと思うのだが。
しかし僕の解答は、香宮のお気に召す物では無かったらしい。
僕の言葉を聞いた瞬間、香宮はどこか不機嫌そうに顔を逸らす。
それを見かねてか、終夜が口挟んだ。
「凪、どうかしたの?その約束は昨日したばかりだと思うけど」
まさか変えたいとか言うんじゃないでしょうね、と不思議そうに終夜は疑問を投げかける。
言い方からすると、これは普段の香宮らしくない言動のようだった。
だとしたら本当に何なんだ、と僕は終夜と同様に疑問符を浮かべて香宮を見つめる。
僕たちに見つめられた彼女は、ずっと閉じかけだった瞳をそこで開いて。
それから、静かに宣告した。
「私も気が付いたのは、つい先程なのだけど……私の地下室から、試薬の入ったビンが消えているのよ。標本の染色に使う、高価な試薬が……」
告げられた瞬間、僕と終夜は凍り付く。
同時に、香宮はもう一度質問をした。
「昨日の午前中に染色で使ったから、その時点では確かにあったのよ……本当に、何も知らないのかしら?貴方たちが来た後、なくなっているのだけど」