死体少女
探偵狂時代の特徴の一つに、「死」にまつわる知識の普遍化が挙げられる。
旧時代よりも、人々の間で死体にまつわる知識を学ぶことが普通になったのだ。
黎和時代になる頃には、大人になる前に一度くらいは学んでおきなさい、くらいのノリで、法医学の基礎めいたことが教えられるようになっていた。
これはある種当然の話で、治安の悪化によって死体を見る機会が増えたのが原因である。
どれだけ嫌だろうが、怖かろうが、遭遇する以上は調べなくてはならない。
その手の学問が流行ったというよりは、必然的に知らないといけなくなったという方が正しいだろう。
死後硬直とはどういう物か、死斑は何時間でできるのか、死体が白骨死体にまで変わるまでにはどれくらいかかるのか。
そういう知識は、人々の間である種の常識のように広まっていった。
当然、幻葬高校を目指すような探偵志願者たちともなると、下手すると旧時代の法医学者並みの知識を持つ者すら現れるようになる。
羽生家の事件を解決して、屋敷に戻ったその日、
僕は終夜に手を引かれるまま、そういう知識を極めた少女の一人に出会うことになる。
生きている人間のことよりも、死者に関することの方が詳しい少女。
彼女は、名前を香宮凪と言った。
「そう言えばさ、住むにしても敷金とか礼金とかって……どうすれば?」
羽生邸から帰ってきた直後、僕は終夜にそんなことを聞いていた。
彼女に手引きされるまま、件の倉庫に足を踏み入れた時のことである。
ここがベッドで、ここがタンスでと家具を紹介してくれる終夜の話を聞く中で、ふとそんなことが気になったのだ。
財布の事件を解決する中で、規格外に安いここの家賃のことは既に聞いていた。
しかしよく考えると、その他の諸条件については全く聞いていない。
本当にちゃんと住むのであれば、その辺りも聞かないと────そう述べると、終夜は何か思い出したような顔をした。
「あー、そう言えばそうよね。私もうっかりしてたわ。本当はちゃんと、入居者募集の時に提示した条件があったと思うんだけど……」
「けど?」
「私、あの子に何も言わずにアンタを招いたから……条件の確認の前に、まずそっちの了解を得ないといけないかもね。凪はゴネる時はゴネるから」
──なぎ?
聞き慣れない単語を前に、僕は一瞬だけ首を捻る。
だが幸い、文脈でそれが名前だとは理解できた。
確か、彼女の話では────。
「その凪って子が……終夜と同居しているという女の子?確か、この大きなお屋敷で二人暮らしとか言っていたけど」
「そうそう。名前を香宮凪って言うんだけどね。私たちと同い年の女の子で……親は幻葬市でも随一の大地主よ。だからこそ、街の真ん中にこんなお屋敷を構えて暮らしているの。私が来る前は凪が一人で暮らしていたっていうんだから、豪勢な話よね」
「へえ……ん?」
終夜の話を聞きながら、僕は放っておけない疑問を抱く。
何か今、聞き捨てならない台詞があったような。
終夜の同居人が香宮凪という少女で、家がお金持ちなのはまあ良い。
暮らしぶりの一つ一つから、その予測はできた。
問題はその前、彼女の親が大地主という点だ。
「……ええと、ちょっと待って、終夜。君の親じゃなくて、その香宮さんの親が地主なのか?このお屋敷を構えるくらいの?」
「うん、そうだけど」
「え、じゃあ……このお屋敷、終夜の家じゃないってこと?あくまで、その香宮さんって人が大家で」
「そうよ、当たり前じゃない。ここは香宮邸よ。私はただ、親が香宮家と仲が良いから、居候させてもらっているだけで」
……この言葉を聞いた時の僕の衝撃は、かなりの物があった。
恥も外聞もなく、「えーーーっ!」と叫んでしまったくらいだ。
「何よ……大きな声を出して」
「え、いや、だって……その、それだと話が変わってこないか?だってその、君、居候の立場で入居者を募集して……!?」
「勝手にはしてないわよ。凪の許可はとったわ……かなり嫌そうだったけど」
「そ、それはそうだろう……」
色々とドタバタしていたこともあって、屋敷の正門の表札をちゃんとは見ていない。
それでも今までの態度から、僕はこのお屋敷は終夜の親の所有物だと思っていた。
だからこそ部屋を独断で貸そうとしているのであり、同居人の少女は終夜が大家だからその判断に従っているのだろうと。
だが香宮凪という同居人こそが大家で、終夜はただの居候に過ぎないとなると、話が大きく変わってくる。
要するに終夜は現在、大家に無理を言って同居人を集めた挙句、外部から来た素性の分からない男子(僕のことだ)を勝手に住まわせると言って連れ込んでいるのだ。
それはちょっと、何というか、フリーダム過ぎるだろう。
大前提として、ただの居候がやって良いことなのだろうか。
終夜がどれだけ僕が住むことに賛成しようが、大家である香宮さんが「No」と言えば、それで終わる気がするのだけど。
「まあ直接頼めば何とかなるわよ、きっと。多少は揉める可能性もあるけど……さっきも言った通り、一度は倉庫を貸すことに同意したんだから」
「そうかなあ……?」
ここまでその香宮凪なる少女と会っていないものだから、リアクションが分からない。
意見をコロコロ変えるタイプの子だったなら、ここで終わってしまう。
「と、とりあえず君の言う通りその子に会いに行こうか……了承を得ないと」
「まあそうね……ついてきて」
流石に僕の懸念を理解してくれたのか、終夜は少し考える仕草をしてから踵を返す。
お屋敷の本邸の方に向かうらしい。
どんな子なんだろうかと思いながら、動揺の残る僕は彼女に着いて行った。
「この屋敷、実は結構大きな地下室があるの。凪はいっつもそこに居るわ。放っておくと朝から晩まで地下室に籠っていて……朝ご飯の度に、私が引っ張り出すくらい。だからアンタの同居し始めても、ご飯以外では凪とはまず会わないかもね」
家事とかも殆どしないしね、と終夜は地下室に向かう道すがら、香宮凪の紹介をしてくれる。
元から友達であるという気安さもあってか、紹介内容には配慮と言う物が無かった。
話だけ聞いていると、香宮凪は「鳥籠娘」なんじゃないかとすら考えてしまう。
「……その子、どうして地下室に籠っているんだ?まさか、君が監禁しているとも思えないけど」
「そんなことはしないわよ。単純に、あの子は地下室が好きってだけ。標本のためにね」
「標本?」
「うん。凪も幻葬高校にこの春から通うんだけど……あの子の専攻、『死法学』だから」
そう言いながら、終夜は地下室に繋がるという階段を降り始める。
慌てて追いかけると、すぐに周囲の空気感が変わったのが分かった。
どこかひんやりとした、まるで墓場のような空気────地上にいる間は感じることのなかったそれが、僕と終夜を包む。
「説明するよりも見た方が早いわ……ほら、ここ」
階段を下りた先には大きな扉があり、これが地下室への出入口となっているようだった。
僕に目配せをしてから、終夜は「凪―?入るわよー」と言いつつ扉をバタンと開ける。
途端に、僕は「おお……」と小さな声を漏らした。
半分は感嘆。
もう半分は恐怖で。
仕方がないだろう。
僕がそこで目にしたのは、大量のホルマリン漬けの臓器だったのだから。
脳、肺、心臓、肝臓、腎臓、大腸、子宮、膀胱。
頭蓋骨に大腿骨、腫瘍らしき肉塊に歪な形をした手足。
母体から摘出されたらしい胎児が、まるまる収まっているような瓶もあった。
グロテスクな物が無理な人なら、見た瞬間に卒倒するだろう。
そんな代物を詰め込んだ瓶が、大量の棚を埋め尽くす形で所せましと並べられている。
屋敷の地下室とはつまり、そんな臓器サンプルたちに占有された場所だった。
恐らく、旧時代ならばまず有り得ない光景。
でも僕だって、探偵狂時代の人間だ。
抱いた感想は、この時代らしい物だった。
「まさに、『死法学』の象徴みたいな部屋だな……」
なるほど確かに、香宮凪の専攻はそれらしい。
段々と理解してきた僕は、次第に恐怖を減じて興味を抱くようになった。
────死法学とは、探偵狂時代において発達した概念の一つである。
学と言ってもちゃんとした学問ではなく、平正時代に流行った俗称みたいな物だが、逆に言えば俗に表現される程度にはメジャーな概念だった。
ざっくり解説するなら、法医学と病理学、それに推理を足したような学問となるだろうか。
目の前に死体が現れた時、その死体からどれだけの情報を得られるのか……その情報を元に、どれだけの推理を組み立てることが出来るのか?
それを主眼として活動する探偵たちの専門分野、と言って良い。
旧時代では、これは警察や法医学者の仕事だった。
仮に殺人事件が発生しても、その遺体は粛々と司法解剖され、素人探偵が解剖結果を知る機会など無かった。
しかし探偵狂時代である現在は──司法解剖自体は行われているが──そんな悠長なことはしていられない。
死体を迅速に分析して、違法にならないレベルで犯人に繋がる証拠を掴み、そして時には司法解剖が行われる監察医務院や法医学教室から情報を抜き取ってまで推理を進める探偵。
場合によっては、推理のためだけに医師免許を取得して、自ら解剖を行う探偵。
従来の社会規範では間違いなく問題ある存在だが、同時に必要性に駆られている存在。
そんな探偵たちのことを、「死法学」を専攻とする探偵と呼ぶのである。
所詮はちゃんとした医者でも学者でもないのだが、優秀な探偵となれば、そこらの学者を上回るレベルで死体に詳しい。
彼らに死体を触らせれば、それだけで事件は解決へと向かう。
勿論、そのレベルになるためには、大量の法医学関連の知識を吸収しなくてはならないので、若くして「死法学」を学ぶ人もいると聞いたことはあったが────。
「それにしたって、自分の屋敷の地下室を全部標本で埋めるって……筋金入りだね」
「まあ、それがあの子の専攻だから。私がここに住み始めた時には、既にこの感じだったもの……一応言っておくけど、標本に触らないで。あの子、それを勝手に弄ったりすると本気で怒るから。他人にそれを触られたくないって言って、掃除の人もここに入れないくらいだし」
「触らないって」
正直に言えば、触ろうとする気すら起きなかった。
こういった物を見て失神する程繊細ではないけれど、常に平気と言える程慣れている訳でもない。
僕はホルマリン漬けの瓶や、何かの試薬らしい小瓶の詰まれた棚には決して触らず、静々と意外と綺麗な部屋を進んでいった。
元のお屋敷が広いこともあってか、この地下室も相当に広い。
延々と並ぶ瓶やら本やらの隙間をしばらく歩いて、ようやく行き止まりの壁らしい物が見えてくる。
壁際には、簡素な机も設置されていた。
「あれ、いつもの机にいないわ。いつもなら、ここで本とかを読んでいるんだけど」
「……地下室にいないとか?」
「いえ、あの子に限ってそれはないわ……ちょっと、探してくる」
そう言って、終夜は意外そうな顔をしながら踵を返す。
彼女はするりと棚と棚の間を抜け、同居人を探しに向かった。
──僕も探した方が良いかな?
終夜の「なぎー?」という大声が地下室に響く中、僕はぼんやりと立ち尽くす。
可能なら捜索を手伝いたいのだが、何分初めて来た場所なので、どう動いて良いか分からない。
さてどうしようかと周囲を見渡して────僕は不意に、右手に広がる棚の奥に少し広い空間があることに気が付いた。
「棚が無い場所もあるのか……」
何でだろう、と思いながら僕は足を進める。
完全に好奇心だった。
図書館のように際限なく詰め込まれた棚やら本やらを見てきたので、別の物が見たかったのかもしれない。
本当に何となく、僕はその少し広い空間へ足を進めて。
……次の瞬間、足を凍らせた。
その場所には、確かに棚は無かった。
しかし代わりに、台が置いてあった。
解剖台と思しき、銀色の机風の物が。
そして、その上。
解剖台であれば遺体が載せられるその場所で、一人の少女が仰向けに寝そべっていた。
黒いワンピースを着込んだ、華奢な少女だ。
起伏の乏しい体格とショートカットにまとめた黒髪は、どこか日本人形を思わせる。
手足はかなり細く、それこそ「鳥籠娘」だった晶子さんとどっこいどっこいだった。
加えて言うならば、晶子さんと同様にこの少女も容姿に優れている。
目を瞑っているのと、肌が全体的に青白いので分かりにくいが、細面の美少女だ。
もっと派手な服装をして撮影所にでも行けば、間違いなくモデルと勘違いされるだろう。
しかし解剖台の上にいる現在では、そんな勘違いはされない。
僕は順当に、こう思った。
「死体……?サンプルとして運び込んだ、とか?」
死法学を専攻としているという家主。
大量の臓器標本が並ぶこの地下室。
標本管理のためか、春とは思えない程に低い室温。
それらの要素も相まって、僕は彼女が生きている人間とは思えなかった。
本来なら、いくら死法学専攻の家であろうと、そこに本物の死体が運び込まれることは有り得ない。
それでも、僕はそれを死体と認識した。
不思議と、不気味さは感じない。
不気味に思うには、この死体は美し過ぎた。
仮に「この世で最も美しい死体」なる物が存在するなら、それはきっと目の前にいる彼女のことに違いない。
恐る、恐る。
僕は、そのあまりにも美しい死体に手を伸ばしてしまう。
非常識な振る舞いだったが、一目見た瞬間にそうしたいと思ってしまう「何か」があった。
だがその瞬間。
死体だったはずの彼女は────パチリ、と目を見開いた。
ごく普通に、起床した様子で。
「う……うわっ」
あまりにも急激な変化に、情けない話だが僕は後ずさった。
生きていたのか、じゃあ、もしかしてこの子が?
色んな思考が一瞬で頭の中を駆け巡る。
「あっ、こんなところにいたの、凪?」
怯えている僕を助けたのは、終夜のあっけらかんとした声だった。
彼女のお陰で自分を取り戻した僕は、慌てて後ろを振り返る。
すると、僕の声を聞いて駆けつけたらしい終夜は、呆れたような顔で少女に注意をした。
「また変なところで寝て……凪、寝る時くらいは上に戻りなさいよ。体に悪いし。それにその銀色の机、解剖台っぽくて怖いわよ」
「……そうかしら」
「そうだって。ほら、九城君も怯えてる……」
そこまで言われたところで、少女はむくりと起き上がる。
同時に、青みがかった大きな瞳で僕のことをじっと見た。
今初めて、僕の存在に気が付いたかのように。
「貴方が……終夜が集めていた同居人?」
「あ……えっと……はい、そうです」
「そう……初めまして。私は香宮凪。ここの大家、です」
どうでも良さそうに自己紹介をしながら、香宮はすっと手を差し出す。
死体ではなく、家主だったのか────。
間の抜けた感想を抱きつつ握手をすると、僕の掌にひんやりとした感触が与えられた。
体温が低い体質なのか、握手に温度が無い。
冷凍した生肉でも掴んでいるような感覚だった。
「……九城空と申します。ここの倉庫に住むことを希望していまして」
辛うじて自己紹介をしながらも、僕は相手のことを観察する。
掌の冷たい感触は、そのままに。
屋敷の主である少女、香宮凪。
僕の彼女に対する第一印象は、一言で言い切ることが出来る。
香宮凪は、まるで────死体のような少女だった。