名探偵の後日談
以前、義父さんに聞いたことがある。
かつての日本は、世界でも有数の治安が良い国だったらしい。
重犯罪者の数はかなり少なくて、現れたとしても大抵は警察の手で捕まっていた。
街中で財布を落としても、親切な人が届けてくれることが結構あったくらいで。
大勢の死者を伴う暴動や銃乱射事件が国内で起こるなんて、殆どファンタジーだと思われていたそうだ。
そんなに平和な国だったものだから、殺人事件の件数も凄く少なかった。
驚くべきことに、人生で一度も殺人事件に遭遇しないまま一生を終える人が大多数だったそうなのだ。
多くの日本人にとって、殺人事件というのはドラマや映画や推理小説の中でしか見ないものだったという。
だからと言うべきか。
この時代に発表された推理小説、特に現代日本を舞台にしたものは、しばしば嘲笑の対象となっていたそうだ。
口さがないファンたちの間で、こんな風に言われていた。
「いくら何でも、主人公たちの住む街で殺人事件が起こりすぎだよね~」
「この世界の治安、どうなってんだって感じ」
「そもそも、何で刑事事件を扱う探偵がこんなにいるんだ?」
「何度生まれ変わっても、推理小説の世界にだけは生まれ変わりたくないよね」
「現実的に考えたら、こんなに殺人事件が起こる訳ないし、探偵が事件を解決することだって有り得ないのにねえ……」
これらの感想は──性格の悪い言葉ではあるが──確かに正しい物だと思う。
あの「法壊事件」が起こるまでの日本で、バンバン人が死ぬようなミステリー作品に触れたのなら、こう思うのも仕方が無い。
どう見たって国内は平和そのもので、探偵の活躍するフィクションの世界でのみ何度も殺人事件が起きていたのだから。
その時代の人間にとって、日本が平和で犯罪が少ない国であることは当然のことだった。
常識だった。
彼らが送る「日常」は、探偵なんて要らない場所だった。
だからこそ思うのだ。
果たして、当時からこの国で生きていた人は。
平和で安全だった日本を、知識ではなく体験として知っている人たちは。
黎和十六年を迎えたこの国のことを、どう思っているのだろうかと。
警察の信頼が失墜して、司法関係者を目指す人が激減したこの世界。
国内だけでも毎日数十件もの殺人事件が起こるようになった、黎和時代の日本。
旧時代の推理小説と比較しても、殆ど変わりが無いレベルで悪化した治安。
そして、人々が事件に遭遇した際。
警察を呼ぶのではなく、真っ先に「探偵」に頼るようになったこの世界。
需要に応じるように、探偵の専門学校と学園都市まで作られたこの世界。
昔からのこの国を知る人々は。
世界が壊れる前、本当の安全を知っていた人たちは。
この嘘みたいな現実を、どう受け止めているのだろう────?
「……見えてきたかな、幻葬高校」
ガタン、と一際大きく揺れた電車。
その車窓が一段と明るくなったことを察して、僕は思わず呟いた。
これまで読んでいた本をパタリと閉じて、無意識に荷物を漁る。
幸いにして、僕の勘は当たっていた。
すぐ隣にある窓には、入学試験の際にも見た建物がはっきりと映っている。
昭和が終わり、平正時代となってすぐに建造された探偵養成学校────高校だけでも千名近い生徒を擁するその校舎は、こんなに遠い線路からでもはっきりと確認できた。
首を伸ばして僕がその様子を確認すると、それに合わせて頭上に設置された監視カメラが機械音と共に首を動かす。
視線の先にある駅では、金属探知機のゲートが厳かに控えていた。
──探偵専門の学園都市だけあって、やっぱり出入りだけでも大変なんだな……いやまあ、最近の治安を考えれば仕方がないんだけどさ。
心中でぼやきながら、僕は荷物をまとめ始める。
多少の面倒くささは覚えていたが、過剰だとは欠片も思わなかった。
義父さんから教えてもらっていたから。
全ての始まりは、四十年以上前。
昭和から平正に改元した頃のことだったという。
平正ではなく平「成」にする案もあったらしいが、何かの議論で漢字が変わったらしく────ギリギリまでドタバタしながらも、この国は新時代を迎えていた。
事件が起きたのは、そんな新時代到来とほぼ同じ時期だ。
とある私立探偵が、警察の不祥事を告発したのである。
誰に依頼を受けたのかは知らないが、独自に警察のことを長く調査していた彼は、苦心の果てに警察のスキャンダルを掴んだのだ。
マスコミの前で公表された不祥事の内容は、大雑把に言えば冤罪にまつわる物だった。
実は、既に死刑が執行されたある囚人は犯人では無かった。警察と検察は真犯人を把握していたのだが、真犯人が当時の警察幹部の子どもであったために証拠を握り潰し、口封じのために意図的に早く無実の人間に死刑を執行するよう働きかけた────。
そんな陰謀論染みた凄まじい内容が、全国のお茶の間を駆け巡った。
当然、大騒ぎになった。
テレビのニュースも新聞も、そのことを何日も報道し続けた。
様々なメディアが追加調査した結果、探偵の告発した内容がでっちあげなどではなく真実であるらしいと分かってくると、更に報道は過熱した。
無論、マスコミだけでなく市民にも大きな反応があった。
警察に事態の説明を求める者もいれば、警察を擁護する者もいた。
新時代の到来早々、一つのスキャンダルを切っ掛けに、日本は揺らぎに揺らいでいたのである。
ただし────今までの話と矛盾しているようで、アレだけれど。
この時点ではまだ、警察機構の信頼が崩壊するレベルでは無かったらしい。
大事件ではあったが、警察の体制を揺らがせる程のものだとは思われていなかった。
勿論、社会問題に興味がある人はとても怒っていたし、事件の当事者たちも真剣だった。
しかし、無関係の人たちはそこまで反応しなかった。
ニュースに興味がない人などは、白けた反応をしていたと言う。
ある種、当然のことではある。
いくら旧時代の司法がちゃんと機能していたからと言って、不祥事が一個も無かった訳ではない。
細かい物まで挙げていけば、結構な数があったことだろう。
だから探偵の告発は最初、いつかは収束する話題だと思われていた。
告発されている警察や、その上に控える国のお偉いさんたちも悠然と構えていた。
実態を調べて、責任者を処罰すれば収まるだろうという判断だったらしい。
……しかしその後、彼らはひたすらに慌て続けることになる。
件の探偵が更なる行動に出たのだ。
彼は報道が沈静化する前に、新たなる警察のスキャンダルを告発したのである。
こちらは反社会的勢力との癒着に関わるネタだった。
この間の不祥事だけでなく、警察はこんなこともやらかしていたのだと。
高らかにそう宣言しながら、彼は自らの調査結果をばら撒いた。
更に警察には追撃が加えられる。
彼の二度目の告発を契機に、警察や検察、法務省や裁判所と言った、およそ司法に関わる全ての存在に関するスキャンダルが様々な人から告発され始めたのだ。
探偵の行動に触発された彼らの行動によって、当時の日本を司法関係者の不祥事が駆け回った。
この一連の事件は、後にまとめて「法壊事件」と呼ばれるようになる。
名は体を表すとは言うが、実際にその通りだろう。
この一件は確かに法の効力を壊してしまい、同時に人々から司法への信頼を奪い去ってしまった。
治安維持機構と言うのは基本的に、市民と警察の間を繋ぐ信頼によって成り立っている。
市民は警察のことを、「人間のやることだから多少は不祥事もあるだろうけど、それでも正しく犯罪者を捕まえてくれるはずだ」と信じて。
警察もまた、「自分たちは市民に信頼されているから、彼らを守らないと」と思って職務に励む。
逆に言えば、信頼が壊れた治安維持機構なんてものは極めて脆い。
海外の政情が不安定な国を見れば分かるだろう。
市民に信頼されていない警察機構は、概して酷い有様だ。
不祥事の告発と連発されたスキャンダルを通して、当時の日本はまさしくそんな状態になってしまった。
坂道を転げ落ちるように警察と法は機能しなくなり────日本の治安は悪化していった。
ゾンビ物やポストアポカリプス的な映画で見られるように、一気に治安が最悪になった訳ではない。
モヒカン姿の悪人がヒャッハーと叫んで、街を蹂躙し始めた訳でもない。
もっとじわりと、じっくりと。
実に生々しく日本の治安は悪くなっていった。
殺人事件の件数が増えた。
それまでは一日に一件起きるか否かというレベルだったのが、ひたりひたりと数を増やしていき、やがては旧時代の何十倍もの件数を確認されるようになった。
強盗や脅迫など、殺人よりも規模の小さい事件はもっと増えた。
比喩でもなんでもなく、街中を一週間も出歩けば一回は強盗犯に出くわすレベルである。
置き引きやスリなどに至っては、被害に遭わない人の方が少なくなってしまった。
未解決事件も増えた。
事件の母数が多いのだから必然の事象と言える。
警察への信頼低下により警察官になる人が減ったことで、捜査の質が低下し続けたのも原因の一つだった。
誰もかれもが、犯罪に走った。
誰もかれもが、犯罪に苦しめられた。
そんな時代がずっと続いたものだから、やがて人々はすっかり参ってしまった。
法壊事件から警察は当てにされていないし、それを抜きにしても件数が多すぎて、警察の手が回らないようになってしまっている。
そのことを骨身に染みて分からされた。
だからなのだろう。
いつしか、人々は事件の解決を警察に期待することは無くなった。
自分の身近なところで起きた事件は、自分たちの力で解決しなければならない。
そう考えるようになったのである。
彼らはとある存在を目指すようになった。
警察が信用ならなくなったこの国で、新たに崇められるようになった存在。
警察の不祥事を暴いた、あの「名探偵」のようになりたい────。
「その需要に応じて『名探偵』が作ったのが、あの高校……僕がこれから通う場所、か」
すぐそこにまで迫った学園都市の姿を見つめながら、僕は何となく呟く。
法壊事件に振り回された平正時代が終わり、黎和という新時代──こちらも、「令和」にする案があったらしい。何故か没になったが──を迎えた現在でも、あの学校は稼働し続けている。
僕もまた、あの学校の入学試験に受かったからこうして電車に乗っているのだ。
ただ向かうというだけでボディチェックをされ、何枚もの身分証明書を提出し、財布の中身以外の金属を全て没収される羽目になった。
だけどそれでも、念願の高校進学となれば気分が高揚するのは自然なことだった。
タイミングを合わせて、「次はー……繰咲駅ぃー……お出口は左側ですー……」と間延びしたアナウンスが響く。
ゆっくりと停車する電車。
駅のホームがスローモーションで近づいていく光景を見ながら、いよいよだと思った。
最初に言って置こう。
この物語は、旧時代の推理小説のように学生が地道に身近な謎を解く話じゃない。
カッコイイ探偵たちが、スマートに事件を解決していくような話でもない。
この物語は、もっと狂っている。
舞台は、旧時代よりも遥かに治安が悪化した日本。
他のどんな職業よりも探偵こそが必要とされる、俗に探偵狂時代と呼ばれる時代。
歴史に成功失敗の概念があるのであれば、間違いなく失敗作であろう歴史を歩んでしまった国の出来事。
そして同時に。
探偵が警察よりも幅を利かす狂った世界────その中で、必死に生きようとする人たち。
そんな、賢くも愚かな人たちの物語だ。