なろう系批評批判  

作者: 岡座 道糞

最近のなろう批評は粗雑に過ぎて突っ込み処が多すぎてキリが無い。

  最近のなろう批評というのは、それ以外に芸が無いのか? と白けるだけの嘔吐芸と語彙力もウイットも感じない罵詈雑言の羅列と化している。なろう批評界隈の劣化は凄まじいと言えよう。なろう系をゴミだカスだクソだパクリだと罵倒するのは結構だが、結局のところ”なろう批評”と言うのはそういう作品に寄生して存在している代物に過ぎない。


 なろう批評の面白さとは、ハッキリと言うなら”皆で誰かを小馬鹿にして”優越感を売る事と、批評者のウイットに富んだ言い回しや知識のひけらかしに基づく作品論により”自分ならもっと面白い作品を作れた”という夢を売る事にある。だが皆で誰かを小馬鹿して得る優越感なんてモノはイジメのソレでしかないのだから、根本的には作品論に根差して夢を売らなければならない。それのみが、なろう批評がその批評対象と違うのだと主張出来る唯一なのである。


 しかるに、最近のなろう系が、棚にトロフィーを詰め込む作業そのものに目的を見出すような、そんな無機質化が進んでいるのに対して、なろう批評は過激化が進んでいる。”突っ込み処”とか称して誤字脱字と大差のない粗を卑しく探し回り、また解釈によって粗であるとして鬼の首でも取ったかのように誹謗中傷を垂れ流すのである。その様は異世界人共を現代知識・倫理を盾にマウンティングを繰り返す”なろう系主人公様”のカリカチュアである。盾にしているモノに対する認識がガバガバなのも含めてそのものだ。彼らは何を”売り”にしているのだ? 大食い動画が飯を食う事の代理体験を売ってるように、パワハラ行為の代理体験でも売ってるのだろうか? この手の批評屋と来たら”馬鹿”とかドストレートに侮辱の言葉を連発しているのに「侮辱している訳ではありません」とかマジメに言い出すのだから救いようがない。なろう系に対して”てめェの薄汚い欲望から目を背けている!” と、御指摘に尽力されている人間がそんなのだから本当にお笑いである。

 


 ここから最近のなろう批評の劣化はエグイなと思う事だ。例えば、ある作品の転生者が元自衛官で階級を”中尉”と名乗ったとする。だが、自衛隊の階級制度では中尉は二尉となっているのだ。しかし、コレを鬼をクビでも取ったかのように騒ぐ批評屋たちの感性が理解できない。世の人々は自衛隊員と自衛官の違いも知らないし防衛省職員と自衛隊員の違いも知らない。そんな事は一部のマニアと関係者が知っとりゃ良い事であり、ぶっちゃけ小説書くのに何の関係性も無い。”元軍人”という属性説明以外に価値の無い設定であり、この後、自衛隊が物語に大きく関係する見込みも無い。この作品の主人公は元の世界から物資を入手できるチート能力らしいので、この後”現実の自衛隊”に無い装備を自衛隊経緯で入手するかもしれない。その時、批評屋たちは「自衛隊はこのタイプの銃器を装備していない。作者は馬鹿だ」とか騒ぐんだろうか? 騒ぐんだろうなぁ。


 そもそも、元々の自衛隊の階級の呼称変更自体が心底下らない茶番劇に基づく代物でしかない。仮に海上自衛隊が出てくる作品があり、そこに”自衛隊の駆逐艦”とか書いてあったら批評屋たちはどう反応するのだろう? どうせ、したり顔で「海上自衛隊では駆逐艦を護衛艦と呼んでいる。そんな事も知らない作者は馬鹿だ」と言い出す事だろう。ちなみに、海上自衛隊で運用されている最大の艦船はは”いずも型ヘリコプター搭載護衛艦(・・・)”であり、各国においては軽空母に相当する船である。要するに、自衛隊は軽空母ないしヘリ空母を”駆逐艦”と呼んでいる頭おかしい連中になってしまっているのである。なにせ、護衛艦を英訳すると”destroyer”つまり駆逐艦になるし、実際、艦船の動向を伝える自衛隊広報の英語版ではdestroyerが使われていたのだから。心底バカバカしい。国防軍を警察予備隊やら自衛隊と言い換える事、中尉を二尉と言い換える事、護衛艦とか言う言葉の存在、こんなモノはサヨクに平伏して馬鹿を演じている事の証明でしかない。


 更に言うなら、こんな設定の問題は、作者が「我々の世界とは少し違う世界なんです」と言えばソレだけで終わりの話なのである。実際に作者はそう説明したそうだ。それでこの話は完全に終わりのハズだ。ところが、なろう批評屋と来たら件の転生者が俺は”公務員特別職”でどうたらと言った事をあげつらって矛盾がどうのと言い出したのである。その様は、暗闇の中でお互いを認識出来ずに尻ぶつけ合って転倒を繰り返す無様な忍者コメディを見ているようだった。


 公務員特別職とは、その言葉の響きとは裏腹に、軍人であるなら何の特別性も無い代物である。なにが特別なのかと言われたら、一般の公務員の職務やら罰則やら全てを規定してる”国家公務員法”の外にあるというだけの話。その他の公務員特別職には、内閣総理大臣、国務大臣、知事、議員などなど錚々たる面子が揃っているが、自衛隊員というだけでそれらと同格だと思うだろうか? 単に軍人という特殊過ぎる業務形態の公務員を国家公務員法で監督するのは無理だからソコにいると言うだけの話なのである。要するに「俺は自衛官だぞ!」と滅茶苦茶遠回しに言ってるだけ。


 一体、矛盾とは何なんだろう? 件の転生者が元”自衛官”である事は最初に記され、そして作者は我々の世界の自衛隊と少し違うんですと述べたのだ。自衛隊の名称を変更しないのに階級だけ戻すのはおかしいという事だろうか? 法律なんて、なんでコレが改正されて無いんだ? というのが腐る程あるのだからどう転ぼうと不思議は無い。そもそも、作者が描いた世界において自衛隊の階級制度は帝国軍からそのまま引き継ぎ、二尉だの三佐だの言った珍妙な階級制度そのものが無かったのかもしれない。要するに”何も記されていない”という事実があるだけであり、矛盾など生じようが無いのを批評屋が自分が作者を嘲笑うのに都合が良いからと勝手にねじ込んでいるだけなのである。



 批評屋はなろう作者がモノを調べないとこき下している。しかし批評屋たちも大概モノを調べない。ある架空のリアルタイムストラテジー(以下、RTS)の、ザーグめいた邪悪な昆虫勢力の文明意志に転生したなろう作品がある。その架空のRTSはファンタジーチックなデザインで、出てくる文明は善、中立、悪に分かれ、なんと21文明もあるそうだ。それを聞いた批評屋は「21人も揃わないとゲームが出来ないなんて大変だ~」などと突っ込み処を提示した。


 普通の理解力があれば確認など不要の事と思うが、登場キャラクターが100人のゲームはプレイヤーも100人揃わないとプレイする事が出来ないなどと考えるものだろうか? ちなみに『エイジ オブ エンパイアⅡ』というRTSには全DLCを含めると31文明出てくる。


 次に、件の邪悪文明はテキストに”見かける者全てに襲い掛かる!”とか書かれてあるそうな。これを見た批評屋は「宣戦布告以外の外交コマンドが無い!」と勝手に解釈して考え、主人公が現地人と交流していたら「外交不可勢力なのに外交してる! 矛盾だ!」とか騒いでいた。


 待て待て、な~んにも判ってねェじゃん。RTSに外交なんて概念は無い! 宣戦布告どころか、対戦前に停戦期間を決めない場合は常時戦争状態にあるゲームである。外交と言えるのは、精々が、味方チーム内で物資のやり取りがあるかどうかぐらいである。敵味方は事前に設定するものであり、それを変えるような外交は無い。こう言うと「戦略性薄い」とか思われる人もいるかもしれない。しかし、RTSというゲームは内政・探索・戦争をリアルタイムの同時並行でやるゲームで、操作量の多さが即座にアドバンテージになるのである。つまり凄く忙しい。一般的なターン制のストラテジーゲームのように考える時間は無い。RTSに外交が無いとか言うのはシューティングゲームや格闘ゲームに外交に無いとか言うのと大差が無いのである。


 そういうRTSというゲームの文脈に理解があったら、文明の善・中立・悪だとか文明の残虐性ウンヌンなんて言葉は世界観の説明であり、フレーバーテキストであり、ゲームの機能への影響は無いか限定的であると普通に判ろうものである。それに、ストーリーモードと対戦モードで状況が異なるなんて普通の事だ。大乱闘スマッシュブラザーズで、ゼルダの伝説の主人公リンクとラスボスのガノンドルフが仲良くチームを組んで、ヒロインのゼルダを攻撃したら世界観の破壊だとか矛盾だとか騒ぐんだろうか? 常識的に考えればすぐに判る事を、批評屋は作者を馬鹿にする事を優先して無視する。主人公が現地人と会話しているのを設定矛盾だとか開幕破綻だとか言って、作者に対し好き放題に罵倒の限りを尽くしたその根拠は、批評者の”その方が都合が良いから”という勝手な解釈、ハッキリ言えば妄想なのである。


 というか、この批判は一体何なんだろう? これ迄、レベルだのステータスだの、HP1でも体力満タン状態と何も変わらなかったり、山賊はモンスターで人間じゃないみたいな異世界モノを指してゲーム脳だのと散々批判して来た訳である。ところがだ、ゲームのテキストに”邪悪な昆虫文明です”と書いてあるから、現地人と交渉やら意思疎通なんて出来るはずが無いというのだ。主人公は人間だぞ? おまけに”オーバーロード”と同じように、そのゲーム世界に転生したわけではないのにだ。精々、化け物を従えてる女や化け物に対して警戒を解くの早すぎない? という程度だろう。

 



 異世界物でお馴染みの光景と言えば、クソつよ盗賊団と賊にさらわれるお姫様だろう。批評屋はこの”お約束”が気に喰わないようで、貴族は武装集団だとかコソ泥の装備品がどうのと言った事を盛んに言う。ある批評屋は少しばかり強い盗賊が出てくると「黄巾党の乱かよ」とせせら笑っていたが、三国志を例示する癖に、盗賊の定義がケチなコソ泥に限定されているのはどういう了見なのだろう? 国山賊の張燕をご存じ無いのか? そもそも劉備玄徳自体が民兵団の頭領から出世した人間である。中国史においては、大人数で武装蜂起する連中を『盗賊』と呼んでいる。だから一地方を占拠する”盗賊”とか普通に出て来て王や皇帝を自称するようになる。そういう意味で、黄巾党も普通に盗賊なのだ。中国史のあり様は少し極端かもしれないが、この様な問題は世界に普遍的にある事である。現代の世界においても、イスラム系過激派のISILやボコ・ハラムなどのように、非正規武装集団と犯罪者集団に規模以外の差が見受けられないという事は普通にある。


 そもそも、中世期のような戦勝の報酬が占領地での略奪という時代に、武装集団の正規も不正規もあるか? 要は『盗賊=コソ泥』の定義を勝手に当て嵌めてどうこう言っているのである。自力救済の世界において、生きている人間は全て潜在的なヤクザだ。食うに困った農村は略奪に手を出すし、商人が商売敵を襲撃する事も珍しくない。あっちこっち武装しているが普通なのである。そして、洋の東西を問わず浪人、陣借りと言ったような人種は存在し戦働きで糊口をしのいでいる。彼らは戦場渡り歩き、移動する際の食糧などは略奪に頼っている。中世という時代において、そんな傭兵団は珍しくも無く、そして、政治権力のトップ層にしても『戦時の戦力である傭兵』を無為に殺すのは避けていた。海の世界ではもっと露骨で、戦争が終わる度に海賊が大量発生し、戦争が始めると赦免と共に海賊が消えるというサイクルである。要は、彼らの”犯罪”は積極的に討伐されず黙認された。それがファンタジーに出てくる盗賊たちのオリジンである。


そもそもの話として、なろう批評屋は根本的に勘違いしとりゃせんか? と思う点がココにある。マジメに向き合った場合に、手放しで”素晴らしい”などと褒め称える事が出来る時代など過去・現在・未来においてあり得ようハズも無い。中世期の”下克上”に代表される自由な気風は、不潔と無法が支配する地獄だし、未開拓の世界はひたすらに危険で不便だ。エンジョイ&エキサイティングしているのは極々一部で、総じて、全然自由じゃないし、キラキラしてもいない。そんなのは当たり前の話である。古代ローマは偉大だとか言う連中のどれだけが、あの社会を支えた奴隷制に思いを馳せているのか? 人々は”古代ローマの素晴らしい生活”にこそ興味があるのであり、カスみたいな古代ローマの現実なんて天邪鬼な精神ネジくれ野郎以外は興味を持たないのである。作者はファンタジーというフィクションを書くべきだし、批評屋はそれがフィクションだと理解すべきだ。



 批評屋たちの正しい意見は”飽きた”の三文字でしかないのに、リアルではどうのと、まとめサイト程度知識しか無いのに「なろう作者は歴史を知らない馬鹿」とか言っている。その典型が”賊にさらわれるお姫様”だろう。批評屋の想像する現実世界において、貴族令嬢はガチガチに警備されており賊によって襲われる事は天地神明に誓って絶対にあり得ない、絶対に撃退出来ると言うのだ。


 1774年の4月8日、イギリスの出来事である。第2代ギルフォード伯爵フレデリック・ノースが西ロンドンの外れで強盗に襲われている。アメリカ独立戦争の真っただ中で、この人は時の首相である。止まるのが遅れたせいで発砲されたが適当に金品を渡して無事(?)に済んだそうだ。英語版の出来事集に一行で紹介される木っ端な事件だ。近世ももう少しで終わりって頃のイギリス本国の首都ロンドンの近郊ですらこんな有様である。その他にも伯爵クラスの貴族が襲われまくっている。


 そもそも、少数の賊が王族貴族の警備を出し抜き令嬢を攫ったからなんだと言うのだろうか? だから面白くない? 因果関係が逆なのである。初代ゾイドを見ると良い。たった4人の盗賊によって、巨大帝国の皇太子様が、首都の宮殿で、派手に狼煙を上げた後に、真正面から押し入られて誘拐されている

。馬車を襲ってどうこうしているなろう系盗賊たちが普通過ぎて逆に退屈に感じるだろう。要は、そういう描写があるからツマラナイのではない。見ている人間が面白いと感じないから、面白く感じる気がサラサラ無いからその様な粗探しをしているだけなのである。

 


 盗賊について最後に、盗賊の戦利品を接収する事の是非について論じよう。なろう系では盗賊団の資産を接収する事は広く認められている。当然、それらは賊が窃盗や強奪で蓄えた富である。故に、批評屋は盗品がどうのと言っているのだが、近世においてそんな事を気にしている様子は全く無い。


 キャプテン・キッドと言えば、17世紀の終わりに活動していた海賊であり、歴史上で最も有名な人間のひとりであろう。では、彼がどのような経緯で海賊になったのかはあまり知られていない。彼は元々、私掠船という合法海賊で名を馳せた船乗りであった。当時のカリブ海は海賊が跋扈しており、カリブ海の総督が海賊退治の船長としてイギリス政府に推薦したのである。どういう経緯か不明だが政府は提案を拒否した。しかし、総督はこの事業に意欲的であり幾人のスポンサーを見つけて私掠船を準備した。どうやってか国王からの私掠船委任状も用意した。そこには手配されている海賊の列挙の後に”そのすべての船もろとも拿捕し、船上で発見した若しくは一味が身に着けている商品、金銭その他一切を押収する全権限を付与する”と書かれている。要するに、海賊の戦利品を押収して構わないと書いてあるのだ。というか、私掠船ってそういうもんだし、中世や近世において軍隊は現地調達なしに成立せず、”味方の軍隊”という言葉が空虚な戯言でしかない時代である。給料も職権乱用で捻出しろという事はまかり通っている時代に、別にそう依頼したわけでも無いのに盗品が還ってくると思う方がどうかしている。


 主人公の倫理観? 心底どうでも良い概念だろう。そういう意見は”そうすれば作品が面白くなる”という意図で行われているのだろうか? 「俺は道徳的優位者だぞ」とか言って赤の他人に誹謗中傷の限りを尽くす大義名分を得たとか思って飛び跳ねているようにしか思えない。異世界人が一億死のうが、どれだけ奪われ犯せれようが、そんなもんは現実に生きている人間や会社に対する罵詈雑言との比較対象にすらならない。


 批評屋たちのこの手の主張には”訴求力”がまるで無いのである。エロ本を非道徳と批判するキリスト坊主が、教会内に幼児を監禁して性的虐待を繰り返していたと言うのと大差が無い。そのうえで坊主が「俺が最低の生臭だとしてもエロ本は非道徳だ!」と述べたとして、そこに説得力が生まれるだろうか? ハイハイ、非道徳非道徳ぐらいの感覚だろう。そりゃあ、なろう小説が高潔だとか高尚であるとか言われたら笑うしか無いだろうが、それで終わりの話である。「なろう系は下劣だ!」とか言ったところで、そんな分かり切った事をワザワザ繰り返す必要性が見えてこない。



 なろう系の有り様は矛盾に塗れているが、そこに描かれている事は世の有り様そのものである。批評屋はその矛盾を賢し気に指摘するが、その根本に対しては寧ろ肯定的だ。すなわち、自分が利益享受側にいる事を前提に語られる功利主義、自分が生殺与奪を握っていると思ってる優生思想、そういった利己主義の極みのようなマウンティング至上主義を合理主義だのなんだので括って正当化している。


ハッキリ言って、なろう系に描かれている欲望なんて、お菓子の家を欲しがる程度のカワイイ代物でしかない。その事を批判している批評屋の方が余程におぞましい価値観と欲望を持っているのである。彼らの言う”合理主義”とは完全にナチスや共産党が掲げるソレと同じモノだ。自分が好き放題にやる、自分の気に入らない意見を黙殺する、その方便以外に意味が存在していない。端的に言って、彼らの合理主義はナチスの指導者原理でしかない。安楽死合法化議論の如きおぞましさだ。それ等が垣間見れるいくつかの例を提示しよう。



 女だから追放されましたという、男尊女卑の世界の話がある。その作品の差別描写は、二言目には「女だから」という理由で退けられるとか、試験では「女だから」という理由で密かに減点されているなど手法がガチ目だ。日本におけるこの様な手法での事例というと、東京医科大学の入試における女性差別問題が典型だろう。だが、作品そのものは何時ものなろう系である。


 何時ものなろう系であるが故に、批評屋どもの気色悪い見識が一層際立つ。ある批評屋は「女は気に入らないと言う理由で差別している。なんてバカバカしい差別描写なんだ」などと、差別には論理的な理由があるはずだと、権力者は賢い理由で差別しているハズだなどと現実知らずな事を言うのである。差別の理由付けがバカバカしいとか言う意見は、それこそがバカバカしい認識に過ぎない。現実に、東京医科大学の問題において医師に特有の理由以外には”女だから”的な理由付けは実際にあった事なのだから。


 ”権力者は賢い理由で差別しているハズだ”等という見識には心底呆れ果てる。自称、合理主義者にありがちなのだが、根っからの全体主義者であり、政治的な問題というヤツを全く解さない。全体の利益最大化のみを考えて行動する合理主義のマシーンが権力者になれ、そしてその権力を合理主義の赴くままに行使出来るなどと本気で考えているのである。


 そもそも、差別の論理的正当性とは一体何なのか? 論理的正当性が希薄だからこそ”差別”と呼ばれる訳である。論理的帰結として差別は存在していないと言っているのと変わらない。差別の論理的正当性があるハズだ、などという意見は、イジメられてる奴はイジメられる理由があるハズだと言っているのと変わらない。


 この批評屋に差別と区別の境界にあるグレーな話が可能だとはとても思えない。この批評屋によると、この作品世界には”真の差別”が無いのだという。即ち、ボコ・ハラム辺りの超過激なイスラム原理主義の世界を挙げて、真の差別がある世界では女は試験を受けられない、それに比べて女が試験を受けられる世界はなんてイージーなんだという訳だ。そして「そんな事も知らない作者はなんて馬鹿なんだ~」という訳である。


 ⋯⋯そのクラスの差別で無いと差別だと認識できないのか? というか、それは女が試験を受ける事を”譲歩”と捉えないと出て来ない意見だろ。それとも作品世界が木々に奇妙な果実を大量豊作する超ダークファンタジーでないと満足できないのか? 


 そもそも、この作品の差別側がアホに見えるのは、単にクソ強主人公たちが暴力的に制圧しているのをギャグ的に描写しているからに過ぎない。この批評屋は、主人公を馬鹿だと言っているが、その理由がビックリで、主人公は最初から最強なのだから、作品が始まる前から暴力で理事会を制圧すれば良かったのだというのだ。ま、弱肉強食論者に差別とは何かを問うのは始めから無為な事だったな。


 

 低ステータスだから追放する”追放ブーム”という狂った因習が幅を利かせる、ステータス至上主義の世界の話がある。主人公はスキル鑑定能力に目覚めて、低ステータスで苦渋を舐めているがスゴイスキルを持ってる人間を集めて追放者ギルドを作る。で、なんやかんやで上手く行ってる時に、ステータスを鑑定するシステムを開発した開発者がやって来る。それで、自分のシステムをより完璧にするために協力して欲しいと主張する訳だ。その開発者は主人公と口論し無能者がどうのと言いながら退出する。


 批判屋は、”主人公を、ステータスで評価すべきでないとか人の繋がりがどうの主張するが、スキルと成果で評価しているだけの偽善者”だと提示している。これは論理的な帰結から導き出された結論では無く、最初から決まっていた結論なのだろう。このステータス管理社会について”正しい”と”間違い”を作者や主人公を批判するのに都合が良く使い分けている。


 主人公の元にやって来た開発者を、よりシステムの正確性を高めようと努力する素晴らしい精神性の持ち主なんだとなんだと批評屋は言う。開発者の意見が正論であり、作者は話の都合で開発者の煽り耐性を落としたのだ、みたいな事を言い出す。しかし、背景を少し鑑みただけで、件の開発者がそうとうアレな事を言っていてダメダメな性格である事が判る。


 まず、この人物はステータス鑑定装置の開発者で言わば現状の追放ブームの立役者である。故に、主人公以下、追放者(・・・)ギルドの面々が第一印象に彼に好印象を抱くはずが無い。にも関わらず、この開発者は協力を要請するのに謝罪やら悪印象を払拭する行為をしていない。そればかりか、主人公が装置自体は褒めるものの社会影響について苦言を呈すると、主人公を相手に自分の正しさを捲し立て口論をしてしまっている。彼は主人公に協力を要請しに来たのでは無かったか? 彼は追放ブームを知っている癖に、追放者(・・・)ギルドとかわざわざ名乗っている処に来てこの態度なのである。彼が本当にカスみたいな世界に心を痛めていて、それを変える為に主人公の元に訪れて協力を要請したと言うなら、苦言を呈されたからと口論に及んで、挙句に激高して帰るなんて行為をするものかね? そして恐らく、機嫌が落ち着いたら再び主人公の元に訪れて改めて協力を要請するという事も無く敵対し続けるのだろう。一体何処に正論や素晴らしい精神性があるのだろう?


 口論内容など心底どうでも良い話に過ぎない。結局は、なろう系主人公もSSR人材を求めていて、明らかな無能を入れたりしないとか、スキル鑑定技能(スーパースキル)を持ったから行動しているに過ぎないとか、そんな程度の話であり、それで主人公は偽善者だと結論する訳である。


 そもそも、この作品の主人公はステータスでの区別それ自体にそれほど文句を言っていない。単に追放ブームに文句を言っているのである。そして追放ブームは完全におふざけだ。低ステータスの人間を舐め腐っている以外の何者でも無いのである。それはスキル以前に、追放者が元Aランクに多い事に文句を言い、低ステータスでスキルも無い人間が普通に有能な事に文句を言うなど、批評屋も承知の事実だ。


 その癖して、主人公が”追放ブームに否定的である事”を根拠に主人公がステータスで評価すべきでないと主張している事にしているのである。「のび太の癖に生意気だ」というセリフが聞こえてきそうな感性だ。能力主義という観点で追放ブームや弱者の感情を無視する事を正当化している癖に、主人公を能力主義者だの偽善者だのと批判しているのである。総じて、作者を馬鹿にしたい欲求に従い過ぎてどうかしているとしか思えない。

 

 

 なろう批評屋の”合理主義”に対する感覚は心底気色悪い。例えば、ある作品で転生主人公は無能力者だったからと転生先の王様に「ヨシ、殺してアイテムにするべ」と殺されてしまう。それを見たある批評屋は「合理的ですね」なんて言うのである。大抵の場合、主人公が転生先で盗賊をコロコロすると「なんて非倫理的なんだ」と騒ぐ癖にコレである。端的に人権感覚が無い。嫌いな人間が殺されたならば拍手喝采し、それが悍ましいという感性すら無い。恥じらいも無い。そんな人間が倫理を盾に他者を批判しているのである。倫理に対する冒涜だろう。


 あるいは、主人公に感情移入できないからと、作者が用意した悪役に感情移入しているのか。どちらにせよ、彼らはなろう主人公が嫌いだから、悪の反対は正義ぐらいの感覚で、なろう系主人公に対峙する連中に正義あると思い込んでいるのである。単にアホ共が無茶苦茶やってるだけの世界に「権力者はもっと賢い理由で差別しているはず」とか言い出す。それらは完全に批評屋の妄想であり二次創作に過ぎ無い。しかし、彼ら批評屋は言うのだ「俺の方がオリジナルなんだ!」と。


 その様は、過激な人権団体が作品の連続性や世界観などに構わず、キャストを手前勝手に変更している事と何も変わらない。「黒人でないエルフは差別主義の産物」とかイキリ散らして好き放題に暴れまくる。


 なろう批評屋の意見を聞いていて一番鼻に付くのは”努力”という大層不愉快な言葉である。この言葉が不愉快なのは、自己に使う場合にも他者に使う場合にも、何ら具体性を持たないお気持ち以外に何も無い怠惰な言葉だからだ。「努力します」だの「頑張ります」なんてのは無能の言葉である。そもそも、努力の存在を何によって立証するのか? 成果か? 拘束時間か? 肉体的或いは精神的苦痛? この内で、客観的に評価可能なのは、成果と拘束時間だけである。それすらも評価尺度で大きく変動する。要は、他人の努力について、まともに評価を努力する気など無いだろうと言う話である。


 ある作品で、コンビニのアルバイトしてる主人公がサービス残業をしているのを見て、ある批評屋は「主人公が無能だからサビ残をしているんだ!」とか言い出していたが、もはや書いてある内容と脳内で創り出した空想の区別が付いていないようにしか思えない。担当時間外の便所掃除、品出し、接客がその人の担当の仕事なのか? それを業務時間内で出来ていないから無能? ま、確かに無能だ。時間を支配し操る程度の事も出来ない。この批評屋の感覚からすると、それは人間失格なんだろう。


 ど~考えても、店長辺りに激詰めされてサビ残をやってるだけで、コンビニバイトの闇としか言いようが無い。自発的にやっていると思わされているだけで、精神が壊されてロボットになっているだけである。本当に自発的やらかしているなら店長が止めて指導しろよという話である。作品に書かれているのは主人公がサビ残をしている、それを良き事だと思ってやってる、それだけである。


 この事例において、件の批評屋はサビ残は努力では無いと言っている。そして、この批評屋はなろう系の努力なきイキリが気色悪いとも言っているのだ。まさに、コレが”努力”という言葉の醜悪さの証明だ。誰も努力の意味を考えて使っていないのである。成果を軸に考えるならば、なろう系主人公ほど努力してる連中も居ないだろう。努力し過ぎて異世界をぶっ壊している。では、主人公に艱難辛苦があればイキリが肯定されるのだろうか? でも批評屋がTHEなろう系としている作品にはそういう描写は普通にあるよね。とりあえず、一億年ぐらい精神と時の部屋に入ってみたり、ダンジョンの最深部で僕の腕を食べられてみたり。

 

 単にイキリ描写が不快と言うなら判る。しかし、批判したい病の批評屋はイキリ資格がどうの言い出すのだ。正直、最近の批評屋はなろう主人公に本気で嫉妬してるのでは? としか思えない。主人公が成功する事に強い不快感を感じるそうだ。


”ポーション頼み”で崖上からの奇襲を見た批評屋は、なんで崖上を調べないんだと嘲笑っていた。崖上からの奇襲を喰らって大打撃を受けた戦例が歴史上に一体どれだけあると思ってんだ? 山岳地帯で全ての崖上を調べる? ドローンや戦闘ヘリでも飛んでんのか? それとも主人公たちが伏せているところだけピンポイントで調べるのか? 先行する偵察隊? 崖だぞ。脇笑うべきは火炎ビンと20名そこらで輜重車列を壊滅させれた事であって、奇襲出来た事じゃない。


ホント、批評屋仕草で”ああ言えばこう言う”でしか無いんだよなぁ。

ガンダム論議に出てくる監視塔を装備した戦車って感じだ。