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 奏音の心の中に、小さな思いが宿っていることは確かである。それは卑怯ではないのかという思いだ。9月の一週目。平日である今日、京は学校であるが大学生である奏音は休み期間である。しかし茉奈は3年の夏という立場上、インターンシップへ向かったりと何かと忙しいらしい。その結果、というわけなのか、それを狙ったのか。京都から帰ってくる彼を出向くのは奏音1人となった。

 いくつかの荷物は配送とはいえ、それなりに荷物がある。結局はタクシーを捕まえて天童家へと向かっている。妙に近い英章にドギマギとするのは仕方ないことだろう。

「ありがとう。わざわざ」

「い、いえ。暇してましたから」

「暇か。でも、僕としては嬉しかった。それにやりたいこともあるし」

「やりたいこと?」

 その質問には答えられなかった。またしても何かを勘ぐってしまうが、さすがにもう一度京都へ戻るということはないだろうと思う。その後は、特別意味のある会話をするでもなく、デティールではどうだったとか、そこで知り合った後輩の話とか、とりとめのないものばかり話している。

 タクシーで数分、天童家につく。そこで荷物の運びを少しだけ手伝いながら数度目の自宅訪問。緊張は必ず迫ってくる。

「……あっ、そういえば」

「はい?」

「こうして奏音ちゃんと歩いてて、これからの事を考えてふと思い出したんだけど、そのシュシュって」

「……そうですね。英章さんんからのプレゼントです。ちなみに、このネックレスも」

「クリスマスのだよね。久しぶりにつけているのを見たよ」

「普段は汚れないようにきっちりと、補完してるんですよ。オルゴールも好きですし」

 気に入りすぎて普段つけないパターンである。この桜色のシュシュはまだつけやすいというのもあって時々つけているが。

 今日は英章が帰ってくるということでフル出勤である。

 なるほどと返しながら家へと入る。リビングで待っておいてと言う彼の指示に従う。荷物を置いているのかと思いきやキッチンの方でがさごそと何かをやっているようだ。そう考えていると、匂いが伝わってきた頃に何をしているのかを理解する。驚いて声を上げようとしたところで、英章がやってくる。

「最初の一杯は、奏音ちゃんにって決めていたから」

「これは……ココア、ですよね」

「リンドウのものではない。僕が、飲む人のことを思って作った、センブリのココア。センブリっぽいココアになっているはず」

 それは、この桜色のシュシュをもらったときに、奏音が指摘した部分だ。最初の一杯を自分が飲んでいいのかという葛藤はある。本来飲むべきはセンブリの副店長である華央ではないかとか、そういう想いが存在するのだ。

「どうして、私に?」

「思い出させてくれたのが、奏音ちゃんだったから、かな。もちろん、センブリのメンバーにはまた振る舞うつもり。だけど、一番は奏音ちゃんに」

「……わかりました。いただきます」

 テイスティングするように、ゆっくりとその匂いと、味、舌触りを確認していく。それは、リンドウとは違う、センブリのコーヒーに合った、英章らしいフレーバーとなっていた。

「……とりあえず、問題点を1つ」

「も、問題点?」

「バリスタメンバー、つまり私と華央さんにこの味を完全に伝授しなければならないこと。理由はそうでなければ英章さんがいないときに、ココアをセンブリで提供できないから、ですかね」

「……もう驚かさないでくれよ」

「ごめんなさい。おいしかったです」

 小さく笑う。そして本心からの言葉を漏らす。本当においしかった。色々理屈を回すよりも先に、おいしいという感情が舌から脳髄に駆け巡った。

「でも、確かに伝える必要性はあるか……。完璧なコピーとまでは行かなくても似たような味にまでたどり着く必要性がありそうだね」

「はい、よろしくお願いしますよ――――先生」

「いわれる側に立つと恥ずかしいものだな」

「ふふっ、私をこの世界に巻き込んだのはあなたですから」

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