禁忌の紋章(1)
レオンと結婚してからと言うものの、エミリアは暇を持て余していた。アレクと共に依頼を受けて外に出る日はまだ良かったのだが、そうでない日はとにかく退屈で仕方がない。
暫くの間は懐かしい友人とお茶をしたり、レオンの部屋にあった伝記小説を読んだりしていたのだが……もうそれにも飽きてしまった。かといって、レオンに何か領地の手伝いなどできる事はないかと言ってもみたが何もしなくていいと言われ……
そして、更には子供を身籠った。確かに悪阻がひどく何かできる状況でもないのだが、一日中具合が悪く寝台の上に居るのもそれはそれでしんどい。何か面白い事でもあればいいのにと、そう思いながら過ごしていた。
「奥様、ご気分は如何ですか」
「あんまり良くないわ」
「でも、何か召し上がって頂きませんと……。公爵様からも、少しでもいいから何か食べさせるようにと言われておりますので……」
「わかってるけど、辛いのよ」
侍女が声をかけて暖かいスープを持ってきてくれたようだが、エミリアは顔をしかめる。悪阻さえなければスープの良い匂いは食欲をそそられるのだろうが、今はその匂いが有害でしかない。
まだ使用人達にも妊娠の事は言っていないが、こんな日が数日続いていれば勘の良い者たちは気づいているだろう。先日、レオンにもエドリックから『子供は無事に生まれるから心配するな』と言われたと言う事も聞いた。
兄の予知夢は絶対だから、心配はいらないのだろうが……それでも、今回こそその予知夢は外れるかもしれない。だから、腹が出てきて誰が見ても赤子がいるとわかるような状態になるまでは、極力言いたくないと思っている。
侍女が持ってきたスープをしぶしぶ、少しだけ飲んで。いつ収まるかとも知れない悪阻と戦いながら、エミリアはまた寝台に寝転がった。
エドリックがアレクを連れて領地に行った日の事だ。その日、朝から少し体調が良かったエミリアはある事を思い出しグランマージ家へ向かう。それは、五年前……レオンが旅立つエミリアの背へ刻んだ紋章の事だ。
自分の背に刻まれた紋章は見えない。鏡で見ても、正確には書き写せない。だからレオンがどんな紋章を刻んだのか、エミリアは知らなかった。
旅立って二年目、同じように魔術師の女性と出会った。その時彼女に頼んで、背の紋章を書き写してもらっている。だがその紋章の事はエミリアは知らず、彼女もどんな魔法のものかがわからなかった。
いつか王都に戻ってくることがあれば、どんな魔法なのか調べようと……そう思っていたのを、うっかり忘れていたのだ。当時書き写してもらった、紋章が書かれた紙は大切にしまっていた。
それは、五年前……家を出る前日。レオンはグランマージ家を訪ねてきた。
「エミリア、今夜君が屋敷を抜け出す手引きはするが……一つ、君の背に紋章を刻ませてくれないか」
「紋章? どんな?」
「エドに教えてもらった。君を守るための紋章だ。遠く離れてしまう俺には、これくらいしかできないから」
「私を守るための紋章? 補助魔法の紋章かしら?」
「そんなところだ。お守りだと思ってほしいが、無茶はするなよ」
「わかったわ。ありがとう、レオン」
レオンの事を何も疑うことなく、エミリアは背を出した。レオンは、以前……七年前に刻んだ、炎の魔法を繰り出すための紋章を指でなぞる。それ以来、エミリアは自分自身で胸や腹にもいくつか紋章を刻んできたが、最初の一つはやはり特別なものだ。
その紋章から少し離れた、左側の肩甲骨の少し下のあたりに……レオンは紋章を書いてゆく。レオンが言うのだから、特に気にはしなかった。見えない力で主の加護に守られているような……刻まれたのは、そんな不思議な感覚だけ。
まさか、レオンが……自らの命を賭してエミリアを守る紋章を刻むなど、そんな事思ってもいなかった。
「おじい様の研究室になら、きっと手がかりはあるわよね」
昔は入れてもらえなかった部屋だが、部屋の主は既にこの世を去った。今は父がこの部屋の新しい主だが、父は父で魔術師団の団長を務めており、多忙のため中々戻っては来ないだろう。
魔術師として生きる事は既に父にも認められていたし、祖父の研究室に入ったからと言っても怒られはしないだろう。
「補助魔法はこの辺りかしら……」
本棚に収められた魔導書を取り出して、眺める。筋力を底上げするもの、素早く動けるようになるもの、動体視力を高めるもの……など、補助魔法と言えば人間の能力を上昇させるものである。
その効果は数分程度の一時的なものから、数日間と長時間続くものまで。だがこれらは呪文を詠唱し、魔法を発動させて初めて効果が出るものである。身体に刻んだだけで効果が出るものではなさそうだ。
本当は、エドリックに教えてもらったと言っていたのだから兄に聞けば一番早いだろう。レオンに聞いても教えてくれないだろうから……。だが、エミリアは兄が苦手だ。できる事なら会いたくはない。
だから自身の体調が良かった事もそうだが、兄が確実に不在であるこの日を狙ってきた。エミリアは、本棚の魔導書を片っ端から開いていく。
『禁忌』
そう書かれた本を取ったのは、一番最後だった。まさか禁忌と書かれた魔導書に、エミリアに刻んだ紋章が刻まれているなど……思いもよらない。本当は開く事さえ憚られたと言うのに、他の魔導書のどれにも書いてなかったのだから確かめるしかないだろう。
「これ、似てるんじゃないかしら」
数枚紙を捲ったところに、数年前に自身の背に刻まれた紋章を書き写してもらったものと……ひどく類似した紋章を見つける。少し形の違う部分があるものの、恐らくはこの紋章で間違いはない。
その紙には二種類の紋章が描かれていた。『共鳴魔法』と言って、二つの紋章を組み合わせることでその効果を高める魔法もある事はあるのだが……エミリアはそのまま目を下に向け、この紋章がどのような効果をもたらすものなのかを確認する。
この紋章は二人の人間に刻んで初めて効果のある魔法である事。対となる人間を識別するために、紋章の他に対となる紋様も刻まなくてはいけないらしい。
背の紋章を書き写したものと、この魔導書に書かれているものの違いはこの『対になるための紋様』だろう。
「単独では効果のない紋章……。レオンが私に刻んだ紋章が鍵で、もう一つの紋章が本体? 『鍵となる紋章を持つ者に死が訪れた際本体の魔法が発動し、本体の紋章を持つ者が鍵を持つ者の代わりに死に至る。ただし、鍵の紋章を持つ者の死の状況によっては、蘇生を行う事は出来ない』……何、これ……」
鍵となる紋章を持つ者。つまり、エミリアが死ぬと本体の魔法が発動する。本体の紋章は誰が持っているのか……わからないが、とにかくエミリアが死ねばその紋章を持つ誰かが死ぬと、そう書いてある。
しかも、自分の死の状況によっては蘇生は不可だと……恐らくは首と胴体が離れたり、炎に焼かれ炭のようになってしまったり、どう頑張っても生命活動が続けられないような状況を指すのだろうとは想像できた。
エミリアはレオンが……そしてレオンにこの紋章を教えた兄の事が怖くなる。対を持つ紋章の持ち主は誰かと思ったが、考えるまでもない。エミリアの命に自分の命を懸けるのは、レオンしかいないではないか。
『君を守るための紋章だ。遠く離れてしまう俺には、これくらいしかできないから』
レオンはそう言って、エミリアに紋章を刻んだ。もし、もしもだ……。もしもエミリアが旅のどこかで死んでしまっていたら、レオンは死んで自分は生き返っていたかもしれないという事である。
よく『自分の命に代えても君を守る』なんて言う男がいるが、レオンの場合本当に命を懸けてしまう。そういう男だと、エミリアは知っていた。
勿論、それだけ愛されている事を嬉しくは思う。だが、本当に命を懸けるのはやめて欲しいと……それは切実な願いだ。
エミリアのいない世の中に未練はないと、レオンはそう言うかもしれない。だが、それはエミリアだって同じだ。レオンが居なければ、生きている意味などない。いや、レオンの子を身籠った以上、この子を産んで育てるという責任が自分にはあるとそう思ってはいるが……
「レオン……あなたは本当に馬鹿よ……。それに兄様も、どうしてレオンにこんな紋章の事を教えたの? 許せない……」
レオンへの気持ちよりも、兄への怒りが強い。かといって力で兄に勝てる訳はないし、そもそも魔法も今は使えない。物理的に戦う事ができない以上、兄に謝らせてやると言う意気込みを持つ。
しかし、その前にレオンとはきちんと話しておきたい。流石に仕事中であろう今の時間に王宮まで怒鳴り込むことはエミリアにもできず、家に帰ってくるのを大人しく待つしかないだろう。
『禁忌』と題された魔導書を持ち、エミリアはエクスタード家へ戻る。レオンが仕事を終え戻ってくるまで、ずっとその魔導書と向き合っていた。