飛竜の棲む谷(2)
「最後の一本……」
攻防は、一時間ほど経っても決着がつかぬままだった。飛竜も体力を随分と消耗しているように見えたが、それはエミリアも一緒である。
魔力を回復させるための薬が入った小瓶を腰袋から取って、乱暴に栓を抜いて捨てた。小さな小瓶の中身を飲み干すのはほんの一瞬だが、不思議なもので喉を通した瞬間に魔力が漲るのがわかるのだ。
空になった小瓶が五本目。これが最後の一本だった。今回復した魔力で、どうにか飛竜を倒さなくてはいけない。
飛竜も体力を消耗しており、先ほどから少し離れた……魔法の射程圏内よりも外側の岩場に留まっていた。飛竜は文字通り羽を休めているが、エミリアの体力が回復する前には再び攻撃を仕掛けようとしてくる。
魔力も心許ないが、それよりも体力の方が限界に近い。互いに次にどう動くか……その距離感を見計らっていたが、先に動いたのは飛竜の方だった。
飛竜が再び上空に舞い上がる。一歩遅れて、エミリアも動くが……足元が少しふらついて、体勢を崩してしまった。
それを好機ととらえたのか、飛竜は大きく口を開けた。炎が来る。尻餅をついたせいで、外套で身体を覆いきれない。両手を前に出し、炎をやり過ごすための盾を魔法で作ろうとしたがそれも間に合いそうになかった。
終わったと思った時には、悔しくて瞳が熱くなるのを感じる。そして、次の瞬間……瞳を伏せて零れた涙。頭に思い浮かぶのは……五年前だって十分格好良かったのに、もっとずっと格好良くなっていたレオンの事。
(レオン、私やっぱりあなたの事が大好きよ。昔からずっと、あなたしか見ていなかった。私が死んだら、あなたはどうするの? 誰かと結婚してしまう? それとも、ずっと私を想っていてくれるの?)
レオン本人に伝えられたらどれだけ良かっただろう。好きだと言ったら、喜んでくれただろうかと……僅かな時間に思う。零れた涙が地に落ちた時、あまりにレオンの事を想いすぎたせいか……聞こえるはずのない声が聞こえた。
「エミリア! 無事か!?」
「……レオン? 嘘、どうして……?」
幻ではなかった。炎とエミリアの間に飛び込んできたレオンが、大盾でその炎を防いでくれている。レオンは国王に、城下から出ることを禁じられていると……その話をエミリアも聞いていた。
それに、今日は非番ではないのだ。だから、レオンがこんなところに来るはずはないのに。
「やはり俺がそばにいないと駄目だな。君は昔から危なっかしいから、目を離せない」
「レオン……」
飛竜が再び舞い上がる。息が続く限りの炎を出し切ったのだろう。その上昇を待っていたかのように、後ろから一本の矢が飛んでくる。その矢は飛竜の翼に当たり、飛竜は雄叫びを上げた。
「俺もいるよ、エミリアさん」
「アレク……」
振り返れば、馬上から矢を射ったアレクが得意げな顔で。きっとレオンに、飛竜の翼を狙うように言われていたのだろう。飛竜の身体は固い鱗で覆われていて、天然の鎧だ。ただの矢では鱗を貫くことはできないが、固いとはいえ皮膚である翼なら貫ける。
翼に穴を開けられれば良かったのだが、貫通はしなかったようだ。飛竜の翼には矢が刺さったまま。劣勢を悟ったのかもしれない、飛竜は再び距離をとる。
「二人とも、ありがとう」
「……エミリア、少し休んでいろ。もう立てないんだろう」
「大丈夫よ。……飛竜はきっと、あなたとは相性が悪い相手でしょう? 魔力は大丈夫だから……」
そう、レオンが来てくれたのは良いがレオンの得物は剣。その間合いは狭く、飛竜の懐に飛び込まねば傷一つ付けられない。しかし、懐に飛び込めたとしても天然の鎧は一筋縄では攻略できない。
それに近づけば容赦なく炎を吐くか、噛みついてくるだろう。レオンの父親も、そうやって頭を食いちぎられたのだ。レオン自身も、それはわかっているはずである。
「……わかった」
「任せて、あいつももう随分弱ってる。すぐやっつけちゃうから。アレク、お願いがあるの。少し時間を稼いで」
「どうやって?」
「矢を番えて、あいつに向けておくだけで下手に動いては来ないと思う。飛竜にとっては、翼が傷つくのが一番致命傷だから」
翼に穴が開けば、飛竜は空を飛べなくなる。今は翼に矢が刺さったままなので、飛んで接近もしてくるだろう。だからそれを牽制しようと言う作戦だ。
アレクはエミリアの言う通り、弓に矢を番え構える。キリキリと弦を引き絞りながら、動けばすぐに翼を狙えるように……
「エミリア、何をするつもりだ?」
「レオンはこれ、お願い」
「魔法筆? これは、紋章を刻むための道具じゃないのか」
「そうよ。昨日、おじい様から頂いた紋章を刻んで欲しい。とても強い魔法のようだから、身体に刻むのは正直ちょっと怖かったの。でも、なりふり構っていられる場面じゃない」
「……どこに描けばいい」
「うーん、どうしようか。正直あちこちに紋章を刻んでるから、いい場所がないのよね。紋章同士が近すぎると干渉しちゃうし。レオンに任せるわ」
エミリアはそういいながら、魔導書を広げる……一つの魔法で使う紙はたったの一枚。魔術師はいろいろな魔法を使うために、その紙一枚一枚を綴って一冊の本にしているのだ。
一番最後に付け足したばかりの、祖父から譲り受けた紋章の部分を開きレオンに見せる。レオンは優しく微笑んだ。
「これは、とても美しい紋章だな。君にぴったりだ。エミリア、生きて帰って……そうしたら君に、サークレットを贈ろう」
「わかった。楽しみにしてる」
紋章は隠すもの。それは、その紋章を見ればどんな魔法を扱うのか見る人が見ればわかってしまうから。だから本当は、こんなにも真っ先に人目に付くような場所へ刻むべきではない。
だが、レオンがそこと決めたのであればそこでいい。どうせ、この紋章の事は誰も知らない……見られたって構わない。
レオンはエミリアの前髪に触れ、額を晒す。そこに、そっと口づけて。それから、魔導書を書き写すように……魔法筆を走らせる。
「三度目ともなると、慣れたものね」
「馬鹿言うな、前回はもう五年も前だ。失敗できないと思うと、手が震えるよ」
「心配しなくても大丈夫よ」
「……来る!」
アレクの声が聞こえた、次の瞬間。引き絞った弦が、アレクの手を離れて勢いよく矢が飛んでいく風を切る音が聞こえた。
まだ飛竜とは距離はあるが、アレクはすぐに次の矢を番える。飛竜は矢を上手く避けたようで、かなり近づいていた。もう一発、アレクが矢を放った。
「ギャァァァ」
自分自身を鼓舞するためにあげた雄叫びにも聞こえれば、断末魔にも聞こえる飛竜の声。レオンがまだ紋章を描き終えていないため顔を動かせないが、どうやら追撃の二本目は当たったようだ。
だが、やはり翼を貫通させるまでには至らない。飛竜は捨て身の攻撃に転じる事にしたのか、翼に矢を食らっても勢いを止めることなく突っ込んできた。
大きく口が開く。炎が来ると、すぐに分かった。
「アレク、盾を頼む!」
「くそ、めちゃくちゃ怖い!」
飛竜が炎を吐き出す前に、アレクがレオンの持ってきた盾を持ち二人の前で構える。
怖い。それは偽りのない本音だろう。レオンの盾はエミリアの外套と同じように、魔法で防御力を高めている特殊な物だ。
炎を吸収とまでは行かないが威力はかなり軽減はされるだろうし、盾の裏側……持ち手の部分まで食らった熱が伝わってくる事もない。
それをよく知っているレオンは炎とエミリアの間に割って入ることをためらう事はなかったが、アレクはできる事ならそんな役目を担いたくなかったと思っていたことだろう。
だが、アレクのお陰で炎をやり過ごすことができたと同時に……エミリアの額に紋章が完成した。エミリアの身体に、今まででは考えられない程の魔力が漲ってくる……
「す、すごい……魔力が沸いてきて、溢れる……」
「大丈夫か、エミリア」
「えぇ……。レオン、お願い。もう私、立つのがきつくて……支えてくれるかしら」
「わかった」
レオンが立ち上がり、そしてエミリアに手を差し伸べる。その手を取って立ち上がれば、やはり足が震えるがレオンがしっかりと支えてくれた。
……レオンがいてくれるから、立っていられる。レオンが支えてくれるから、今自分はこうしてこの場にいる……
そのことを噛みしめながら、魔導書を捲る。紋章が描かれた紙の裏面に、その魔法を扱うための『呪文』が記載されていた。
まだ読み上げたことのなかった、その呪文を唱える。一字一句、間違えてはいけない。詠唱を続けるうちに、右手にどんどん光が集まってきた。
「エミリアさん! 次が来る!」
「エミリア」
「……汝、我が命に従い光の矢を降らせん! イクシード・ライトニングアロー!」
右手に集まった、まばゆいばかりの光が……無数の光の矢となり、飛竜に向かって一斉に飛んで行く。飛竜は炎を吐いてその光の矢を打ち消そうとしているようだが、飛竜の思惑通りにはならず炎をすりぬけ……全ての光の矢が飛竜の身体を突き刺した。
鋼のような鱗も貫き、当然翼も光の矢が貫通し無数の穴が開く。こんなにも穴が開けば当然浮力を保つことができなくなり、飛竜は崩れ去るように地に着いた。
それと同時に、エミリアもフッと意識を失う。足元から崩れ去るエミリアをレオンが支え……レオンがエミリアの名前を呼んでいる。意識はないながら、その声だけは聞こえていた気がした。