邂逅と懺悔(4)
エルバート卿と言うのは、エミリアの父親の事だ。レクト王国において貴族の爵位は生前に譲位はできない世襲であり、いくら病床に臥せっているとは言っても現在の伯爵はエミリアの祖父、エルヴィス・グランマージである。
実際のところ伯爵家の政はエミリアが生まれる前から父・エルバートが執り行っており、祖父は魔術の研究に没頭していたのだが。
「エクスタード公。エルバート様は、本日は王宮に勤めておいでです。急ぎ使者を出しますので、戻られるまで先に伯爵様へご挨拶頂ければと……」
「そうだな。……エドリックも、エルバート卿とご一緒か?」
「えぇ、お二人ともすぐに戻られましょう」
「イザベラ様は」
「若奥様も本日は王妃様方とお茶会で王宮へ……お相手が王妃様ですから、エルバート様と共に戻られるのは難しいかもしれませぬな」
エドリックはエミリアの兄で、現在の王国魔術師団の副団長である。稀代の天才で賢者と呼ばれた父・エルバートを凌ぐほどの実力を持つと言われていた。
優秀すぎる兄は、エミリアにとっては妬ましい存在でもある。レオンと兄・エドリックは同い年であり幼馴染で親友でもあるが、エミリアにとっては兄よりもレオンの方が気を遣わないでいられる相手であった。
兄妹仲は、決して悪くはない。ただ、エミリアが勝手に兄と自分とを比べ、自分の方が劣っていると決めつけているから……眩しすぎて、兄の姿を直視したくないのだ。
イザベラはエミリアの母で、名門貴族の家の出身である。貴族社会に思い描く淑女をそのまま具現化したような性格で、エミリアが魔術師として生きている事を一番反対しているであろう。もちろん、娘の事が心配だと言う気持ちもあるだろうが……
今、グランマージの屋敷にいるエミリアの親族は祖父のみという事だ。もちろんこの後皆戻ってくるであろうが、一度に親族全員と顔を合わせる事になるわけではなくエミリアは胸をなでおろす。
レオンが先行し、その後に付いていくように……まずは祖父の寝室を訪ねた。
「グランマージ伯、突然の訪問申し訳ない。体調は如何でしょうか」
「おぉ、エクスタード公。よく来てくださった。こんな格好で申し訳ない」
「いえ、お身体に障りますのでそのままで」
「すまんな。……して、今日は何か御用か」
「……エミリアの事で、参りました」
突然姿を現せば驚くだろうとレオンが言うので、エミリアはまずは部屋の外で待機していた。エミリアが戻ってきたとレオンがそう伝えて、それから部屋に入ると言う段取りになっている。
エミリアには祖父の声しか聞こえないが、既に泣きそうである。そういえば、エミリアは厳しく怖いが優しい祖父が大好きだった。その祖父が、もうそう長くはないのではないかと聞かされている。部屋の前にたどり着く前に使用人たちにも聞いたが、そろそろその時は近いのではないかと……皆そう感じているようだった。
「エミリアか。あの子は今、一体どこで何をしているのか……もうじきこの命も尽きるだろうが、その前にもう一度顔を見たかった。本来ならば今頃は貴公の妻として、子供でも……ゲホッ、ゲホッ」
「伯爵」
「あぁ、すまない。大丈夫だ。して、エミリアの事で何かあったのか」
「……五年前の事を、まずは私から謝罪いたします。エミリアが居なくなったあの日……彼女が屋敷を抜け出す手引きをしたのは私です」
「その事か。……恐らくそうだろうとは思っていた。私も息子もな。だが貴公を責めるつもりはない。貴公はあの子を想っていたからこそ、我儘に付き合ってやっただけの事だろう」
「ご存じでしたか」
「もう一つ、貴公とエミリアが互いに秘密にしているだろう事も知っているぞ」
「は……?」
「あの子が十歳の時、あの子は背に紋章を刻んで魔術師として歩き始めた。その紋章を刻んだのも貴公だろう?」
「……全てお見通しでしたか」
「むしろ、そんな事をするのは貴公以外に誰がいると言うのだ。場所が場所だけに自分では刻めん。使用人達には、エミリアの身体に傷をつけるような事はできん。頼めばやってくれそうなのは貴公くらいじゃ。貴公は昔から、エミリアに甘かったからな」
「エミリアに何か頼まれると、それが嬉しくて……自分のできる事なら、なんでも叶えてやりたくなってしまうのです。それで、今日も」
「うん? 今日も?」
「一緒に来て欲しいと、頼まれました。エミリア、入ってこい」
「おじい様……」
「エミリア」
扉を開ける。もう、涙で視界が歪んでいて……祖父のいる寝台へと急ぎ進めば、エミリアは祖父に抱き着いた。
「おじい様、ごめんなさい。ごめんなさい!」
「あぁ、エミリア。よく戻って来てくれた。怒ってなどいない。お前の活躍は、風の噂に聞いていたぞ。無事でいてくれた、それだけで十分じゃ」
「おじい様……!」
グズグズと、子供のように泣きじゃくる。涙を拭いて、それでちゃんと祖父の姿を確認できた。五年前よりも、ずっと細くなっていて……エミリアを受け止めたその手も震えが止まらないようだった。
祖父と言えば、エミリアが幼い頃は厳しくて怖い人だった。五年前に屋敷を飛び出した事は当然、怒られるとそう思っていたのに……無事でいてくれただけで良かったなんて、そんな事を言う人ではなかったはずだ。
いつからこんなに丸くなったのだろう。この後自らに訪れる、免れる事のできない『死』を悟ったためなのだろうか。
「エミリア、お前に渡したいものがある」
「渡したいもの? なんですか、おじい様」
「まさか生きてお前に渡せるとは思っていなかったが……研究室から例の魔導書を」
「はい、かしこまりました」
そばにいた使用人に祖父がそう言えば、使用人は足早に部屋を出ていく。祖父の研究室はすぐ隣の部屋にあるが、エミリアは入れてはもらえなかった部屋だ。
父や兄をはじめとする祖父の弟子と、使用人達のうち祖父が許可した数名だけが入れる秘密の部屋……エミリアの印象はそんな感じだった。
「おじい様の魔導書を頂いて良いのですか」
「うむ、お前のために用意したものだ」
「私は、魔術師として生きて良いのですか?」
「今更反対する必要もなかろう。確かに、お前の花嫁姿を見ることができなかったのは心残りではあるが」
「エルヴィス様、お持ちしました」
「エミリア、受け取りなさい」
「はい……おじい様、ありがとうございます」
魔導書と言うのは不思議なものだ。一見するとただの紙きれだが、そのたった一枚の紙に強い魔力が宿っている。これも魔法筆を使って文字や紋章が書き込まれているからであるが、強い術を使うには欠かせない物なのである。
本人の持っている魔力を一とした場合、一以下の魔法を扱う分には発動させたい魔法に対応した紋章を持ち、呪文を覚えてさえいれば魔導書は必要としない。
しかし紋章を持って呪文を覚えていたとしても、一よりも大きい魔力を必要とする場合には魔導書がなければ扱う事ができない。
エミリアの場合、家柄のお陰か素養は良く持っている魔力も高い。だが、魔導書から溢れる魔力が……とても強大なものだと言う事を、魔導書に触れた瞬間から感じていた。
「この五年間の間に新たな魔法を開発した。新しい紋章も、その書に描かれている。お前の父にも、兄にも伝えていないお前だけの術だ。その術は力を持たぬ人々を救うために役に立つだろう」
「はい、おじい様。きっと人々のため役立てます」
「予め言っておくが、この魔法は強力だ。『究極魔法』と言っても良いだろう。だが使うときには、お前の魔力を全て使い切ってしまうかもしれない。使い時と使い方を誤るでないぞ」
「わかりました」
魔導書を抱きしめる。まだこの魔法を扱うための紋章を刻んですらいないと言うのに、魔導書から溢れる魔力だけでとても強くなったような気持になる。
一度使うだけで、魔力を使い切ってしまうかもしれない程の強力な魔法。一体どんな術なのか、楽しみでもあるが不安でもある。あとできちんと確認しなければと、そう肝に銘じた。
「失礼します、伯爵様。エルバート様とエドリック様がお戻りになられました」
「そうか」
「エミリア、ここでは伯爵のお身体に障る。場所を変えよう」
「えぇ。……おじい様、また来ます」
一礼し、レオンと共に部屋を出る。執事に先導されながら、父と兄がいるであろう部屋へ向かった。
レオンの話では、家を出たと知った時の父は青ざめていたという事だが……会えばどんな顔をするだろうか。
「ねぇレオン」
「うん?」
「おじい様は怒らなかったけれど、お父様は怒ると思う?」
「いや、そんな事はない。俺もよく王宮で顔を合わせるが、いつも君が今どこで何をしているのかと案じていた」
幼い頃、父の書斎に飾ってあったガラス細工を落として割ってしまった事を思い出す。あの時はこっぴどく叱られたが、怒った後に『ガラスの破片でどこか切ったり、破片が刺さったりしていないか』と、優しく聞いてくれたのもまた父だった。
エミリアの事を常日頃心配していたとレオンは言うが、それはあながち間違いはないだろう。父にとってエミリアは可愛い娘で、その可愛い娘が家を飛び出して心配しない親などいるはずがない。
ただ、エミリアは手紙だけ残し何も言わずに家を飛び出してしまったから……やはりその罪悪感が重く、当たり前に思える事すらも考えられないでいたのだ。
「お嬢様、お父上と兄上様はこちらに」
「ありがとう」
執事が扉を開く。懐かしい顔……父と兄の顔を見て、エミリアの瞳から溢れ出た涙がすっと零れた。