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エミリア・グランマージ

 深緑の森の奥、彼女は一頭の魔物の姿を捉えていた。その魔物は夜中に森を出て集落へ向かっては人々の農作物を荒らし、家畜や住人を襲う事もあって討伐の依頼が出ており、彼女はその依頼を引き受けたのである。

 猪を何倍にもしたような大きな図体だが、尖った牙だけでなく猫科動物のように鋭い爪……皮膚は厚く、固そうに見えたが案外素早く動くらしい。あんな魔物に華奢な彼女が襲われたら、すぐに吹っ飛ばされるか切り裂かれ、あの牙で噛みつかれるのだろうと思えば身震いしてしまうほどだ。


「参ったなぁ、思ったよりも手強そう。魔法、効くかしら……」


 爽やかな青い髪の隙間から、三日月形の耳飾りが揺れる。持っていた魔導書をパラパラと捲りながら、魔物を仕留めるにはどの魔法を使うべきか……思考を巡らせた。

 彼女……名をエミリア。五年ほど前に家を飛び出し、今は冒険者として生計を立てている。今ではそこそこ名前も知られているだろうが、彼女自身現状に満足はしていない。

 大陸中心に位置するレクト王国。そのレクトで生まれ育った彼女は、王宮の魔術師団へ入ることに憧れていた。だが、女と言うだけで王宮師団からは門前払い。

 更には、生まれた時からの婚約者である男と結婚する日が目前に迫っていた。結婚なんてすれば、魔術師として生きる道は望めなくなる……だからエミリアは家をこっそりと抜け出し生家へ別れを告げ、魔術師として己の力を磨いている。

 女と言うだけで師団入りできなかった事への恨みを、その動力にして。


「そりゃあ、私は兄様みたいなすごい魔術師ではないわよ。家名を汚す落ちこぼれって事だって、誰より自分がわかってる。でも、その辺の男よりよっぽど腕は立つんじゃないかしら」


 エミリアは立ち上がり、開いた魔導書を片手に呪文の詠唱を始めた。エミリアが得意としている炎の魔法では、周囲の森林に燃え移る危険がある事とあの厚い皮膚を焼く事は出来なさそうだと……決めた魔法は氷の魔法。

 あの魔物を氷漬けにしてしまえば、その後はもうどうにでもできると……呪文を詠唱し始めれば、右手に青白い光と冷気が集まってくる。大きく腕を上げながら、隠れていた木の陰から飛び出しその青い光を魔物に向け放った!


「アイシクル!」


 不意を突かれた魔物は、声の主を振り返ったと同時に無数の氷に襲われ氷柱の中に閉じ込められる。立ち上がり獲物を襲おうとするその姿は、思わず恐怖を覚えずにはいられない。

 立ち上がったその大きさと言えば、エミリアの身長の三倍くらいにはなるだろう。しかし、氷漬けになってしまえばその迫力もただの絵画のようで、まさか動いて襲ってくるとは考えられない。


「まぁ、こんなものね」


 だが、氷漬けにしただけでは魔物を退治したとは言えない。氷が解ければまた襲ってくる可能性もある……つまり、氷漬けのまま魔物の息の根を止める必要があった。どれだけの間氷漬けにしておけば、低体温で生命活動が停止するのか……ここまで大きい獲物では判断しかねる。

 数日ここに天幕を張って、野営をしながら氷が解けないよう見張っていれば良いだろうか。それではその数日と言うのは、いったい何日なのか……それとも、数時間程度氷漬けのままにしておけばある程度は弱るだろうから、弱ったところで他の魔法で留めを差すべきか。

 エミリアが考えていたほんのその僅かな瞬間、分厚く作ったはずの氷柱がミシミシと音を立てながらヒビを作っていく。

 大きな魔物は、氷から脱出するために動けないながら暴れているのだろう。そしてその動こうとする力と言えば、エミリアが作った氷柱をいとも簡単に壊してしまうほどの恐るべき怪力であった。


「ちょ、嘘でしょ!? この氷、どれだけ厚いと思って……!」


 そもそも、この厚さの氷柱をいとも簡単に作り上げる魔術師がこの大陸に何人いるのか……簡単に見えるが相当な高等技術、この魔物はそれを物理で破ってくる。

 この巨大な魔物に華奢な彼女が襲われたら、すぐに吹っ飛ばされ立ち上がる前にその鋭い爪で切り裂かれ、大きな牙で噛み殺される……

 家を出てからの五年間、色々あった。強い魔物を何頭も倒してきた。命の危機があったことも一度や二度ではない。

 だが、そのたび己の力で生き延びてきたではないか。とっさに出てきた呪文は、彼女の最も得意とする炎の魔法……


「炎の精よ、我に力を……」


 右手に火の玉が集まってくるが、魔物は大きな体に反して素早かった。呪文を唱え終わる前に、エミリアに襲い掛かるーー……!

 さすがに、死を覚悟せざるを得なかった。だが、魔物は大きな咆哮を上げたまま、その爪をエミリアへ振り落とすことはなくのたうち回っているように見えた。何が起こったのかわからないうちに、後方より風を切る音が聞こえた。エミリアの頭上を通り、一本の矢が魔物目掛けて飛んで行く。


「大丈夫ですか!?」

「あなたは……」

「いいから、早くそいつと距離をとって!」


 エミリアよりいくつか年下だろう、羽根つき帽を被り赤い外套を靡かせた青年が次の矢を番えながら言う。彼の言う通り、暴れる魔物を横目に後方へ退避した。


「ギャオゥゥゥ……」


 固そうな皮膚をあの矢で貫けるのかと疑問に思ったが、一本目は魔物の目を貫いていたようだ。そうして二本目、エミリアの上空を抜けた矢は大きく開いた口へ。

 次に放たれた三本目も、その口に吸い込まれるように……見事だと言うよりなかった。


「強力な毒矢を三発も食らったんだ。もう、動けないだろう」


 青年が言うのと同時に、魔物は砕け散った氷の中に身体を沈めていく。訪れる沈黙、静寂。森の中では何もなかったように、ただただ時間が過ぎ去っただけ……


「助けてくれてありがとう。礼を言うわ」

「俺の獲物の前に、たまたまお姉さんが居ただけです。怪我はないですか?」

「えぇ、大丈夫。でも、あなたがいなかったら捕食されてたかも」

「……結果無事で良かった。どうしてこの森に? こいつを倒しに来たんですか?」

「そのつもりだったんだけど、私とは相性の悪すぎる相手だったみたいね。本気で死ぬかと思ったのは初めてよ。あなたも、こいつを?」

「はい。こいつは俺の住んでいる集落を荒らし回っていたんです。俺を育ててくれた爺さんも食われちまったし、集落の家畜も何頭もやられた。仇を打ってやろうと、思って……」


 青年の目が、少し潤んでいる。感無量、と言うやつなのだろう。きっと魔物を見つけるまではとても緊張していて、討ち取ったことで安堵したせいかもしれない。

 エミリアは毒が回って動かなくなった魔物に向かって、ゆっくりと歩みを進める。固い皮膚の下で動いていた心臓はもう止まっているようで、その身体がピクリとも動くことはなかった。

 鋭い牙に触れながら……左手で、腰袋の中に入っている短刀に手を伸ばす。この牙を持ち帰ることが、魔物を討伐した証となるのだ。


「こいつ、結構な懸賞金がかけられていたの。この牙を持って帰れば、お金がもらえるわよ」

「持って帰るって、どこに?」

「ギルド。冒険者が集まるところ。私はギルドからの依頼で来ているの」

「冒険者……」

「ギルドも冒険者も知らない?」


 エミリアには相当な衝撃だった。確かにここはレクト王国直轄領からは外れ、東のゼグウス王国との狭間の辺境地。ギルドは大陸中あちこちにあるが、確かに大きな町にしかない。

 彼のような、言い方は悪いが田舎者には縁はなく知らなくても仕方がないが……


「いや、冒険者の事は知っています。昔、集落が山賊に襲われた時に彼らに助けられた」

「そうなのね。……こいつを仕留めたのはあなたなんだから、報酬はあなたがもらうべきよ。いらないって言うなら私がもらうけれど……どうする?」

「俺は金のためにこいつを殺りたかったわけじゃない。じいちゃん達の仇を討ちたくて……」

「じゃ、私がもらっちゃうわよ」

「でも……でも、その、冒険者とか、ギルド? とかには興味があるっていうか。俺、王都とかにも行ってみたいし」


 いまいち煮え切らない言い方だったが……彼はこの田舎を出たいのだろうと直感で思った。別に、集落を出て冒険者になりたいのならなればいい。しかし、この五年間冒険者として生きてきて、そんな簡単に決断すべきことではないとエミリアはよくわかっていた。

 それに、彼はまだ若い。住む場所があるのなら、わざわざ旅に出る必要もない……


「……王都、ねぇ……。一緒に王都のギルドに行ってみる?」

「いいんですか?」

「えぇ、旅は道連れとも言うしね」


 だが彼を誘ったのは、選択するのは彼自身だからだ。冒険者になんてなるもんじゃないと言って、集落に留まる彼の今後の人生に責任は取れない。

 あの時女冒険者に止められたから冒険者にはなれなかったなんて言われたって困る。冒険者になったら後悔するかもしれないが、それはそれで彼が選ぶ道だ。エミリアは冒険者になれとも、なるなとも言う事はしない。


「私、エミリア。あなた、名前は?」

「俺は、アレックス……みんなはアレクって呼びます」

「じゃあ、アレク。ギルドまでよろしくね」


 エミリアはアレクに向かって右手を差し出す。アレクも、その差し出された手にやや戸惑っていたものの、エミリアの手をしっかりと握った。


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