林城静は走れない
「ぜえ…………はあ…………! も、もうダメぇ…………!」
糸が切れた人形のように、静がコンクリート舗装の地面に倒れ込む。そのままごろんと寝返りを打って仰向けになると、酸素不足で顔を真っ赤にした静は激しく胸を上下させて呼吸を繰り返した。汗でしっとりと濡れた薄着の女性が呼吸を繰り返すその様は、いくら慎ましやかな胸部を持つ静といえどつい見てしまう魅力があった。これがひよりんや真冬ちゃんだったら俺は朝から悶々とした気持ちになっていたに違いない。
「みんなぁ……はあ……はあ…………わたしはおいて…………さきにいってぇ…………!」
セリフだけならまるでパニックホラー系の映画に出てくる自己犠牲系ヒロインのようで、つい「お前を置いて行けるかよ!」と駆け寄ってしまいそうになるものの、現実は三分間ジョギングしてぶっ倒れただけなので全く心には響かない。
真冬ちゃんは「あなた正気?」とでも言いたげな冷めた視線を送り、ひよりんですら「あはは……」と困った様子で笑っている。まだ後ろを振り返ればスタート地点のマンションが見える位置での出来事だった。
…………静が運動不足なのは分かっていたが、まさかここまでとは。生まれたての子鹿ですらもう少し走れると思うぞ。
「置いていけ、ったってなあ…………」
こいつが回復までどれだけの時間を要するのかは分からないが、歩道の真ん中で大の字になっている静はハッキリ言ってめちゃくちゃ通行の邪魔になっていて、このまま置いていくと近隣の住民の迷惑になってしまうことは間違いなかった。さらに言えば、このまま寝てしまうんじゃないかという不安すら頭をよぎる。流石にないとは思うが、こいつのぐうたら加減は何度も俺の予想を超えてきた。
…………と、いう訳で。
「流石に置いてはいけないって。静、回復までどれくらいかかりそうなんだ?」
「か、かいふく…………?」
静は薄っすらと目を開け、辛うじて俺に視線を合わせる。もしこれが演技なら今すぐ女優になれるレベルなんだが、残念なことにこいつは本当に五分でぶっ倒れている。
「ちょっと……むりかも…………つかいはたした……」
「マジかよ…………」
いくら何でも貧弱過ぎるだろ。普段あれだけ吸収している栄養は一体どこへ消えているんだか。
「そーまくん…………さいごに、おねがいがあるんだ……!」
どうやらふざける余裕はあるらしく、静は震える腕をゆっくりと俺に伸ばしてきた。恋愛映画なら手を取って愛を誓い合う感動のシーンだろうが、いかんせん歩道の真ん中ではムードも何もない。観客(真冬ちゃんとひよりん)は冷めきった様子で俺たちを眺めている。演者と観客の間にはかなりの温度差が生じていた。
「お願い?」
「うん…………おぶってくれえ…………」
◆
「うひょ〜、快適だぜ〜!」
脳天の辺りからお気楽な声が聞こえてくる。さっきまで死にそうになっていたのに、静は俺におぶられるや否やすぐに元気を取り戻した。とんだ演技派女優がいたもんだな。
「騒ぐ元気があるなら自分で歩け」
「はあ……はあ…………うう、しぬ…………」
背中の上で大げさに呻く静。その度に胸(と思しき場所)やら太ももやらが押し付けられ、俺は心を無にして空を見上げた。薄紫の空にはかすかに星が輝いていて、俺の汚い心を洗い流してくれるようだった。
「お兄ちゃん…………それ、走れるの?」
俺が光り輝く星々に思いを馳せていると、地上では真冬ちゃんがじっとりとした目つきで俺を睨んでいた。
「無理だな。両手塞がってるし」
俺の両手は、静の太ももをがっちりとホールドしている。丁度手首の辺りに、薄っすらと汗で湿った肌がぴとっと張り付いていて、変に意識してしまった俺は再び空に視線を戻した。薄紫の空にはかすかに星が輝いていて、俺の汚い心を洗い流してくれるようだったが、実際には洗い流していないのかもしれない。
「それじゃあジョギングにならないじゃない。静は捨てていった方がいいんじゃないかしら」
「酷っ!? 私を足手まといみたいに!」
真冬ちゃんは迷惑そうな視線を隠そうともせず、思い切り俺の背中にぶつける。静も売り言葉に買い言葉で応戦するが、この組み合わせで静が勝った所を俺は見たことがない。とりあえず俺の背中で喧嘩するのは止めて欲しいな。
「文字通り足手まといじゃない。お兄ちゃんの手足に纏わりついているのは一体どこの誰?」
「ぐっぬぬぬ…………蒼馬くん! この生意気な女やっちゃって!」
ビシッ!
と、視界の端から静の腕が伸びてきた。その指先は威勢よく真冬ちゃんに向けられている。
「無理だ。手足が塞がっているからな。そもそも今回は完全に真冬ちゃんが正しい」
現状、生意気な女の称号は静にこそ相応しい。どうしてコイツはへばっておぶって貰っている立場で、真冬ちゃんと喧嘩し俺に命令をしているんだろうか。
「嘘でしょ!? 裏切ったの!?」
「裏切ったも何も、そもそも静の味方になった覚えはないぞ。動けないというからおんぶしてやってるだけだ」
「ま、まあまあ。それなら今日はウォーキングでいいんじゃないかしら? それなら蒼馬くんも大丈夫でしょう?」
静を助けるようにひよりんが割って入ってくる。口喧嘩で劣勢になった静がひよりんに助けられるこの流れは、蒼馬会ではすっかりお馴染みとなっていた。静は一度ひよりんにちゃんとお礼をするべきじゃないか。
「そうしますか。真冬ちゃんもそれでいい?」
「…………お兄ちゃんがそう言うなら、私は構わないけれど」
「よーし、じゃあ出発シンコー!」
静の能天気な声が早朝の街に響く。まだ夜の余韻を多分に残した湿った空気はウォーキングするにはとても心地よく、歩く度に身体の毒素が抜けていくような爽快感があった。ひよりんや真冬ちゃんも初夏では中々味わえないひんやりとした空気を肌で味わっているのか口を開くことはなく、俺たちは暫くの間無言で歩き続けていた。
「…………」
そんな中、俺はずっと「コイツはいつになったら降りるんだ?」と考えていた。余りにも反応がないのでそっと様子を確認してみると…………気が付けば静は眠っていた。
コイツは一体何しに来たんだよ。