偶然()の出会い
「ぬぎぎぎぎ…………」
「落ち着きなさい静、ここで出ていっては事を仕損じるわ」
思わず飛び出しそうになった私の肩を、真冬の細い指が掴んだ。意外に強い力で物陰に引きずり込まれ視界から二人が消失する。
「大きな魚を釣り上げる為には、まずは泳がせるの。そうして疲れた所を一気に釣り上げる。そうでなければ糸を食いちぎられてしまうわ」
真冬は意外にも青臭そうな例えで私を諭してくる。話しかけながらも視線は私に向けられておらず、棚越しにしっかりと二人の背中を捉えていた。
「魚……? 真冬、アンタ釣りするの?」
「いえ、ミーチューブで見たわ」
「エアプかよ」
「エアプで結構。とにかく落ち着きなさい静、ここは人目が多すぎるわ」
ドラマのセリフみたいなことを言いながら、真冬は会計を終えた二人の背中を見送っている。人目が多すぎるって…………一体何をするつもりなの?
隣に立つ未成年の女子が何だか凄腕のヒットマンに思えて震えていると、途切れ途切れに蒼馬くんとひよりんの話し声が耳に届いた。
「…………彼氏…………ことですか……!?」
「あはは…………思わず…………ちゃって…………ヤだったよね…………?」
「…………んなことは……! でも…………迷惑…………」
断片的でよく分からないけど…………とにかく盛り上がっているみたいだった。蒼馬くんが慌てた様子で手を振っている。ノーセンキュー、みたいなポーズ。何かを断ってるんだろうか。
…………何をわたわたしてるのさ、『推し』は私だって言うのに────。
「────痛ーーーッ!!!??」
思わず膨れた私は、針を突き刺されたような痛みを肩に受け口に溜めていた息を思い切り吐き出した。慌てて痛みの震源地を確認すると、真冬の細い指がぷるぷる震えながら私の肩にめり込んでいた。
わあ、人の指ってこんなにめり込むんだ。
…………じゃなくて!
一体何を聞いたらそんなことになるの!?
「痛い痛い! 真冬離して!」
「…………私のお兄ちゃんを誑かすケダモノ…………」
「だああああもう全然聞いてないし!」
真冬はまるで悪霊のように生気を失った顔をしていた。あらゆる感情が抜け落ちたような表情の中で、瞳だけが刃物のような鋭さを保っている。世が世なら銃刀法違反で逮捕されそうなその視線は、どうやらひよりんに向けられているみたいだった。何故って「はせくらひより…………」って口から漏れてるから。
…………いやいや怖すぎるって。
私は何とか真冬の手を引きはがすと、前進しようとする真冬の肩を必死に引き留めた。ずるずると引きずられながらも、何とか真冬を止める事に成功する。今の真冬を野に放ったら、きっと大変な事になっちゃう気がするんだよ。この世界を救えるのはきっと私しかいない。
◆
…………分からん。
ひよりんのことが、一切分からん。
いきなり手を繋いでくるし、お揃いの服を着ようとするし、俺の事を彼氏だと紹介するし。
…………これもう絶対俺の事好きじゃん。俺とひよりん、両想いじゃん。
なんて冗談はさておくとして。流石にそこまで自惚れてはいない。
今までずっと酔ったひよりんは心臓に悪いと思っていたけど、シラフのひよりんの方がずっと心臓に悪いということが今回のデートで分かってしまった。
酔っていても心臓に悪いし、酔っていなくても心臓に悪い。つまりひよりんはいつでも心臓に悪い。『推し』なんだから当然なのかもしれないが、『推し』と一緒に日常生活を送っている俺としては心臓の負担が気になる所だった。
そんな事を考えていたら、いつの間にか空は夕暮れに染まっていた。ランニングウェアを買った後も色々回った気がするけど、極度の緊張とひよりんの行動の意図を考えていたせいであまり記憶にない。ただ、帰りの電車の中でやたらと人目が気になったのだけは覚えている。有名人と一緒に外出するのがこんなにも気を遣うことだったとは。
そんなこんなで最寄駅から出た俺たちは、赤く染まる空の下、マンションまでの道のりを歩いていた。
────そんな時。
「あ」
丁度駅前広場から大通りに折れるあたりで、ひよりんが不意に足を止めた。視線の先を辿ってみると、すぐ傍の店先に祝いの花輪が飾られているのに気が付く。
赤い文字で描かれた『祝御開店』の文字と、店内から漏れる賑わいの声。
「あそこ、工事してるなと思ってたんですけどお店になったんですね」
「そうねえ。一体何屋さんなのかしら」
どちらからともなく近付いてみると、どうやら出来たのはチェーンの居酒屋のようだった。真新しい店内は沢山の客で賑わっていて、皺一つない新品のシャツを着た店員がジョッキを両手に持って忙しそうに動き回っていた。
「居酒屋ですか。この場所に出来たのは結構便利かもですね」
充分駅前と言える立地だし、この辺りには居酒屋は少ないからな。いずれ利用することがあるかもしれない。
「うん……そうね…………」
てっきりひよりんの方が喜んでいるかと思っていたんだが、ひよりんの顔色は意外にも暗かった。羨ましそうに店の中に視線を注いでいる。
その理由を想像しようとして…………すぐに思い当たる。
頭より先に、口が動いていた。
「…………ひよりんさん。折角だし少し飲んで行きませんか?」
「え、でも私────」
「大丈夫ですから。ほら、行きましょう」
「あっ……!」
俺は空いている方の手でひよりんの手を掴むと、暖簾をくぐり店に入った。ひよりんは困った様子だったけど、俺の手を振り解きはしなかった。
『私、外では飲まないようにしているの……迷惑かけちゃうから…………』
以前、ひよりんがそう言っていたのを思い出す。あの時の自虐めいた表情を見れば、ひよりんが本当はどう思っているかなんて火を見るよりも明らかだった。
「いらっしゃいませー、何名様ですか?」
俺達に気が付いて、店員がお盆を脇に抱えながらやってくる。
「2名────」
「4人です!」
「は…………?」
聞きなれた声に振り返ると────
「偶然だね、お兄ちゃん?」
────そこには何故か静と真冬ちゃんが立っているのだった。