本名ケイスケと本名みやび
都内某所。
くすんだ橙色に塗り固められた、新しくも古くもない13階建てのマンションに、とある兄妹が住んでいる。表札には「本名」の2文字。
大学に通う為、元々は兄の方だけが親元を離れ都内でひとり暮らしをしていたのだが、妹の方まで高校卒業を機に都内で暮らしたいと言い始めた。
兄・ケイスケはそれを両親から電話で聞かされていたが、はっきり言ってどうでもよかった。ケイスケの頭の中は大学生活やバイト、それから何より大切な合コンで埋め尽くされていて、もう2年は会っていない妹の事などニュースでたまに聞く「南極の氷が溶けてヤバい」くらいの重要度でしかなかった。敢えて言葉にするなら「他人事」と言ったところか。
どうやら妹を説得して欲しいらしい母親には申し訳ないが「好きにさせれば?」としか思えない。俺だって一人暮らししてるんだから妹にも当然その権利はあるだろうとも思ったが、口に出す事すらしなかった。適当に相槌を打ち、ケイスケはスマホをポケットに閉まった。
大きなスーツケースを抱えた妹・みやびが訪ねて来たのはその翌日の事だった。
◆
「家賃は私が払うっすから居候させて欲しいんすよ。デカい所に引っ越したいっす」
2年振りに会った妹は、部屋に入るなりそう言った。思春期の2年は人を大きく変えるはずだが、記憶の中の妹とあまり違いは見られない。変わったところと言えば髪が所々オレンジに染まっていることくらいか。ライブハウスに出入りでもしていそうな、パンク系のメッシュだ。
「どういう事だよ」
状況が理解出来ず、ケイスケは若干苛立ちながら声をあげた。朝から予期せぬ来訪者の対応をさせられては機嫌も悪くなる。
「兄貴とふたり暮らしなら、って条件で上京を許されたんすよ。今のとこ兄貴に拒否権はないっす」
「なんで拒否権無いんだよ」
話を聞けば、あの電話の後どうやらみやびは相当な大立ち回りをし、頑として娘の上京を認めない両親から「兄と同居なら許す」という譲歩を引き出したらしい。みやびはそれを聞くとその日の晩の内に嬉嬉として荷物をまとめ、朝イチの特急で兄のマンションを尋ねた。終わり。
みやびの話は短かった。ケイスケは大きくため息をついた。ちっとも成長していない妹の無鉄砲さに呆れるしかなかったのだ。
「…………それで、お前が家賃払うって? 一体どうやって?」
妹が大学に進学しなかった事くらいは知っている。時間はあるんだろう。東京なら若い女性がそれなりのお金を稼ぐ事自体は割と簡単だ。手段を選ばなければ、という注釈は必要だが。しかし、もし妹がそういう方法を口にしたら、その瞬間家から叩き出そうとケイスケは決めていた。
…………みやびが口にしたのはケイスケの思いもよらぬ言葉だった。
「私、実は金持ちなんすよ。ネットで色々やってて結構稼いでるっす。だから家賃くらい余裕で払えるっすよ?」
「え、マジか」
こうしてケイスケとみやびはふたり暮らしをすることになった。
◆
「あーーーーもう! どうして観てくれないッすかバカ兄貴!」
みやびはスマホをケイスケに突きつけ、八重歯を剥き出しにする。画面に映っているのは最近バーチャリアルからデビューした男性VTuber「大人こども」の配信画面。みやびにはバーチャリアル所属の人気VTuber「ゼリア」というもう一つの顔があり、自分がデビューさせたようなものである「大人こども」を兄に布教しようと必死だった。
「あぁ? どうしてって…………大学でVTuber詳しい奴に聞いたら、別に観なくていいっつってたんだよ。面白くなかったって」
ケイスケも、まさかその「VTuber詳しい奴」が妹がしきりに観せようとしてくる「大人こども」本人だとは夢にも思わない。妹の言う事を聞いて一度でも配信を観てみれば、親しい彼ならそれが天童蒼馬だと気付くのだが。
「誰っすかそいつ! 許せないっす!」
「なんでそんな必死なんだよ…………」
ケイスケは妹がVTuberをやっていることを知らない。彼らは同じ家に住んではいるものの基本的には不干渉を貫いていた。妹については何か自分の詳しくないジャンルで稼いでいるらしい、という認識しかなかった。
「もういいっす! こんなバカ兄貴と一緒になんて暮らせないっす! 家出するっすから!」
「おう、出てけ出てけ」
ケイスケは手をひらひらと踊らせて、烈火の如く怒っているみやびに目もくれない。みやびの外泊は特に珍しい事ではなく、彼女の家出は既に今月3回目だった。ゼリアの突発オフコラボは兄と喧嘩した時に起こりがちだ。
みやびはスマホひとつ持ってマンションを飛び出した。脳裏に浮かんだのは「アンリエッタ」や「大人こども」、声優の「八住ひより」が住むとある高級マンションだった。
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