真冬ちゃん大勝利
俺と真冬ちゃんが通っている国立大学は、駅から出て歓楽街から遠ざかる方向に10分ほど歩いた所にある。
背の高いビルが姿を潜め代わりに緑が増え始める通学路は普段は人通りも少ないが、一限前となれば話は別だ。
決して広くない大学沿いの道は一限からちゃんと講義を入れている者、あるいは運悪く必修が一限になってしまった者たちでごった返していた。朝の風物詩みたいなものだ。
そんな中を真冬ちゃんとふたりで歩く。
「ふわぁ…………ねっっむ…………」
梅雨時期の朝はもわっとした空気が世界を包んでいて、思ったより大きなあくびが口から漏れた。
「珍しいね、蒼馬くんがあくびなんて。寝たの遅かったの?」
隣を歩いている大学モードの真冬ちゃんが俺の顔を覗き込むように首を捻る。
今日の真冬ちゃんは白いブラウスにグレーのストレートテーラードパンツという脚の長い人のみ許されたファッションで、そんなんで身体を捻るもんだから視界の端で胸が強調されている。俺は努めて前方の景色に集中した。
「いや、寝た時間はいつもと一緒のはずなんだよなあ」
ベッドに入ってからミーチューブを見てしまうので正確にいつ寝た、というのは分からないが、そう夜更かしした自覚はない。特別な事情がない限り6時間以上は睡眠を摂るように意識している。
…………というか、眠い理由ははっきりしている。
睡眠の質が落ちたのは間違いなく真冬ちゃんが添い寝してたせいだ。
未就学児と同等の羞恥心しか持ち合わせていない真冬ちゃんのことだから、きっと寝てる俺に色々悪戯したに違いない。
それを言ってやろうと思ったが…………止めた。
何故なら俺たちはバチバチに注目されている。
追い抜きざまに顔を一瞥されたり、車道を挟んだ向かいを歩いている人から指さされたり、近場からはひそひそ話が聞こえてくる。
「釣り合ってないよね」だあ?
うっせえほっとけ。そもそも付き合ってねえよ。
「…………」
真冬ちゃんの気持ちが少し分かった気がするな。知らない奴らにひそひそされたり、居ない所で話題にされるのは結構居心地が悪かった。
大学に来てからのこの数か月、今の何十倍もの視線をひとりで受け止めていたというんだから真冬ちゃんのストレスは計り知れないだろう。
真冬ちゃんは大丈夫かな、と横目で確認してみたところ、真冬ちゃんはいつもの真顔ではあるものの、僅かに口角が上がっている気がした。
…………なんで?
一周回って噂されるのが快感になってしまったんだろうか。
真冬ちゃんの羞恥心は未就学児レベルなんかじゃなく、一般の人を遥かに通り越して玄人の域に達しているとでもいうのか。時代の犠牲者がまたひとり。
「…………蒼馬くん、行こ」
真冬ちゃんがスピードを上げ、まったり歩きから早歩きくらいにまで加速する。
「ちょっ」
と待ってよ、と続けようとして言葉が途切れた。
いつの間にか真冬ちゃんは俺の手をしっかりと握っており────よりにもよって恋人繋ぎだ────俺は引っ張られるように群衆の合間を追い抜いていく。
「工学部の撃墜王だ」
「うーわ、彼氏出来たってマジだったのかよ。つか彼氏誰あれ」
「俺も手繋ぎてえ…………つかエロいなー尻」
「いや胸だろ胸。一万払うから触らせてくんねえかなあ」
「あれが夜な夜な好きにされてんのかと思うとまーじでショックだわ」
…………ひそひそ話がさっきの5倍聞こえてくる。
「…………なんだアイツら」
噂してるのは、きっと真冬ちゃんと話したことすらない無関係の人たちなんだろう。そんな奴らが真冬ちゃんの事を下品な言葉で好き勝手言っている。
その事が…………とても腹が立った。
「真冬ちゃん、ちょっと」
「え?」
俺は真冬ちゃんの手を振り解くと、丁度追い抜いたばかりの男三人組の元へ引き返した。
色んな奴らが噂していたが、こいつらが一番酷かった。わざと真冬ちゃんに聞こえるように下ネタ言ってたしな。
「ちょっといい」
「ん?」「俺らっスか?」「はあ」
三人組は恐らく一年生だ、何となく雰囲気で分かる。
大学に入ればどんな奴もそれなりに砕けてくしゃくしゃになる。小学6年生のランドセルが無数の傷で埋め尽くされているように。だけどこいつらはまだ立ち居振る舞いがピッカピカだ。小学一年生のランドセルを彷彿とさせる。
俺は真ん中のリーダーっぽい奴に思い切りガンくれてやった。プリンみたいな頭しやがって。入学直後に金髪にして放置してんじゃねえよ。2週間毎に染め直せバカ野郎。
「あんさ、俺の彼女にヘンな事言うのやめてくんない」
「えっ? や、別に何も言ってないスけど」
プリン頭ははじめは困惑したものの、知り合いと一緒にいる手前オラつくしかないんだろう。
不自然に語尾を下げて精いっぱい不機嫌なアピールをしているみたいだ。
全く下らない。
「そういうのいいから。別に喧嘩売ってる訳じゃなくてさ、真冬ちゃんに聞こえるように下ネタ言うの止めろっつってんの。分かったのか分からないのかだけ答えろよ」
喧嘩になるならそれはそれで別に構わない。少なくとも目の前の奴らには3人掛かりでも負ける気はしなかった。
道の真ん中で揉めている俺達4人と俺の後ろにいるである真冬ちゃんを、沢山の人が迷惑そうに追い抜いていく。その視線は殆ど全てプリン頭達に向けられていた。
会話の内容が聞こえていたのか分からないが、何で揉めているか周りにバレバレらしい。
「…………だっせ。何ムキになっちゃってんの。ハナから興味ねーし…………おい、いこうぜ」
周りの視線に耐えられなかったのか、プリン頭は急に効いてない感じを全身から出して俺の横を歩いていった。残された二人も微妙な顔でそれに続く。
ちゃんと真冬ちゃんに謝らせようかとも思ったが、やりすぎると真冬ちゃんに迷惑がかかる可能性がある。
まあ往来の前でこんだけ恥をかいたんだ、もうあいつらは二度と真冬ちゃんに関わってこないだろう。
「ごめん真冬ちゃん────」
振り向いて、真冬ちゃんに声を掛ける。
掛けたのだが────真冬ちゃんの目がもう完全にハートマークになっていて俺は言葉を失った。
「俺の『彼女』にヘンな事いうのやめてくんない…………俺の『彼女』に…………えへへ…………」
真冬ちゃんは俺がさっき言ったセリフを念仏のように繰り返していた。
やっべ…………他に言い方が無かったからとっさに彼女呼ばわりしたのがクリティカルしてしまってる。
「あ、あの…………真冬ちゃん? 彼女っていうのは、場の流れというか…………言葉の綾というか…………」
何とか誤解を解こうと試みる俺に、真冬ちゃんはキッと視線を尖らせた。
「綾って誰よ。蒼馬くんは私の彼氏なんだから他の女の子の話しないで」
言葉の綾は女の子じゃねえ!
つか、彼氏でもねえ!
…………今日を境に「工学部の撃墜王を撃墜した奴がいる」という噂は「どうやら彼氏は3年の天童蒼馬らしい」という風に変貌を遂げるのだが…………それはまた別の話。