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第9話 親子四人。そして老欅

東京競馬場のメインスタンド一般席、四コーナーを見通せる一階で、鈴と馨が膝を抱えながら座っていた。目の前は立ち見の場所、並行する芝の本馬場までは約三十メートル、コース一本分の広場だ。先週の天皇賞秋を観戦したのは二階だが、何となく足が遠のく。

 十一月八日の日曜午後、京都競馬場で実施される菊花賞が今日のG1レースで、重賞競走が組まれていない府中では、前週開催よりは、比較的人は少ない。

「勝ったのは、セイウンスカイか」の馨に、

「スペシャルウイーク、惜しかったね」鈴が返す。

 「元の世界」と同じ史実通りの菊花賞、勝ち馬の名の通り、空は先週と同じく晴れ渡り、まるで「天皇賞秋」を懐かしんでいるようだ。今日の全レース、ふたりとも馬券は買っていない。何となく消え入る憂鬱が終日、鈴と馨を取り巻いていた。

 東京のメインレースと菊花賞が終わり、最終レースを残すだけの競馬場、帰り支度をする人が目立ち始めた。段々と寂しくなるメインスタンドで、快晴へ口を結んで見上げる鈴の胸に、つい最近の出来事が覆る。まさに沈黙の日曜日、サンデーサイレンスだ。

「サイレンススズカ、どうなるのかな?」

 手持ち無沙汰と、膝を撫でる鈴は、隣に語る。

 手にしたスポーツ紙は『サイレンススズカ、助かるのか!?』という記事が踊る。木曜夜に再度の重篤から一転、金曜、土曜と容態が改善されたと書かれていた。

 金曜は診療所を休み、土曜日は一人で車を運転して、出勤した陽子。何か情報ないかと、馨が、荻窪の家で同居する鈴に聞く。

「陽子さん、『持ち直しつつあるよ』って言ってたけど」に加え、「それ以外は、聞いてないよ」 

 残念そうに、重い小声を地べたへ転がした。

 容態は悪化や小康状態など、諸説が入り乱れている。情報が錯綜する状況下、嘆く馨はあらぬ想像を「まさか……」と喘いで消して行く。

「スズカは、『死んだ』のか?」

 鈴は応えられずに、口を噤む。頭のなかを整理し、医療課長からの情報をやっとの思いで声を擦れさせ、「先週の日曜夜は、サイレンススズカが危篤状態だった……」

「入れ替わったのに気付いたのは、月曜朝だけど」

 鈴が独り言のように語る。

「確かに、寝て起きた後だな」

 馨が、首を突き出して関心を示す。

「元に戻ったのが金曜の朝。一昨日だよ」鈴が息を吸い込み、

「木曜夜の容態悪化がスクープされたのも、同じく金曜の朝刊」と、吐いた。

 それから、少しは良くなったの新聞記事を目にし始めたのが、土曜以降だ。日曜日の紙面は各社、状態ついて賛否両論のように、騒々しかった。

「瀕死の状態を噂されたのが、日曜と木曜の夜か」馨が顎に手を添え、状況を「いずれも、俺たちが寝て起きた朝に、入れ替わりは発生したな」と整理し、だとすると、

「サイレンススズカの容態と、俺らの入れ替わりは密接に関係しているのか」と導いた。

 その上で、馨が「ススズカが関わっているなら、」と仮定し、切迫した疑問を漂わす。

「何で、入れ替わりが往復で発生するのだろう?」

 投げ掛けられた先は「分からないわ」と、長い髪を右往左往させ、組んだ両手に力を込めて膝に置く。

「でも、どうしてなんだろうね?」

 重ねて返すと、肩にそっと相手の手が乗り囁く。

「サイレンススズカが二度、死線をさ迷った……」

「……それで、俺ら四人が『入れ替わって、戻った』ことが、必要だったんだ」

 その想像は正しいかも知れない、ただ、

「でも、何でかしら?」

 可愛い唇から放たれる疑問に、答える人は誰もいない。

「言えるには、スズカが助からなければ、史実に近付く……」

 馨は、疑問を呈した後で寂しそうに呟き、続ける。

「……『元の世界』の事実をなぞれば、俺たちは『現代』へ戻れるのかな?」

 陰気な空気が、ふたりの口に重くのし掛る。

「確かに万一があれば、『過去』と同じだしね」

 歴史に沿うなら「元の世界」に戻れる気がすると、鈴は口を滑らせる。サイレンススズカには生きて欲しいのに、呪ってしまう、弱い自分を嫌う。「今の世界」の事実として、天皇賞秋の勝利で過去が変ったなら、未来はどうなるのか? 「元の世界」に戻る希望か、「今の世界」での顕現を否定される絶望か。

 そう、スズカが亡くなれば、存在する理由がなくなるのか。

もうどうでもいいよ、投げやりな気持ちが生まれる鈴は、現世で身を任せる方が楽ではと、辛そうに眉間の皺を深めた。

 確かに現実として、「入れ替わり」で「元に戻って」いた。喜ぶべきだろう。一方で、無情にもタイムスリップは発生せず、一九九八年十一月八日として時の流れに漂っている。

「『元の世界』に戻れないし。どうすれば?」

 鈴が力ない呟きを、蹴散らすファンファーレが轟いた。日曜日の最終レース、各馬が順調にゲートインして行く。だが、鈴たちは、大好きな競馬が消滅したように、関心が向かない。全馬揃って一斉にスタートし、人々の目線が馬群に集まるが、ふたりは目を地面に落としたまま、話が続く。

「まあ、暫くは「今の世界」だな」

 覚悟して、そろそろバイトでも始めるか? 馨は本気とも冗談とも取れるウインクを投げた。家を借りて家財を揃える元手は、先週の競馬で百四十八万円ある。

「金を貯めながら、記憶喪失者として戸籍を取得して」、「『大検』を受けて、大学に入学する」と、彼は人生のやり直しを明示する。

 「大検」とは「大学入学資格検定」のことで、二〇〇五年から「高認」と称される「高等学校卒業程度認定試験」に変ったと、細かい知識も披瀝するのは、いつものご愛敬だ。

 馨は未来を語ると、深い想いに光を当てる、彩りのあるいい表情で、鈴に向き直る。

「それでなんだけど」

 口調に力を込め、血潮を火照らす顔が、はにかんでいた。「元の世界」で、よく見た少しシャイな姿で、鈴の表情と心を解きほぐす。

 欅の性に通じる物事を前向きに捕らえる力強さと、女の子にも読める名の優しさを兼ね備える月野木馨。普段に戻った気がして、嬉しくなる。

 勇気をくれる馨が好きだ。鈴は心の底からそう思う。彼氏の手のひらがそっと頬に触れ、「どんなことが起きようが、」と、意を吐露する。

「どんなことになろうが、今いる世界で生きて行く……」

 馨の瞳が、鈴の意識を鷲づかみにする。

「鈴、お互い戸籍が取れたら、一緒に暮そう」

 名を呼ばれ、心臓がドキリと跳ね、落ち着くように一呼吸置く。

「そうだね、了解」

 満面の笑みを浮かべて二つ返事だ。見詰める先が、しっかりとした口調で宣言する。

「暮し始めたら、戸籍を一緒にしたい」

「うん、良いわよ」

 少し驚いたが、当たり前のように口から了承が、衝いて出た。覚悟は出来ていたのか、実に冷静だった。

 鈴の同意は、競馬場の四コーナーを回る馬たちに向けられ、不思議な光景を迎える。

 ふたりは、まさに消え入ろうとしていた。場所を移動してとか、観客に揉まれ隠れるとは、違う。人間の輪郭が、背景と一緒になる感覚で、競馬場の風景に吸い込まれるようだ。最終レースは、馬の集団が直線に向かい、場内がヒートアップする。

 馨は鈴に惹かれる、鈴も馨に魅せられる。お互いは磁石の両極として引き合い、重なる。ゴール前の接戦、周囲の人は勝負所での追い比べに注目している。ふたりだけは、生きている意味をお互いの身体から熱を溶けさせ、別世界に移ろう。長く抱き締め続け、決着への興奮が祝福のシャワーとなるが、何も聞こえない。そして、神の視野が鈴に舞い降りる。東京競馬場にいるのは自分たちだけでは、ないと。

「あ、あなた達は?」

 鈴たちは飛び跳ね、間合いを取る。今の抱擁、「親」に裸を晒した如く、耳を真っ赤に熱くする。

「そろそろ、来る頃でしたか……」

 澄ました顔の馨が決まりの悪さを隠し、腕を組んで落ち着きを見せ掛ける。

 競馬ファンに言葉はいならい。待ち合わせを約束しなくても、自ずと競馬場での定位置に集まる。先週の天皇賞秋を観戦したのは二階だが。今は、そこから真下の一階だ。優しい声音が、芝コース前の立ち見席から届く。

「元気そうで、何よりねぇ。鈴ちゃん、」

「陽子さん」

 今朝も一緒の部屋で起きたが、久しぶりのように、驚きと羞恥で表情を綾なす。一緒に恭一も認めると、視線を忍んで、目を落とす鈴たちに寄って来る。ただ、何か気付いた恭一が、馨の耳元で囁く。

「でも、まぁ。ふたりに会えてよかったが……」

「俺たちは、注目を浴びているようですね」

 馨が、悟られないように横目を使い、応じる。

「他にも二人ほど、いますねぇ」

 陽子が、背中の人影に意識を向ける。そう、サイレンススズカの激闘を、同じく瞳に焼き付けた戦友とも、評した。

 新太と由美が、陽子や恭一と遭遇を避け、間合いを置く。階段状の一般席、上段から、目を細める由美が「鈴ちゃんたち、素敵だった」と、感心する。

 その脇では、新太が年若の恋人たちへ関心を向けている。恭一に対する溢れる怒りを抑え、逸らすようだ。陽子を嫌悪する由美は競馬場を睥睨し、隣の新太に謝罪する。

「サイレンススズカを追い掛ける、陽子サンと恭一……」

 元は私が、監視に誘ったんだもん、と、寂しそうに天を仰いだ。本当は恭一に「私と一緒に行こう!」と誘うべきなのにね。言葉と態度にする勇気が、なかったのかな……、が、漏れ出した。 

「由美、」

 優しく名を呼び横顔へ迫る男に、続ける。

「……こんなストーカー行為、可笑しいし、許されないよね」

 向き直ると「そんな犯罪へ巻き込んだのは、アタシ」と、贖罪を込めて頭を垂れた。そして、面を起こし自嘲を含んだ腫れた瞼は、何とも埋めがたい幕切れの雰囲気を醸し出す。由美は腹を摩って、お腹の中の子どもは一人で育てなきゃ、と覚悟を独白する。

「違うだろ」

 新太が嘘をつくなと、見開く目で訴える。本音を吐けと、横からの視線が、崩れを耐える顔へ促す。滑らす手が止まり、涙が一滴、なだれ落ちる。

「恭一と一緒にいたい……」

 ボブの髪が揺れて、心の底が零れた。

 名を呼ばれた男が、由美への目線を驚きで固めた。

「そうか」とばかりに、新太の大きな手が震える肩に触れる。

「新太だって、陽子さんを想っているんでしょ?」

 引き締まった腕へ、核心を問う。最後の声音を聞き、交わす言葉を失い、肩から離した手を握る。拳を小刻みにする新太。陽子が戸惑い、半ば開いた口で見上げる。

 由美は呆けた女へ一瞥を刺す。ワインカラーのパンツスーツに白衣を纏うショートヘアの陽子。由美の思い人である恭一と、サイレンススズカの追い掛けをした女。恭一の言動から由美は、プロポーズに勘付いている。鋭い眼光が陽子への不都合な怒りを物語り、鈴にも心情が迫る。

 邪な相手、怖い瞳の先の陽子は美しい。素直に感じると腹立たしくなる由美は、厳しい目で麗しき姿を捉え放さない。尖った感情が痛いと、無念を釘付けにする。

 隣では負の意識を連鎖させ、憎悪に満ちた剣幕で新太も、恭一へ憤怒の激情を衝いていた。俺の女に何をしやがるとの殺意が、目から迸る。

 息を飲む鈴が緊張から助けを求め、馨の指先を握る。だれも動かない、動けない。動いたら殺し合うと、目で相手を押さえ付ける。由美が陽子に、新太が恭一に、各々が相対する同性へ意識を向ける。まるで、相手の存在を否定していた。

 時が流れ、心臓と肺が止まるような鈴は、息を潜めた。馨も尋常でない関心を示し、にらみ合いを見入っている。巻き込まれたふたり、相手を咎める四人と一緒に、無言で絡む異様だ。

ただ、このままではいけないと、鈴は馨と目配せを交わす。混迷する六人から、ふたりが一歩前へ進み、各々の母親と相対する。この場を取り計らう、仲介役の天使を願い出る。

「陽子さん」と鈴。

「由美さん」と馨。

 若き母たちの手を取るふたり。優しく誘われた未来の女親も、魔法が解けたように将来の我が子と、愛で顔を緩める。

「鈴」と、陽子が娘の名前を呼ぶ。

「馨」と、由美が息子の名を口にした。

 感じる肌の温もりを、自身の顔と母へと染み渡らせる。「母子」の意識が、手を繋ぐ者の笑みを満たす。陽子と鈴、由美と馨は慈しみを通わせ、愛情を確かめる。「母親」と「子ども」たちは、心地いい歓喜でお互いを繋げる。

 だが、「父親」たちは、様相が違っていた。母子を認め高揚する輪から、蚊帳の外で、手持ち無沙汰だった。彼らは、眇めた白眼を飛ばし合う。

「なるほどね」

 顔を顰める恭一が、呟く。

「ここまでは、認められる」

 新太が、不機嫌そうに状況を述べた。

 陽子と由美が己の子どもと認めて喜ぶのを、頭では理解しているようだ。でも、「父親は?」誰だ。猜疑心を一杯にして睨み合う男どもは、怒りを渦巻かせた。新太が特異なぎらつきで見詰め、挑発する。恭一は能面のなかで、乾いた唇を歪めて嘲る。まるで男親どもが、必然として争う様相を見せる。

 「父親」という残された謎に、彼女を寝取られたという憎悪が、互いに向けられる。鈴たちも不穏な空気を感じ取る。この場の全員に、緊張が一気に高まる。

 父親が違うのでは? 出生の悪い噂を思い出す鈴が、胸を騒がせる。

 周囲など眼中にない雄同士が、嫌い合いの火花を散らす。相容れない者たちが、対抗意識を燃え上がらせ、確執を先鋭化させる。

「気に入らないなら……」新太が高飛車に「……試してみますか?」を、言い放つ。

「あんたとは、」唸る恭一が「関わりたくないんだけどね」と、挑発を馬鹿らしいと除ける。

「逃げるのかよ!?」

 新太が、受け入れ難いと、吐き捨てた。お互い様だよという感じで、責められた先が無言で睨みを利かす。

 晩秋の空は晴天なのに、暗雲が六人に低く垂れ込めるようだ。重たい間合いが、敵対と切迫を徐々に膨らませる。誰もが想像出来て、避けたい矛盾と怒気が噴出する。

「やるか!?」

「うるせぇ!」

 閃光が迸り、新太が下へ突進する。立ち見席で待ち構える恭一。雄叫びを上げ、両腕でお互いを捕まえる。頭をぶつけ、頭蓋骨を壊す鈍い音。まるで、闘牛の如く額を角に見立てて、突き合わせる。

「新太!」と、陽子が困ったように叫ぶ。

「恭一!」と、由美が心配そうに泣き喚く。

 体格に勝る新太の椀力に、少し線が細い恭一が必死に堪えていた。捻る力のバランスが崩れると、取っ組み合って地面に転がりまくる。

 止まって上になった新太が、憎しみを込めて、拳を振り下ろす。恭一も必死に深手をかわし、顔を引っ掻くように叩くと新太が仰け反り、バランスを崩す。再び寝ながら組み合う男の意地と遺恨の暴発に、陽子と由美が、悲鳴を上げる。

「止めろ!」

 馨が鋭い声で諫めるが、届かない。

 解れず一体となって、殴り合う野郎ども。最終レース終了後で、少なくなったが、場内に人はまだ残っている。何だ、何だと衆目を浴び始める。

「まったく、もう」馨が困ったように顔を顰めて「鈴、ヘルプ頼むよ」と、助勢を乞う。

可愛らしくも肝が据わる鈴は、物怖じせずに反応する。

「ほら、やめなさいよ!」

 制止を叫ぶ鈴が前屈みで、新太の腰を引く。

「騒ぎを、起こすな!」

 揉め事を阻む大声を張る馨が「いい大人だろ!」と一緒に、恭一の肩を押さえる。端から見れば、じゃれ合うように、父親たちを引き離す娘と息子。手間掛けさせるなよ、馨が喚呼するが、無視する連中は縺れ続ける。

「邪魔だ!」

 新太が腰を振ると、鈴が尻もちをついた。陽子が大丈夫? と、駆け寄る。同じ意を返した鈴が、平気とばかりに立ち上がる。そして、馨の顔色が怒りに染まる。

「お前ら!」

 鋭く怒鳴り、腹から抜き出した拳銃を構えた。顔に青筋を走らせて銃身を突き付けると、争う二人の目が留まる。これでもかの重厚感、本物が持つ迫力は、騒乱に圧を掛ける。

実銃と認め、圧に詰め寄られた新太が「うるさい」と、突っ掛かる。

 馨が、タイミングを計って入れる蹴りが、カウンターとなる。恭一を巻き添えにして倒れる新太に、銃を向けた。観念して、やっと離れた男たちは、力を抜いてへたり込む。

 鈴が「お騒がせしました」と、衆人に両手で押し返すふりで、環視を払うのを先導する。その姿を見て、承知と頷き合う陽子と由美が「ごめんなさいね」と、周囲の交通整理を始め、野次馬を散らす。

 だが、不満を浮かべる新太は、銃口を睨み続けた。すると、不思議が起こる。鈴が消え始めた。輪郭がぼやけ、身体が透き通っていく。生存が否定されたようだった。

「畜生!」恭一が罵倒すると、拳銃が向く。再び怪奇が起こった。今度は、馨が消え始めた。鈴の身体が彩りを戻すと、馨が薄れていく。

 これはどういうことか? 驚く鈴。陽子と由美も、あ然とする。新太が「命の危機に瀕する」と鈴が霧となり、恭一が「殺されそうになる」と馨が消散するのは、「実の」父親だからか。事実として、陽子と由美は妊娠している。もはや、父親の生死と子の出生は関係ないはずだ。なぜか、「今の世界」で父親の死活に、存在が連動している。

「これが、『老欅』の『お導き』なの!?」

 鈴は、雷に貫かれたように絶叫し、絶句した。

 新太と恭一、陽子と由美が、顔を見合わせる。馨が一物を腹へ納め、今だに浅い興味で物見をする人たちへ怖い顔を向け、四散させる。外野が去って騒然が凪くと、新太と恭一は、興奮から  解き放たれ、肩で息をしながら、徐々に萎れる。

 鈴が陽子に、馨が由美に、心配して寄り添う。この場の全員が疲れ切り、体力など、とうの昔に失っていた。雑然が残る四コーナー近辺の一般席、人は少なくなったが、留まり続けるのは悪目立ちだ。もう帰った方がいい、という雰囲気になる。

 現実として、警察や警備員、柔道黒帯の職員、屈強な関係者に囲まれたら、六人では多勢に無勢だ。「今の世界」で戸籍すらない鈴は、面倒に巻き込まれたくない。騒動を嫌う馨と、意を同じくして頷き合う。

「まずは、ここから急いで離れなきゃ!」

 鈴が両手を下からあおり、皆を急かす。

 だが、少し先のゴール手前では、警察官が何ごとかと、指さしながら、六人へ意識を向けている。異変を知らされた制服姿が、こちらに来ると構えている。危機を感じる鈴が、競馬場を立ち去ろうと提案した、が。

「いいえ、帰らない」と、陽子。

「そう。帰れない、わね」と、由美。

 何を考えているのか? 退避を勧めた鈴は、困惑する。連なる警官が歩み始め、迫り来る、焦る馨が唾を呑み込んだ。

「あんたのバカさ加減見たらさ、話したくなっちゃた」

 陽子が座り込む新太の頬の傷に触れ、背中を軽く叩いて立つのを促した。

「仕方ないよねぇ。手間掛かるんだから」

 由美が顔を腫らした恭一の手を引いて、起き上がるのを助けた。

 そして、先輩後輩の仲良しを復活させ、由美は目で合図し、陽子が頷く。

「ここから、離れるわよ!」由美が発した。

「急いで!」が続き、追い立て、右手を煽ぐ陽子。

 急遽一転の展開に、驚く鈴と馨が目を閉じ開けも、全員が即、反応する。意を同じにした六人は何ごともないのを装い、正門前へと足を速めた。

 何か言いたげな警察官が、対面から迫る。だが、逃げたら逆効果だ。声掛けする警官の脇、鈴と馨は両親と一緒の三人として、まるで謀ったように左右に分かれ、瞬間に歩みを緩め、一気に加速する。六人全員、絶妙なフェイントとなり、すり抜けた。 

 口を開くタイミングを失った制服連中が、苦い顔をしている。急ぎ足の鈴は背中の目から、悔しそうな表情を想起した。長居は無用で、スタンド建物を抜け、外へと進むのみ。騒動は終わって、仲裁は用なしだ。事実、退場する厄介者を追い掛ける姿は、皆無だった。

 皆が無事に、東京競馬場の正門を後にした瞬間、鈴の心音が一度跳ね、ゆるりとなった。振り返らずに歩くなか、『老欅』に導かれていると、悟っていた。


「何、やってるのよ?」

 由美が振り返り、坂路の途中で歩みが遅い恭一に、呆れ返る。

 競馬場正門通りの先頭を進む鈴と馨が、後ろへ注目し、直後の陽子と新太も立ち止まる。最後方で、由美に心配される恭一は、痛そうに手で頬を押さえ、足を引きずり小股で歩む。

 警官からの職務質問を逃れた六人は府中駅、大國魂神社へ向かう。道すがらの小広場、夕方の陽光が眩しいのか、よろける恭一は、助けを求めるようにベンチへ手を伸ばす。

「何って……、あっ、痛って」

 背中を倒して座る恭一が、赤く滲む口端を押さえる。なかが切れているのか、喋ると痛がった。唇から滲み出る血を、由美が手で優しく拭く。

「デスクワークのアンタが、ガタイのいい新太に勝てる訳ないでしょ!」

 体格を判断してケンカしなよと、由美が困る顔を緩める。恭一は「うるさい」と、力なく反発し、そっぽを向く。大人げない態度に、笑声を高めた。

「でも、無茶やる恭一の姿。見れて、よかったよ」

「なんだよ、それ」

「その言葉の通り、馬鹿やっているなって」

「馬鹿にしているのか?」

「そうかも。でも、嬉しかった」

「え?」

「私の為に殴り合って。嬉しかったって、言ってるの」

 身を挺して庇われたような高揚が由美の顔に朱を差し、目を落として逃れる半身を斜に捻る。普段は冷静な彼女が、可愛らしい。

 女性から求愛した可憐な表情を、恭一は痛みを忘れて呆け、見上げる。不意に傷口が疼いた顔を顰め、競馬場での諍いを口にする。銃を突き付けられた時、馨が消えるのを目にして、恭一自身が父親だと、直感した。理屈ではないと主張した。

 サイレンススズカは故障した。当分、あの馬は走れないとも想像する。そして、由美が隣にいない競馬観戦はもう終わりだと、言い放ち、

「疲れた!」

 夕焼けを仰ぎ見る恭一はベンチにふんぞり返り、「何処にも行きたくない!」と、駄々っ子のように首を左右にし、騒ぐ。

「ごめんなさいね……」

 由美が精一杯な笑みを作ると、「しばらく、彼を見ているわ……」と、保護者の顔をした。道端で見守る四人に、恭一と由美の世界だと、感が巡る。

察した馨が「じゃあ、また」と手を振り、「今度、親父たちと会うのは何時、何処だろうか?」と、独り事を自身に向け、喜びと安心を満足気な表情に湛えた。

「来年の七月。恭一さんと由美さんの息子として、会えるよ」

 くすぐったい鈴は、感慨深げな横顔へ呟いた。

 馨の「何か言った?」に、「何でもない」と、返す。何か言っただろ? 軽く肘鉄をしなやかな腕へ投げると、「バカ、痛いじゃん」と口を尖らす。由美と恭一が、馬鹿馬鹿しいやり取りに、目を細める。

「そろそろ、行きましょうか?」

 微笑んだ陽子が腕を鈴に絡ませ、前へと歩みだす。口端を下げた新太に、背中を押された馨は「今度ね!」と、後ろ手で歩む。

「ありがとう」

 鈴が謝意の元へ向くと、由美が徐々に小さくなる四人に、深々と頭を下げていた。


 陽子と新太は、息を整えていた。

 競馬場正門通りの坂道を登るのは、案外パワーが必要だった。上がり切ると、八幡宿の交差点を左に折れて旧甲州街道を進み、府中馬場大門の欅並木の南側、大國魂神社の大きな鳥居にいた。お互い何も言わない、が、通じているのは、この場の全員が分かる。新太は陽子を力強く、抱く。

「ただいま」と、陽子。

「おかえり」と、新太。

「暫く、東京競馬場には来れないねぇ」

 陽子が今までいた競馬場と診療所に思いを馳せた。もう、競馬場近くのマンションも引

き払うという。そして、転勤先の福島でお腹の子どもを産むと、覚悟を述べた。

 抱き締める新太が、力を入れて口を開く。

「いや、東京。荻窪で産んで欲しい」

 未来の婿養子は、これから住む地名を挙げ、「そうするんだ」の願いと腕の力を強くした。

「今度はさ、俺と競馬場へ行こうよ」

「二人?」と、訝しむ陽子が腹を撫で、覗き込むような顔で問う。

 なるほど、と、閃いた男が、納得して頷いた。

「三人だな。生まれてくる子も含めると」

 少年のようにはにかむ相好が緩くなる。陽子と新太、喜色で意を通じ合う。一日が終わりつつある陽光は、二人を包み隠して赤く染める。陽子は、ふつつか者ですがよろしくお願いします、そう申し入れし、頭を下げた。目を開き細める新太が、複雑な驚嘆の表情を固めた。

 大好きなサイレンススズカ、また飛んで行っちゃうかも知れないけど、凧の糸はしっかり握ってね、とも希う。了解と叩首した先は、手で軽く触れる頬の生傷を気にしながら、少し前の騒動を回顧する。

 銃を突き付けられた時、鈴が消えるのを見て、新太自身が父親だと、直感した。理屈ではない。陽子抜きで競馬場での観戦は、もう二度とないとも、断言した。男として親になるのだ、父親という自覚を口にし、続ける。

 スズカとの競馬は、終わりだ。かの馬が生死を超え、ターフに勇姿が現われても、「追い掛け」は幕が下りたと、宣言した。寂寥と安堵、得も言えない感が、四人を襲う。

「サイレンススズカ。本が書けそうな物語ね……」

 陽子が、過去として振り返る。そのひと言に、好きな馬への追憶、長い旅路への万感が込められた。ただ、スズカの伝説が続き、会いに行くなら、由美や恭一とのカルテットがいい。これまでの逃走劇に酔いしれた無邪気な笑みで願う陽子は、新太を少し困らせた。

「手術後、容態は厳しいです」

 生死の分水嶺にいる馬へ、馨が憂慮する。心配そうな新太が、顔に影を作る。だが、陽子は意に介せずに、「ワタシは巫女だと」と、微笑みを振り撒き、「お告げ」と宣する。

「助かるわよ。サイレンススズカ」

 馨と新太が、何かに縋るように表情を明らめた。

「『老欅』の『お導き』だもん」と報じ、「絶対に救う」とも言い切った。まさに、使者としての  巫女だった。宣言する姿は、白い小袖と緋袴の巫女装束で、代弁した。風格は凜として、神々しい。三人は、夢幻を見入っていた

 伝説の名馬から天啓を受け、記す本の題名は決めてある、巫女は明言する。その心地よい言の葉が、神社の境内を木霊した。

「……」

「良いですね。是非、じっくりと読みたいです!」

 鈴が、待ち望むように両手を握る。

「俺も、手にしたい!」

 歓心を得ようと右手を上げる馨も、おもちゃを見つけた幼子のようにはしゃぐ。

「ありがと」

 巫女は、間近の頭ふたつを、左右の手で揉んだ。白衣にボルドー色のジャケットとボトムス、今日本来の装いが、鈴の目に戻る。あの巫女装束は、仮初めの夢見だったのか。

「面白い本になるといいな」

 期待で目を細める新太が「頑張れ」と、肩を叩く。周囲一同は同意し頷き合った。

「お父さん、お母さん」

 鈴が、未来の親に向き直ると、

「元気な鈴を産んでください」と、一礼した。

「やっぱりアナタは、そう言うのよね」

 陽子は感嘆し、笑顔になる。両親は娘へ手を広げて鈴を迎え入れ、三人で抱き合う。

「私たちの娘で、生まれてね。鈴ちゃん」

 母親が願いを口にすると、父親も腕を組んで頷く。親子水入らずを、嬉しくも寂しそうな馨を、新太が不意に引っ張り込むと、輪が四人になる。

「馨クン、鈴と一緒にいてくれて、ありがとう」目頭を熱くして耳打ちし、「これからも頼むな」と、右手の親指を突き出して励ました。娘のパートナーを思いやる姿は、男親だ。

「鈴とは、何時までも一緒です!」

 馨が言い切ると、鈴が顔に紅を散らすのは、夕陽のせいか。

 四人は暫く富士山から射す、今終わる日暮れに暫く身を任せる。家族として、今をこの瞬間を慈しむ。空は紫色へと変りつつあり、青が濃くなると宵闇を迎える。この時の移ろいを忘れ得ぬように、鈴たちは名残惜しみ、肩を抱き合っていた。


 夜の帳が下りる頃、日曜日の府中駅は、人の潮流が落ち着いてきた。

 馬場大門の欅並木、競馬観戦から帰路に急ぐ人々の大波は収まった。昼間の熱は涼み、冷ややかな夜が、今までの謎を一杯にし、ふたつの思考を鋭利にする。

 鈴が右手で、馨が左手で、『老欅』の太い幹に触れる。反対の手は、ふたりが絶対に離れまいと、きちんと結ばれる。東京競馬場での今日一日、クライマックスである恭一と新太の熱い殴り合いを、想い出す。

 その後、由美と恭一、陽子と新太、「両親」たちの和解を見届けた。恭一の世話を焼くと残った由美が離れ、新太と一緒にいたいと照れる陽子を後にした。

 本心から核となる決意を表す眼差しで、ふたりは並木道を歩み続けた。『老欅』と語るために。何故、私たちは「今の世界」に来て、存在するのか? 『老欅』の『お導き』とは一体何なのか? どうなるのか? を知りたかった。

 老いた欅の元に馳せ参じ、ふたりは一体として、幹に触れて息吹を感じる。今まさに、夜の入口への時を迎えていた。しっかりと握るもう片方の手に力を込めて、段々と色を濃くする空を眺める。『老欅』の枝葉が風で、ざわめく。

『終わったのか?』

『老欅』の言葉がはっきりと、鈴の耳朶に届いた。

「ええ、多分」と、物言いとは裏腹に、確信を答えた。

 応答は、鈴の両親である陽子と新太、馨の父母である由美と恭一、それぞれが、あるべき姿に戻った。

『鈴よ、馨よ』 

 名を呼ぶ『老欅』は、ふたりの居るべき意義を説く。

『おまえたちは、『今の世界』では、異形なのだ』

『老欅』が咳払いをして、一呼吸置くように、枝葉を揺らした。

『親の新太や陽子が死ぬと、鈴が消える。同じく、恭一や由美が死ぬと、馨が消える……』

 ふたりは黙って、重い説話に耳を傾ける。握る手で繋がる馨も、鈴を介して『老欅』の意が分かると、顎を引く。

『……陽子や由美の懐妊は、鈴や馨の出生が確定した訳ではない。『今の世界』では、両親の顕現が出生に影響する』

 だから、親に銃と殺意を向けると、子が消えるのだと、『老欅』がささめく。

『欅の種は、ひとつの樹が父であり母となり、子が生まれる』枝の付け根が、震えた。

 「ひとつの樹が父であり母」が「消え入りそう」に繋がる鍵だ。材木商の息子、樹木の知識がある馨が、欅の特徴から紐解く。

 欅は「雌雄同株」の単性花で、雄と雌の生殖機能を、同じ個体で持つ植物だ。同じ花で雄と雌が交配し影響を受けて、種が作られる、「今の世界」では人の出生も、欅に近いということか。いや、誰彼という訳ではなく、『お導き』を受けるふたりが客体だ。欅に似て、生誕まで親の存在が、差し響くのだ。

『おぬしらの誕生は、母の胎内に抱かれるも、誰が父親かなど分からない。両親の縁や生命などの状況を反映し、生まれ来る際に性質が変るのだ』と、表した。

「鈴が『鈴でない誰か』として生まれる可能性があり、オレが当然の如く『馨として』生まれるのか!?」

 馨が、鞭打たれ痛みを叫び、疑問を呈する。そんな不思議があるなら、何故そうなるのか? 責めは続いた。そして、鈴の口から衝いて出る、一頭の馬の名前。

「サイレンススズカ……」

 今は瀕死の状態? ワタシたちの生存に影響しているの? とも、迫る。黒髪の毛先を風に流し、『老欅』に念を押すように、枝先を見上げた。

『分かってきたか?』と、枝が震えた。

 『老欅』とサイレンススズカの縁がある「今の世界」では、両親が顕わでこそ、生を受ける。陽子と新太、由美と恭一はお互い影響し支え合い、子を産んで『老欅』の「使者」を育てる。両親たちが健在する意義と、言い添える。

 スズカの追い掛けをする陽子と恭一、その二人を監視する由美と新太。四人が影響し合いながら、由縁に加わった。その物語に、成長した鈴と馨、瀕死の馬を救うべく「今の世界」に導かれる。

 ふと、鈴に怖い想像が、浮かぶ。仮に「今の世界」から、サイレンススズカがいなくなる場合、鈴と馨は生まれてこない。救うべき対象が、いないのだから。「元の世界」では『老欅』の『お導き』も起こらず、「史実」通りに悲劇を迎えるのだ。鈴と馨は他人として生まれ、一生涯、縁はない。不運な名馬を救う『お導き』が、両親に影響を与え、鈴と馨を産み育てた背景だ。

 では何故、『老欅』はサイレンススズカを救うのか? これも『響き』で縁だと、『老欅』が微笑むように枝を揺らし、語り始めた。

『陽子と恭一に、出会った頃の話じゃよ』

 鈴と馨の意識は、深い焦げ茶色の古に取り込まれ、最後の息吹を奏でる『老欅』の元、陽子と恭一として、昔時へと戻る。まさに、鈴と馨が陽子や恭一から聞いた『老欅』との出会いの昔話を紐解いていく。


『この老いた欅と親しくしてくれた』

 馴れ初めを『老欅』が嬉しがる。陽子の出勤前、人気のない早朝。気さくな親友の恭一を連れ立ち、欅並木を散策していた。絶妙な出会いと、『老欅』が静かに巡り合わせを辿る。

『陽子とは話をし、意を通じ合えた』

 まさに神に仕える者の出自だ、その血は鈴にも受け継がれた如く、今、会話をしている。月野木家の源流たる源氏が、前九年の役を平定した後、日の本の安寧を祈願し、植樹された『老欅』が己の神秘を晒す。

『一千年近く、生きているとな。不思議と、物事を見透かせる』

 武蔵国の国府が在する地、何でも看破する能力があり、東京競馬場の様々な「物語」を見続けたと、枝先を振った。

『彼女彼らと通じ、今年の冬に偶然出くわしたのが、サイレンススズカじゃよ』

『老欅』が静かに懐かしみ、綺麗な栗毛馬を見初めたと、謂われの彩りを呼び起こす。

「スズカの快進撃が始まった、バレンタインステークスですね」

 馨は史実を念押すように、叫ぶ。

『そなたたちの親である二人。この老いぼれの眼居となり、足となり、手となった……』

 陽子と恭一にサイレンススズカの「追い掛け」をして貰ったとも、経験を語る。『老欅』も後を追ったのだと、鈴は感じた。

 府中なら望めるのも、その能力は遥か先まで及ばない。だから、中京や阪神競馬場など遠方を観戦する為に、恭一の目が必要なのだ。

 実際に『陽子と連れた恭一、同じ事実を甘受できた』とも評し、『老欅』は、秋が近くなると『未来』が視えたと、打ち明けた。多くを見通す眼界は場所だけでなく、時をも超える能力なのかと、鈴が『老欅』の驚異に開く瞳孔を射貫かれた。

「それが、天皇賞秋。サイレンススズカの『事件』ですか?」と、馨が明確にする。

 鈴が、天を見上げると、枝葉が『そうだ』とばかりに、揺れた。

『悲しくて、なぁ……』

 あんなに速くて強い綺麗な栗毛馬が……、ただ、ただ悲しくてと、黄色に染まった葉を落とす。はらはらと落ちる秋色は、月明かりを浴びる小さな栗色の馬が走るようだ。その群れは寂寥を含み、『老欅』が流す涙と、鈴は思えた。

「スズカの『事件』を変えるのが、『お導き』ですか……」

 落葉などお構いなしで『老欅』を見上げて唸る馨が、事実に迫る。世代を超えて、競馬ファンがサイレンススズカの天皇賞秋に触れる際、誰もが抱く想いだと、鈴も墜ちる魂を眺めていた。

 「元の世界」では、天皇賞秋の四コーナーで故障し、予後不良が事件の真相だ。『老欅』が目撃した未来、「元の世界」での悲運を「今の世界」でも垣間見たのだ。非業の死を、避けられないのか? 鈴も馨も、同じ想いに包まれていた。

 サイレンススズカを、救いたい。

 そして、スズカが出走する天皇賞秋、一週前の朝、『老欅』は陽子と恭一を迎えた。その時の景色、『お導き』が、述懐として示される。


・・・


『サイレンススズカを、助けてはくれまいか?』

 老欅は、音無陽子に語り掛けた。しわがれた、誠実で懸命な声が届く。ショートヘアの毛先と瞳を天へ振り、揺れる枝葉を確かめた。仕事柄、馬の生死という現実に直面している三十路前の獣医だ。夢想など信じ難いが、鋭く胸を衝かれた。

 隣では、思考と身体を固めた恭一が、早朝の青空を覆う紅葉を、目と口を開け広げ、ぽかんと眺めていた。

 大学を卒業して、東京競馬場で獣医として働き始めた陽子が、職場近にマンションを借りて二年が経った頃だ。欅並木は心安らぐスポットで、お気に入りの老欅と、何となく気脈が通じた。神々しさから崇め奉るも、親しみを込めてお付き合いする近所のご隠居様でもあった。

 人同士の声を発した会話ではなく、鋭い感受性で察知する、「そんな気がする」の「感じ」で、勘という表現が近い。巫女の家系、不思議な能力とは大げさだが、五感は鋭利と、「陽子」自身も覚えていた。

 大学は同じ農獣医学部、林学科で親友の「恭一」も、今日は気分良さげだとか、怒っているとか、樹木の消長は感じられた。そんな陽子と恭一を、

『そなたたちは、良く知っている』老欅が、続ける。

『あなたは、伊勢が鈴鹿に所縁を持つ巫女。かの馬の想いを果たす『同勢』で』

 陽子の心臓が、トクンと跳ねた。

『そちはツキノキ。欅の古名、我に繋がる家系で『使者』じゃよ』

『老欅』が恭一に、揺れる枝先を突き付けた。

『我はけやけし。辰巳のそなたなら分かるだろう?』

 辰巳の方角、江戸城から南東、東京・深川で代々材木商を営む月野木家の長男。

 頭を縦にして相槌を打つ男が、「けやけし」とは「きわだった、すぐれた、すばらしい」の意を告げた。老欅が生まれた平安時代、「槻」と呼ばれ、「強き木」の表し、時を経て、欅の字が当てられた。そう、まさに「斎槻」、神の宿る木、神聖なる槻の木だ。

『生を受けて一千余年。「時の流れ」と親しくなり、耳を傾けてくれる』

 「けやけし」の真意を了知する恭一と老欅は、口元を緩めた。

『辰巳を起点に、この老いぼれた欅に馳せ参じる』

 音無の姓は無を意味し、万物の起点となり、生を与える役回りだ。月野木は、欅の別称である「槻の木」が由来で、『欅』や音無を支援する務めだ。

 老欅から与えられた役割を示された恭一が絶句に抗い、二人は口を揃える。

「老欅の、」「ご縁」

 女と男が、強ばる頬に冷たい汗を滑らせ、太い幹を見続ける。今までも散策時に立ち寄り、馬の無事を捧げていた。その際、老欅の囁きを何となく耳にしていた。樹木の機嫌がいいとか、そうでないとか。察知するようになったのは、

「伝説が始まったバレンタインステークス。私たちが観戦した初のレース、」

 ひくつく可憐な口調が、焦げ茶の樹皮に触れる。黄一色で鮮やかな一葉が、労うように恭一の肩に落ちた。

 大地に根を張る老欅自身、「使者」である恭一を通じて、馬の走りを見ていたのか。スズカが勝利した直後は、樹木全体を揺らして喜んだ気がする。それでも、風になびく葉のそよぐ音に触れて「感じる」程度だ。今回は違う。まさに、言霊だった。

『いきなりで、申し訳ない』

 謝るように、太い幹を優しく揺り動かす。驚く男女に落ち着けと、ゆったりと移ろう。陽子は、応えるべく朝の生気を胸一杯に取り込み、慎重に吐いた。同じく、大きな息をした恭一に向くと視線が交わる、目で確かめると身体の力が抜け、緩めたお互いの口許から、小さい笑みが零れた。納得して頷くように枝が、高下に動く。

『あの馬の競馬は、感に入る』野太く低い声音で記された。

『千年近く府中で根を張り、後悔はないが、一点だけ想いを託したい』

「それが、サイレンススズカ……」

 陽子は、老欅が口述した馬名を挙げた。

『来週、府中で出走する』老欅の低く重い影が、二重に覆う。

『だが、今のままでは、救えない』

 救えない? 言の葉の意を理解出来ない四つの目が見張る。東京競馬場の天皇賞秋に出走するサイレンススズカ、圧倒的な勝利を重ねる前評判は確勝だ。国内の芝中距離路線は敵なし、来年はアメリカ遠征も噂されるほどだ。だが、老欅の「助けて」や「救えない」とは何を意味するのか? 少なくても良い含意ではないのが、伝わる。

「スズカが、どうなるって!?」

 陽子が鋭く叫ぶも、老欅は黙したままだ。

 この先への不安に襲われる陽子は、喉から悲痛を覗かせ、戦きながら尋ねた。

「どうすれば……、いいの?」

『未来が、救うのだ』

「未来、ですか?」と、同じく問い返す。

『新たなる欅、そなたたちの血と想い』

 老欅は何かを得たと、枝葉を踊らせ、嬉がる。陽子と恭一の手に欅の枝が、振り落ちた。

 着果短枝には二つの実、死の直前である老欅が最後の生命を振り絞って、奇跡の両性花を咲かせ、今秋つけた種子だという。陽子と恭一に想いを託すと願い、老欅の枝葉が苦笑するよう風に揺れた。

『今の儂は、後を頼むことしか、出来ないからな』

 老欅は『寿命は己で分かる』と評し、スズカが出走する来週に終末を迎えると言明した。

『だが、縁ある者同士が呼ばれるように、会同した』

 これで間に合ったと、老欅はゆっくりと樹幹を振り立て、喜んだ。音無と月野木が出会って、サイレンススズカを「助ける」という縁。縁が「響き」と、欅が意を得て、頷くように枝を小躍りさせる。ただ、結果は時の運だ、とも老欅は、仕方なさげに呟く。二人は黙したままで、老欅の力が宿る言辞に、耳を傾け続ける。

 後世の「そちたち」は協力し、「救って」欲しいとも、老欅は希う。「使者」である月野木なら『老欅』の意を汲んで、「時の流れ」と絆を持てるとも、言う。

 未来の私たちが過去に戻るの? だとすれば、どうやって? この先、神木の「あなた」

はいないでしょう? 辰巳って、真意は何なの? 矢継ぎ早にショートヘアを振りかざす。

『産み、育てよ』

 ひと言、放つ老欅は口を噤む。彼の枝葉はただ、自然に流れる風に任せ、晴れた秋空でゆらりとした。遠くを眺めると、高くなる青空に羊のような雲が群れを成し、歩いていた。陽子は『老欅』の言葉をかみ締める。「自身の子どもが、どこか遠い時空を越えていく」

と、感じていた。


・・・


「スズカが生きる為、ワタシたちは『今の世界』に呼ばれたのですね? それって……」

 鈴が質すと『老欅』の枝が揺らぐ。月野木の子息である馨と一緒に、サイレンススズカ

の過去レースの観戦が契機になり、時空を超えた。結果、音無の鈴が「今の世界」にない

「最新の外科手術情報」を、若き日の鈴の母である執刀医の陽子に届け、怪我したスズカ

の手術は奇跡的に成功した。

『生き返るという目的、一旦は達成された』と、『老欅』が評した。

「一旦って?」

 鈴が何事かと、顎をしゃくる。

『手術の寛解までは導けたが、完治するかは、彼の意志だ』

『老欅』はある程度は道筋を立てられるが、生きるための肝要な部分は本人次第だと、そして『運もある』とも語る。もはや、スズカの生死は、鈴たちは勿論、『お導き』をも離れているのか。

「サイレンススズカは、スズカはどうなるのですか?」

 焦る馨が、表皮を叩いた。世間で瀕死との噂だが、手術した本人の陽子ですら、部外者として正確な状況は触れらない。馨は、何か知っているのでは? と、『老欅』を睨む。

『サイレンススズカは、死んでいた』

 ふたりは、絶息する。動けない男女を月の光が冷徹に照らして、陰影を映す。薄墨のような自身の影が、足元で途方に暮れる。

「容態の悪化は、事実だったんですね」

 切ない嘆きが鈴の口から、落ちた。一体どうなるのか? 焦燥がジリジリと募る。

「史実に近いのか? それならば……」

 追随する馨は「悲劇も同じなのか?」残念と、大声を張る。そして、

「俺たちは『元の世界』に、戻れるのですか?」

 幹を手で打ち付け督促するが、梢は微動だにしない。詰問を避けるように、『老欅』は話を変えるべく大枝を軋ませた。


『陽子と恭一が、意外だった……』

 悩ましげに、『老欅』が樹幹を動揺させた。「使者」として、スズカの追い掛けをした、恭一と陽子。二人の仲は深くなり過ぎ、プロポーズして受けたのを、予想外と口惜しがる。

『そして、お前たちは、親と入れ替わったな』

 鈴と母の陽子、馨と父の恭一、心身の交換を示した。

『サイレンススズカは二度、息絶えたのだ』

 再び、驚愕がふたりの身体を突き抜ける。息をも忘れ、心音は速くなり乱れた。未来を知っていたのか、『老欅』は沈着だ。

「二度、死ぬって……?」鈴が疑問を浮かべれば、

「じゃあ、今は?」と馨が核心を突く。

 なるほど、府中なら『老欅』は、サイレンススズカの死も、一眸なのか。

「二回も逝く……、これも『お導き』なんですか?」馨が、口で責める。

『老欅』は、「入れ替わり」も「元の姿に戻る」のも己の意志でない、と答えた。

「そうすると、スズカが……」

 鈴の想起に、『老欅』が加える。

『……「入れ替わり」も「元の姿に戻る」のも、かの馬自身の意力だ』

 黄金色の葉が、生への強い精神力を称えるように、降り注いだ。

『サイレンススズカが一瞬、絶えると、「入れ替わり」が発生した』

 「入れ替わり」当時に、鈴が頭を巡らす。一度目は、鈴が陽子に、馨が恭一に替わった日曜夜だ。『陽子』の姿となった鈴が、月曜に医療課長から聞く重篤の情報と一致する。

 二度目が木曜夜で、元に戻って金曜日の朝を迎えた。この時も、新聞紙面で「容態悪化?」の情報が賑わっていた。確かに、サイレンススズカは二度「死んだ」のか。

「一度、心臓が止まり『入れ替わり』が発生し、再び心肺が停止して『元に戻った』のね!」

 鈴が詳らかにすると、続けて『老欅』が指し示す。

『生死を往復し、「今の世界」における物語の筋書きが変化したのだ』

「それだけ、「今の世界」は、スズカに影響されたのか!」

 馨が驚きを枝葉に向ける。『老欅』は、音無の名を踏まえて『響き』と告げ、縁を紐解くように、語り始める。サイレンススズカが『老欅』と邂逅し、陽子と恭一、鈴と馨が出会い響くことで、人知を超える。生きるという奇跡だと言う。

『サイレンススズカ。陽子と冬、鈴とは秋に、出会った』

 冬はバレンタインステークスで、秋とは天皇賞秋当日だと、馨が補足した。『老欅』は、三重が鈴鹿の出自である音無家の母娘と巡り会い、所縁のある巫女たちの役割を察知したと評した。目を閉じる鈴は、その美しい栗毛馬を瞼に見て、樹木の託宣を聞く。

『陽子と鈴。響き合うことで、彼は自身に何が起こり、誰が救うのか。知ったのだ』

 「今の世界」では、サイレンススズカはレース後に故障を発生し、鈴の未来からのフォローにより、陽子が奇跡の手術を執るのを、事前に知っていた。全てを心得た上で、競走馬の宿命を覚悟し、天皇賞秋に赴いた、とも述べた。

 大好きな馬を見守る『老欅』の眼である恭一と、意を汲んで命を助ける陽子。彼ら彼女らが、「追い掛け」する過程で恋仲になるのを、かの馬は見抜いたと、言い表した。

『恭一と陽子が結ばれたら、「最新の外科手術情報」をもたらす鈴や、「今の世界」への契機となる馨が、生まれない』

 どうすれば鈴と馨が生まれてくるのか? 聡明な彼は思慮を深めた。その結論が「入れ替わり」だ。

『それ故、サイレンススズカが心の臓を止め、「入れ替わり」を繰り返したのだ』

 鈴や馨に替わる、言い換えれば娘や息子になり、その存在を認識した。己の子が生まれるには、どうすべきか、『お導き』をどう果たすのかを確認する機会だとも言う。

『陽子と恭一。それぞれに「あるべき道」を悟る折となった』

 交代の余波は、新太や由美にしても、鈴の父や馨の母として、意識せざるを得なかった。

 本当に大切な人は誰か、重きを置くべく関係は何かを、気付く動機になった。両親になるべく、人間関係にも影響を与えたと、枝葉を揺るがして状況を掘り下げた。

「それがさっきの……」

 鈴が口に掛ければ、「東京競馬場、最終レース後の「復縁」に繋がっている」と、馨が結んだ。「元の世界」と同じ両親の関係へと戻った事実だ。

 黙るふたりに『老欅』が枝先を向け、満を持して委細を明示する。

 それは、サイレンススズカの死から生への執念が、自らの運命を手繰り寄せる端緒だ。だからこそ「入れ替わり」が発生した。

「なぜ、スズカが心臓を止めると、入れ替わるの?」 

 鈴の問いに『老欅』は、『響き』と告げた。こうあって欲しい、強い願望が『響き』だと言う。命懸けの願いで起こる奇跡とし、縁のある者たちだからこそ起きると、主張した。

 自分を助ける鈴と馨が生まれるべく、あるべき両親になるようにと、求婚した恭一と陽子を、引き離す行為だ。己の趣意を果すため、自らの命を賭して心臓を止め、二度までも「入れ替わり」を発生させた。

 サイレンススズカが、鈴と馨の出生を救ったのだ。

「陽子と新太、由美と恭一が結ばれるなら、ワタシと馨は来年の七月に生まれますよね」

 鈴が念を押すと、『そうだ』と、大きな枝が、揺れた。ただ、「今の世界」で、約七ヶ月後に生まれる者たちと、「元の世界」から来たふたりと併存出来るのか? 今いる鈴と馨は消えてしまうのか? 浮かぶ疑問への答えは、何処にもなかった。

 鈴が「どうなの?」と、広がる枝先を見上げるが、夜空には楕円の月が冷徹な光を放つだけだ。サイレンススズカの意志、未来が見通せる『老欅』でさえ、自らの生死に深く関わる状況では、分かりかねるのだと。鈴が息を呑み込み、実感を口にする。

「陽子と由美サンのお腹にワタシたちがいても、この場でふたりは、生きている……」

 「今の世界」で産まれる子は胎内で存在し、「元の世界」からのワタシたちも二本の足で立っている、だったら、「馨と生きられるわね」自分を鼓舞して宣言した。

 「今の世界」で命を保つなら、サイレンススズカの行く末を見届けたい。スズカが滅すれば、存在理由がなくなるとも、考えた。だが、

「仮にスズカがいなくても、生きて行くわ」

 そう、鈴は決意した。「元の世界」に戻れないなら、頑張ってこの地に踏み留まる他はない、覚悟すると生への意欲が迸る。今、これから産まれる「鈴」と併存している。それならば、万一スズカが消えても、存在する。鈴たちは、生きて乗り越えられる。

「絶対、生き抜いて行く。どこでも、いつでも。命果てるまで馨と一緒にいる」

 それが、音無鈴の「お導き」だと最後を力強く、結んだ。覚悟を聞く馨が、感銘を受けて紅潮する真顔を、凜として見上げる瞳へ向ける

 枝が少し揺れた。鈴には、『老欅』が『御意のままに』と励ましている気がした。


 サイレンススズカと『老欅』、置かれた境遇は違うが、陽子と恭一、そして鈴と馨を見込んでいたのは同じと、枝先を向けた。

「だから、私たちを『今の世界』呼んだんですね?」

 念を押す鈴が質すと、

「でも、どうやって?」馨が苛立つように疑問を被せた。

『老欅』が、『焦るな』と、苦笑するように太い幹を振るわせた。

『未来を見通せるのは、「時の流れ」に携わるからだ』

 千年近く生きる『老欅』が意味の説明を始める。

 風雪を耐え忍ぶことで時を知り、神秘を纏う。能力のある巫女と通じ合い、願いを聞く。

 永きに渡り神職と幾重にも重ねた物語は、様々な時運と巡り会う。歳月の先を想起し、未来を見ることに繋がっていく。

 「時の流れ」はまた、世代を超越した願望を紡いで行く。縁在りし、才徳を得た万物の霊長と、意を重ねたなら、切望は時空をも超える。そして、

『願われた者の時代の超越が、「響き」だ』と、『老欅』は述べた。

『必要される同士が「響け!」と、願いを一つにして「時の流れ」に乗るのだ』とも。

 そして、「元の世界」の史実を凌駕して行く。サイレンススズカの希求である、自らの生へ向けた「入れ替わり」も同じだと、言う。鈴はふと「元の世界」を思い出す。

 音無家と月野木家の庭にある『老欅』の子である欅は、鈴や馨と一緒に成長してきた。親の陽子と恭一からは、欅の『お導き』を教えられた。そのうち、ご縁があるかもね、と。最新の外科情報を持つ鈴と、史実を知り支援する馨。

 ふたりが時を超越した「今の世界」で、若き日の陽子と恭一が待っていた。やはり彼女らは鈴や馨が、『お導き』により「来ること」を知っていたのだろう。意識しているか、無意識かは関係ない。響く縁を持つサイレンススズカと『老欅』、六人の運命が紡がれた。

『儂とスズカに「今の世界」へと、縁を持つべく希われた。それも、「響き」だ』

 願いを寄せて縁を紡ぐ、要の真言が、『響け!』だ。

 心惹かれる栗色の快速馬へ想いを託すのを契機とし、『老欅』の「配下」である月野木馨を介し「時の流れ」を超えた。鈴たちはスズカに必需として、「今の世界」に呼ばれたのだ。

 そう捉えると、ある志望が鈴に擡げる。

「私たちは、『元の世界』に戻れるのですか?」真っ直ぐに『老欅』へ訊く。

「願いが『響く』ほど強ければ、叶うのですか?」

『全ては必然から成り立ち、何一つ意味なきことなど、ない』

 太い幹が断ずる如く、ドクンと脈を打つ。

『もういいだろう……』呟くように枝葉を、左右に蠢かした。

「だけど!」

 馨が叫ぶと、幹を強打した。だが、樹は夜の月に枝を突き刺して、動かない。鈴が楕円の月を背景に、静かな枝先を見続ける。『老欅』は黙して語らない。「時の流れ」について、

『今、話した』と、言わんばかりに口を噤んで、不動となる。

「元の世界に戻れれば……」

 鈴は、慟哭を発した。「今の世界」で生きる覚悟はある。それでも、本来のあるべき「元の世界」での人生が、望ましい。馨は同じ意を表すべく、括れた腰に腕を回す。獣医学部の五年生と自ら言う鈴が、身体の熱を受け止め、吐露する。

「獣医になりたい」

 馨が「幼馴染みと再会して、恋に落ちた」と、鈴を引き寄せる。

「過ごした日々。再び紡ぎたい」

 馨の偽らざる願望に、鈴も続く、

「馨と」「鈴と」

「「元の人生を歩みたい」」

 ふたりの本音が共鳴して、黙した『老欅』へ響かせる。

その『老欅』の『お導き』は、スズカの運命を「元の世界」での史実と変えつつある。ただ、どこであろうとも、サイレンススズカと馨へ募る鈴の熱望は揺るぎない。

「元の世界で、スズカを受け止めたい」

「どんな、状況であってもだ!」

 馨が真摯な願いを重ねた。密着する身体、お互いの熱を感じながら、巫女は祈る。

「響け!サイレンススズカ」

 本当に素直で純な迸りが、走る。通り抜ける風が、鈴の頬を鮮やかに過ぎた。

嘶きの「了解」、枝葉が囁いて「御意」が聞え、栗色の馬が、欅から夜天へと駆けて行く。駆る馬は段々小さくなり、月光と一体となる。

 天空の馬は消え、枝頭と夜空があった。月は傾き、軌跡が移っていた。時が流れ始めたのを、鈴は覚える。

「何かが変った」

 鈴が頷き、馨が頭を左右にして、

「何かが終わった」

 今までと決別すべく「『老欅』はこれ以上、語らない」と、口を震わせる彼を見る。

愛おしい、そう感じる鈴自身が二人、馨の瞳にいる。鈴を覆う腕が、さらに引き寄せる。瞳に映る己が大きくなり、閉じられる。自らの瞼も静寂を呼ぶと、気勢が口唇を襲う。求めるままに舌が、相手を認める。思考が溶け、高まる血潮を浮遊する。揺蕩う情熱は、想いを以心伝心で通じ合う。

 唇がしばしの別れ、艶やかに揺れて名残を惜しむ。火照る身を落ち着かせたいと、馨が余熱を吐く。同じ場所で、過ごすかけがえのない大切なひととき。時の流れが、自分たちに寄り添うのを、感じる。

「サイレンススズカ」馨の口から、ふと出る馬名に、

「生きて、くれないかな……」。鈴は、切望を紡ぐ。

 「今の世界」では、生と死を彷徨っている。競走馬として復帰は難しくとも、せめて、命は取り留めて欲しい。『老欅』の言葉を借りれば、かの馬が生を取り戻すなら、彼自身の所業かもしれないが。

 馨も願う、「飽くなき、命への欲求かな」と、瞼に浮かぶ馬を励ました。

 馨の大好きな馬への声援は、同じく愛する者への慈しみとなる。恋しさに覆われる鈴は、気恥ずかしくも人心地となる。そして、あるべき結果を迎えた両親に、想いが向く。競馬場を後にして別れた、陽子と新太、由美と恭一。彼ら彼女らの関係は、本来に戻ったと確信し、安堵を五体に巡らせる。

 心が緩むと、疲労が襲う。この一週間、あまりにも多くを経験していた。

「疲れた、」実感が、身体の芯から湧いた。

 欅の老木に背をもたれ、鈴はしゃがみ込む。

「大丈夫か?」

 心配とは裏腹に「若いのだから、しっかりしろ!」と、笑みを浮かべる馨は、隣へ腰を下ろす。見定めた鈴は肘打ちを見舞う。吹き出して咽せる姿に、嬉々として手を叩き、笑声を飛ばす。

「ダイジョウブか?」

 馨に似せた可愛い声が、相好を崩す。お返しとばかりに、苦笑が鈴の肩を抱き締める。厚い胸板に密着すると迸る鼓動を感じ、顔を熱色に染めて心臓が乱れ打つ。力強い腕に包まれ、背中と心が落ち着くのを待つ。ゆるりとした時間が深夜の静寂を流れる。

 肩を抱く腕に手を添え、優しさを伝えると、囲みが柔らかくなる。

 「今の世界」で出来ることはやった、鈴はそう思う。そして、サイレンススズカの生死をも超越した重要な事柄が、鈴の胸中を手荒に支配する。

 後はどうでもいい、馨と生きていけるなら。

 同じ想いが響き、お互いから通じ合う。これまでの緊張から、緩やかに解き放たれ、安心が心地よく全身を取り巻き、睡魔が巡る。

 重くなる瞼、『老欅』の幹が『まだ、寝るな』と揺れる。まるで、掉尾の揺動だ。何処かから『ありがとう』と、囁いた気がした。すると、何かが目の前を過ぎる。

 一枚の葉が、鈴の胸に落ちた。『老欅』が落とす終幕だ。手のひらで、胸にある黄色い木の葉、栗色の馬に似た姿を大切に押さえた。待っていたように「おやすみ」が耳に掛かる。

 ふと見上げると、馨の柔和な笑みがあった。安息を告げる笑顔に、眼を細めた。真夜中に、最後の光景が、瞼に消えた。



この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です


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