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第8話  そして、スズカは……

「サイレンススズカ! 死亡か!?」

 派手なタイトルが、夕方の新聞一面を乱舞していた。

 府中駅、北口改札脇の売店に、積み上がるタブロイド紙。次々と人々の手へ消えて行く。『陽子』は、府中は競馬の街だと、感じ入る。一方で、人々を呷る記事に「懸命に、頑張ってるよ。縁起でもない」と、身近な獣医として怒りを覚えた。

 午後の診療所での仕事途中、医療課長からは「あまり良くは、ないな」が、囁かれていた。それにしても、夕刊紙が記事にするタイミングではないと、憶測記事への口惜しさを、奥歯で嚙み砕いた。

 天皇賞秋、事故から四日目となる木曜日。普段の夕刊紙なら週末競馬に向け、調教や関係者コメントなどで活気付くが、スズカの状態への勝手な予想が踊っていた。

 新聞を手にした鈴は、陽子が借りるマンションにいた。これから、馨の『恭一』が、『陽子』へ訪ねて来る。ふたりだけで、今後を協議するためだ。しかも今朝、訪問を約束した際に、馨から「電話で言えないこともあるから」と、思わせぶりも耳にしていた。

 居間のソファー、スズカへの関心から、鈴が夕刊を食い入るように読む。そして、駅前に行った時に新聞を買った光景を思い出していると、チャイムが鳴る。玄関ドアのスコープから『恭一』を確認し、開けて取り繕う笑顔で迎え入れる。

 彼はスーツの上着を脱ぎ、リビングにあるL字型ソファー、短辺へ腰を落ち着かす。鈴の『陽子』が、スズカへの悩みを隠すべく落ち着きを装い、隣に座る。

「陽子サンの仮住まいだろ? 勝手に使って良いのか?」

 馨の『恭一』が遠慮がちに、居室を見渡した。だって、ワタシは『陽子』サンですよ? 『本人』が良いとしてるから、いいの! と開き直る。

「それは何より」

 来客は頷き、現状に納得すると、「仕事。今日は、何とかなったよ」快活なエールが届く。

 鈴と馨、内容は違えど『陽子』と『恭一』として働くのは同様で、月、水、木と三日経過していた。多分、馨も失敗を重ねたはずだが、鈴は不問に付した。それより今は、両人とも役目に段々慣れて、少しは楽になのが僅かな救いか。

「ワタシ、陽子さんに、助けられたから」

 馨も同じだと言う。恭一が近くに控え、事前の段取りから根回し、事後フォローなど懸命なサポートが大きいと、感謝を述べた。

 『恭一』が首元を緩めて、トレナーとジーンズ姿の隣に向く。作業着で馬の世話をするのも板に付いたと、自信を覗かせる鈴の『陽子』に、草の匂いが漂うと、からかった。

「陽子サンと恭一、どうなっているのかな?」

 馨は、プロポーズした二人が、気になると言う。将来を見越し、動いているのか? 元のカラダの『馨』と『鈴』で結婚されたら一大事だ。だが、鈴は普段通りの口調で、

「プロポーズ後という意味では、進展ないでしょ」と、冷静な反応で想起した。

「昼間は、私たちの仕事のフォローで忙しいし」と、何かを育む時間などなく、「入れ替わった立場じゃ、何も出来ないでしょ」戸籍すらないと、鈴は否定を口にした。

 脇では、ネクタイをセンターテーブルへ放り投げ、「そうだな」と、意を均しくした。

「で、電話で言えない事って、何よ?」

 鈴が、朝聞いた馨の緒言を思い出す。

「いや、実はさ……」

 口ごもる『恭一』に、『陽子』が何ごとかと、目尻を吊り上げる。馨の恐れ戦いたような「怒るなよ」の後に、一呼吸置いた。前のめりになる鈴が、早く言えと、首を突き出した。

「母さんから、連絡があって、さ……」

「由美さんから!?」

 発言を驚く鈴の唇が、何だと震えた。馨は『恭一』として、電話を受けたと白状し、

「妊娠を告げられた」

「!」

 鈴が一瞬息を吞んだ後、「そうなの……」と、意気消沈を床に落とす。確かに、誕生日は一に違いで「今いる世界」でも由美が妊娠している方が、自然だ。

「しかも、会話の途中で、『恭一じゃないでしょ? あんた、誰?』って、訳が分かんないこと呟いて」

 忌々しそうな馨。由美に鋭いカンが働いたのだ。

「思わず、『馨ですよ』って、名前を出しちゃったよ」

「何で、言っちゃうのよっ」

 鈴は「勘付かれたら、どうする?」となじり、「未来から来た息子ですって、言う訳?」と、こき下ろした。憤懣滾らす鈴、口を歪めて、問う。

「告られたアンタは、どう反応したのさ?」

 鈴の『陽子』が唇を微妙にピクリとさせ、応対を聞く。

「そこで、携帯切れちまって。掛け直しても繋がらないんだ」に加え、

「恭一には内緒にしている」とも。

 鈴は、「両親たち」の心中を読む。陽子は恭一と新太の間で、恭一は陽子と由美に間で、揺れ動いている。新太や由美も彼らから影響を受けて、戸惑っている。

多分、由美は恭一の気持ちを確かめたかったのだ。そして、由美は会話の途中で『恭一』は別人と気付いたのだ。馨が息子とまでは、分からないといいが。由美さんの恭一サンへの想い、素直になればいいのに、今さら駆け引きかと、鈴が残念がる。

 由美と陽子は、妊娠している。しかも、妊婦の『陽子』は『鈴』と、入れ替わっている。

「あーあ、面倒くさい……」

 鈴の意識を持つ『陽子』が、背伸びしながら欠伸をする。

 このまま、何も動きがなく、時が流れるなら……、微苦笑する『陽子』が呟く。

「……来年の夏に、お母さんになっちゃうのかな」

 ワタシは子どもを産むのが嫌とかじゃない。その前に考えるべき事があると、主張する。陽子にも、恭一さんにもあるべき状態に戻ってから、ちゃんと、生まれてくる子と温かい家庭を築いて欲しい、とも。

 鈴の意識を持つ『陽子』が、寂しそうに天井を眺め、不確かな将来へ意見を求める。

「元に戻るには、どうすればいいのかねぇ?」

 『陽子』が鈴に、『恭一』が馨に復帰し、心身を一致させる。そして、未来である「元の世界」へ引き返し、「普段の生活」を取り戻す。アラフィフの両親たちとの家族、大学生の娘と息子として帰還する。時空を元通りにと、鈴の『陽子』は願いを披露する。

 鈴自身としても、自分の人生を歩みたい。当たり前の小さな望みを披露した。でもどうやって? 『恭一』が問い返すと、ソファーのふたりは首を傾げて、考え込む。

 北西の方角、欅並木へ向き、黙る。壁に掛かる円形のシンプルな時計、時分の針が二つ、真っ直ぐ上下を指し、秒針が周囲を取り囲むように同じテンポで、なだらかに回っている。白を基調とした品の良いリビング、無言が浮遊するなかで、動くのは音の無い秒針のみだ。

 黙っていても、時の流れは変わらない。浮かばない答えを求めても、静かな部屋で、ふたりの意識が薄らいでいく。何かに抗うように目を開いた馨の『恭一』が、ふと誘う。

「今度の日曜日。競馬場に、行こうか!?」

 壁のカレンダーへ、『恭一』が顎をしゃくる。今は十一月五日の木曜夜、十一月八日が日曜日だと、指さした。明日の金曜は『陽子』は休みで、『恭一』は仕事だ。土日は診療所勤務と、『陽子』が隣人の膝を軽く叩いて同意した。仕事の隙を探して合流するかと、壁掛けへ瞳を凝らして予定を確認する。

「競馬場へ行った後にさ……」

 馨が問い掛けるように望むと、鈴が応える。

「日曜こそは、『老欅』に寄ろう!」

 宣言と同時に両手を打った。徹夜で競馬場の開門待ちはご遠慮と、と冗談半分で笑う。カラダを大切にしなくっちゃ、と鈴の『陽子』は真面目に告げる。仕事が終わった後、晩秋の寒い夜に外に、いたくないと妊婦の身を配慮する。「陽子さんにね」と前置きし、

「元の身体を返す為、しばらくは、力を尽くそうと思う」

 意欲を表し。鈴自身への激励する。

「そうだな、頑張れよ」

 素直な、温かみのある馨の励ましが、鈴には嬉しい。

 夜は明日へと進んでいく。それは、鈴、馨、陽子、新太、恭一、由美にも平等に時が刻まれている。週末になれば、府中の杜へ競馬がやって来る。また競馬場で、新たなドラマが繰り返されるのを、待ち望む。

「それから、サイレンススズカはどうだ?」

 馨の『恭一』は競馬ファンとして、関心を向けた。天皇賞秋で勝利し、ゴール後での故障発生。表彰式は、もの静かだと伝わっていた。執刀医は陽子、助手に鈴が加わる大手術が、四日前。馨は、新聞記事では、状況は予断を許さない、とあるが本当か? とも聞く。

「確かに手術はベストを尽くしたし、術後のケアもスタッフ付きっきりだけど……」

「……どうなるかまではね」と、鈴の『陽子』が第三者のように淡々と告げた。

 十月に福島の診療所へ転勤の『陽子』、後任獣医への引き継ぎで、今は東京にいる状況だ。

「サイレンススズカが間近なのに、会えないのよ……」

 『陽子』は「部外者」だから携われないと、口惜しさを隠して声を絞る。

「どうして?」

 馨の『恭一』が、自身の膝を両手で叩いて、疑念を荒げた。鈴の『陽子』が必死に、宥めるような、優しくも悲しい声音で、紡ぐ。

 診療所全体での担当執刀医への心配りだと、説明した。あれだけの名馬、マスコミを始め世間の注目を集めた大手術だ。失敗すれば、批判が噴出する。 

 獣医仲間にして、籍を移した「部外者」の陽子。診療所長以下、スタッフは万一を考え、陽子にサイレンススズカを関係させない配慮だと言う。何かあったら、担当獣医は非難の的だ。術後の看護まで携わったら、手術の全責任を負わされる可能性がある。

 理不尽にも世間を敵にした場合、想定される不条理な仕打ちを避けるためだ。スケープゴート的に執刀した獣医だけに、責任を押し付けてはならない、という診療所長の決意だと解説した。実際、月曜日に、マスコミ記者に追われて、囲まれた『陽子』を救ったのが、所長だ。

「そうなのか……」

 馨の『恭一』が腕組みしながら、「だから、目の前にスズカがいるのに、新聞記事と変わらない話しか知らないのか」と、不承知ながらも首を小刻みに上下さす。

 でもね、と『陽子』が、かすれるように喘ぐ。

「サイレンススズカは今晩がヤマ場……」

「それって、状況が悪化してるってことか!?」

 調子を尖らせて叫ぶ『恭一』に、『陽子』がぽつりと語る。

 日曜日の夜も深刻だった、この木曜も脈拍数など似た兆候を示し、重篤を繰り返す可能性があるとした。

 驚愕を耳にした『恭一』が、「テンポイントと同じように、」で息を継ぎ、

「骨折の手術後が芳しくなく、命を落とした状況に、再度、迫ってるのか……」と、胸から辛酸を吐き出すのを我慢し、口を歪めた。

「この前の危機は月曜の朝、奇跡的に回復したけど、」

 『陽子』がショートへアを頬へ弱々しく垂らし、

「今度は、無理かも知れない……」と、両手で顔を覆った。

 悲観する鈴、今は『陽子』が忍び泣く、まるで執刀した本人が、悲しんでいる。『恭一』は行く末を感じ取ると、目を瞑る。悲壮な表情の『陽子』と『恭一』、鈴と馨として悲嘆に暮れる。

「サイレンススズカは、どうなっちゃうのかな」

 『陽子』が両手をだらりとさせ、真っ赤に泣き腫らした顔を露わにした。

 瞼をゆっくり上げる馨の『恭一』、天皇賞秋がサイレンススズカのラストランとなった「『元の世界』の状況に近付くのか……」と、口惜しくて仕方ない風情で評した。

「それは?」の問いに、

「史実では、四コーナーで今回と同じように事故で……」

 返答はそこでためらう。全てを悟った鈴は、震える短い髪を背中に向けた。祈るように瞼を閉じて「元の世界」で召された天へ、長く深い哀惜の気吹を口から投じた。男は腕を組んで、大息と目を床へ落とすと、静寂が漂う。そして、一途に口唇を恋人へ揺らす。

「今、懸命に生きようとするサイレンススズカ、」

 『恭一』が『陽子』へ向き、その麗しい瞳で泳ぐ。

「この世界でも、もう走らないのかな……」

 鈴の『陽子』は、走れない気がする、とも嘆じた。

 その瞬間、センターテーブルの携帯電話が急を告げる。東京競馬場の診療所からで、夜の時間に「急ぎ」の連絡に、『陽子』である鈴の胸が、不吉で騒ぐ。喚く電話に、鈴が出る。

「おお、音無さん?」は、医療課長だ。

 ちょっと耳に入れておきたいんだが、と通話の先は、手招きするように本題に入る。

「えっ!? 本当ですか?……」

 鈴の『陽子』は、絶句する。聞き取れない会話に、何だと口を広げる馨の『恭一』は、声を出せない。平静さを装う『陽子』の横顔を痛々しく目で刺す。

「スズカが……。そうですか、」

 一方的な情報を耳にする鈴が、必死に耐える。

「ご連絡ありがとうございました」

 電話を切る音が断末魔のように呻き、途絶えた。『陽子』は茫然自失し、呆ける。手から役割を終えた携帯電話が滑り落ち、カーペットの上に転がり、止まる。

 何が会話されたのか、馨にも一目瞭然だった。全身を弛緩させて動けなくなった姿を横目に、 『恭一』が唇を噛んで悩まし気に両手で頭部を抱えた。

 ひとり転がる携帯電話が、再び着信を響かせる。何度もカーペットの上で、蠢く。新太からの着信表示に、『陽子』は無視を決め込む。馨もソファーで、頭を抱えたままだ。

 誰もが命消えたかのように、打ち捨てられていた。ただ、震える電話は相手を求めて、必死に泣き叫ぶ。だが、構う人間など、リビングルームには存在しない。

 やっと携帯が泣き止むが、ふたりとも身動きしない。サイレンススズカ状況に、納得していないのだ。どのようにすればと、黙って思案を巡らせる。


「スズカ、ヤバそうなのか?」

 馨の『恭一』が緊張を孕む顔を突き出した。心配する先、鈴の『陽子』は黙って項垂れていた。

「そうか……」

 恭一は嘆息を吐き、腕を組んで、床に転がる携帯電話を見入る。

「でも、実際に見ていないんだろ? スズカを」

「ええ」

 鈴は、問いに精一杯の短い答えを返す。静寂がリビングに広がる。悩ましく難しい顔がふたつ、漂っていた。

「畜生!」

 悲しく鋭い声音、『恭一』は頭を掻きむしる。ゴリゴリゴリと、必死な動きが部屋に轟く。その手の仕草が鳴り止んだ。

「よし! 行くぞ!」

 馨は膝を叩いて、立ち上がる。

「行くって? どこへ?」

 弱々しく疑問を出した鈴、『陽子』の腕が掴まれた。

「診療所」

 『恭一』は単語を力強く放ち、玄関へ突進した。

「本気なの?」

 ドタドタと後を追う『陽子』は、脚が絡むのを何とか捌き、スニーカーを突っかけた。

勢いよく、競馬場正門通りを駆け下るふたり。闇夜を全速で切り裂いて行く。いつしか、『恭一』の手は『陽子』から離れ、鈴は腕を振って走る。心臓が跳ね、身体が火照るのが分かる。頬を掠める冷気が心地いい。

「この目で、確かめなくっちゃ」

 馨は「現地現物が重要だ」と言い、口端を下げた。まったくどこで「現地現物」なんて言葉を覚えたのか。ここ数日の『恭一』としての仕事からか。

 競馬場正門前の信号を左折し、正門前を通り過ぎる。誰もいない、静かだ。一週間ほど前にあそこに並んで、行く末を悩んでいたのが、鈴には嘘だと思えた。

 そうこうしているうちに、東京競馬場の厩舎地区に到着した。ふたりとも手を太股に置き、屈んだ体躯の震えを落ち着かせ、呼吸を整える。

「それで、どうするのよ?」

 『陽子』は顔を斜めにして、『恭一』に問うた。

「『陽子』サンの出番でしょ?」

 ニッとした笑顔が、爽やかで、嫌らしい。

「言い出しっぺが、人を頼るなんて……」に「……『陽子』のテリトリーだろ、ここは」が被せられた。大きな嘆息を吐く鈴、顎に手を当て小さく唸る。

「隠れて行くしか、ないわね」

 『陽子』は、仕方がないと零す。急用を装っても後から、所長に所作を咎められるだろう。まずは、叱られるのを避ける、隠密行動だ。バレたら怒られるだけと、今後の行動を弾き出す。どうせ来週は、福島競馬場へ転勤だ。ここ数日の知識で、鈴は覚悟を決めた。

「あそこに入るかな」

「スケベ、」

 戯言に、顔を赤くした『陽子』は、ローキックを『恭一』に見舞う。「ごめん、ごめん」笑声には、鼻息を荒くして「バカじゃないの」と、もう一発だ。

 二発目は、腰を引いて避けた『恭一』が「それで?」と戯けるように首を傾げた。鈴は可笑しくって、吹き出した。気が紛れると恭一に感謝が湧く。

「舎宅のほうかな」

 『陽子』は厩舎地区近くにある関係者寮への近道だと示した。厩舎の周囲を取り巻く柵、そこに女性なら一人分すり抜けられる秘密の場所があり、今日の昼休みに舎宅に住む同僚に連れられて、ランチを振る舞われたと言う。この偶然も『老欅』の『お導き』か。

「馨だったら、厳しかったかも」

 男性として線が細い『恭一』ならイケるかも、と笑う。それなら、入れ替わりも悪くはないなと『恭一』も相好を緩めた。

「なら、行きますか」

 『陽子』は『老欅』の代理として、サイレンススズカの容態を確認しに行く気がした。


「おかしいな? 人の気配がしたんだが?」

 制服姿の警備員が探照灯を片手に、頭を左右にした。

キャスター付きの長方形したゴミ箱、といっても軽自動車の大きさがある、長辺を背にして『陽子』と『恭一』が仲良く膝を抱えて並ぶ。建物の壁との僅かな隙間。息を止めても、緊張が鼻から漏れてしまう。

 ゴミ箱の先ではサーチライトのように光の柱が、ぐるりと周囲を舐める。

 ここまで来てと、口惜しさが鈴に込み上がる。少し埃っぽい口腔が、ざらりとする。だが、こうしてはいられない。鈴が鉄箱の縁から、先を伺う。目指す厩舎までは一〇メーター、入口に扉など、ない。

「行けるか?」

 馨の囁きが、様子を伺う背中に掛かる、その時。

「まさか、ゴミ箱の裏かな」

 警備員の目線が、鈴を襲う。

「ヒイっ!」

 鈴は叫びにならない恐怖を零すと、身体が引っ張られた。今まで覗き見した短辺と反対側に動く。しゃがむ『恭一』は『陽子』の手を握り直す。怖さに抗う力強さだ。

「何もないよなぁ」

 訝しそうな面倒くささが、ライトの光と一緒に後ろから届く。鈴の手に、汗が滲む。

「あそこだな」

 先程、鈴の視線を確認した馨が、目標を定める。握る手に力が増す、瞬間。

「今だ!」

 低い掛け声で、『恭一』の脚が蹴り出された。『陽子』も全てを理解する。上体を屈めたままの全力疾走。腰が痛い。ほんの数秒が永遠に感じられる。

 厩舎の入口に飛び込むと、左右に分れた。乱れる息で揺れる肩を、壁に押し付ける。壁の木目を見ると、木とワックスの匂いが鼻を擽る。この香りは、鈴は嫌いではない。

 ゴミ箱の周囲で歩き回る警備員。首を捻ると「気のせいか」を口ずさむ。ブーツで地面を荒らす音と光源が、遠ざかる。外を用心しながら、馨が近付く。

「助かったな」

 馨が口臭を投げた。この香りも、鈴は嫌いではない。何時もの感じに、落ち着きを取り戻していった。


 ほの暗い厩舎はひっそりとしていた。通路の両脇にある馬房では、誘導馬たちは眠りに就いている。ぼやけた灯りを頼りに、薄氷を進むべく、末の止まりへ歩んだ。

「この先よ」

 『陽子』が、薄らとした青白い照明の先を指で示した。突き当たり奥の馬房、特別な部屋だ。今は就寝中か、灯りは消されていた。

「あの先にスズカが、いるんだな」

 『恭一』がゴクリと喉仏を動かすと、『陽子』も釣られて唾を嚥下した。

「行きましょう」

 鈴が馨の腰を軽く叩いて促した。ふたり同時に頷くと、歩み始める。そっと歩くはずが『恭一』の革靴の底がコツコツと闇に反響する。『陽子』が馬房に行き着くと、その音が止まる。下が木製、上が金網の扉。その前に並ぶ。

「いるかな」

 鈴が金網に手を添え、少し前のめりになる。暗いなかに馬がいる気配がする。夜目が慣れると、薄らと栗色の馬体が浮かぶ。静かに立っている。

「サイレンススズカ……」

 鈴の呟きに、馨も身を乗り出す。森閑とした漆黒に黄金色が、溶け込んでいた。

「生きて、いるよな?」

 おっかなびっくりの馨も、鈴の後ろから、背伸びする。

「当たり前よ! 馬は立位で眠ることが出来るのっ」

 馨の呟きを密やかな怒りで押し戻す。馬は、何かを忘れたいように、忘れられたいようにひっそりと佇んでいた。ただ、怪我をした左脚にはキャスト、白いテーピングが覆われ痛々しい。

「何も出来ないよなあ」

 馨が安心と残念を混ぜた微妙な感情を吐露した。確かに彼には、何も出来ない。ただ、『陽子』も獣医なのに、立場は同じで変わらない。虚無感が、鈴を取り巻く。

「今さっき、安定したんだ」

 知った声音に、鈴は振り返る。

「医療課長!」

 ベテラン獣医が顎をさすり、仕方がなさそうな苦い笑みを携えていた。

「夜討ちまで、とはねぇ」に続き「この人は?」の横目が向く。

「恋人です」に、『恭一』が腰を折る。

「そうか」と息を吐き、普段の口調で説明する。

「落ち着いたけど。さっきは心肺停止の直前だよ」

 それは、電話で聞いた話だ。

「いや、このままだと、いいんだけどねえ」

 眉を寄せる悩ましい表情、窒息し掛けた「何とかならないのか」が伝わる。『陽子』の沸き起こる「ワタシも看護に携わりたいのです」が喉で詰まって、消えていく。百戦錬磨の手練れでさえ、手こずる状態だ。中身は獣医学生の鈴に何が出来るというのか。自尊心すら砕けてしまいそうだ。

「でも、今までからすると、今晩もまだ、一波乱ありそうだねぇ」

 繰り返しだと、医療課長は眠い目を擦る。

「そうなんですか」

『恭一』が爪先を立てて、凝結した面持ちで迫る。

「何か、サイレンススズカが意思を持って、私たちを翻弄している気がするよ」

 課長は、『陽子』と『恭一』に対し、わざと軽く話す。右手の手刀で、自らの首を起きろとばかりに、二、三度叩いた。

「意思を持って、翻弄している……」

 鈴の胸に、介護現場で懸命に格闘する人間の台詞が染みていく。真剣な眼差しを馬房に向ける『陽子』が呟く。

「サイレンススズカの意思と『老欅』の『お導き』が、関係しているのかも」

 『恭一』が「鈴……」と中身の名を呼んだ。ただ、鈴は、眠る馬を黙って見るだけだ。

「まあ、任せておきなよ」

 医療課長が『陽子』の横顔を刺す。彼女がこれ以上馬房にいて、騒ぎにしたくない強い指示が込められていた。まあ、それしかないと『陽子』は小さく頷いた。

「よろしくお願いします」と頭を下げると同時、

 『陽子』は意を決して、踵を返し歩み始めた。『恭一』も慌てて、背中を追う。なぜ、『老欅』はスズカの容態を『陽子』たちに垣間見せたのか。鈴は疑念を抱き、脚を繰り出す。

「気い、付けてな」

 用心に見送られて、外へと向かう。舎外で数歩進むと、『恭一』に大声が飛ぶ。

「この、不審者がっ!」

 遠くから警備員の声が血相変えて、駆け寄って来る。

「ヤバイ」

 馨は、驚きで声の出ない鈴の手を引き、元来た道順で逃げる。眠るはずの厩舎地区、騒々しさが追い掛けてくる。何とか、迫る人間と同じ速度になると、差が維持される。

「まったく、サイレンススズカだな」

「何よ、その意味」

「俺たちの状況、そのままだって」

「不謹慎ね」

 『陽子』の台詞は、決して固くない。馨の優しさへの感謝、スズカに会えた嬉しさ、未来へ不安と希望、様々感情がカオスのように蠢いていた。

「その人たちは、放っておいてもいいぞー」

 厩舎の入口から、医療課長の声が厩舎全体に伝播した。寝ている馬を起こさないように、逃げて追う人たちに届くように、絶妙な大きさだった。


・・・


 鈴は布団の上で、目を覚ました。

 午前六時、仕事行かなきゃと、無意識に身体がむくりと起きる。だが、カレンダーは「6」の数字に赤いバツが描かれていた。

 十一月六日金曜日、今日は休みだと寝起きの後頭部を叩き、スイッチを入れる。空には雲が垂れ込める、肌寒い朝に両手で腕を擦る。

 土日の東京競馬開催、月曜日から転勤先である福島競馬場の診療所が手配した寮生活が迫る。  『鈴』の帯同を所長に相談しても「難しいなぁ」と、ひと言だ。一緒に行くなら、個別にウイークリーマンションでも、手配するしかないのか。『陽子』として東京を離れての生活、見通せない先への不安が擡げる。結局、妊娠と退職の話は勇気が湧かず、出来ず仕舞いだ。考えるのが嫌になると、鈴はゆっくりと上体を上げる。

 ふと見ると、隣のベッドでは、陽子が寝息を立てている。胸の上で両手を握り、安らかに眠る白雪姫ように美しかった。鈴は寝起きが抜けない目で、整った表情を久し振りに、愛でていた。ただ、今日は気が重い。

 せっかくの休日、新太とまた会う予定だ。昨日の晩、一度は着信を無視したが、コールが重なった。結局『陽子』として受け応えし、会いたいと願う新太に根負けした。

「分かったわ」と、同意した時は胸が苦しかった。仲違いしたい訳ではないが、前回のケンカ別れが心の傷か。せっかく会うのだから、綻びを取り繕う糸口だけでも掴みたいと思うが、果たして、どうなるか。

 『陽子』として、新太と仲を取り持ちたいの義務感が、圧し掛かる。これから身支度だと、面倒くさそうに鏡を目にし、首を左右に振ると黒い髪が、はらりと揺れた。

 陽子のショートヘアではなく、長い髪だ。手元にあるヘアゴムで束ねサイドテールにすると、驚くことに自分がいた。静かに立ち上がり、見下すのは、寝入る陽子だ。鈴は右手を頬に当てると、自信の手のひらの熱を感じた。

「私に戻っている?」

 両手で軽く顔を叩くと、目が覚めて意識が戻る。

「スズ、どうかした?」

 陽子が、ベッドで上半身を擡げた。妊娠した陽子に遠慮して、居候の鈴が、隣に敷いた布団で寝ていたのだ。

「あれ、あたしベッドで寝ている?」

 陽子は、お布団だったはずだけどと言い、鈴に目を向けた。お互いに確認し、見合う。「えへへ」

 鈴の照れ笑いと白い歯が二つの口から零れた。陽子が鈴の右腕を、事実を確認するように、一度叩く。促された鈴が、意を得たりと、明言する。

「元通りに、戻っているね」

 鈴が、陽子に抱き付く。朝日で輝く麗らかな顔を認めると、四日振りの自分に、実感が嬉々として湧く。

「よかった」と、安息する陽子を解放する。

 両手を天に突き上げ「やったね」と、感激を届けた。その両腕を己へと迎え入れ、久しぶりの身体を抱き締める鈴は、「おかえりなさい」と、呟いた。隣では、陽子が懐かしそうに、まだ目立たない腹を擦る。まるでお腹のなかの子と、会話しているようだ。

 鈴はすがすがしさを取り戻したのと同時に、晴れて自由の身なのを理解する。このタイミングで、状況を頭に巡らせると、想いを新たにする。

 あるべき姿は取り戻した、後は自分の未来を取り戻したい。そして、馨と一緒に「元の世界」に帰りたい、と。

 『恭一』に入れ替わった馨に心配が向くが、不思議と悲観が浮かばない。馨も元に戻っていると、希望に彩られる。

 「元の世界」に戻る方策は、未だ、鈴は知る由もない。ただ、熱い願望が、試合前に気合いを滾らす競技者のように渦巻いていた。

 今日こそは、陽子と新太の間を取り持とう。だが、鈴は現実を認識する。これからは、陽子自身が本人として、新太に会うことになる。

「新太さんと二人で、大丈夫?」

 鈴が顔を覗き込むと、

「行くしかないでしょ……」

 陽子から、硬い意欲が返る。口調は決して否定的、後ろ向きではないようだ。

 一緒に行ったほうがいい? には、陽子が短い髪を縦に揺らした。新太に会う意志があるなら、鈴は二人の仲をフォローしたい気持ちが湧く。陽子と新太、両親を結び付ける。鈴は胸に力こぶを作り、意欲を満たす。

「さて、着替えますか」

 鼓舞するよう部屋一杯に、元気を響かせた。陽子は大声にあてられたのか、決意を示すように、折り目正しくパジャマを脱ぐ。

「鈴ちゃんの言う通りね」

 微笑む表情には、変らなければの覚悟を、鮮やかな血色として散らす。鈴は、自身に復帰した幸運と前を向く陽子に共感し、家の屋根から跳び上がりたくなるほど嬉しくなり、今日は絶対に良い日になると、自分に言い聞かせていた。


 陽子の友人と称した鈴が車を運転し、新太をピックアップした。お互いが住む実家は近く、近隣のファミリーレストランへと向かう。

 バックミラーの左側、陽子が休日なのを知る彼は、出勤を遅らせても大丈夫と、ゴリラのように胸を叩く。妙な所で自信家だ。ふざけた態度が少し嫌だと目を逸らす先、右隣では色を失った唇を結んでいた。鈴は、無理もないと同情しつつも期待を抱き、駐車場へと黄色いウインカーを明滅させた。

 到着したファミレス、モーニングが一段落した店内は、人も疎らで落ち着いていた。陽子と新太が、四人掛けボックスで視線を躊躇させ、義理のお見合いのように対峙する。鈴は、体調を心配する介添え人として、二人を垣間見れるカウンター席にさりげなく座る。

 精彩を欠くのを我慢して、薄い笑みを浮かべる陽子。新太は、朗らかなのか心配しているのか妙な表情で、何を考えているのか分からない。鈍色のどんよりとした間合い、鈴は嫌な予感がした。

「どうするんだ?」男の声が、低く迫る。

「え、その言い方なの? 新太?」

 唐突な展開に面食らう陽子が、毒突くように問い返し、続ける。

「どうするんだ? じゃないでしょう!」 

 陽子は、新太の意志が分からなければ、始まらないと、困惑顔だ。

「今の君、妊娠してるんだろ?」

 新太は、俺が一方的に何かを判断するのは、キツいよ、そう言い放つ。父親は誰? の疑いを暗示していた。

 会話の冒頭から、ケンカ別れの前回を引きずって、ボタンを掛け違える未来の両親たち。すれ違う状況に、鈴はめまいを覚えた。

 陽子は恭一と新太で揺れ、壊れそうなほど悩んでいる。不明瞭な己の気持ちを唾棄する陽子は、申し訳なさの罪悪感に囚われている。新太から手を差し伸べ、彼女の呵責を振り払う事が出来ればと、鈴はもどかしさを感じた。女心を理解しない若き「父親」に、歯がゆい目を刺す。

「だからって……」

 陽子は焦燥で声を擦れさせ、

「私から、お願いしなきゃならないの?」

 助けを求める、悲痛な叫びだ。口にはしないが、新太と恭一の間で苦しんでいる、私の辛さを分かってよ、素直に抱き締めてよと、希っている。

 カウンター席、ローストされすぎたコーヒーの焼けた臭いに耐え、湧いてくる怒りを抑えた鈴は、聞き耳を立てる。

「そうは言っていない。君の意見を聞いてだな、冷静に判断したいのさ」

「何よ、条件次第ってこと!?」あり得ない! と、驚き悲しむ。

「状況が複雑すぎる。まず整理して……」男は宥めるように言い、「……お互い考えようと、主張しているだけだ」何も否定からでないと取り繕い、焦りを払うように両手を振る。

「違う、違う。新太、違う」

 首を左右に揺らし、陽子は悔しさの滴を頬へと流す。驚く新太は面前から逃げ、目を泳がせた。逃避する態度に、陽子は無念に感じて表情を歪め、崩れ落ちテーブルに伏した。背中を震わせる女性を、あ然として見下すだけの能なし男。

 もう我慢できないと、鈴はボックス席へ、いきり立って大股を放つ。

「陽子さん、」揺らぐ肩に手を寄り添え、「大丈夫?」と、

 自身も落ち着くように、背中を擦る。

 無理解の呆ける姿に向き直ると、厳しい表情で突き刺す。研ぎ澄まされた鈴の目力は、驚き狼狽する大きな体躯をのけ反らせた。

「新太さん」

 名を呼ばれた男は、瞬きと息を止めた。

「たった一言から、入れませんか!?」

 鈴が鋭く放つ言葉に、観念するように相手の喉仏が動いた。

「愛してるから……」

「……どんなことがあっても、一緒にいよう」ですよねと、切望を剥き出しにして迫る。

 生まれ育った地元、二人っきりで、会っているじゃないですか? 婚約者なんですよね? 恋人ですよね? 新太さんと陽子さんの関係は、根幹そのものじゃないですか。それを何ですか? 陽子さんを疑うように。将来を不安がる新太さんの気持ちも分からなくはないです。でもそれは陽子さんも同じですよね? 今までなんてどうでもいい! お互いを信じて、未来に向けばいいだけじゃないですか!

 鈴はシンプルに、だが、厳しく責める。

「鈴ちゃん。いいわよ」調子の悪そうな陽子に、

「良くないですよ!」

 鈴は容赦ない。気圧される新太に、怒りの奔流を巻き付ける。憤怒に恐れたのか、肝心の陽子と新太が黙り込んだ。言うべきことがあるのでは? 憤りを男にぶつけるが、動かない。何とか間合いを詰めようと、

「新太さん」

 名を呼んで促すが、効果なしだ。これでは仕方がない、の気持ちが鈴に生じる。そして、

「今日は陽子さんも調子良くないんで、これで失礼してもいいですか?」

 質問調だが、固い意志を一方的に言い放つ。

 鈴は弱々しい両肩を優しく支え、心配そうに顔を覗き込む。帰ろうか? との問いに、小さく頭が縦に動くと、ボックス席に一礼して、店を出る。

「しっかり、掴んでおいてください」

 去り際、鈴が、何か言いたげに手を伸ばす元へ一喝する。新太が陽子を愛し、心を捉えブレずに離さないで、と、責め立て叫ぶ。

「掴んでおいてください、か」

 やっとの思いで、新太は復唱していた。

 支払いレジの脇、販売しているスポーツ新聞、

『スクープ! サイレンススズカは重篤か!?』が、謳われていた。昨晩の医療課長からの情報と同じく、容態悪化が特ダネとして報じられていた。横目でドアを開ける鈴の胸に、少し痛みが刺す。

 外に出ると、空が鈍色で重く垂れていた。曇天を見上げた鈴は、しまったと、後悔を思い込む。

 『陽子』の際も感情的になり、結果として新太との隙間を作ってしまった。本来は「両親」の陽子と新太、鈴は仲を取り持とうとした。陽子の妊娠に不安がり、腹が定まらない新太を、将来の父親として叱咤激励した。だが、鈴自体の願望と焦燥が、前のめりで出てしまった。今回も、お互いの会話は途切れ、結果、願いとは逆に二人は離れた。

 鈴が、息苦しくなったのは、「両親」と未来の存在が、否定されたからか。「入れ替わり」が元に戻った今、「元の世界」であるべき姿を取り戻したい想いが鈴に募る。

「日曜日に、競馬場で馨と会ったら、何て話せばいいのやら……」

 約束すら覚束ないと、鈴は嘆息に抗い、呑み込んだ。これで「元の世界」へ戻るのが、遠のいたか? 鈴が目にする上空は、すぐにでも地面に嫌なシミを作りそうな、どす黒い暗雲が立ち込めていた。


この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です

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