第7話 父と娘?
「やっぱり……」
鈴の『陽子』は、残念をごまかすように口端を吊り上げ、微妙な息を吐いた。目の前で恭一の『馨』が腕組みをし、決まりが悪く愛想笑いを浮かべる。
「恭一さんですよね」
『陽子』が姿だけは恋人の中身を確認する。
『馨』から「そうだ」が返る。恭一と馨の入れ替えを認めた陽子の『鈴』が右手を額に当て、悩ましげに頭痛の素振りをした。
朝の清々しく冷涼な秋景色、府中馬場大門の欅並木で、まずは三人が落ち合った。『老欅』の元、何か「入れ替わり」のヒントがあればの行動だ。
鈴として本来の待ち人は、一本後の電車だという。恭一曰く、「一人になりたい」とのこと。まったく、鈴自身も緊張するが、そこまでヘタレでないと、少し腹が立つ。
朝日を浴びる『老欅』は、特に変わらない。何かを語る気配は皆無だ。数日前に『老欅』の声を聞いた時に比べ、元気を失っている印象がある。
「少し、落ち着いて話しましょうか」
陽子の『鈴』が冷静に提案すると、「そうするか」と、恭一の『馨』が同意して側道へ歩む。ふたりの背中を眺める『陽子』は、元の中身として、実に妙な感覚だ。
行く先は、府中駅北口にある喫茶店。遅れる相手には、恭一が連絡を入れた。
通された店内、窓際の円卓へと案内される。問題を協議する関係者は、雁首を三つ揃え席へ向かう。
窓からは外の欅並木と『老欅』。やはり樹勢に乏しく、鈴にでさえ、臨終近くに感じる。実際、喫茶店の店主によると、『老欅』は寿命で、今月末に切り倒す予定だ。倒木の可能性を考慮しての処置らしい。示し合わせて府中の『老欅』、終末の声を聞く為に集うのか。
十一月三日、旗日のモーニング時刻。開店直後は案外、空いており、客は他にいない。静かな店内、ドアが隙間風を通すと、ベルがカランと乾いた音を立てた。
来た! 感知した鈴が途中で、入口へと振り返る。開く扉の先、『恭一』が入店と同時に『陽子』へ抱き付いた。
「か、馨!?」
「ふうん、ボクが馨って、分かるんだ?」
「やっぱり、鈴ちゃんは、馨クンが好きなんだよ」
『馨』の恭一が冷やかすと、
「姿形が変っても、恋人っていいわねぇ」
陽子の『鈴』が抱擁するふたりを、微笑ましく目にしていた。
鈴が予想した通り、『陽子』と『鈴』、『恭一』と『馨』の組み合わせで、親子が入れ替わっていた。事実を確認した鈴の「入れ替わりが的中しても、ねぇ……」の後、『陽子』と『恭一』は少し離れて、指を差し合い、嘆息を送り合う。
窓際の四人、右奥に座る鈴の『陽子』、「入れ替わった」男女ペアが同性と相対するが、皆落ち着かない。黙っていると、陽子の『鈴』が口端を切る。
「欅並木で最長老の『老欅』、係るご意向って知っている?」
不思議な霊力を持つ欅の伝説とも言う。
「『老欅』の、」と『恭一』が言えば、「『お導き』ですか……」と『陽子』が続く。
隣席の「その通りね」を聞く『馨』は腕組みして、黙って頷いていた。
陽子の『鈴』は「音無家は巫女の系譜。恭一の月野木家は『老欅』縁の源氏の系譜」、一呼吸置いて、「府中で勤め始めて『老欅』とは親しかったわ」を口にする。
更に、「『老欅』が恭一の「目」を通じてサイレンススズカを応援し続けた」と「私がいると『老欅』と会話できた」と、語る。
「あなたたちも「能力」が、あるのかしらね?」
『鈴』は、母親のような慈愛の笑みを『陽子』と『恭一』に、注ぐ。
「それは……」と『恭一』が言葉を詰まらせれば、「分からないです」と『陽子』が零す。
「そうなのねぇ」と可愛らしい『鈴』の笑顔が、疎ましい。
鈴が母親から聞かされた『老欅』の伝説。冗談を言いながら、何かを探っている陽子の態度が不気味だ。
未来からの来訪者である鈴たち、やはり、タイムスリップは伏せることにした。本来は、陽子と鈴、恭一と馨が親子のはずだが、今は父親が異なる恐るべき可能性がある。タイムスリップを語ると、複雑な状況の説明が必要だ。一層の混乱を憂慮し、差し控えた。鈴の意が伝わるように、『恭一』がコーヒーカップを静かに口にする。
『鈴』も問い掛けを諦めて、外を眺める。気持ちの良い青空が窓から望めた、だが、誰も外に行くと言わない。わざわざ府中に来たのは、『老欅』の元で『お導き』の声を聞くのではないのか? 鈴の『陽子』は口に出せずだ。状況確認や今後の対応。四人での話は山ほどあるのに、だれも言い出さない。
「昨日から。一層、調子悪くて……」と、陽子の『鈴』が首を振り、「……消え入りそう」と嘆いた。
『馨』は、「俺も体調、良くなくってさ……」と、肩を右手で揉み苦笑して首を数回振り、「……煙になりそう」と追随した。
恭一と陽子のプロポーズ、「入れ替わった」後でも成立しているのか? だから、生まれ得ぬ『鈴』と『馨』が、消えそうなのか?
鈴の『陽子』は腹部に手を置き、窓の先に静まる『老欅』を睨むが、黙して語らない。悲しく歪む表情で外を見続ける。そして、ワタシの存在って何? と、頭を巡らせるが、答えはなかった。
混乱した状況下、「元の姿」で「元の世界」へ戻るなど途方もなく、鈴の心へ焦りが責める。これも、『老欅』の『お導き』なのか? だとすると、何のためにプロポーズや「入れ替わり」なのか? 鈴は幾度となく、胸の内で疑心を反芻する。
「どうするかねぇ」
恭一の『馨』が、両腕で頭を抱えて、背中を丸める。
「ま、どうしょうもないじゃない」
陽子の『鈴』が、焦げ茶色に濁るコーヒーへ、あっさりと現実を投げ捨てる。その潔さに三人があ然とし、目線を集める。
「暫く、様子をみるしかないでしょ」とも断じ、「誰がどうすればいいのか? なんて分かんないんよね」と言い放つ。他に考えがあるなら言ってみろと泰然として、カップに口を付ける。
「『鈴』ちゃんとして、誰を愛せばいいのか? よねぇ」
ブラックコーヒーの苦味を、『鈴』は表情に浮かべた。
鈴は、辛辣な台詞の意味を自身に置き換え、堅苦しい息を吞む。入れ替わりで、鈴の『陽子』は馨の『恭一』を愛すべきなのか……。
「アナタ、鈴ちゃんが中身の『陽子』サンは、どうしたいの?」
陽子から問われた鈴の心臓が止まり掛け、必死に考えを巡らせる。だが、「どうすればいいのか?」、そんなの今は答えが出ない、と、絞りだす。
「確かに、そんなの分からない、よなあ」と、快活な声。
深刻な『陽子』を見かねて助け船を出し、ワザと陽気に反応する恭一の『馨』が、物悲しい。本当は恭一も難渋しているのだが、ごまかすべく戯けている。
悪ノリで上塗る男の苦悩を、鈴が巡らす。恭一さんは、陽子サンにプロポーズしたけど、「元の恋人」の由美サンをどうするのか? 陽子も新太がいるし。その関係も決着付ける必要があるじゃないの?
鈴が、第三者として背景を想起した。まるで現実逃避だが、決して他人事ではなく、鈴の『陽子』本人は当事者なのだ。鈴は、自分事の自覚からこそ、己を含めて意識を逸らす当事者を胸中で嘲笑した。
席の反対側で、馨の『恭一』が、外の『老欅』へ不機嫌な目を角に立てていた。
「俺は、一九九八年の「異世界」で、アラサーで取り残されるんですか?」
立ち上がって、両手でテーブルを叩き、怒気を振りまいた男に注目が集まる。
「鈴はどうなる? 『陽子』サンのままなのか?」
『陽子』に変わり果てた鈴。行く末を問う指先に、切なさを乗せた。
「意識を重視するなら、馨の『俺』は、鈴の『陽子』サンを愛するべきなのか?」
大声を放ち終え、電池切れで元の席へ崩れ落ち、元凶たる老いた大木へ、咎めを飛ばす。厳しい状況に、『老欅』を恨む馨の心情は、痛いほど分かる。
鈴の『陽子』は複雑な想いで、一瞥を『恭一』に投げる、「一体、誰を愛すべきか」と。こんなシンプルな答えが四人には、最も悩ましく複雑な問題だ。心と身体。どちらを優先させるべきか? 鈴は右の人差し指で、テーブルをコツコツと叩き苦慮する。
馨の『恭一』と愛し合うべきか? それでは、鈴と馨は生まれないのか。ならば、鈴の『陽子』は新太と、馨の『恭一』は由美がいいのか? そうすれば、「今の世界」でも鈴と馨は生まれるのか? 陽子の「従来」の恋人である新太が良いのか? でも、新太は鈴の父親だ。それは考えられないと、父娘の本能が葛藤する。
それとも、他の選択など、あり得るのか? しかも、『陽子』は妊娠している。「元の世界」で読んだ本の通りなら、由美にも可能性がある。
だったら、何をどうすれば? そこで鈴の思考が、凍結する。
肝心の『鈴』と『馨』も物憂げな顔で、窓の外の『老欅』を眺める。あの二人も単純ではない。陽子も恭一も別な相手がいるのに、サイレンススズカ勝利の雰囲気に酔いしれ、プロポーズして、受けたのだ。「入れ替わり」により、勢いの行為と、己の立ち位置に気付いるのか。 『鈴』と『馨』の姿では、本来の恋人である新太と由美には、想いが届けられない。だから、『鈴』と『馨』は「どうするか?」と悩み、救いを求めて『老欅』へ目を向けるのか。
「これが、『老欅』の『お導き』なのかしら?」鈴が零す。
今度は『陽子』に視線が集まる。そして、この場全員へ「元は同じだから、愛し合えばいいのよね」と、問い掛けの回答を口にし、「姿形を変えたって、中身は変らないでしょ」とも言明した。加えて、愛があればいい、とも。
『陽子』の宣言は、陽子と恭一に、本物のプロポーズなのですか?」と、遠回しに真意も問うが、二人からは答えはない。
府中馬場大門の欅並木、ここへ来たのは『老欅』の『お導き』を聞く為ではないのか。鈴はそう思うが、誰もが『老欅』を避けていた。何か「元に戻る」ヒントを得て、何かを知るより、皆、怖いのだ、未来を聞いてしまうのを。
四人は、ただ『老欅』を見詰めるのが、今は精一杯だ。鈴は『陽子』しての生活が続くのかと想像すると、何も語らない『老欅』に、無念を込めて睨んだ。
ふと、恭一の『馨』が「サイレンススズカはどうだ?」を『陽子』に向けた。天皇賞秋を勝利後、事故に見舞われた。手術担当者への問いに、今は小康状態で、急変は届いていない。予断を許さないが、状況は小休止が続いている。鈴の『陽子』は、診療所の医療課長からの耳打ちを披露すると、全員から一安心の息が漏れる。
少しは良くなっていればいい、鈴がそう祈ると、本来の手術を執刀医である陽子の『鈴』が、いつ容態が急変しても可笑しくない、獣医としての重い見解を述べる。鈴も嫌な予感がする。何とも言い難い雰囲気が場を支配する。
苦悶する両目を閉じる『鈴』に、「ま、様子見るしか、ないよな」と、『馨』が開き直るが如く、大げさに腕を広げた。まるで『馨』自身、現実を噛み締めるようだ。
そして、『恭一』がテーブルの伝票を持ってレジに向かう。もう、この四人で話す事などないと、判断したのか。確かに『老欅』も語る素振りもない。
結局、店を出てから『老欅』には寄らなかった、すぐ近くにいるのに。大人しく家に帰る同性二組。分かったのは「入れ替わり」のみ。府中の『老欅』で、鈴たち四人が邂逅するも、解決の糸口を得られなく、混乱した状況を確認しただけだ。
混沌とする魔女の鍋から誰もが逃避したかった。だが残酷にも、時は「入れ替わり」に関係なく刻まれて行った。
今朝、起床したら、元に戻っている鈴の期待は、淡い夢で終わった。
こんな状況でも、普通に、日常は来る。『陽子』は車で東京競馬場の診療所へ向かい、運転手の『鈴』はフォローの為、今日も駐車場で待機となる。
祝日明けの水曜夜、天皇賞秋からは三日目だ。診療所長の脅しが利いたのか、マスコミ記者に追い掛けられなかった。
ただ、朝礼の報告では、サイレンススズカの状況は小康状態から一転、昨晩夜に悪化したという。診療所長は急変する容態に、携わるスタッフ以外には箝口令を再び、敷いた。執刀医だが、 部外者の『陽子』も例外ではなく、件の医療課長から情報を得るのみだ。
僅かな救いは、初日とは違い、職務の雰囲気の少しは慣れたことか。『陽子』として、彼女の業務を何とか、こなして行った。
仕事終わりの車内で、スズカの容態悪化を『鈴』に伝えると、「そうなの」が漏れた。そして、ハンドルを握り直す『鈴』、『陽子』と一緒に無言で、荻窪への帰路についた。
そして、実家に戻り、鈴の『陽子』が着替えるべく、部屋着のスウェットを手にした時。
「『馨』クンだよねぇ!? 私、アプローチしちゃおっかな」
陽子の『鈴』は後ろから、鈴の『陽子』に抱き付いた。二階の部屋から、夜に嬉々とした声音が響く。今の不可思議な現実を振り払う、弾け振りだ。
「だって、彼。細面で、ニヒルで、」が囁かれ「案外、いいオトコじゃない」と、セーターが形作る『陽子』の緩やかな膨らみを指で突く。
「案外は余計ですよ」
口を尖らせた鈴、「確かに、恭一サンに似ていますね」と追随すると、
「分かっているじゃない」が耳朶に触れる。
男性の好みまで母娘は似ているのか、少し残念な気分になると、反発したくなる。
「馨は、捻くれていて性格悪いですよ」
「そんなの同じだわよ」
『鈴』が、分かっていると評し、「若い分だけ『馨』クンはまし、オジサンはもっと面倒だから……」と嬉しそうに、頬ずりをする。小ぶりだがバランスの良い、母娘とそっくりな『陽子』の胸を、軽く叩く。鈴は、無視して我慢する。
「ね、馨クンは素敵かな?」
「え、何を?」話題を避けるべく惚けるも、
「男性として魅力的?」
陽子の『鈴』が、生温かい吐息で耳朶を舐め、白いニットの上から乳房を撫でる。
「ええ、まあ……」
叩首する鈴の『陽子』に、「オトコとして?」が迫る。
「抱かれれば、嬉しいですし」
「あら、まあ。ごちそうさま」
控え目な鈴、普段は口にしない台詞が衝いて出た。陽子に対抗意識が働いたのか。思わず、鈴自身の経験を母親へ露わにし、下唇を抑えて噛み締める。
「ねぇ。アノ時の馨クンて、どんな顔しているの?」『鈴』は、更にからかう。
「もう、知りません」『陽子』が、本気で拗ねる。
「ふ、ふ。悪かったわ。ゴメンナサイね」
さすがにふざけ過ぎと、陽子の『鈴』は謝り、座布団を勧めた。同時に座ると、『鈴』はフフンと鼻を鳴らし、楽しげに宣言する。
「『陽子』サンは、これから一仕事だねぇ」
一仕事? 鈴の『陽子』が首を斜めにして、眉間を窄めた。
「新太が来るのよ」
「聞いていない!」
「今、言ったから」
後方へ飛び跳ねた『陽子』、顰めた顔で見下すと、苦い笑顔へ睨みを効かす。
鈴の実父である新太、陽子の婚約者にして恋人だ。もっとも、陽子が恭一からプロポーズされ、フィアンセの立場も微妙なのだが。
顔が陰る陽子の『鈴』が「この家に、来るのよねぇ」と、他人事のように呟いた。音無家に電話があり、陽子の母親から、「携帯に留守電、入ってたでしょ」とも指摘した。
着信に気付かない鈴が「いつ来るのよぉ?」と、『陽子』として恐れ、「これから、すぐ」を耳にした。
「まさか、夜の伽はないでしょうね」
強ばる顔面を、鼻先へ押し付ける。
「無事、だと思うよ」の作り笑顔で応答する先に、
「答えになっていない!」懸念を表にする。
『鈴』は、優しい調子で「私には、フレンドリーだから」に、『陽子』は「だけど……」と、擦れた空気をやっと出す。
鈴の意識として、新太は父親だ。恋人なんて無理だ。それに、陽子は恭一のプロポーズをOKしている。そんな二股状態で、どう対応するか、鈴には考えが及ばない。重い胸騒ぎを、口を尖らせ投げ放つ。
「一体、何しに来るのよっ!?」
陽子の『鈴』は、迫る詰問をかわすように「大ジョウブ、大丈夫、」を軽い笑いと共に繰り返した。いい加減な回答や根拠のない励ましは無責任だと、腕を組んで頬を膨らませた。陽子が帰宅するなり、鈴に絡んで戯れたのも、新太訪問の逃避なのか。
「恭一さんのプロポーズ。どう話せば良いんですか?」
鈴は一番の懸念を直言した。
「任せた」
「任せたって……」そんな、いい加減な、と、強い口調で、鈴の『陽子』は口を尖らす。
「どうすれば、いいんですか?」
ワタシは新太サンを婚約者として、殆ど知りません、と、批判する。
『陽子』の糾弾に、『鈴』が目を逸らす。交わされない視線と会話、漂う緊張を含む静寂、『鈴』は苦し紛れの息をする。
「そうだねぇ……」
言葉尻が切れ、手を額に当て悩む姿。鈴は、恭一サンも婚約者のいる女性に勢いでプロポーズするなんて、信じられないと表情を厳しくした。
「……そのままだよ」曖昧な返事に終始すると、
「どういうこと?」『陽子』が突っ込む。
「まだ、正直迷っている」
迷走する母親に、娘は詰問を始める。
「迷っているって、妊娠しているんでしょ。ためらうこと自体が可笑しいし。理不尽な態度は、 新太サンだけでなく、お腹の子にも悪いですよ……」
娘である鈴の『陽子』は、優柔不断な態度の母親である『鈴』を、問い詰める。
「そうなんだけどさ。踏ん切りがつかなくて」
陽子の『鈴』が、責務から忌避すべく首を左右に振り、言い逃れようとする。よもや、恭一さんの子? が、鈴である『陽子』の喉で詰まる。
「新太だって、由美さんと競馬場に来てるよね」
陽子と恭一は彼らに尾行され、ストーカーだと主張する。確かに鈴自身も東京競馬場で、新太と由美が一緒なのを見掛けていた。陽子は、今までのサイレンススズカ観戦で、新太たちを幾度となく目にしたと、振り返る。
「こんな状況で、新太を愛せばいいのかしら?……」と、疑問を呈した。
それは自業自得で自己責任だと、鈴は口から出さずに非難する。今は『鈴』である陽子、婚約者の新太がいるのに、恭一とサイレンススズカを追い掛けて競馬場に行くのは平気で、ペアの片割れ同士の心配はストーカーと評するのか、という身勝手さに、怒りが湧く。鈴の『陽子』は胸に手を当て激情が枯れるのを待ち、冷静に陽子の『鈴』へ判断を求める。
「……で、私はどうすればいいの? 本当に」
念を押すように、低い声。
「そおねぇ」
陽子の意識を持つ『鈴』が切ない声音の後に、俯いて黙り込む。黙する女に、不審が再び浮かぶ。
「というか、お腹の子。新太さんの子なんでしょうねぇ?」
悩みを打ち明ける娘が、母親に確認する。質された相手は、罪悪感の溜息を吐くのみだ。恭一の子どもの可能性があるのか? その場合は、鈴ではない誰かを、宿していること
になる。
生唾を飲み込む鈴の『陽子』、背筋が悪寒で震える。そっと腹に手を当てて、願望を含め、沈着すべく状況を思案する。鈴としての意識を持ち、『陽子』の姿で一九九八年にいて、『鈴』自体も確認出来る。出産前の母親である『陽子』に、成人した娘の『鈴』が、入れ替わり、併存する。
「そうだと、するならば、」
音無鈴は生を受けて成長し、一旦、「過去の世界」に戻っただけで、妊娠は鈴自身だ。来訪者と相対すべく、心を備えた。
それは、新太と『陽子』の関係を取り持ちたい、思いの丈だ。やはり嫌いでも、鈴には新太が父親だ。そうこうしていると、帰宅してから時が刻まれ、招かざる男の来訪が迫る。
「ちょっと、出掛けてくるね」
『鈴』が腰を浮かす。
「逃げるの?」
思わず、厳しい口調になった。
「邪魔なんて、出来ないじゃない」
もっともな台詞を残して、陽子の『鈴』が、部屋の扉に手を掛け、外へと逃亡を図る。後を追い、廊下に出て、
「ちょっと!」
警告を発しても、無視して階段を下る音が響く。手を伸ばした先、掛け声が虚しくも届かない、捕まえるべく、下り段に爪先を置いた時。
「新太さん、これから来るんでしょ?」
階下から、鈴の祖母、陽子の母の忠告で、『陽子』の動きが止まる。第三者を巻き込んだ、揉め事はいけない。鈴の一瞬の判断だ。
陽子の『鈴』が一階に駆け降り、玄関を開け閉めさせ、エンジン音とともに車を急発進させた。一人残された部屋で、『陽子』は唖然とし、力を落として座り込んだ。
恭一と新太の間で悩み、鈴との「入れ替わり」で混乱して落ち着きを失い、発作的に遁走したのか。競走馬の手術をこなす腹の据わった獣医だが、恋愛のレベルは中学生に戻ったか。だが、妊娠を知っているなら「お腹の子」を第一に考えて欲しいと、鈴は悔しがる。
間もなく、男性の軽妙な挨拶が、玄関に響く。
「陽子。新太さんよ」
『母』から名を呼ばれ、仕方なく「はい」と、気の抜けた応答を階下に返す。
近所の親戚へ訪問すべく、許婚の家に自然と上がる。陽子の母が「迎えもしないで」と謝ると、「いいんですよ。お母さん」が聞こえた。家族同然な迎えを知ると。気が重くなる。身内同様の雰囲気に緊張するも、平静たるべしと努める。
「よう」と、気軽に手を上げる新太。
ノックもせず、当然と部屋に侵入する。体躯のしっかりした三十路は、男盛りな生気を発揮していた。昔から圧迫感があり、鈴は人を制するこの気迫が苦手だ。
格好に似ず、人を気遣う優しい場合もあるが、ご愛敬となってしまう。家同士の婚約から八年。恋人になるまで陽子を待ち続けた、良く言えば辛抱強い、だが粘着質な性格も、父娘が疎遠になる理由の一つだ。断りもせず、部屋の座布団に座る新太。警戒する『陽子』は机と対の椅子に座り、間合いを読む。
「元気か?」
「まあね」
「元の世界」で父娘のような、素っ気ない応答だ。不意に、新太が天皇賞秋の優勝は見事だと、口を切る。だが。
「サイレンススズカが故障したから、暫くは競馬に行けないな」と、相好を緩くした。
「行けない、ではなく。行かせないのでは?」意図を見透かし、
「束縛するの?」と、厳しい口調を放つ。
恭一と陽子のプロポーズを、新太は知らないはずだ。競馬場では近くにいても、恋愛下手は気付いていないだろう。まあ、婚約者を差し置いて他人からのプロポーズに、平然な男ではない。恐らく、福島へ転勤する陽子、女心に疎いので遠距離恋愛が不安なのだ。新太の態度から、逃すまいの焦りが、焼けた臭いとして漂う。
恭一とのサイレンススズカの追い掛けを止めるなら、ハッキリ言えばいいのに! 想いを伝えて、気持ちをちゃんと掴めばいい! 鈴のもどかしさが、憤りとして、対面の情けない男に向く。
「どういう意味なんだよ?」
苦い笑いの新太は、『陽子』の辛辣な発言を分かっていないと、首を傾げた。相変わらず、雰囲気と女性の気持ちに鈍感だ。鈴は頭が痛くなり、抱えていると、影が迫る。
男の厳つい手が、柔らかな『陽子』の肩に回る。引き寄せられ、顔が大きくなる。あなたは違うと、鈴の『陽子』は両手を突き出して、拒否を示す。
だが、新太は左腕を腰に差し入れ、軽々と抱く。宙に浮き、両足をバタつかせても、ビクともしない。
ベッドの上に押し倒され、背けた顔の頬にキスが見舞われる。強く身体が抱き締められると、涙がキスの跡を拭う。
「カオル……」
思わず、助けを求める恋人の名を、鈴は口にする。
自分以外の男の名を意識した新太の動きが、止まる。ギラリとした殺意を感じる目。
「何言ってんだか、意味分かんねぇよ!」と、地団駄を踏んだ懊悩が伝わる。
「私、妊娠しているの」
間髪入れずに『陽子』は、真実を言い放つ。
「恭一の子か?」
「何で、そんなこと言うの!?」
新太の頬を叩く。乾いた音がもの悲しい。短い黒髪を逆立て、肩を振るわせ、荒げた炎のような目で、相手を刺す。
「私は、新太と陽子の子なんだから!」
鈴の『陽子』が、被さる男を、両手で力強く撥ね除け、起き上がる。
「お父さんの娘だよ!」と面食らう姿を指差した。
「何を言っているんだ?」
狼狽えながら起立して「どういう意味だ?」と、顔を引きつらせる。
絶対に認めて欲しいと、差し迫る鈴が、大きく口を開く。
「目を覚まして、お父さん! 由美さんと一緒にいないで。お母さんを掴まえてよ!」
切迫した願いを含む悲痛な絶叫を、部屋一杯に放つ。
「お父さんが、しっかりしないから……」
目尻に悲しみを溜める『陽子』に、衝撃を受けた新太は、口を開け広げて眺めている。
鈴と仲が良くない新太、だが実の父だ。陽子も含めて家族でありたい。だから、懸命に父親たらしめようと、していた。鈴の『陽子』は本心の震えを、口腔から必死に吐く。
「ねぇ、わからない? 分かってよ?」
「お母さんが好きなんでしょ? 愛しているんでしょ?」
「だったら、由美さんと、競馬なんか行かないでよ!」
矢継ぎ早に繰り出される悲痛な叫びに、相手は色を失い絶句する。
「陽子さんだけを、見ていて。お願い!」
荒げた息と切ない望みを投げる先は、体躯を金縛る。期待する返事が、聞けず仕舞いがじれったい。早く応えて! 声にならずに口だけが焦燥で虚しく動く。苛立ちが頂点となる鈴の『陽子』は待ちきれない想いを沸き立たせ、あらぬ方向へ感情が噴出する。勢いで、本意とは異なる方的に責め立てる。
「二度と、来ないで!」
思わず拒絶の蹴りを繰り出すが、新太は動かない。鈍い反応が疎ましいと、涙が滲む。
悔し泣きの恋人に、諦めざろう得ない婚約者が顔を背け、重低音を口に出す。
「こんなコトになるのはさぁ。恭一かぁ……」
低く唸る名前へ敵意を向け、厳しい表情で『陽子』を眺める。新太は、自身の顔色に気付き、自責を含んだ深い呼吸をする。見るに堪えない己から、逃げるように、
「今日は邪魔したな」と、新太は踵を返した。
そして、陽子の母に様子を悟られまいと、今の気配が嘘のようにテンポ良く階段を下り、「お邪魔しました」と、わざと明るい声を響かせ、音無家を後にした。
脱力して呆ける『陽子』は崩れ落ち、ベッドへ伏した。
何で新太と『陽子』の溝が出来る事を言い放ったのか、彼らを結ぶのではなかったのか、忸怩たる後悔が鈴を取り巻いた。
程なく、陽子の『鈴』が戻って来た。うつ伏せで泣く元の自分に、「ごめんなさい」と頭を下げた。
ゆっくりと『陽子』が起き、ベッドに腰かけると「こらこそ、ごめんなさい」と謝った。涙混じりの短い毛先が張り付く頬が、ゆるりと動いた。
「お父さんと、ケンカしちゃった……」
「お父さん?」
首を斜めにする陽子が「ああ、新太ね……」と鼻を利かせる。『鈴』は傷付いた女性を慈しむように頭へ手を回し、身体を引き寄せると胸で抱いた。
「悪かったわね」
慰撫する『鈴』の声音は、虫の息のように弱々しい。新太から逃げ出す時の勢いはなく、窶れて別人だ。
「どうかしたの?」
慰められる方の『陽子』が、逆に優しく聞く。
「なんか、調子が悪いの……」
消えそうだと『鈴』が朧気を吐く。
鈴の『陽子』は、道を違えた焦燥を喉から飲み込んだ。新太と諍いを起こしてしまった。本来なら陽子と新太を結びたかったと、悔悟を噛み締める。二人が結婚し、鈴が産まれた「元の世界」と同じベクトルを望んでいたのでは? これでは真逆だ。このまま別れたら、鈴は生まれないのか。だから『鈴』が消え入りそうなのか。
ならば、『陽子』の姿に変った鈴は、新太を、父親を男性として、受け入れればいいのか?『恭一』サンとのプロポーズは、反故にすればいいのか? 悩みは尽きない。
「馨。私、どうすればいい?」
「元の世界」で、頼りにした人の名に救いを求めると、目元から熱いのが、零れ落ちる。
「ごめんね。鈴ちゃん」
陽子の『鈴』は、鈴の『陽子』に謝り、頬を合わせた。擦られる顔を、「どうすれば元に戻れるの?」と、窓に向ける。カーテンの隙間、雲で覆われた夜の闇、府中の馬場大門へ祈りの光明を希う。
欅並木の一角、馨と一緒に「今の世界」へ誘った『老欅』も想い起こして、鈴は両者に歩むべき道を問い続けていた。
この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です