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第6話 入れ替わり

 鈴はベッドで目を覚ます。

 ああ、私、何か温かいモノに包まれて幸せで。そう、馨と話したっけ? 朧気な記憶が夢かと、頭を巡る。見慣れないベッドだが、何処かで見た懐かしさがある。

「ここは……」

 息を吸い、清らかな朝の空気を脳へ送り込む。段々と、状況が定かになる。整理整頓された六畳間、一戸建ての二階。窓からは高校の校庭が見える、土のグランドだ。

「確か……」

 記憶が蘇る。古い写真で見た地面が剥き出しの校庭だ。「元の世界」では、柔らかいウレタンゴムだ。「今」から数年後に建て替えられ、二階から学校が望める部屋は、鈴の洋室となる。「今の世界」では、陽子の和室だ。

 部屋の違いを起点に現実に戻ると、昨日、新宿で陽子たちと酒を飲んで、「帰宅」したと、頭を掻いた。そして、部屋にある姿見を目に入れる。

ショートヘアの『陽子』が鏡に映っている。

 昨日会った若かりし頃の母親が正面にいた。パジャマ姿で、上着の裾が少し捲れ上がり、何となく気になる腹部。枕元の目覚まし時計、日付は一九九八年十一月二日の月曜日だ。激動で嵐のような「沈黙の日曜日」の翌日とは思えない、静かな朝だった。

「今日は、出勤だよ」

 耳に自分の声が届く。発信元はベッドの隣、布団の上で『鈴』が、寝ぼけ覚ましに上半身を背伸びさせ、「仕事行くかぁ」が口から欠伸と共に、漏れた。

「え、どういうこと?」

 ベッドの上で、驚いた。鈴は己が唱えた怪奇の音吐を、はっきりと認識した。

「お母さんの声だ!」

「そうだよ。お母さんだよ」と、『鈴』が状況を告げる。

 『鈴』の姿で起きた陽子が「下手な発言をした」という風情で、ベッド脇の机上にあるショルダーバックの開いた口を、急ぎ隠すべく閉じた。小さな手帳の文字「母子……」が鈴の瞳に焼き付くと、一体何ごとかの感が巡る。

 鈴の意識で混乱する『陽子』は、あり得ない現実を問い掛ける。

「何が起こったの?」

 陽子である『鈴』は深呼吸し、冷静に息を吐き、驚愕の真実を述べる。

「ワタシと鈴ちゃんは、入れ替わっているの」

「はぁっ!?」

 『鈴』から告げられた、人格と身体の交換を信じられない鈴は、突飛な疑問を部屋一杯に響かせた。『陽子』の姿となった鈴、順を追って現状整理を始める。

「ワタシ、鈴と土曜日の夜に陽子サンと出会った?」

「そう、アナタが鈴ちゃんの姿でね」

「陽子サンは、日曜日に天皇賞秋の競馬を観戦し、恭一さんのプロポーズを受け、レース後に発生した栗毛馬の故障の手術をした?」

 矢継ぎ早の確認に、陽子の『鈴』は一呼吸置き、「そうね」を返す。

「ワタシ、夜には食事をし、荻窪の陽子サンの実家に泊まった?」

「そう」

「一晩寝て起きたら、陽子さんとワタシ、鈴が『入れ替わって』いた」

「それが真相よ」

「私、鈴は、『陽子』さんに、なったのね」

「そう、ワタシ、陽子は『鈴』ちゃんに、替わりました」

 『鈴』が『陽子』に正鵠だと右手を差し出した。『陽子』の鈴は、「信じられない」と、パチパチと音がするかの如く、睫毛を上下させた。

 『鈴』の陽子は、「一時間前、同じようにパニックになった」と、回想した。陽子の意識は、混乱から現状をゆっくりと理解して、冷静になれたとも述べた。想像を超える理不尽に対応し、落ち着くべく深く息を吸い込み吐いた鈴の意識は、自身でも状況を整理する。

 『音無鈴』大学五年生、人格は音無陽子に変っている。

 『音無陽子』獣医歴五年、人格は音無鈴だ。

「こんな、ことって……」と、『陽子』は頭を抱える。

 荒唐無稽に免疫を得た『鈴』は平然と構えていた。昨日も含めて数々の競走馬の手術という修羅場を潜った陽子は度胸があり、現実認識力が高いのか。

「鈴ちゃんのカラダってさ、妙だよね」

 陽子が不意に、『鈴』の両腕をクロスさせ、胸前を叩く。

「妙って?」鈴が『陽子』の首を傾げる。

「いや、ふわふわしている感じがして、実体が無いような」

 ちょっと気味が悪く、身体が消えそうと、表した。鈴の『陽子』は息を吞む。陽子が恭一からのプロポーズ受けて以降、『鈴』の身体に纏わり付く霞のような浮遊感は、入れ替わっても変わらないのか。『鈴』のみならず、恋人である馨も「今の世界」で存在が否定されつつあるのか。そんなことを『陽子』の姿で鈴が考えると、元の自分から現実が示される。

「今日はさ、府中の診療所に出勤ね」

 九時からのブリーフィングに間に合えばいいと、陽子の『鈴』が知らせる。枕元の時計を見ると、六時過ぎだ。

 中央競馬の場合、土日の開催で、一般的に月曜日は休日だ。ただ、生き物である馬が相手では、全一斉の休暇はない。彼女の勤務先だった東京競馬場にも、誘導馬などが数多いて毎日の飼育は必要だ。

 東京から福島の診療所へ転勤なった『陽子』、今日も後任者への引き継ぎがあると言う。業務内容を直接伝達する為に東京にいて、故障馬の手術をしたと陽子の『鈴』は、お茶目に舌を出した。鈴は「仕事をダシにして、好きな馬の追い掛けでしょ」を『陽子』の喉元で押さえ込んだ。 『鈴』は、来週の月曜日から福島勤務で、暫くは寮生活だとも、表明した。

 実際、サイレンススズカの容態も気になる、執刀医として休んでいられない、とも言う。九時からお勤めなら、確かに、起床の頃だ。

 『鈴』の指示通りに、『陽子』はパシャマを脱いでブラウスに袖を通す。

 ふと、鈴の『陽子』は、昨晩の夢見心地が浮かぶ。温かくて気持ちの良い大海原で、馨と会話した気がした。ひょっとすると、それぞれが母親の優しい胎内を浮遊し、お互いが通じたのか? その馨は、何をしているのか? 無事なのか? もしかしたら「元の世界」に一人で戻ってしまったのか? 

 「今の世界」で独りぼっちは絶対嫌だ、馨の無事を確かめる余裕がない『陽子』は気鬱に滅入ると、着替えをする手が緩慢になる。

 鈴は『陽子』のまま、「今の世界」で生活しなければならないのか? 直近を考えても、先が見通せない。一体、何がどうなっているのか? 疑問が多すぎる。いくら考えても、回答など出ないが。思考に怖さが芽生えて尻込みする鈴に、現実が迫る。

「仕事はフォローするからさ、私」

 見かねた『鈴』が、元気付けるべく、肩を叩く。まずは、今を『陽子』としての対応だ。事実を見据え、鈴も気落ちを振り払い、前を向く決意する。

 『陽子』は、何かをふっ切りたいと、無理に笑みを作り、仕事に赴く判断をする。東京競馬場診療所へ出勤し、サイレンススズカの援護をするのだ。獣医学部の学生として、いや、獣医として助けられないか? これから、『陽子』の職責を果たそうと、短い髪を整え、顔のメイクを今日の服装に合わせるべく、きちんと手を動かしていた。


「まあ、『引き継ぎ』がメインだから、負荷は掛かんないと思うけど」

 陽子の意識の『鈴』が車を運転し「書類を渡すだけ、詳細は本文読んで、と言えば良い」と、お気楽だ。わざと明るく振る舞うのは、「消え入りそう」と体調不良を訴える『鈴』のやせ我慢か。内心は焦る不安が運転席から、じわりと伝わる。

 普段以上に気合いを入れて化粧をした『陽子』は、顔の彩りを消してしまう。動揺を抱いて診療所に向かう車中、鈴の『陽子』は、獣医の仕事を考えると本当に「大丈夫なのか?」と心配になる。助手席から横目で、妄想に似た恐れをぶつけていた。

 入れ替わった『鈴』でもなめらかに運転する陽子、ラフな白い長袖Tシャツにジーンズ姿で、記憶やスキルは引きついでいると道を迷いなく進む。服は陽子のだが、『鈴』はサイズがピッタリと、喜んだ。助手席ではグレーのパンツスーツを身に纏う『陽子』、中身は鈴が「良かったね」と生返事だ。

 車は荻窪から府中、東京都心から郊外へと南西向きに走る道路は、順調に流れて行く。

「所長からは、休みを取るよう、仰せつかったけど」と、陽子の『鈴』は笑う、執刀医への労いの配慮だとも、自慢気だ。

「ダメだと言っても、君は押し掛けるんだろう」と、『鈴』は所長の真似をする。

 そして、仕事場では、「何頭か、一次診療かな」と、今の役目を説明した。

 隣で鈴は、内容を確認する。一次診療とは、日常の健康管理や軽度の疾患の治療だ。因みに、これに対する二次診療とは、昨日の栗毛馬の対する手術や入院が必要な疾患への対応などだ。

 昨日の大手術で助手を務めたが、獣医学部五年生である『陽子』の鈴に対し、来年の実習に向けて良い経験よと、勇気付けるべく励ます。

「大丈夫よぉ。周囲には気のいいスタッフも多いし」

 獣医師である陽子の『鈴』が隣の学生へ、憂慮を打ち消すべく元気を入れた。

「はあ……」

 嘆息を吐くのが、精一杯の『陽子』だ。

 万一の場合は、携帯で連絡は取れるから、安心してねと、『鈴』が優しく囁く。車は東八道路を西へ走るなか、『陽子』は『鈴』から細かい仕事のレクチャーを受ける。丁寧に説明されれば、逆に緊張が増す『陽子』、落ち着かないと、右手で膝を叩き続ける。目先に迫る獣医の仕事に、集中し切れない鈴の『陽子』へ、『鈴』が想像を吐く。

「サイレンススズカが、気になるの?」

 その問いを耳にすると、二度俯き加減になる。

「そうだよね……」

 一緒に手術したもんね、案じるのは「獣医」として当然だよね。『鈴』は前を走る車の赤く灯るテールランプを、睨んでいた。

 執刀医の陽子は術後のケアから外された。一番気になるのに、当事者として携われないもどかしさに、鈴は心を寄せる。新宿で大酒を飲んで、プロポーズされた恭一と別れたのも、千々に乱れる不安な心情で、悪態を見せたくないのだ。

 実際、仕事にかこつけて、スズカに会うべく診療所に向かっている。そんな『陽子』になり替わった鈴、入れ替わって、競馬場内へも立ち入れない陽子の無念に触れると、何とか勇気を振るう。

「ワタシ、今日の仕事頑張ります」

 『陽子』が両手で握り拳を引いてガッツポーズを作り、鼻息を荒くした。少し驚く『鈴』は、心意気に元気付けられたように口端を吊り上げ、「ありがとう……」と、神妙な礼を口にした。鈴は改めて、『陽子』としての一日を大切に過ごそうと、胸のなかで気勢を上げた。


 『陽子』の乗る車が、厩舎地区の駐車場に止まり、降りた瞬間だ。十人ほどに取りこまれ、鈴の『陽子』はペンとマイクを突き立てられた。

 注目のサイレンススズカ、天皇賞秋を優勝した直後の故障発生は、競馬ファンに大いなる衝撃を与えていた。当然、マスコミは、黙っていない。月曜は、全休日にも関わらず、新聞記者たちが情報を得ようと押し掛けていた。

 手術は成功したと思うのか? サイレンススズカの容態はどうなのか? 競走馬として復帰出来るのか? 矢継ぎ早の質問に責められ、気圧され、背中を車のドアへと押し込まれた。まるで、犯罪者を質すような興奮した眼光は、口を開けと要求する。

 両手を車体に張り付かせて、蠢きを上げるのが精一杯だ。どうなんですか? と苛つく記者どもが、急かすように強迫する。執刀医として責任を果したと思うのか? 陽子が執刀したのを知る者もいて、個人にまで質問が及ぶ。

「止めてください」

 記者たちが振り向く先、怒りを双眸に湛えた陽子の『鈴』が、小さな体を揺すり、何処から力が湧き出るのかと、地響きを立てて近付いて来る。

 明日の火曜日に記者会見をやるって、ウチの所長が昨日発表しましたよね? 『鈴』が鋭い目線で、睥睨する。

「行こう、鈴ちゃん」と、『鈴』が手首を掴み、包囲網の脱出を試みる。

 人を押しのけ、囲みを突破して、『鈴』が『陽子』手を引いて早足に診療所を目指す。餓鬼どもから逃れようと、手を繋ぐ二人は必死に足を繰り出す。アンタ誰? 妹さん? 脇から『鈴』に飛ぶ声が、追い縋り、纏わり付く。

「アタシが、音無陽子です!」

 サイレンススズカの執刀をしました! 『鈴』がサイドテールを乱しながら、怒声を撒き散らした。隣のショートヘアが音無獣医じゃないの? 『陽子』の背中に怪訝そうな疑問が突き刺さる。厩舎地区に入ろうとする『鈴』と『陽子』に、記者連中も離されまいと、しつこく追う。

「ダメですよ!」

「何でよ!」 

 制止を図る守衛、ここからは関係者以外立ち入り禁止地域だ。鋭く応答する『鈴』が、身分証ならとズボンのポケットをまさぐるが、ない。両手を大きく広げた守衛が『鈴』に立ちはだかった。

「あの、これ……」

『陽子』がおずおずとカバンから身分証を出し、制服姿の脇を通り抜ける。

「早く、診療所へ!」

 逃げろと怒鳴る『鈴』が身を乗り出すと、守衛に羽交い締めにされた。

「早く!」が虚しく、記者連中も記者章を振りかざして、『陽子』を追おうとする。一団が『陽子』を捕まえようと殺到し、厩舎地区は喧騒が飛び交う大混乱となる。

「待ってください!」

 男の野太い大声が、騒然を支配した。白衣を纏う初老の男性は、『陽子』を庇い、前へ出る。東京競馬場診療所長、ダンディは眼鏡の縁をクイと正すと、威厳を持って口を切る。

「取材は大いに結構。だが、今のは熱が篭もり過ぎかな」

 口元を上にして犬歯を光らせ、周囲に冷静になってと諫めて、続ける。

「昨日と同じ事を言いますが、明日、記者会見を開きます」を、大砲のように轟かせた。

 一喝され、落ち着きを取り戻した記者たちが、お互いの顔を見合わせる。

「今はどうか、お引き取りを」と、所長は圧を込め、「サイレンススズカの施術後フォローにご協力願います」と頭を下げた。

 ですか……? それでも……? 競馬ファンに真実を……? の雑音が聞えて来る。

「これ以上と言うなら、記者章と名刺を見せて頂けますか?」

 暗に所属メディアへの抗議、最悪は記者章剥奪の可能性をも示唆すると、集団は残念そうに四散した。

『陽子』が腰を折ると、「大変だったな」と、労うような所長の手が肩を軽く叩いた。


 診療所の事務室は、十数名の机が整然と並んでいた。数名の獣医、臨床工学士、サポートスタッフ、事務員など、案外こじんまりとした部屋の壁には、スケジュールが書かれた白板。その手前でブリーフィングが行われた。白衣を纏う『陽子』は、他の参加者を伺うように立って聞く。

 基本的に休日である月曜、本来は最低限のスタッフだが、例の事故でフルメンバーが集まっていた。朝九時からの朝礼は終わりに差し掛かり、何とかクリアしそうな気配だ。鈴は『陽子』の口から、小さな安息を吐く。

「何か質問はありますか!?」

 司会者の締めの言葉を耳にした『陽子』は朝礼の内容を頭で確認する。説明では当然、サイレンススズカの容態が報告された。最初は、淡々とした調子で、左脚の術後、予後が予断を許さない状況が報告された。手術後の合併症である、便秘、大腸炎、そして蹄葉炎には細心の注意が払わていた。だが、痛めた脚を庇うために、血液循環のバランスが崩れたという。結果、恐れていた蹄葉炎が発症し、急速に状態が悪化した。このままでは衰弱性の心不全を起こしかねない。事実、昨晩は心臓の機能低下が、あったと報告された。

「こんなに早くか」周囲から驚きの声が上がる。

 状況を確認した所長が「まるで、何かに導かれているようだ」とまで言う。

 執刀医の『陽子』に、発言の機会はなかった。所内は、陽子がサイレンススズカに携わるのを、避けて欲しい雰囲気だ。妙な気配が何でなのか、鈴には理解出来ずにもどかしかった。陽子サン本人なら、どう対処したのか? 代わりになればと意気込んだのに、スズカの助けにはならなく、情けなさで唇を噛む。

 会議の後、場内にある厩舎へ往診に向かう。事務所の隣、手術室の脇を通り細長い厩舎へと向かう。栗東や美浦のトレーニングセンターなら現役競走馬だが、今日は誘導馬のケアだと、同行した医療課長が語る。

「えっ! サイレンススズカの所へ行かないんですか?」鈴は悔しさを隠さない。

「いや、専属スタッフで対応しているから……」

 ベテランの獣医師でもある課長は、所長指示だという。不満で頬を膨らませた鈴は、男らしいがっしりした身体に怯まず、唸り声を向けた。獣医師たちの上司は、苦笑して『陽子』の背中を叩く。残念を励ますのと、仕事を促す両方の意味だ。

 彼との組み合わせは、中身が獣医学生である鈴へ、陽子の配慮か。スズカの容態を知り、手当を願う鈴の『陽子』は、焦りを滲ませる。

「昨日の手術は大変だったね」の隣からの労いに、『陽子』は愛想笑いで「ええ」と曖昧に返すのが精一杯だ。手術の大変さなど、未経験の獣医学生には話し辛い。仕方なく無言で歩み、厩舎に到着すると、歓迎するいななきに、出迎えられた。

 十数頭が、次々と知った顔の『陽子』に関心を向ける。左右に馬房がある廊下を歩むと、鹿毛の誘導馬が頭を突き出した。手を振って応えた後、通路の先を見る。

 一番奥の右側、隔離された部屋だ。二人のスタッフが付きっきりで介添えしている。ほんの少し先にサイレンススズカがいる、会えずに何も出来ない自分が、歯がゆかった。『陽子』は不甲斐ない己に、憤懣の矛先を向ける。

「スズカのケアがしたいです!」

 厩舎ではあらぬ大声が響くと、全員が顔を顰めて注目した。繊細なサラブレッド、しかも傷付いた馬を刺激するなど、非難の目線だ。

「まあ、所長がケアの体制を考えたよ」

 医療課長が得心するようにと、説明する。

「でも……」

「君の気持ち分からんでもないよ」

 にじり寄る『陽子』を、何とか諭す。

「それなら、」

「ダメだね」

 直情的な力強い否定が、頭から制圧すると、身体が固まった。何か言いたそうに震える姿に、優しい声音が「知らない方が、いいこともある」と慮る。今朝、マスコミ記者に追い掛けられただろう? あれが続いたら、精神的に参っちゃうよ、そう同意を促した。

 こうなると『陽子』はただ、閉口するしかない。無念そうに黙る姿を哀れんだのか、「所長からは箝口令が敷かれているんだけど」と、苦い口の端を緩くし、説明を始める。

「昨晩、サイレンススズカが危篤状態になってね」周囲と顔色を伺いながら「今は多少持ち直したみたいだけど」と、小声で気を遣った。

 一時期、容態は最悪で、心臓と肺機能が止まったと言う。朝の会議で、心肺停止は聞いていない。『陽子』には何かの理由で、伏せられたのか。心音を速くする鈴の『陽子』は、焦燥と緊張の色が隠せない。だが、もうこの話は終わりと、男は馬房へ向かう。

「じゃあ、仕事しようか」

 ベテランらしく、丁寧に誘導馬の首筋を撫でる。疲労回復となる、補液の点滴を打って、の指示が出る。だが、獣医学部の学生にしてもぎこちない手付きに、懸念が飛ぶ。

「音無さん。それ、頸動脈じゃない?」

 脇から経験豊かな医療課長が、頸動脈に点滴を行おうとしたイージーミスを指摘する。鈴は頸静脈と頸動脈の間違えに気付き、指摘を頭のなかで反芻する。

 点滴は通常、頸静脈に行う。頸動脈に打つと多量の出血を発生させ、馬の生命に関わる場合もある。初歩的だが怖い失敗だ。中身が獣医学部学生にしても、あるまじき失態だ。 

 基礎レベルの過失を現役獣医師、昨日は難手術でもオペが冴えた執刀医が犯したから、堪らない。ベテランの上司が首を傾げて懐疑を表にし、苦い笑みを押し殺して、渋い面構えを携えていた。


 その日の『陽子』は、何かおっかなびっくりで、覚束ない。矮小な態度に、職員周囲の見る目も怪しげだ。鈴本人も意識する、あの優秀な音無さんが、どうしたのか、と。

 事務所の一角、給湯所の井戸端会議、女性職員やスタッフに囲まれて、「何があったと」問われる『陽子』だ。

「何もないわよ」

『陽子』が言い訳をすると、反論が飛んで来る。

「何もない訳、ナイじゃない」

「何、彼氏?」

「陽子って、新太さんと付き合っているんでしょ?」

 新太を知る職員が、親密な関係だよねと、確認すべく顔を近付ける。だが、今は下手に言えない鈴の『陽子』は、「うーん、それは何とも……」と、ただ相槌を打って、唸るのみ。

「何、ごまかして、いるのよ」と、『陽子』の腕が肘で小突かれた。

『陽子』が微苦笑する、気を回して、この場を乗り切る余裕がないのが疎ましい。鈴が知らない  同僚たちは、何を言っても納得しないだろう。何より、これ以上「ボロ」を出して、『陽子』として恥を掻くのを恐れた。

「で、何かあった?」

 恥ずかしげに黙る『陽子』に、追及の手は容赦ない。

「もしかして、プロポーズされたとか!?」

 目を見開く『陽子』が、上気する。胸奥からくすぐったさを身体に這わせる『陽子』が、少女のようにモジモジとして、床へ目線を泳がす。

「え、アタリ? 当たりなの?」と、茶化す同僚が嬉々として、手を叩く。

 囃し立てられるなか、『陽子』は肩を小刻みにして、耐えるしか術を知らない。

「別にいいじゃない」に「おめでたいことでしょ」が、駄目を押すように、責める。

「そんなんじゃないんです!」

 思わず怒鳴った『陽子』が、泣きそうに目を腫らす。同僚たちは言葉と動作を止め、陽子の項垂れた容姿を眺めていた。

「ああ、ゴメンね」

 口が過ぎたわねと、焦って謝る同僚たちに、

「こちらこそ、ごめんなさい」と、さらに頭を下げた。

 消沈した場を後にし、『陽子』が足早に逸走して、小走りで外へ出る。

 本当はサイレンススズカに会って状況を確かめ、出来れば介護にも携わりたかった。だが、転勤が決まっている『陽子』は、東京競馬場の診療所では部外者だ。しかも、医療ミスを起こし掛けた。こんな体たらくでは、世話するどころか、近付くのすら許されない。

 執刀した陽子の『鈴』にスズカの容態を伝えたいとの願いが、叶わない。鈴は無念と焦燥に悩んでしまう。陽子に気を遣う医療課長の耳打ちしか、情報はなく、部外者が確かめる術は、残っていない。残念な鈴の『陽子』が、悔しがる。

 それからの『陽子』、引き継ぎの資料を、後任へ手渡しした程度だ。相手も心配そうに、眉間に皺を寄せるのを、薄らと覚えていたが。


 こうして、鈴の『陽子』としての一日が過ぎた。駐車場へ戻ると出勤時に乗った自家用車が同じ場所にいた。何かあった時にと、陽子の『鈴』が待機していたのを思い出すが、その存在すら忘れる混迷ぶりだ。所長の威嚇が効いたのかマスコミ関係者は誰もいない。  

 皺が寄るスーツ姿で、助手席に背中から倒れ込む。

「お疲れさま」に、「ありがとう」を返して黙る。『鈴』は何かを知りたげに、運転席から横顔を見詰める、その意を覚った鈴が、口を開く。

「サイレンススズカ。昨晩は重篤だったらしいの……」

 医療課長から聞いた話を『陽子』が伝えると、『鈴』のハンドルを握る手に力が入る。

「でも。今、少しはいいみたい」

 『鈴』が肩の力を抜き「課長は、いい人ね」と天井へ好感を投げた。

 スズカについて言いたいし、色々知りたいはずだ。だが、運転席でじっと我慢する陽子はいじらしい。鈴は自分の不甲斐なさに落ち込むが、フォローの為に近場に待機した思い遣り感謝し、救われた気持ちになった。

 『鈴』は『陽子』のやつれた表情を見ながら、慌しい一日を察しているようだ。

 昼間、『鈴』の陽子は、恭一に連絡して馨と一緒なのを確認したと、言う。昨晩、新宿で飲んで別れた馨、実家へ行ったはずだ。父親と行動を共にしていると分かっていても、実際に無事を耳にすると、シートに体重を預ける力が軽くなる。

「でも、何だか変だったねぇ。焦るような、落ち着かない学生口調で……」

 要領を得なく「仕事で忙しいから」と、急いて電話を切ったと言う。だが、彼に余裕がないなど、お見通しと語る。陽子が当然と受け止めたのに、鈴の勘が働く。馨も同じく、恭一サンと入れ替わった、と。

 「今の世界」で出会った陽子、鈴たちを最初から許容している。コンビニで遭遇した素性の知れぬカップルを自宅へ招き、酒を飲み明かした翌日に、一緒に競馬観戦する心の広い人は、そうはいないだろう。鈴は配慮に感謝するも、疑問を浮かべる。不思議なのは、陽子が鈴たちの身上を詳しく聞いてこないことだ。

「そもそもさ。鈴ちゃんて、何者?」と、問い詰められても可笑しくはない、ただ答えに窮するのも事実だが。

 突然、陽子や恭一の目の前に現れた鈴と馨。その出現に、彼女らは常に平静だった。まるで以前から、登場が必然との態度だ。果たして、出会いは偶然なのか? これも『老欅』の『お導き』か? 疑念を抱く不安を見透かすように、陽子の『鈴』が発案する。

「『鈴』ちゃんが生きていくのにも、馨クンと話しをしなくちゃね」

 まるで何もかも理解して先導する。馨に会う、鈴は胸を慟哭させ、頬に熱が巡る。

「恭一とも会うことになるわねぇ」

 嬉しそうな面倒くさそうな、台詞が零れた。

「向こうはどうなって、いるのやら」想像し得る疑問を呈した上で、「状況次第だよねぇ」と他人事のように呟く。一方で、渦中の本人同士が、現況を把握した上で、今後の対応を考えなければと、主張した。なるほど、その通りなのだが。

「明日、休みだし、合うことにしたから」

 『鈴』の陽子が調子に力を込めた。四人で集まって、詳らかにすると断言した。朝の八時に府中の『老欅』で待ち合わせだと、告げた。今日は慣れない仕事で精一杯。落ち着いてから、でも、なるべく早めに会うための、時機だと説明した。

 ただ、事実と未来への糸口を知るのは、恐怖だ。鈴は仕方なく納得も、悪寒が巡る。

 実際、馨は、恭一サンと入れ替わっているのか? が、本当に気になる、逡巡する鈴の『陽子』を看破し、話題を変えるべく、陽子の『鈴』は車のエンジンを掛けた。

「さてと、荻窪の音無家へ帰りますか」

 『鈴』が帰宅を宣すると、運転する車が、丁寧に軽やかに走り始める。ただ、『鈴』が荻窪の家にいられるのも、ここ一週間と予測した。名門音無家、来歴が定かでない居候を、長く留め置けないと判断する。祖母の厳格な性格から、鈴も理解出来る。何とか『鈴』の福島帯同を上司に認めさせるか、陽子の母に居候の許しを請うかと、ウインカーを出しながら冷静に語る。その口調は穏やかだが、必死さが滲んでいた。

 入れ替わる前、鈴は音無陽子が母親と知ったが、「今の世界」で、陽子たちは、鈴が娘なのは勿論、姓が音無とさえ分かっていない、はずだ。一体、どのような状況なのか。

 そして、鈴は実家に戻るのに懐疑を抱く。府中のマンションが、明日の待ち合わせに近くて都合がいい。何か理由があるのか? 問うと陽子は、安心出来る場所がいいと語る。

 陽子は、生理の不順を悩んでいた。鈴は目を閉じて「体調不良」から、紐解いてみる。網膜に浮かぶ印象は、今朝方に陽子のショルダーバッグから覗いた手帳の文字だった。

 「母子……」の二文字の続きを想い起こす。あれは、「母子手帳」だ。『陽子』の身体、確かめるように腹を摩る。まだ、目立たないが、女性としての直感が働く。まさか? 鈴の想起は『陽子』の口から、衝いて出る。

「陽子サンって、妊娠しているんでしょ?」

「そうよ、妊娠している、」

 ストレートな反応に、問い掛けた鈴が驚き、追い付かない。

「金曜日に産婦人科に行ってきた。二か月目、だってさ」

 陽子の『鈴』が妊娠の事実を授け、『陽子』の右肩を叩く。

「ちょっと、待ってよ」問い合わせた側の鈴の『陽子』が、告白に戸惑った。

「陽子さんは、三日前に、妊娠二か月が判明したの、」

 自らを陽子さんと呼んだ『鈴』が念を押し、続ける。

「明後日、妊娠を所長に話さないと」

 確かに明日は旗日で休みだ。

「だれが?」『陽子』が驚くと、他にいるの?」『鈴』が、呆れ混じりの目を投げる。

「近々に、診療所辞めるって伝えないと、ね」

 転勤先の福島競馬場で新たな引き継ぎの手配が必要とも、冷静に考察した。

「辞めちゃうんだ?」と、鈴が残念そうに呟く。

「仕方ないでしょ」諦めと不承知を台詞に換え、吐き捨てた。

 陽子の『鈴』は口に力を込めて、噤む。本音では、診療所で獣医を続けたいのが痛いほど、伝わる。妊娠の報告なら安定期でいいのでは? そう鈴が持ち掛ける。競走馬相手の獣医なんて、 お替わりはそうそういないわよ、早く告げないと迷惑が掛かる、『鈴』がやむなしだと、唇を震わせた。「元の世界」なら、産休だろう。二十数年前の「今の世界」では、育児休暇はまだ難しいのか。

「でも、アタシが……」と、鈴が一旦口を止め、「妊娠だとか、仕事辞めるなんて、大変なコトを言うんだ!?」『陽子』として捲し立てた。

「『鈴』ちゃんの姿じゃ、無理でしょ」

 隣は反論し、「まあ、運命だね」と、苦笑した。

「レクチャーするからさ、私」と、『鈴』が、朝と同様に『陽子』を励ました。

「やっぱり、所長さんに告げなきゃダメですか?」鈴が尻込みすると、

「まあ、無理なら明後日はいいよ」

 運転で前を向いたままの『鈴』が、仕方がないと宣言する。

「けど、今週の何処かで報告してね」

 今現在、組織上の上席は福島競馬場だが、引き継ぎで東京に来ているお陰で殆ど知らない。だから、元上司となるが、気心の知れた東京の診療所長に、一旦相談だ。勿論、『鈴』の帯同を相談もする。

 ダメならアパート借りるかぁ、『鈴』が、わざとらしく快活に言い放った。来週は福島だからねぇ、には、そうですよねぇ、を、淡々と返す。

 今週を逃すと、慣れない転勤先の上司へ、いきなり退職と妊娠を鈴の『陽子』が告げるのか。知り合いの所長に一旦話をする方がまだ、気楽だ。大変さに、目の前が暗くなると、『陽子』の鈴が現状に困惑する。

 車は無情にも単調なエンジン音を刻んでいる。背中の微妙な振動が他に気にすることがあるだろうと、問い掛ける気がする。鈴は『自身』の妊娠を考えてみる。タイムスリップした「今の世界」、妊婦である『音無陽子』と、入れ替わった。「元の世界」なら、『陽子』が身籠もった子は音無鈴のはずだ、と。

 鈴の『陽子』に緊張が走る。恭一のプロポーズを陽子が受けた以降、鈴の消滅しそうな感覚は、陽子が主でも同じだ。仮にお腹の子の父親が恭一なら、鈴とは別人だ。そうすると、『陽子』として恭一と結婚せざるを得ないのか? 膨らむ懐疑を陽子に確認したいが、あまりに仰天な疑問は、問うのをためらう。

 馨に似るが父親の恭一は他人だ。その馨はどうなっていて、どうするのか? 『老欅』への疑い、不思議、謎。言の葉は浮かんでは、泡となり消える。時の刻みは容赦ない、茫然自失の『陽子』に現実が、立ちはだかる。

 そして、サイレンススズカの状況。天皇賞勝利後の骨折と手術。かの馬は生死をさ迷っている。競馬界の最大関心時だが、最も近い場所にいる鈴自身が、『陽子』として直接携われない、苛立たしさを感じていた。これも『老欅』の『お導き』か? 何を考えているのか? 考えても『老欅』は、ここにはいない。あるはずも無い答えが、ただ、堂々と鈴の『陽子』に巡っていた。

 明日、馨と恭一サンに会う。面会して事実を把握し、次の展開を思案する。そういう場で、必要とも思う。だが、何となく鈴は嫌だった。 

 一刻も早く恋人の状態を確認したい。だが、戸惑う心情が強かった。事前に馨への電話を鈴は躊躇った。仮に入れ替わりなら、向こうも動揺し、誰とも話したくないだろう。時分に置き換えても、馨と会うことすら、緊張を覚えるのだから。

 漫然とし、心ここにあらずの『陽子』が、車外に目をくれると、夜の暗闇が覗き込んだ。何か闇夜へ走る怖さが、鈴に巡る。これほどまでに馨と会うのに、不安なのは初めてだ。再会したら、最初に何て言おうか。そんな、愚考を浮かべ、明日への恐怖を抱き、車窓から暗い夜を眺め続けた。


この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です

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