第5話 響け! サイレンススズカ 大欅を越えて
鈴と馨は、メインスタンドの第四コーナーがよく見える元いた席に戻る。第一コーナーから神業で移動出来たが、この混雑下、肩をぶつけての移動は、疲れるには十分な苦行だ。
「元気出しなよ!」
鈴の背中が叩かれた。痛みの方向に振り向くと、
「陽子さん!」
白衣を纏い、快活を披露する。「診療所を抜け出してきちゃった」と、悪びれることのない笑顔を見せ、サイレンススズカを、生観戦すると宣言した。
鈴に対しては、混雑する場内、よく戻ったわねと、感心した。パドックは人混みでお目当ては見えなかったでしょ? と、第一コーナーの顛末を知らない陽子は、機嫌よく、柔和にからかった。
鈴は覚悟を決めた。第一コーナーで場所が確保でき、サイレンススズカと出会った。さらに四コーナーへの移動だ。会えるはずもない陽子や恭一と、再会を果たした。この十万人超の大観衆で混雑する場内が普通に動けた。
これも『老欅』の『お導き』か。鈴は、思惑の流れに乗ることにする。
「ありがとうございます」を、無邪気な顔で取り繕う鈴は、「大丈夫です」とも返す。
頑張って来たな? 喜ぶ恭一に、第四コーナーにいたんですか? とわざとらしく戯ける馨が応じた。昨晩飲み明かした陽子が、四人一緒の観戦を嬉しがる。
「さあ、メンツが揃ったわよ!」
長い直線への入口、迫る攻防を直接感じる絶好の席だ。駆る馬たちが、観る者を襲うような迫力がある。サイレンススズカは、どのように最終コーナーを駆け抜けるのか? 鈴が、期待と漠然とした恐れを混ぜる。レース結果、そしてプロポーズはどうなるのか? 陽子と恭一が隣にいる。現実を目にすると、緊張を覚える。『老欅』の『お導き』だとすれば、一体何を考えているのか?
更に謎が深まる鈴だが、その不安など微塵も感じない陽子が右手を天高く突き上げ、これから天皇賞秋の観戦だと宣言した。
「やっぱりここにいたか、」
「何時もの席だな」とも陽子に掛かる声の方向に、白衣を着る初老の男性がずれた眼鏡を正す。 続いて「大混雑を歩くのは大変だ」と、苦笑を浮かべていた。
陽子と同様に男の首に掛かるIDカードに「東京競馬場付属競走馬診療所 所長」の肩書を鈴は認めた。サイレンススズカ観戦で仕事場を抜け出し、恥ずかしがる部下に、所長が「いいよいいよ」と口端を上げるも、少し棘を含ませたのはご愛敬か。
診療所で落ち着かない様子を見て、気になって後を追ったという。お気遣い有り難う御座いますと、陽子が頭を下げた。彼女が気忙しいのは、スズカに加えて、プロポーズが脳裏にあり、相まっての緊張だと、鈴は想像した。
その所長は、陽子が紹介した「汎手根関節固定術」が興味深いとも告げた。そして、
「君は、獣医大学五年生なんだってね」
祖父のような紳士が、ふと鈴に向く。慌てて正面を向き、一礼する。君の論文興味深かったよと、学生を評価する大学教授として振る舞う。ワタシの論文じゃあ、ありませんと、言いそびれる緊張で、喉が詰まる。
「なるほど、この学生さんか」満足げな表情をして、診療所に戻ると、発した。
所長は著者が鈴だと思い、興味を持ってわざわざ会いに来たようだ。
それだけ価値ある資料なのか。執筆者と誤解され、値踏みされた鈴だが、嫌ではなく、大先輩の獣医師に認められた、恥ずかしくも嬉しさで頬を赤らめた。
白衣の男が目的を達成したと踵を返し、両手で陽子に「サイレンススズカのレース振りを楽しんで」と押し留めた。「結局、準備したんですか?」という彼女の問いに、「勉強の為に、今ある道具で考えたよ」所長は笑いながら言い放ち、消えていった。
「本当に手術準備の訓練をしたのですね……」と感を述べる陽子に、なぜか馨が安堵と緊張を混ぜた複雑な表情だった。やはり、あの大欅のある第四コーナー手前で……。
三、四コーナーの中間、コース内側に大欅があり、事故が多発する魔性の場所。トップスピードでコーナーを駆け抜ける勝負所で、体力と能力の限界を超える厳しい場所だ。悩ましげな馨、思わずコースの特徴を説明した口調は、上ずっていた。もう、天皇賞秋は発走直前だ。後は運命の流れ、それこそ『老欅』の『お導き』に身を任せるしか、なくなって、いた。
白いダブルのジャケット、スターターがモニターに映ると、場内に拍手喝采が湧く。いよいよ、天皇賞秋のスタートだ。
陽子と恭一が、始まったと、目を輝かせる。鈴と馨が、始まってしまったかと、緊張を走らせる。手を叩く人、応援の声を荒げる人、両手で握り拳を作り祈る人。レースを見ようとする人々は、それぞれの想いの渦に投げ込まれる。
正装に身を包んだ自衛隊の音楽隊が、ターフビジョンに映され、称賛の手が叩かれる。楽器が真っ直ぐに構えられ、騒々しさが消える、瞬間。関東G1ファンファーレが、府中の杜に木霊する。
トランペットが、気品ある冒頭を走り出す。マエストーソ、荘厳にという意味の音楽記号通りに、一糸乱れぬ音が運ばれる。ホルン、トロンボーン、スーザホンらが、第二小節から奏に加わる。金管楽器はアクセントのオンパレード、強く強くを意識する。パーカッション、打楽器が全体にスパイスを効かす。伸びやかなハーモニーが徐々に盛り上がり、大きな音色が放たれる最後のクレッシェンドが印象的だ。音楽の余韻は、一気に過熱する大観衆に掻き消されてしまう。
一九九八年十一月一日十五時三十五分、天皇賞秋。出走時刻は、今だ。
鈴の心音が、バクバクと荒げ跳ねまくる。時の流れが止まれ! 本気で思う。レースなど来なくていい。こんな緊張から解放されたい。プレッシャーに抗う心臓を嘲笑うように、ターフビジョンに映るスタート前の馬たちが、一頭、また一頭とゲートに吸い込まれる。勿論、サイレンススズカもだ。
全頭がゲートに納まると、オーケストラが演奏を止める全休符のごとく、一瞬静寂が支配する。刹那、無機質な機械音と共に、ゲートが開く。
一枠二番メジロブライトが出遅れる。
サイレンススズカは!? 鈴の心配をよそに最内一番の白い帽子は左にいた。いいスタートだ。数完歩走って、自然と先頭に立つ。定位置のハナに行き、後続とは一馬身差。
最初の第二コーナーを先頭で駆ける。サイレントハンターが二番手に上がり、オフサイドトラップが三番手となる。その後にステイゴールド。メジロブライトは中段の内、外でグルメフロンティアが続く。後は同厩のゴーイングスズカ、最後方はローゼンカバリーだ。何時もの場所で平然と隊列を引っ張って行く。
向こう正面の直線を目指すサイレンススズカはもう、五馬身差。加速が続くが、無理していない。
向こう正面、一段と飛ばしまくる。さらに差が開いて、八馬身差で二番手のサイレントハンター、そこから同じ八馬身差のオフサイドトラップが三番手。そんな現実離れした光景、場内から 驚愕の雄叫びが流れる。
王道の中距離G1、天皇賞秋だ。こんな縦長の展開など、目にしたことがない。
鈴は両足を開き、大地に杭を刺す。口を広げて、食い入るように見る。馨は腕を組み、口を真剣に結んでいる。どうなるのだろうか? いや、どうなってしまうのだろうか? 鈴は、あ然として、サイレンススズカが主導するレースを見続けていた。
一〇〇〇メーターを通過。57秒4!!
スプリンターのように、三コーナーを駆け抜け、先頭! 二番手は十馬身差、三番手はさらに八馬身差。もう誰も止められない。あまりのスピードに、鈴に恐怖が迫る。苦しい。懸命な競馬だ。悲痛な表情で、俯き加減になる。その瞳は、今にも崩れそうだ。
鈴はサイレンススズカのファンではないのか? 恭一が態度に疑問の目を向ける。後続に影をも踏ませぬ馬は、順調に逃げている。このペースなら勝利は間違いない。
なぜ、悲しそうなのか、苦しそうなのか、と。
前走の毎日王冠まで過去レースを見た鈴、この天皇賞は生観戦だ。史実として「事件」を知る馨も雰囲気を複雑にする。
そのサイレンススズカは四股を踏む、左後脚、右後脚、左前脚、右前足、右手前と。
あたりまえの、ように。
鈴は、突き動かされ顔を上げ直感が働く、「事件」は発生してはいけない。スズカは大欅を通過し、消えようとする。相変わらずのハイペース、急いで地獄へと駆け込む姿か。
スピードが乗る三、四コーナーのカーブにある大欅、ここで疲れた馬体を振りしぼっての加速と旋回。その過酷なコーナーは、数多の競走馬の命を奪った過去がある。
鈴の肩に、馨が手を添えた。震える手に、力が籠もる。まるで、これからの「事件」を覚悟しろと、我慢の強要だ。
『大欅に差し掛かるか』
しわがれた老人の声音が、鈴の頭を過ぎる。『老欅』が『どう思うか?』と問うが、「どうって?」と、意図を解せず逡巡する。なぜ、この瞬間に『老欅』の声が聞えるのか?
疑問への応えは『本音を感じればいい』と宣すると、鈴の気持ちも一致する。これから、「事件」が起こるなんて、許されない……。
第四コーナー。鈴は向き直り、生気溢れ息を胸一杯に吸う。そして、
サイレンススズカへ想いを突き刺す。
「お願いっ!!」
大歓声の中で響く叫び声。
今いる世界、全ての禁忌を拒否する絶叫を、吐き出した。
身体の内側から溢れ出る巫女の清らかな共鳴、サイレンススズカの走りが、変わった。
「一瞬、スピードを緩めた」
馨が驚きを、サイレンススズカと騎手に向けた。続いて何ごとかと心配そうに、大声を張った鈴を見る、息を整え、慈愛に満ちた巫女が胸の上で両手を握り、祈る。
まさに身命を捧げる、冷静に精気を貯める音無鈴が、一頭の栗毛馬へ願いを掛ける。
サイレンス、スズカ、奏でよ。その与えられた生命を、今最大限に響かせよ!
「響け!サイレンススズカ」
この世の終尾で聴く、澄んだ透明な声音。
水面に投げられたような運命、波紋が緩やかに幾層にも広がる。
『ありがとう』
『老欅』の本懐を遂げた声が、鈴と馨に伝わる。
触れ合う肩と手は『老欅』からの感謝を感じ、熱を交わし合う。大欅を過ぎたサイレンススズカ、鈴の応援に後押しされ、走り続ける。
「えっ!?」
馨が光景を信じられないと、息を詰まらせた。
サイレンススズカは、四コーナーを駆けている。直線へ向かい、一瞬落とした速度が増す。鞍上の騎手とも、息ぴったりだ。
「事件」を知る馨は、ぐるりとスタンドを見渡した。大歓声が、聞こえない、と言う。
ただ、青い空が秋日の爽やかな午後を示す。馨は、天に息を吐く、「史実が変った」と。驚愕は、青空に消える。それが「今の世界」だった。
「見てよ、鈴ちゃん」
恭一が、恐れる気持ちを見透かすし、励ます。勇気付けられた両手をしっかり握り締め、栗毛馬に瞳を注ぐ。その美しきスピード、流れるたてがみ、人馬一体の背中、正確に繰り出される四股。二番手以降がどんどん離され、ゴールへ鈴へと近付く。
サイレンススズカの走りが、直線に入って、研ぎ澄まされる。
「ああ、スズカが走っている……」
馨が、感動で声を震わせる。鈴は短く、「嬉しい」応えた。鞍上と一体になり、直線を駆る。陽子は事実に、ただ驚く。
「凄い……」
サイレンススズカは直線の坂を力強く駆け上がり、さらに加速する。まさに逃げて、差す、究極の競馬だ。しかも、鞍上の手は動かない。それでも、速くなる。
「これで流れが変わる」
変わるはずだ、と馨が呟いた。
でも、どうなるの? という小動物のような愛らしい目が問うも、
「四〇〇の標識を過ぎ、サイレンススズカ先頭!」
場内アナウンスの事実に掻き消される。馨は、再び天を見上げ、両手を突き上げ、想起を衝いた。
「歴史が変わった。これで、『元の世界』に戻れる!」
サイレンススズカが、二〇〇の標識を切る。他の馬は、遙か後方だ。栗毛馬が直線を駆けるに連れ、後続は遠ざかる。迎える鈴は握り締めた手で、無事のゴールを祈り続ける。
生きとし生ける物として全身全霊、全速で直線を駆け抜ける。場内は、勝利が確信の雄叫びに、包まれる。陽子と恭一は両手を忙しなく叩き、全身で祝福すべく、飛び跳ねて嬉しがる。何を叫んでいるのか分からない。鈴は、迫り来る神気に魂を震わせた。
ゴールに向かう先頭に、スタンドから拍手が沸き起こる。疾走途中、勝利への喝采が、一頭の馬のみを包み込む。栗毛の鬣を揺らし、トップスピードで、ゆっくりと名残惜しむように最後を目指す。
最速を維持したまま、サイレンススズカがゴールをそっと駆け抜けた。
鈴の視界には優勝した彼、ただ一頭。拍手は止み、場内に静けさが戻る。二着の馬が長い静寂の後に、ゴールを過ぎた。
再び、場内から火山が爆発した大歓声が上がる。感情のマグマが噴き出し、歓喜の奔流が襲う。この勢い、何かの情熱が動きそうな感じが、鈴にはした。
サイレンススズカが、優勝した直後、第四コーナー付近の席。
恭一と陽子が佇んでいた。二人は顔を紅潮させて向き合う。無言だが、瞳と瞳で会話しているようだ。男は何かを成そうとし、女はそれを待ち構えていた。促すようにショートヘアが右手で掻き上げられる。誰の目にも分かる単純な雰囲気だ。
勝利の余韻が支配するなか、意を通じ合う男女だけ、スポットライトが当てられた空間が現れた。交わし合う言葉など、分かっていると、見詰め合う。
恭一の喉仏が腹からの熱い情熱を覚悟に変えて、動く。
「結婚してください」
「はい」
陽子は柳眉に日輪の光輝を乗せ、決意を受け入れ、最上の笑みを返す。二人はゆっくりと引かれ合い、両腕を背中に回し互い身体を支え、一体となる。胸からの鼓動を確かめるように、しっかりと抱き合う。
競馬場内の熱い喧騒が、行く末を誓い合った者たちを賛美していた。だが。
「そんな……」
プロポーズを目の当たりにした鈴が、言葉を失った。
「こんなことって!」
先程まで、「史実が変った。元に戻れる」と喜んでいた馨の顔から血の気が引く。
サイレンススズカが勝利して、恭一が陽子に求婚したら受け入れられる。予想が現実となり、実際に目撃者たちの衝撃は、谷底に突き落とされる如く、甚大だ。
スタンド全体を包む熱狂に当てられたのか、鈴は息が薄くなり、頭がボーッとする。だんだん、消え入りそうな気分になる。
「あっ」短い嘆息を吐くと、足の力を失って、その場にしゃがんでしまった。
十万超の大観衆の中、長時間の移動と立ちっぱなしで疲労が溜まったか。困憊の息で顔を覆う馨も疲れたと腰を落とし、自身の想定を振り返る。
銃を撃つことでサイレンススズカを少し緊張させ、萎縮させた。スピードが些か落ち、四コーナーの「事件」を乗り切った、と。独白は鈴以外、誰も聞いていない、意味も分からないだろう。
サイレンススズカは、天皇賞秋を勝利した。
恭一がプロポーズし、陽子が受けた。
鈴の母の陽子、馨の父の恭一が結ばれる。つまり「今の世界」で、鈴と馨は生まれないのか。だから、消え入るようにふたりとも苦しいのか。いなくなる感覚は、出生と存在の否定に繋がるか? ならば、「元の世界」に呼び戻されるのか? だが、タイムスリップの兆候など、微塵もない。
『老欅』よ、これが望んだ結末か。ならば、我々はもう用済みか。鈴は己の運命と『老欅』を呪った。このまま「異世界」で消え去るのか、と。だが、『老欅』も誰も、答えない。
歓喜の大喧騒は地響きの如く、東京競馬場を揺るがしている。狂喜の絶頂で、鈴たちは静かに消える終末を迎え、留まっていた。
先頭でゴールを過ぎ、第一コーナーへ。栗色の馬体が観客のなかを、公演成功のお礼をする主役として、悠然と通り抜けた。限界を超え疲れ切った馬体を揺らして、残り少ない直線を駆けている。この先のカーブ曲がるべく、重心を左に傾け駆ける。激しい肉体と精神の消耗は、流麗な 馬体と繰り出す四股から生気を奪っていた。バランスを崩した瞬間、何かが壊れる禍々しい音が、鈴を襲った。
第一コーナーから鈴のいる第四コーナー、五〇〇メートルも離れるのに、この世の地獄を招く、最悪な音吐が轟いた。
競馬場内は一瞬で凍り付く。何が起こったのか? 確かめる競馬ファンの熱気が、一気に冷める。その不愉快な疑念が、全ての観客に凄然と伝播していく。
「沈黙の日曜日だ……」馨が驚愕を力なく、零す。
その「沈黙の日曜日」と称される日が、「この世界」でも生まれた。
「遅いぞ、音無!」
「すいません、これでも全速力で……」
陽子と鈴は、競走馬診療所に着くなり肩で息をしながら、所長に頭を下げる。
関係者に呼ばれ誘導され、第四コーナーから人並みを掻き分け、東京競馬場の北東、厩舎地区にある診療所まで全力で走った。鈴も息せきを切りながら、『老欅』に導かれ、何処へ行くのか? を、酸素を欲する頭に送り込む。
「音無。手術の準備だ!」
初老の男性が貫禄を轟かせると、診療所内に緊張が走る。
逃げ切り勝ちの後、ゴールを過ぎて一頭の栗毛の馬が左前脚を故障した。もうすぐ負傷した馬を積んだ馬運車が、到着する。鈴も陽子も、誰も怪我の程度を看ていない。診療所に入る連絡では、左手前手根骨に致命傷を負っているとの見立てだ。
「近位手根骨群の状況が、汎手根関節の固定を施術出来るといいのですが」
陽子が希望を述べると、所長が指を突き刺す。誰が最適な施術するのかを命じる。
「君が、あの『汎手根関節固定術』をやるのだぞ……」
学会未発表の「汎手根関節固定術」を知る獣医は音無陽子のみだと、睨む目は執刀医を指名した。まさか、本当に手術をするとは……、所長は語尾を濁らした。陽子から昼休みに聞いた「汎手根関節固定術」を理解する為に、今ある道具でどうするか、後学にと検討を兼ねての準備が、現実となる。人の手術室を大きくした場所で、広いマットの手術台、脇には検査機、吊り具や固定具がある。揃える手術道具も人と同じなのもあった。
消毒液の臭いが鼻を突き刺すと、鈴は『老欅』を思い出す。これが『お導き』か。そして『老欅』に反発する、なぜ人馬を苦しめるのかと。
だが、やる気と集中力を滾らし、真顔で瞳に燃える炎を浮かべる陽子がいた。まるで『老欅』の代役として、栗毛馬を助けるべく、気合いを込めていた。
職員からは、鈴は何者か? と問われたが、陽子が「獣医学生の研修」と説明した。怪訝そうな職員に、陽子は向き直り、宣言する。
「私の右腕、助手よ」
知識と情報面でフォローして貰うわ、とも補足した。スマホ片手に、鈴は腰を折る。所長が「責任は俺が取る」と言明した。すると、鈴の存在が自然とばかりに、スタッフは施術準備に勤しんだ。
手術服に着替えるべく、陽子と更衣室へ向かう。走る途中、鈴は協力を念押しされた。その依頼、「鈴ちゃん、第三助手ね」と、小さく合せた両手が希う。
冷静なる慌ただしさのなか、鈴は胸で不安を蠢かした。初めて経験する競走馬の手術で緊張か。いや、サイレンススズカを生かすことへの、逡巡か。鈴の当初の本心、変らない「元の世界」で、今までと同じ生活をしたい、という想いがある。だが、思惑を知る由もない周囲は、手術へ突き進んでいる。
今回の手術、執刀医は陽子。彼女の動きを支援する第一助手と、二人を広い視点でサポートする第二助手、加えて看護師と医療機器を操作する臨床工学技士は競走馬診療所のスタッフ五人、気心の知れた友人たちだ。
「じゃあ、皆さん。何時もの通り宜しくお願いします」
スタッフ全員が、陽子に右手の親指を突き出して、「了解」の意志を表示した。幾度となく手術を熟して来た、ベストメンバーか。
栗毛馬が運ばれると、即座に容態を診察する。想定通り左手前手根骨骨折だ。指揮を取る手術服の所長、陽子は患部を注目にする。
「予後が悪いな」
「厳しいかも知れませんね」
指揮者の判断に、執刀医が意を同じにした。
左前脚を故障した栗色の馬が面前にいる。橈側、中間、尺側手根骨の近位手根骨群が、厳しい状況。陽子が刹那、考え込む。状況は緊迫している。最悪の選択、予後不良にしても判断は今すぐだ。ほんの数秒、鈴には永遠に感じられる。躙り寄る表情を交しながら、所長と陽子が必死の面持ちで対峙する。
「近位手根骨群はこれなら、ば……」
「やってみます」
方針が決まった。鈴からの「最新」の手術技術に、賭ける判断だ。「今の世界」の獣医師で、「未来」の手術方法を唯一知るのが、陽子だ。一瞬、彼女が厳しくも微笑んだ。
「鈴ちゃん、やるわよ!」
促された鈴は、下を向く。サイレンススズカが生存するなら、陽子と恭一は結ばれるのか、結果、鈴自身は生まれない不安で胸を苦しくする。このまま亡き者で、陽子たちの縁が消えればいい。そして、戻りたい「元の世界」が変らなければと、邪な想いが再び迫る。鈴は手術から目を背け、項垂れたままだ。
「鈴ちゃん……!?」
名を呼ぶ女声に、驚愕と疑念が混じる。一瞬、唇を噛み締めた陽子。
「アナタ! 獣医の端くれでしょ!?」
鋭い大声を受けた鈴の背中に、雷が迸る。
「はいっ!!」
飛び上がって大きな返事をすると、鈴は身体に興奮が駆け巡り熱くなる。ワタシは、獣医師を目指している。怪我した馬が、目の前にいる。やることは明確で、ただひとつ。
自分自身のアイデンティティを取り戻すと、緊迫に怯まず挑む。純粋な決意、「元の世界」など、今はどうでもいい。鈴は、必要不可欠な手術スタッフだ。他のメンバー同様、陽子を注視する。今一度、レントゲン検査の結果をチェックした所長が、最終判断を決する。
「汎手根関節固定術、やるぞ!」
「「はい!」」スタッフの鋭い返事が飛んだ。
勢いある応答に加わる鈴を横目に、陽子は一度息を吸って吐いて、気合いを入れる。橈側、中間、尺側手根骨の近位手根骨群、三つの骨を全て固定する、大手術だ。
麻酔担当医などスタッフは、知らない手術方法だけど事前に準備出来てよかったと、用意からだと施術が間に合わなかった、と口を揃えた。
クリニックは故障馬を救おうと緊張が張り詰め、熱気を帯びる。一方で冷静な高揚が、東京競馬場付属競走馬診療所を支配した。
「手術開始から、七時間も経っているのですね……」
タクシーの後部座席、ビールで顔を赤らめた鈴は、アルコールと感慨を吐いた。
「鈴ちゃん、ご苦労様」と労う陽子が「やっぱり疲れた?」と、慈愛を左隣に向けた。
サイレンススズカの手術、三時間も集中した執刀医の陽子の方が疲労は深い。気遣いを受ける鈴は、何となく恥ずかしくなる。
「新宿で飲んでさ。いい、息抜きになったんじゃない?」
陽子は右肩を叩き励ます。慰労される鈴が、車窓から青梅街道沿いの繁華街が流れるのを、右席越しに眺める。
「三〇分くらいで、荻窪だから」
隣から状況を説明する優しい声音。陽子は新宿から実家へ向かい、今晩は鈴を泊めると招いた。大通りを走る車中、見慣れた街並みへの違和感は、神経が過敏なのか。それとも、「元の世界」では存在しない古い建物を、目にするからか。
「荻窪、ですか」
確認すべく恐る恐る顔を上げると、母親の柔和な色に癒やされる。今日の仮宿は、鈴が「元の世界」でも自身の家だ。
鈴が産まれて立て替えられた近代的な住宅でなく、「今の世界」では、古めかしい家だ。写真で見た和と洋が混ざった昭和の建物、昔話に出てくる館だと、感慨深い。陽子は疲れを笑みで隠して、「早く横になりたいよね」と、新宿から遠い府中のマンションより近くにある実家へ帰る理由を告げた。
「もうさ、手術のことは忘れなよ」
陽子は、ベストを尽くして、取り敢えずは一命を取り留めた。後は、診療所スタッフのケアに任せるのみと、淋しさを混ぜて笑う。
「ずっど、スズカに寄り添っていたかったです」
鈴の本心が、夜の街道に流れて行く。
執刀医の陽子は、福島競馬場へ転属していた。立場的に東京競馬場診療所の手術には携われない。だが事故当時、鈴のもたらした「汎手根関節固定術」を理解する獣医は陽子のみ。所長の特別な判断で、彼女が施術した。後は、診療所に委ねるしかない。これは組織が絡むので、仕方ないと、陽子は嘆いた。
「手術後に馨や恭一サンと、新宿の居酒屋であんなに飲んで」鈴が心配そうに語ると「気晴らしよ」が返る。事故と手術の生々しさが残る府中じゃ、さすがに飲んで食べる気分にならなかったと、陽子が零した。
「でも、一緒に帰るのが、ワタシとでいいんですか?」
プロポーズをした恭一と受けた陽子、本来は一緒にいるべきでは? 一人の女性としての疑問が浮かぶ。
「まあ、これも流れよね」
陽子はあっさりと語る。
「馨は、恭一サンと深川に行きましたからね……」
新宿で合流し、四人で酒を飲んだ後だ。馨は恭一の家、「元の世界」では自身の部屋もある深川、東京東部の実家へ向かった。恭一が先輩風を吹かし、半ば強制的にタクシーに馨を押し込んだのを鈴は思い出した。
徹夜しての競馬観戦、大手術。鈴も「母親」と一緒にゆっくりとしたい気分だ。お互いの実家同士なら、住所も固定電話の番号も分かっている。離れても、馨と繋がる安心感があった。これも『老欅』の『お導き』かと、ふたりは、各々の古い実家へと赴いた。
「今日は、色々あったしねぇ」
陽子が吐く小さな息に、鈴も今日一日を回想する。 出来事があり過ぎたのは、陽子の方が上だろう。彼女こそ、疲労困憊を我慢している。
青梅街道を右に折れ脇道を行くと、閑静な住宅街。荻窪の天沼八幡近く、日本家屋の右端に尖った屋根の洋館が、鈴の淡い記憶と一致する。和洋折衷、踏み入れたことがない半世紀を経た昭和の館だ。写真で見て印象に残るのか、自分が住んでいる土地だからか、安堵と懐かしさを覚え、彼女の配慮に感謝した。
その陽子の部屋は二階にある。簡素だが女性らしい清潔な六畳間は、鈴の好みと一致する。さすが、「元の世界」では仲良し母娘だと、ほくそ笑む。
鈴は風呂と着替えを借り、ベッドの脇に敷かれた客用布団に入る。遅い時間だが、事前連絡をしたお陰か、家はひっそりとしていた。
この頃、陽子と母、鈴の祖母と二人暮らしだ。鈴の祖父、陽子の父が、彼女の高校生時分での早世を思い出した。「元の世界」では、三年前に祖母は他界していた。先に寝た生前の若き祖母に、会わず仕舞いだ。
じゃあ、電気消すねという瞬間、恭一から連絡が入る。陽子はベッドに座り携帯電話を顔に持ってくる。深川に着くなり、馨は爆睡したと漏れ聞こえると、無事に心安らぐ。
会話を重ねる陽子は「うん、わかった」と言ったり、黙ってしまったり。「あの」「その」という連体詞が続いた。今後を話しているが、浮かない感じで相槌を打っている。プロポーズを交わし合ったカップルとは思えない。
電話が終わると、嘆息が零れた。鈴は聞いていけないと、寝たふりをする。下手な演技を、知ってか知らずで独白する。
「今日はいろんな事があり過ぎた。キャパオーバーだよ……」
一日の疲れを労う陽子は背伸びをした。身体の調子はイマイチと嘆き、土曜夜に出会った鈴たちと深夜まで話し、スズカの天皇賞秋の勝利を目にして、恭一からの求婚。そこから一転、事故と大手術の執刀医だ、確かに出来事が重なり過ぎだ、と。
「みんな勢いで、やっちゃたかな」
反省する口調が転がる、今度は座りながら項垂れて、将来を憂いる。
「どうなっちゃんだろうなぁ、ワタシ……」
自信がない表情と台詞で、陽子が戸惑う。鈴は不安を胸一杯にして、驚いた。
一つはサイレンススズカの手術の経過、もう一つは恭一のプロポーズを受けたことだ。手術の事後を心配するのは分かるが、プロポーズを了解して逡巡は、鈴は自分に置き換えると考えられないと、胸に湧く疑問の雲を濃くした。
照明が消され、陽子がベッドへと寝入る。周囲が真っ暗になると、脇の鈴も布団の柔らかさで睡魔に襲われる。なぜか、明日は起きられない怖い気がしてきた、が。
「二度と目覚めなくてもいい」
何故が乱暴な考えが、鈴の口から零れ出た。
混沌とした「今の世界」から逃れたい気持ちが強いのか。手荒に考えると、自覚が朦朧となる。闇が瞼を覆うと、フェード、アウト、だ。その時、
「鈴、どこまでも一緒だからね」
馨の声が暗がりのなかで燦めいた。今、一番聞きたい人の台詞が明かりとして身体に届く。灯火は温かさになり、優しさに包まれて行く。まるで羊水のなかにいるようで、本当に穏やかな情愛を感じる。目が覚めたら、「元の世界」へ馨と一緒に戻れますようと、祈る。
意識の深層、深い淵に自我を置くと、鈴は真っさらになっていった。
この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です