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第2話 若き父と母

「なんか変じゃない……」

 鈴が薄れた意識を戻すなか、馨の腕を絡めて胸に引き寄せ、不安げに呟く。

 異変を口にした目の前には、『老欅』が佇んでいた。先程まで、若い欅に触れたはずだが。不意に『老欅』が現れ、語り掛けたが、今は何も言うことはないと、枝葉を夜空に突き上げて、黙していた。落ち葉が乱れ舞うなか、『サイレンススズカの御許へ』と、聞えてから気を失い掛けての鈴に、馨も「そうだな」を返す。

 周囲の様子を見るべく、少し移動する。馬場大門の欅並木、府中駅の鉄道高架を北から南へと、潜り抜けた。

「確かにおかしい……」

 馨が、知らない駅に途中下車したと、困惑に同意する。特に並木道の左側、駅寄りの方だ。雑居ビルが道なりに連なっていた。

「ル・シーニュがないな」

 ショッピングモール、公共施設などが併設された高層ビルが、無い。あの建物って何時出来たっけ? との鈴に、駅南口の再開発で二〇一七年だと応じる。詳しく覚えているわね、に対し、新築時に上層階のマンションの知人を訪れたと、追加した。

「雰囲気が、何ていうか……」

「少し古くさいわね」

 あるべき高閣が見当たらない状況。訝しげな顔へ、鈴が「感じ」を呟いた。

「でも、欅並木は間違い無いわよねぇ」

「並木道の先は大國魂神社だろ、東京競馬場へは繋がっていそうだな」

 何とか、平静さを取り戻そうと、ふたりは知識を現実と結び付ける。府中の欅並木には相違ないと、首を縦に頷き合う。後ろを振り返り、『老欅』に一礼をする。

「また、来ます」鈴が、深く腰を折ると、『老欅』が揺れた気がした。ふたりの動きを、励ますようだった。

「行こう!」

 馨が鈴の背中を叩き、欅並木と併走する歩道を南へ、大國魂神社へと歩き出す。足並みを揃えて、競馬場の正門前に向かう。明日の天皇賞秋、良い観戦席を確保するために徹夜の行列に並ぶのだ。二度と『老欅』を振り返る事なく、前を進む。

 進路の右手に小路が延びる道角に、一軒のコンビニエンスストアがある。グリーン、ホワイトにブルーに店名文字のポールサイン、何処かで目にした看板が安心を与える。ふたりは店内の照明に誘われるように、入る。

 ひと息も束の間、ここでも釈然としない。何か妙な雰囲気の手掛かりを得ようと、鈴が店内を、あちこち見回した。

 馨のどうしたんだ? の問い掛けに、ATM、現金自動預け払い機が「見当たらない」とも嘆いた。そういう店もあるだろう、との素っ気ない反応に、特急が停車する府中、駅前のコンビニにATMがない方がおかしい、と、不満に口を尖らした。

 少し気圧された馨も、普段の状況と異なっているのか? 店内をぐるりと点検する。セルフのコーヒーメーカーが無いなと、呟いた。そして、困るように顔を見合わせた。

「あれは、まさか……」

 何かを見付けた馨が、その驚きを断ち切り、駆け出した。

入口の脇にある新聞のスタンドに慌てて向かう。そう、決定的だった。一面を目にすると、顔を引きつらせて、深い衝撃の叫びと一緒に、手を伸ばす。

「サイレンススズカって!?」

 どうしたの? と、鈴も心配げに、林立する紙面を指さす先を、注視する。

「サイレンススズカ……」

 薄紅色の口唇が震え、同じ馬名が転がる。タブロイドの夕刊紙やスポーツ新聞の見出し、メインはどれも同じだ。馨が新聞を急ぎ、手にする。

 一九九八年十月三十一日、天皇賞秋の前日が発刊日付だった。

 再び、顔を見合うふたり。新聞を持つ手が震える男の口が、やっとの思いで開く。

「この新聞、天皇賞秋の特集だ。しかも、スズカの記事だ……」

「ということは?」

 鈴が、同意を求めるも否定して欲しいような複雑な感情で、問うた。

「まさか?」

 もう一度、お見合いをすると、異口同音を揃える。

「「タイムスリップ」」

 その声音は低く重く、驚愕を込めた絶句となった。

「こんなことって、」鈴が目を見開き、

「あり得ない」馨の紙を掴む力が、強まる。

 スポーツ新聞を広げたまま、茫然自失となるふたり。目に飛び込むのは、「サイレンススズカ」、「快速」「一番人気」、そして「今度も逃げ切り!」「勝てる!!」だ。

「どうしよう?」

 鈴が弱々しく悩む。

「どうするも、ないよなぁ」

 馨が腕を組みながら、顔を顰める。

「サイレンススズカで、決まりだろ!?」

 振り向くと男声が一人、馨をもう少し大人にして無精ヒゲを生やしたら、という雰囲気だ。そして、男の後ろに女性もいた。

 彼女は、鈴をシックにしてショートヘアに変えた印象だ。サイドからポニーテールの鈴が、可愛く見える。男女とも三十前くらいで、馨と鈴を大人にした感じだ。

 男は笑みを浮かべていた。競馬ファンで「サイレンススズカが好きだ」と、言う。同じ趣味の若いカップルと、思われたのか。だから、似た顔を持つふたりに親しみを向けたのだろう。馨は機転を利かせてその会話に、乗る。

「やっぱり、そうですかね」

「そうだよ」

 馨は、もう少し「今」の情報を物欲しそうに、顔を近付ける。

「よかったら、詳しい話聞かせて頂けませんか」

 決して怪しい者ではありませんと、馨が一礼すると、鈴も少し遅れてそれに倣う。兄姉のような親近感に悪い人ではないと、ふたりは目を交わす。それに「異境の地」に踏み入れてさ迷うのは、鈴も避けたかった。

 向こうも親しみを感じたか、ニヒルな男の表情からは、悪い雰囲気は伝わってこない。

 鈴たちに目を配りながら両人が、何か小声で会話する。男が後ろへ「いいだろう?」に、女から「いいわよ」が前に返る。

「一緒に飲まないか」

 男はふたりに向き直り「袖振り合うも……」を口ごもると、女が「……多生の縁」とフォローする。ちゃんと言えないなら諺を使うな、と女が男の背中を叩く。恋人だろうか? 親しい間柄のコミカルなシーンが、何となく鈴たちを安心させた。

 どうですか? と、女性が、鈴に優しく念を押す。

 ありがとうございます、が、即座に口から出ると、鈴は深く腰を折った。二十数年前だ、見知らぬ府中の街を暗闇で、徘徊を避けられた馨も、真っ直ぐに頭を垂れる。

「決まりだ、行こう」

 必死なふたりを面白がる男は、馨の肩を軽く叩く。有り難う御座いますと、再び礼をすると、手にした新聞もお辞儀をする。

 コンビニを出ると、四人は並んで欅並木を歩む。昔から親しんでいるカップルが、二組いるようだ。男はこれから近所のマンション、女性の家に向かうと、先頭を行く。

「府中の欅並木って、いいですよね」

 欅の枝葉を見上げる鈴が、姉のような女性に呼び掛けた。

「分かる? 私も大好き」

 欅と並木道、その先にある大國魂神社、パワーが貰えると女性が口端を上げる。鈴も歩む道を笑みで湛えると、女性が後ろから抱き付き頬を寄せる。出会ったばかりなのに、まるで昔から可愛がっている妹分、いや母親のような温かな親愛に包まれる。

 街道の結びは、大國魂神社だ。今日は家路への帰り道、本殿までは行かないが、鳥居の前、四人で二杯二手一礼の作法を真顔で執り行う。

 神社前を左に折れ、旧甲州街道を新宿方面へ進む。徐々に目的地が近付いているか。八幡宿の交差点を右に折れると、競馬場正門通りだ。その名の通り、道を真っ直ぐ行けば、東京競馬場の正門前だ。

「ここよ」

 女性が自慢するように、手を向けた。正門通りの途中、ベージュ色した四階建てのマンション、男が「行くぞ」と誘うようにエントランスから階段を小走りに駆けた。鈴と馨が物珍しそうに、一段をゆっくり上る。

「荻窪に実家があるけど、仕事が忙しくて。この府中で寝泊まり」

 借家とは半々よと、ショートヘアを女性が撫でる。

 荻窪。その地名は自分の実家だと、頭に浮かべた鈴の心臓が、トクンと跳ねた。

「借りているマンション、競馬場から近いしね」

 そう、彼女は東京競馬場に勤める獣医だ。普段は繋養される誘導馬などのケア、競馬が開催されれば出走前の馬体チェック、万一事故があれば、処置をする。激務だと評して、ふたりの背中を玄関へと押した。


「へぇ、鈴ちゃんと馨クンって、大学生なんだ」

 恭一と名乗った男は、手に持つ缶ビールを声の先へ突き出した。

「つき合って、半年? 今が一番いいときかもねぇ」

 陽子と称した女は、ウインクを投げた。

「まあ、飽きる頃かもな」

 ビールを一口含んだ恭一が、嫌らしく白い歯を浮かべる。

「失礼を言わない!」と陽子が耳を引っ張ると、

「痛って!」と歯を隠して口を窄めて「いや、すまん」と、身を縮込ませた。

 年齢が上で初対面、他人の家は、緊張を覚える。リビングルームにあるL字型のソファー、短辺に鈴と馨が、かしこまっている。

 陽子は鈴をエレガントにし、恭一は馨をニヒルにした印象は、成長した自分を見ているようだ。  そんな感覚は呆れるほどの衝撃で、身を引き締める。

「ほら、気軽にぃ」

「飲んで! 飲んで!」

 陽子が優しい愛嬌を向ければ、戯ける恭一が右手を口へ振って促した。

「大丈夫よぉ」猫なで声の陽子は、明日は仕事だからと烏龍茶を一口飲み、

「遠慮するなよ」の恭一は、妹弟を愛でるよう目を細め、飲むように缶ビールを突き出した。鈴と馨は見合って顎を引き、承知とばかりに、同じく缶ビールを口にする。

 鈴ちゃん……つて、呼んでいいかしらの陽子の前置きに、本人が叩首する。自己紹介の際、気軽さを装って、鈴も馨も名前だけ告げていた。姓を問われたら、音無から偽名にしようかまで考えたが、一旦は大丈夫なようだ。

「大学生かぁ」と、遠い過去を覗くように陽子が微笑む。「因みに学部は?」 

「獣医学部です」

「えっ、そうなんだ」と、嬉々として手を叩き、「ワタシは、人生の先輩になるのね」と、満面の笑みだ。その喜びようは、まるで鈴が獣医大学に合格した時、母の陽子が自分事のように最上の笑顔を溢れされたのと瓜二つだ。

「コイツはな、こう見えても、もの凄く勉強熱心で」

 少し膨れた陽子は「こう見えても」は余計と、恭一の腕を軽く叩く。

 コイツ呼ばわりされたお返しとばかりに

「家業の材木屋を手伝うしか能がない男に、言われたくないわよ」だ。

 言い方がヒドイと恭一が「農獣医学部の同期をイジメるな」と、苦笑する。続けて、「林学科卒業生として、仕事はキチンとしている」と、反論した。夫婦漫才みたいなテンポに、観客は笑いを浮かべるしか、ない。

 真ん前にいる陽子の話を聞き、お母さんと同じで、勉強熱心だなぁ、鈴は胸のうちで賞賛を巡らした。街中の獣医の陽子、なぜか馬の外科手術について、学会に出席し、論文を読み漁り、ネットでも国内外の最新情報を集めていた。

 鈴が獣医学生に進むと、勉強と称して溜めた知識を教えてくれたが、受ける方は詰め込まれて大変だと、思い出し笑いを吹き出した。外科手術に関する情報では、競走馬の事故に触れようとすると、「まだ早い」と、触れるのを避けていたが。

「あ、サイレンススズカのバレンタインステークス」馨が、思わず口走る。

 部屋の隅、テレビの上にカップルと馬の写真が、透明なガラスの盾に納まっていた。

「よく、分かるねぇ」と、恭一が感心すれば、「ゼッケン番号からよね」と、陽子が補足した。ゼッケン12番はバレンタインステークス出走時だ。

 鈴の「手にして、いいですか?」に、優しい女声で「どうぞ」が返る。

 色鮮やかな栗色の馬体に、「綺麗……」と感銘し、裏返して、写真の裏面に目が行く。

『響け!サイレンススズカ』の文字。鈴が持っている古い写真と、まったく同じだ。

「このレースから、サイレンススズカの快進撃が始まったのよね」

 驚くよりも感銘を受け、同意を求めて馨に寄り、首を縦にすると口許を緩めた。

「ふたりとも、サイレンススズカが好きなのね」と、陽子が相好を崩せば、

「「はい!」」の嬉しい返事を同時に放つ。

「あの、逃げた上で、差し馬として加速する」

「スピードが鈍らないなんて、最高の逃亡者ですよね」

 顎に手を当て馨が自慢げに評すれば、右の親指を突き出す鈴が応える。楽しげなふたりを肴に、恭一のビールと陽子の烏龍茶が、進む。

「そうなのよ。分かっているじゃない」

 嬉しそうに身を乗り出す陽子は「スズカを生で観戦し続けたわ」と、自慢する。

「まあ、お陰でオレも振り回されたけどな」冗談めいて恭一が感を述べれば、

「アンタの方が行きたがったくせに!」、という反論が飛ぶ。

 掛け合いを繰り返す年上の男女を、鈴は確かめるべく推し量る。

 どう考えても、二十数年前の母の陽子と馨の父親であるの恭一だ。古い噂話の通り、親密だ。一体どんな関係なのか? 胸に生まれたざらつきを消そうと、ビールの喉越しでごまかした。だが、若き父母への疑念は、逆に鈴たちへの関心として、向けられる。

「それにしても、俺たちと似ているよな」見比べた恭一に、

「ホント。これも、ご縁かな」陽子の視線が優しく注がれる。

 自身の鼻を「俺ですか?」と指さす馨を恭一が面白がり、焦りで赤くした顔を下に向けた鈴に、陽子が温かな目線で包んだ。

 スズカのファンである若いふたりと出会えたと、学生カップルを我が子のように愛でながら、陽子が襟足の毛先を捻る。ふと、「でもね、」と陽子は笑みに影を作る。

「これから、スズカから離れて遠くなるのよ」

 烏龍茶を飲むと一息吐き、寂しさを表にした。

「十月一日付けで、福島競馬場に移動だよなぁ」と、恭一も彼女の転勤を低声で告げた。今週末は業務の引き継ぎで東京に戻ったと、陽子がしんみり語る。どう反応して良いか分からない鈴たち、場が静かになる。ふたりは、両手で持つ缶ビールに目を落とす。

「明日はやっぱり、サイレンススズカだよな!?」

 沈黙を嫌う恭一が、高いトーンで天皇賞へ興味を向けた。だが、明るい調子を受ける馨が口を結び、面持ちを悲愴に変える。まるで結末に赤信号を示す顔色だ。

他の馬を応援しているのか? と、非難を混ぜる恭一に、陽子がどの馬を応援してもいいじゃないと物言いを入れた。

 馨と恋仲になる半年前までは、競馬は殆ど知らなかった。幼少時に母からサイレンススズカの名を『老欅』と一緒に耳にする程度だったが。今は、彼への思いの丈を放つ。

「サイレンススズカなら、心配いりません!」ほぼ勝てますから、とも断言した。

「でも私、バレンタインステークスを見て、フアンになったんですよ」

 鈴が写真盾の枠を撫でながら、告白した。

「そのレースからよね。伝説が始まったのは」姉のように嬉しがり、

「次走は、中山記念よね。生で見たわよぉ」

 合わせた手を頬に添える陽子は、実際に観戦した当時を自慢気に言う。

「そうなんですか。いいなぁ」

 鈴は両手を頬に推し当て、羨ましそうに首を左右にした。

「私、スズカはバレンタインステークスのレースしか知らないんです」

「なら、ビデオでも観るか」

 膝を叩いて恭一が、大声を張る。この部屋は分かっていると、鈴が小さい頃見た箱型のテレビとビデオデッキのスイッチを慣れた手付きで入れた。まったく、他人の家のモノを自分の所有の如く扱うのは、馨と似ている。

「サイレンススズカの鑑賞会ね」腕を組む陽子が、表情を崩す。

「中山記念と小倉大賞典、連チャンでいいよな」で白い歯を見せる恭一に、

「お好きにどうぞ」を笑顔で返す。

「まさか、ここでスズカの競馬を観るとは」

 馨が鈴に確認の目線を投げる。スマホにも中山記念以降のレース映像を入れていた。

「まあ、みんなでの観戦。ワクワクしますよね」

 鈴は、これもご縁と目の前を楽しむことにした。ただ、何かに導かれている気もした。そして、テレビに待望の光が点る。

「ああ、サイレンススズカ」

 鈴が小さい画面のテレビへと身を乗り出す。ブラウン管に映る「元いた世界」より少し滲む画質もお構いなしと、流麗な馬体に見入る。

鈴に促された残り三人も中山記念に誘われていった。

「さあ、ゲートインね」

 陽子の台詞をきっかけに、この場の全員が緊張を孕んだ似た顔つきを、同じ方向にする。

 鈍い金属音と同時に扉が開き、一斉に各馬が躍動する。

「出たっ!」

 鈴の掛け声と同時に、リビングはレースの世界へと没頭した。


「これで三連勝ね」

「そうそう」

 中山記念と小倉大賞典を連続で見終えた鈴の実感に、陽子が当然と言わんばかりに寄り添った。麗しき口唇らが感動で震える。

「芝一八〇〇メートルの中山競馬場。やっぱりスピードが違ったわね」

 鈴の口火を馨が受け、中山記念のレース展開を追加する。

「最初のコーナーに入ってから徐々に差が開いて、向こう正面で二番手に六馬身差だよ」

「芝のコンディションが良くなくて、一〇〇〇が58秒ちょうどよね」

 前走同様のハイペースに、鈴が内なる興奮を抑える。

 馨の「でも、手綱はゆったりとして平然として走ったけど」との評価を聞くも、

「三コーナーでは差がなくなって!」鈴が危急を口にすると、

「それは違うよ」恭一が大丈夫だと、フォローを始め、

「二番手の馬が鞭を入れて、必死に追ったし」に「先頭は息を抜いていた」とも補足した。

「四コーナーで一瞬、ヒヤリとしたけど、」鈴が焦りを吐くも、

 今度は陽子が「心配ないわよ」を放ち、

「サイレンススズカも鞍上の手が動いて、ゴーサインが出たわ」と、ウインクを投げた。

 さらに馨が「四コーナーを過ぎて直線、リードは一馬身だから」落ち着けと、諭す。

「直線で加速すると二馬身差に突き放したわよ」の陽子。

「ゴール前はさすがに後方も詰め寄ったよな」馨が心配を代弁し、鈴に顔を近付ける。

「でも、結果は直線を凌ぎきって、嬉しい重賞初制覇よね」

 鈴は胸を突き出し、馨の鼻を指で弾く。上体を後ろへ反らせて痛がる姿に「上がりは38.9秒も掛かる荒れた馬場、根性を見せたわね」と、肩を叩いて嬉々とした。

 競馬の格付け、高グレードの重賞競走は、G1、G2、G3としてランクがある。最高峰のG1に次ぐG2レースを制したのは名誉なことと、痛がる鼻を押さえた馨が、喜んだ。


 続く中京での代替開催、小倉大賞典と、ご機嫌な鈴が続ける。

「小倉大賞典も同じ中距離」に対し、「外側の七枠一四番だから、スタートして先頭に立つまでに時間が掛かったな」と赤らむ鼻を手で擦りながら、寄り添う。陽

 陽子が、「二連勝時が楽にハナへ行けたから、そういう印象になるのよね」と、サイレンススズカの絶対的スピードは他とは違ったとも追加し、

「二コーナーで、定位置のトップでレースを引っ張った」と自慢げに鼻を鳴らす。

「向こう正面で、二番手から二馬身差をキープしてたな」と、恭一も応じた。

「六〇〇が34.4秒で三コーナーね」

「一〇〇〇が57.7秒だな」

 鈴と馨は、速いラップを披露し合う。そんな姿を陽子と恭一は、親のような慈愛に満ちた笑顔で眺めていた。

「スタートから2ハロン(200から400メートル)は、11秒フラットだぜ!」

「騎手が『中距離では、滅多にお目に掛かれない』の称賛を語たわ」

 馨が太い腕を突き出せば、髪の毛を右手でしなやかに払い除けた。

「ハイペースで逃げて。三、四コーナーも、直線でも相変わらずのリード」

 陽子は競馬が安定してきたと、手の指を鳴らして嬉しがる。

「四コーナーで、息を入れて」と、恭一が馬の精神面での成長ぶりを評価した。

「直線は再加速で後続を突き放し、ゴール前はノーステッキで」

 鈴が手を合せて、しなを作って歓喜を見せる。逃げた馬がバテるどころか、追い掛ける連中以上に脚を使えたら、負けようがない。まさに「逃げて、差す」競馬だと、馨が言い、

「トップハンデの57.5キロ背負って、1分46秒5のレコード勝ちだもんな」

 重賞二連勝、これは本物と褒め囃す。ふたりはいいレースと腕を組み、笑顔で頷き合う。

「だがな、」

 恭一は緩めた表情を引き締めた。「競馬場でのメンバー」が問題だったと。

「ああ、あの人たちね……」

 察する陽子は言いたいのを我慢して、黙り込む。四人がいる場に、何とも言えない重い雰囲気が垂れ込める。

「あの人たち」とは鈴の父である新太と馨の母の由美だ。鈴と馨は察知して、顔を見合わせる。

 陽子と恭一は、サイレンススズカの追い掛けをしている。そこに新太と由美も加わっているのか。「元いた世界」で聞いた状況から、いい関係ではないだろう。

 顔に影を作る鈴が、馨を覗くと固くした表情で目線を返した。同じことを考えているのか。周囲を察した陽子が、手を叩いて恭一に矛先を向け、気配を変える。

「ねぇ、次のレースは?」

「一九九八年五月三十日、金鯱賞」

 恭一は、ハッキリとした口調で、年月まで断言した。

「伝説のG2レースのひとつですね」と焦るように絶賛する馨に、

「いいわね」と鈴が上ずる声を追加した。

「そのレースをだ、」

 恭一がワザとらしく大きな声を裏返し、「続けて観るか」を陽子に向ける。

「もちろん!」

 何かを振り切るように急ぐ陽子は、おぼつかない手付きでビデオデッキを操作する。この場にいる四人は、ぎこちなさの尾を引いていた。

 ソファーに座る鈴は、均整の取れた胸をお構いなしに馨に押し付け、高鳴る鼓動を共にする。両親の闇を垣間見た緊張を、サイレンススズカへの想いにすり替える。

 確かに初重賞の中山記念、レコードで圧勝した中京の小倉大賞典、年明けから三連勝は、今後を期待するなと言う方が無理だと、速まる心音を伝える。先程観たばかりの競馬へと、鈴は画面に集中しようと目を凝らす。


 その金鯱賞、九頭立ての五枠五番のサイレンススズカが眩い馬体をゲートへと滑り込ませ、最後に大外枠の九番の馬が誘われると体制完了だ。全ての観戦者が、息を飲む一瞬。

 扉が開く金属音が観客を襲うと、少しバラついたスタートだ。真ん中から楽な手応えで、栗色の馬が内枠に切れ込んでいく。心地良いままで最初の直線、自然と先頭に立つと、道中はずっと、ほぼ三馬身差を維持して、力を溜める。

 だが、一コーナーから二コーナーを過ぎ、自ずと加速し、二番手以降を徐々に引き離す。

「持ったままで三コーナー、二番手とは八馬身差!」

 サイレンススズカの走りは、再び鈴たちを圧倒する。後方の馬は追おうとするが、金縛りに遭って、前へ動かない。

「四コーナーでも、差が縮まらないじゃん!」

 前二走と違い、鈴をヒヤリとさせるとことは、ない。

 気の早い場内からは大差でコーナーを抜けて行く馬を、勝利を称える拍手で迎えた。

 直線は速さを増しながら、二〇〇の標識を過ぎる。

「何これ、差が開いていく……」

 ジョッキーが、現実を確かめるように、後ろを振り返る。他馬が視界に入らず、鞭を使う派手なアクションがないので、ゆったりと感じられ、スローモーションの映像と錯覚する。不思議な感覚だ。馬は間違い無くトップスピードなのに。

 ノーステッキのままで、鞍上が右手で鞭を握り締めてガッツポーズを見せた。まだ、ゴールまで時間がある。早すぎる拳の歓喜が、末恐ろしさを印象づける。

「……こんなのって……」

 鈴は目と口を開け広げて、絶句する。

 二着ミッドナイトベットは香港国際カップ、三着タイキエルドラドは九戦五勝のG2ウイナー、六着のマチカネフクキタルは菊花賞馬でススズカに勝ったこともある名馬たちだ。

「そのメンバーで、1分57秒8、レコードの大差勝ち……」

 何度観ても、目にした事実が信じられないと、陽子はショートヘアの毛先を左右にする。鈴も感動を通り越して、頭と手足の先の感覚を失った。凍るような驚愕に囚われ、馨に助けを求めた。二つずつの目は互いの生気を確かめ、凝視していた。


「ほら、次のレース見るぞ」

 恭一が絞り出す声が、凍結した鈴を解凍すべく、リビングのテレビを指さしていた。

 鈴が、反射で頬に垂れる髪の毛を払い「えっ、ええ。分かりました」寝ぼけた調子を口にすると、テレビ画面に阪神競馬場が映る。

「ほら、宝塚記念だ」と、恭一が画面へと促す。

「うわぁ、サイレンススズカだぁ」

 美麗な栗毛馬を目にすると満面の笑みで、鈴のテンションが一気に上がる。

「もう、待ちきれない」

「府中に行く前に、スズカの予習だな」

 恭一がサイレンススズカのレースを観続けて、天皇賞秋の予行演習と、主張する。

この場の視線の先、宝塚記念、G1馬への挑戦が始まる。いつもの関西G1ファンファーレが、仁川のターフを流れた。各馬のゲートインが順調に進む。最後、大外13番のサイレンススズカが枠のなかに吸い込まれて、行った。

 ゲートが開くと五分のスタートから、サイレンススズカが自分のペースで先頭に取り付く。G1五勝の名牝メジロドーベルが二番手、僚馬ゴーイングスズカは五番手、エアグルーヴは六番手の内で、外はテイエムオオアラシ、二頭後はステイゴールド、後方はシルクジャスティス、メジロブライトは後方から二番手だ。

 先頭は楽な手応えで、一、二コーナーを三馬身差で最初に突入する。向こう正面で、六馬身くらい後続を離して逃げ続け、一〇〇〇メートルを58.6秒で、刻む。

 離れた二番手は変らずメジロドーベル、ゴーイングスズカが四番手、テイエムオオアラシがするすると前目を伺い、ちょっと手が動くエアグルーヴは七番手、ステイゴールドは直後を外目で追走する。

 後続馬に乗る騎手の手が動き始める、八馬身差となり場内が響めくも、先行く馬は動じない。相変わらずの速いマイペースを、維持し続ける。

 三コーナーに差し掛かると、さすがに後ろが脚を使って、先頭に詰め寄ってくる。じわじわと四コーナーで差が縮まると、スズカの鞍上も手が動く。

 直線入口ではメジロドーベルとテイエムオオアラシ、ステイゴールドが三頭雁行で、一馬身差とさらに肉薄する。さあ、ここから逃げ粘れるのか?

 サイレンススズカが二の脚を使うと、ステイゴールドが必死に追い縋る。スズカは先頭キープもここが正念場と、鞍上が左鞭一閃。このまま逃げ切るれるのか!

 ステイゴールドがじわじわと差を詰め、外からエアグルーヴが、信じられない差し脚を繰り出す。後続の急迫に。懸命な鞍上が、鞭で何度も殿部に叱咤激励をする。

 必死に応えるサイレンススズカは、先頭を譲らない。最後は追う馬たちが限度を迎える。

 サイレンススズカ、見事に逃げ切ってゴールした。

 ステイゴールドとの差は四分の三馬身、エアグルーヴはさらにクビ差だ。ゴールを過ぎると鞍上が左手で、勝ち馬の首をポンと軽く叩いて、労を労った。

 サイレンススズカ、G1初制覇だ。

「スピードで押し切ったわね」陽子が評すれば、

「スタミナとパワーもだよ」と、恭一も続く。

「今までの派手な勝ち方ではないわね」鈴が、少し残念な感想を投げると、

「メンバー的に差が広がるレベルじゃないよ」馨が軽く鈴の腕を叩いて、フォローする。

 二着のステイゴールドは後に海外G1の香港ヴァーズカップを制し、三着のエアグルーヴは天皇賞秋を勝った名牝だ。

「鞍上変更によるテン乗り、過去に人気を大きく裏切った右回り、相手強化、今年初の二二〇〇メートルでの競馬……」

 馨は指を折って悪条件を口にすると、鈴がいなすように応える。

「不安材料一杯だったけど、無用な心配に過ぎなかったのね」

 陽子が、杞憂に同意を重ねるべく、細かくフォローする。

「逃げ切るスピードと、二二〇〇を乗り切るスタミナが、高レベルで融合したわね」

「まあ、持てるポテンシャルを発揮しての勝利だな」と、恭一が締めくくった。

 サイレンススズカのG1初戴冠を観た鈴は、宝物を手に入れた嬉しさで胸を一杯にした。そのふくらみの上で、両手を握り締めていた。


「一連の競馬で、一番驚いたのは金鯱賞よね」

 実際に生観戦した陽子は、懐かしそうにレース名を挙げた。確かに派手な勝ち方に、鈴も頷いて同意すると、観戦会の総括が始まる。

「その金鯱賞は平然と、一〇〇〇を58.1秒で刻んで……」

 恭一は表情を柔和にして、解説し始めた。説明するのが好きな馨と、うり二つだ。

「……それで、前年の菊花賞馬マチカネフクキタルに大差勝ちだ」

 親子だなぁ、血は争えないなあ、と想起しながら、レビューを聞く。その鈴も過去レースを観た光景を、頭に再現する。その馨が合いの手を入れる。

「まさに『先頭の景色は譲らない……』ですね」

「いい表現ね、センスある」とは、陽子の評だ。

 鈴が「ゲームアプリのパクリだ」と指さすと、彼は頭を掻き、「あの、ぶっちぎりは、ヤバイですよね」と、閉じた瞼に皺を作る。

「G1初制覇の宝塚記念も感動です」

 鈴が待ちきれないと、手を合せて祝福する。

「相手強化も騎手変更も関係なく、逃げ切りだ」

 恭一は力強く缶ビールを掲げて、再確認する。今度は馨が、

「宝塚記念はさ、『私の夢はサイレンススズカ』です、を思い出すよ」

「翌年の宝塚記念はグラスワンダーが勝ったけど、レース前に実況アナウンサーが前年を懐かしがったよ」と、記憶を辿った。

「そんな予想をするんだ」陽子が屈託のない笑みを向けた。

「そのグラスワンダーを負かしたのが、毎日王冠……」

「あーっ、馨。毎日王冠は、まだ観ていないのに!」

 悲鳴を上げる鈴が、結末を言うなと興奮して、鼻息を荒くした。

「加えて、エルコンドルパサーも、だよな」

「恭一さんまでぇ」

 困った顔を顰めた鈴に、からかうように笑う恭一が、スーパーG2だと判定した。

 だが、毎日王冠を耳にした陽子の表情が一瞬、固くなる。本来なら恭一たちを諫めるはずだが。一瞬、気迷う鈴にお構いなしに馨の解説が続く。

「エルコンドルパサー、凄い馬だよ」に「翌年には、フランスG1のサンクルー大賞を勝って、凱旋門賞二着だしさ」と、ひとりで盛りあがる。

「不思議な男の子ね、馨クンって」

 陽子が「まるで、未来が見えているわね」と細い目を鋭くし、伏せる。

「面白いコト言うよなぁ?」恭一も楽しさと不思議さを混ぜ、首を傾げた。

 言われた本人が「ハッ」と気付く、当たり前に「過去」を口にしたが、サイレンススズカが出走する天皇賞秋の前日時点では、「未来」だ。

「今」の陽子らに話が、通じる訳がない。

「しまった!」という風に、馨は当惑した目を隠すように顰めて閉じた。

「何か、変な話。しましたかね」

 目を見開く馨の陳謝に、無理に笑う陽子が、「別に大丈夫」と、左右に手を振った。


 それにしても陽子の雰囲気が変だ。毎日王冠のレース名を耳にして、急に表情を失った。

「身体の具合でも、悪いんですかぁ?」

 ほろ酔いの鈴が、軽い調子に任せた台詞を、衝いて出す。向けられた先は「それはあるわねぇ」と、作り笑顔で返す。月のモノが来なくて身体がバキバキだと、陽子が鈴に、アナタも生理で悩むコトはあるでしょう? と、耳打ちした。盗み聞きしたのか、恭一が羞恥を隠すように顔を下にし、焦るようにビールを呷る。

「今話したレースのチェック、入れますか!?」

 話題を切り替えよと気が急く鈴が、「元いた世界」の動画配信サービスの名を出し、カバンからスマートフォンを取り出す。

「何だよ? それ」と、恭一が配信サービスの内容を問えば、

「それにしても、大きな携帯電話よねぇ?」と、陽子が首を斜めにした。

 スマホは圏外を表示し、当然だがネットは繋がらない。鈴は、後悔の薄ら笑いを浮かべ、馨が焦るが、遅かった。スマホに陽子と恭一の注目が集まる。

 変な端末ねぇ、電子辞書かなと、陽子がスマホをちょっとみせてと、強引に手にした。「どう動かすのかな?」と言いつつも、物怖じしない性格は勘も良く、こうすればいいのかな? スワイプとタップをし、一発で正確に操作した。

 結果、画面に表示されたテキストを発見し、顔を食らい付けて、注視する。

「これって、馬の外科手術関する論文じゃない?」

 陽子が声の語尾を尖らせ、詰問する。

「鈴ちゃん凄い、この施術方法は学会未発表でしょ。書いたの、誰?」

 スクロールする画面を脇目に、陽子さん、未来のアナタが纏めました、が、鈴の喉まで出掛かって、止まる。

「どこかで目にした文章の書き方ねぇ」にも、心臓がドキリと弾む。

 この文章を書いたのは、鈴が「元いた世界」の陽子だが、当然これも飲み込んだ。

「頭では、何となく分かるんですけど……」

 鈴がレポートの内容を、複雑だと評した。

 陽子が自身を落ち着かせようと胸に手を当てる。「鈴ちゃんって、獣医学部は五年生よね」

「ハイ、そうです」と返し、実際の手術などはこれからだと、返事した。

 そうね、頑張ってねと、陽子は先輩風を吹かせながら、スワイプする。そして、この情報があれば、助かった馬もいたかもねぇ、が、ポツリとスマホに落ちた。数多の手術と馬たちへ、想いを馳せているようだ。

「テンポイントかぁ……」

 陽子は、深い嘆息を吐いた。顕彰馬にも選ばれた名馬のエポックだと言う。

テンポイントは競争中の事故で第三中足骨の解放骨折を発生させた。数パーセントの成功に賭け、手術を選択した。術後、蹄葉炎を発症し約一ヶ月半の闘病の末、天に召された。 

 その際、五〇〇キログラム近い馬体重が三〇〇にまで減っていたとも言われている。サラブレットの故障として有名だ。競走馬が事故に見舞われた場合、外科手術は万能ではなく、状況により馬も人も苦しむ場合もある。予後不良、安楽死、という言葉が重くのし掛かる。

 陽子は、「こんなやり方もあるのねぇ」と、スワイプする文章に溜息を吐いた。

「獣医学のことより、酒飲みましょうよ!」

 缶ビール片手に「ボクは勉強が苦手なんで」と、戯ける馨が鈴に「いい加減にしろ!」という風に、未来のモノをこの時代では隠してとの強い視線で刺す。

 陽子が「飲むのは、気分転換もいいかも」馨に細めた目を向ける。絶妙なタイミングで「すいません」と、鈴がスマホを奪還する。手が空いた陽子は「ありがと」と礼を述べ、烏龍茶を口に含む。鈴は調子を合わせるように、缶ビールにキスをした。


 何か閃いたように「そうね、」と、陽子は息を吸い、吐く。

「前に恭一と話したことがあって……」と言い掛け、意を決するように、

「アナタたちはさ。私たちが考えていた子供の名前と、同じね」と馨と鈴に向き、告げる。

「私は女の子が生まれたら「スズ」で。恭一は男だったら「カオル」って名付けようと、話してたの」

「!!」

 吹き出しそうになるビールを、馨が必死に嚥下すれば、鈴は目を丸くして飲み込んだ。

 驚き、瞬きを重ね合う娘と息子を横目に、陽子は温かさに満ちた笑みを向ける。その笑顔を母親の慈愛として、鈴は感じる。

「本当に同じ名前なんだな」と馨と恭一が、目で通じ合い、戦う。

 漢字の説明をしていないのにこの展開だ。「これが偶然」かと、信じ難い状況で、情愛と驚きを混ぜた苦い笑みの鈴がいた。複雑な顔の四人、表情を隠す下に緊張が走っていた。

「いいじゃん、飲もうよ!」

 今度は、ノリのいい恭一が、雰囲気を何とかしようと、缶ビールのプルタブを起こす。

 再度、喉越しを楽しむと、「これから、徹夜で並ぶんだろ?」と、直後の意向を口にした。

 ふたりの反応が返る前に「終電は終わっているから、始発が着く前に正門前に並べばいいさ」と投げかける。

「あなたたちは飲んでいて、いいわよ、」と陽子が欠伸しながら、「アタシはそろそろ、一休みさせて頂くわ」と、眠い目を擦る。陽子は「明日は、東京競馬場で仕事だし」と宣言し、「カラダが怠い」から寝ると言う。

「関係者なら、事務所門から入れてくれよ」と、恭一が懇願しながら手を伸ばす。

「本物の競馬ファンなら、ドキドキしながら正門前で、開門を待ちなさいな」

 陽子は、来る手を追い払うように、数度前へと払った。

 冗談から一転、忘れ得ぬように恭一が表情を変え、口の端を結ぶ。真剣な表情が迫ると、陽子も真顔になる。

「気をつけろよ」

「アナタこそ」

「明日。いや、もう今日になっているか。だから、かな?」

「分かっているわ、恭一」

 二人が自分たちの世界で琴線が触れている。何かを決めた男女の覚悟が、鈴の胸に重くのし掛る。馨も「何ごとか?」と、緊張を顔に走らせる。

 鈴たちの妙な感情が表に出たのを察した恭一が、コレまでにしようと小さな息を契機にする。澱む堅苦しさを打ち消すべく恭一は、テンションを高めに誘う。

「ほら、恋人さんたちも競馬場の正門前に行くよ」

 仕向けられたふたりが、「恋人さん」と「親」から強調されて、顔を紅潮させ目を落とす。

「ふふ、可愛らしくて。仲いいわねぇ」

 恥ずかしげな大学生カップルに、自然と口角を上げる陽子は、「玄関を開けるから」と立ち上がる。

 連れて立つ馨と鈴の背中を、恭一は督促すべく押した。待ちきれないと前へ出て「じゃあ、行きますよ」急かして誘うと、ふたりは慌てて玄関へ向かう。

「行ってらっしゃい」の陽子の声で、扉が閉まる。

 隙間から手を振る恭一。まるで夫婦だと、鈴は感じるが、湧き上がる気持ちは不安げだ。この世界では、まさか、陽子と恭一は結ばれるのか、そしたら鈴は、馨は生を受けるのか。消えぬ疑念が、鈴の胸の闇夜を藻掻き、暗い感情が蠢いた。

「まあ、友人が府中にいる競馬ファンの特権だよな」

 恭一は、始発電車の到着前なら、終電後と並びは変らないと、調子よく足を繰り出す。後ろ手を頭に当て先導する男を、鈴は馨と連れ立って後を追う。

 深夜の競馬場通り、下り坂が暗闇の断末魔を迎えていた。鈴は恭一と陽子との関係が、気になり続けた。本当に「友人」なんですか? 「恋人」じゃあないんですか? 口から出るのを必死で飲み込んだ。

 陽子の家を出て、競馬場正門通りの坂を踏ん張って、下る。ここから東京競馬場の正門前まで、僅か数分だ。眺めのいい一般席へ陣取る為に開門待ちの列に並ぼうと、歩みを進めていた。陽子は一眠りして、同じ競馬場へ仕事に行くという。

 明け方近くまで飲み続けた影響か、三人とも瞼を重くし、欠伸を連発する。酔い覚ましに未明の府中を歩く恭一は、迎え酒の缶ビールを入れたコンビニのレジ袋をぶら下げる。馨が「まだ飲むんですか?」と問うも、恭一は当たり前だと、口端を持ち上げた。

「面白い話って、ないのかい?」

 眠気覚ましに刺激のある話をしろと、恭一が鈴に向く。

「馨って。案外、武道バカなんですよ……」

 恭一が関心を後ろへ振り向けると、鈴の意外な台詞が追加される。

「……しかも、銃マニアで」

「面白いねぇ」

 恭一は口笛を吹いて「馨クンは、俺と趣味が似ている」と大笑いした。

「子どもにはさ、何かしらの武道は嗜んで欲しいと思っているしね」

 恭一の希望は、馨が生まれてその通りになるのだが、今の鈴は苦笑するしか、なかった。

「ミリタリー好きのどこが悪い?」

 馨が趣味にケチ付けるなと、口を尖らせた。

「バイト代貯めて、実弾を撃ちに海外まで行ったアホウですよ」

「射撃はさ。競馬場巡りのついでだよ」

「どっちが、本命なんだか」

 鈴が左腕を指で突くと、男はお返しとサイドテールを軽く引っぱる。頬をふくらませ、髪を掴んだ手にパンチで反撃すると、やっぱり仲いいなぁと、恭一が吹き出した。



この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です

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