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第八十九話 空VS姉弟(前)




 藍色インディゴ翼獣ワイバーンが大きく翼をはためかせてイシュカの上空を通過していく。


 その瞬間、クライアの視界で日がかげった。


 翼獣の飛行速度は速く、陽射しが遮られたのは一瞬のこと。その一瞬の間に、クライアは翼獣の背から飛び降りる人影を認めた。



 翼獣が飛行していたのは高大なイシュカの城壁のさらに上、見張りの尖塔よりも高い位置だ。そんな場所から飛び降りて無事ですむはずがない。


 例外となるのは、けいを用いた幻想一刀流の歩法ほほうを修めた者。


 クライアならば苦もなく着地できる。クリムトであっても、ゴズであっても同様だ。


 そして、空から落ちてきたその人影もまた、クライアたちと同じ陣営に立つ者であった。




 タン、と。


 はるか上空から飛び降りたというのに着地の音はとても軽かった。それは眼前の人物が高いレベルでけいを使いこなしていることを示している。


 クライアたち三人と倒れた魔術師ミロスラフのちょうど中間に降り立った青年は、黒い髪と黒い瞳の持ち主だった。


 記憶の中にある顔。


 強さと鋭さを宿した面差しは、いつもうつむきがちに歩いていた五年前とは見違えるようだったが、それでも面影は残っている。



「……そら殿」



 その声は決して大きくなかったが、宙に溶けるほど小さかったわけでもない。


 たしかに届いたはずのクライアの声に、しかし、空はこたえなかった。  


 じろり、と三人を一瞥いちべつした後、くるりときびすを返し、倒れている魔術師ミロスラフに歩み寄る。



「マ、ス……」


「静かに」



 震える声で何かをいおうとするミロスラフを制した空は、おもむろに袖をまくると自身の腕に歯をあてがい――



「……っ」



 一息に喰いちぎった。


 口に含んだ小さな肉塊をぺっと吐き出した空は、傷口から流れ出る血をすすり取る。そして、ミロスラフを抱き起こすと、血まみれの唇を相手の唇に押し当てた。


 ――少しの間を置いて、ミロスラフの咽喉がこく、こく、と上下に動く。


 やがて空が唇を離したとき、二人の口元は赤い血で真っ赤に染まっていた。



盟主マスター、敵の狙いはスズメ、です……今はシールと共に中に……」



 先ほどよりもはっきりした声音でミロスラフが告げる。


 空はこくりとうなずくと、服の袖で自分の口を、懐から取り出した手巾ハンカチでミロスラフの口をぬぐった。


 そして、眼差しをわずかに和らげてミロスラフにいう。



「よく二人を守ってくれた、ありがとう」


「……身にあまる、お言葉です……」



 ミロスラフの声が震える。それは痛みのためか、喜びのためか。


 と、ミロスラフはすぐにきゅっと目をつぶった。あふれでる自身の感情を押さえ込むように。


 そして、招かれざる客たちについて言及する。



「ご注意、ください。あの者たちは……」



 強い、と口にしようとしたミロスラフを軽く制した空は、落ち着いた声音で相手の心配を打ち消した。



「大丈夫だ。それより、イリアとその母を連れてきている。すぐに回復魔法をかけてやるから、もう少し我慢していてくれ」


「…………はい。どうか、ご武運を」



 うなずいた空は、防風のために羽織っていた上衣を地面に敷き、その上にミロスラフを横たえた。


 そうして、ゆらり、と立ち上がる。


 腰の黒刀を抜き放つ澄んだ音が、その場にいる者たちの耳朶を打った。




◆◆◆




「お待ちくだされ、若。まずは話をしたく存ずる」


「話?」



 うねるように敵意と戦意が渦巻く中、口火を切ったのはゴズだった。


 これに対し、空はあざけるように唇を曲げる。



「人の留守中に土足で家にあがりこみ、仲間を傷つけた奴と何を話せと?」


「お怒りはごもっとも。されど、すべては鬼人を討つためのやむをえぬ仕儀でござる」


「ろくに戦い方も知らない鬼人の女の子ひとりを討つために、やむをえず心装を抜いたのか? 青林せいりん旗士きしが三人も雁首がんくび揃えておきながら?」



 ゴズとベルヒの姉弟を見やった空は、は、と小ばかにしたように鼻で笑った。


 クリムトが険悪な顔で進み出ようとするが、その動きはクライアによっておさえられる。


 ゴズはといえば、空の言葉を聞いて眉間に深いしわをつくっていた。


 それはクリムトのように相手の言動に怒りをかき立てられたからではない。空の言葉の中に看過しえない部分があり、そこに深い困惑を覚えたゆえの表情だった。



「……まこと、ご自身の意思で鬼人をかばっておられたのか」



 鬼人が空の庇護下にあることは、先ほどリデルから聞かされていた。


 だが、ゴズはそれを信じていなかった。あるいは、庇護したことは事実でも、空は相手が鬼人であることを知らないのだと考えていた。魔法なりアイテムなり、容姿を変える手段はいくらでもある。


 だが、今の言葉を聞けば、空は鬼人が鬼人であると承知した上でかくまったとしか思えない。それはゴズにとって小さからぬ衝撃だった。


 試しの儀を超えられなかった空は鬼門の中を知らず、三百年前の真実を知らない。その意味で鬼人に対する認識が甘いのは仕方ないことだろう。だが、だとしても――



「若。御剣家に課せられた滅鬼めっき封神ほうしんくん、お忘れか」


「おぼえているさ。従う気はないがな」


「若!」


「勘当された人間がどうして家訓に従わないといけない? そもそも、今の俺を『若』と呼ぶこと自体、当主の言いつけに背くことだろう。俺にくんがどうとかいえた義理か」


「む……それは」



 空の指摘にゴズが言葉を詰まらせる。


 そんなゴズに空は皮肉もあらわに告げた。



「もう俺は御剣の人間じゃないし、お前は俺の傅役もりやくじゃない。遠慮なく名前を呼べよ、ゴズ・シーマ。五年前、島を追放された俺にそうしたようにな」


「……若」


「第四旗九位の坊主を殺したのは俺だ。俺はお前の大事な大事な御館様おやかたさまに逆らった大罪人。それさえわかれば言葉なんていらないだろう? そこの弱者カスにならってさっさと心装を抜け」



 そういって空がちらと視線を向けたのは、いうまでもなくクリムトだった。


 かつての落ちこぼれから弱者カスと罵られたクリムトは、唇を歪めて吐き捨てる。



「試しの儀も超えられなかった奴がほざくな、空」


「試しの儀を超えても姉離れはできなかったみたいだな、クリムト。おおかた、姉を傷つけられて逆上したところを当人に止められたんだろう?」



 空は先刻の光景を見ていない。だが、白い魔力の爆発と、天高くのび上がった火柱は翼獣の背から見て取れた。ベルヒ姉弟の心装も性格も知っている。


 その上でこの場に立てば、何が起きたかを推測するのはたやすいことだった。


 ――正確にいえば、クリムトを止めたのはクライアではなくゴズだったが、クライアが弟を制止するために心装を出したのは確かである。


 ち、と舌打ちしたクリムトは鋭い視線で空を睨むと、声だけをゴズに向けた。



「司馬。こいつは自分で坊主を殺したと自白したんだ。もう斬ってもかまわないな?」


「……勘当されたとはいえ、宗家の血を継ぐ御方おかただ。斬るには御館様の判断を仰ぐ必要がある。取り押さえよ」


「面倒な……まあいい。弱者カスの相手なんてびょうで終わらせてやる」



 そう言うと、クリムトは炎刀を握りながら空の方へ進み出る。


 その背にクライアの声が飛んだ。



「クリムト、油断しないで。慈仁坊殿をあやめたのが空殿ならば、間違いなく心装を会得しています」


「大丈夫だよ、姉さん――空、そういうわけだから俺が相手をしてやる。安心しろ、手加減はしてやるし、時間もくれてやるさ。さあ、遠慮なく心装を抜けよ」



 言外に、抜けるものならな、とあざけりを滲ませてクリムトはいう。


 ――別段、クリムトは「空が心装を会得している」という姉の言葉を疑っているわけではない。


 クリムトとて幻想一刀流の旗士きしである。空から感じられるけいの量が、五年前とケタ違いであることはわかっていた。姉のいうとおり、空は間違いなく幻想一刀流の奥義に至っているだろう――その点にクリムトは疑念を持っていない。


 ただ、だからといって警戒する必要は認めなかった。


 何故なら、クリムトは空がハッタリをきかせていると考えているからである。




 空が心装を会得したとしても、それはここ数年、あるいは数ヶ月のことに過ぎない。クリムトとクライアは五年以上前から、ゴズにいたっては二十年近く前から心装を用いているのだ。経験が違う。


 一対一で戦っても勝ちはおぼつかない。ましてや一対三では勝機はない。


 それは空とて理解しているだろう。だから、空はあえて心装を出さずにいる。


 心装をかくしておけば、力の底を見破られることはない。ゴズやクリムトを盛んに挑発しているのは、次のように思わせたいからだ。


 ――心装使い三人を相手にこの余裕はただごとではない。それだけ空の心装は強大なのだ、と。




 見えすいたハッタリである。


 だから、クリムトは「心装を抜けるものなら抜いてみろ」とあざけった。


 抜けるわけがない。きっと空は余裕ぶった態度を保ったまま、ごちゃごちゃと言葉を重ねてくるに違いない――クリムトはそう考えた。


 そんな空を、見苦しい、と思う。


 五年前の空はたしかに弱者カスだった。無駄な努力を重ね、無駄にあがいていた。だが、それでもここまで見苦しいと感じたことはなかった。



 苦々しい顔でクリムトは倶利伽羅くりからを一振りする。


 心装の炎が宙に紅色の弧を描くところを見ながら、クリムトは思案した。


 これ以上、空の戯言ざれごとに付き合ってやる必要はない。まがりなりにもかつての同輩だ、これ以上の醜態は見るにたえない。一刀で利き腕を焼き斬って終わりにしてやろう。


 倶利伽羅くりからで斬れば、傷口は炎でふさがり、出血は少量で済む。殺すな、というゴズの命令は守れるだろう。


 ――クリムトがそうやって考えをまとめたときだった。


 クリムトの眼前で空が動きを見せる。それまで手にしていた黒刀を地面に突き刺し、まっすぐ右手を前に伸ばしたのである。


 そして――



「心装励起」


「……なに?」



 空の口から出た言葉に、クリムトが思わず驚きの声をあげる。


 まさか本当にここで心装を出すとは、と意外に思ったのだ。


 そして、次の瞬間――



「ぐッ!?」



 全身を押しつぶさんばかりの重圧に晒され、クリムトの口からうめき声が漏れた。


 クリムトだけではない。クライアも、そしてゴズも、同じような声をあげている。


 くろの刀にあけの刃。空の手に顕現した新たな黒刀は、青林せいりん旗士きし三人をうめかせるだけの威圧感を放っていた。




 驚愕はすぐさま警戒にとってかわられた。


 クリムトは素早く幻想一刀流の構えをとる。数瞬前までの自分の考えが、ひどく的外れなものであったことに気づいたのだ。


 そんなクリムトに対し、黒い心装を握り締めた空は静かに告げる。



「手加減は不要。お前ひとりで相手をする必要もない。三人同時にかかってこい」



 それは先ほどのクリムトの言葉に対する返答だった。


 淡々と、あたかも「お前ひとりでは勝ち目はない」といわんばかりの口調に、クリムトの目がみるみる吊りあがっていく。



「ほざくな。俺が相手をしてやるだけありがたいと思え。その増上慢ぞうじょうまん、叩き潰してやる」


「そうか」



 小さくうなずいた空は、ここで表情を一変させた。


 唇の端を吊りあげ、ひどく冷たい声で言い放つ。




「なら、お前から死ね――――喰らい尽くせ、ソウルイーター」 




 心装を『抜いた』瞬間、炸裂する閃影せんえい


 夏の陽射しに満ちていた邸宅の庭に、一瞬だけ夜が降臨する。心装ソウルイーターの力によるものゆえに、心装クリカラの炎でも払えない夜の闇。


 視界を奪われたクリムトに避け得ない隙が生じる。


 そのクリムトに向けて、心装を振りかざした空がおどりかかった。 


 袈裟けさがけに振り下ろされた一刀に、クリムトは流石というべき反応を見せる。


 とっさに掲げた炎刀が空の黒刀を受け止めた。もし、空の武器がいつも腰に佩いている黒刀であれば、触れた瞬間に刀身がけていただろう。


 だが、今の空が握っているのは神殺しの竜の似姿にすがたたる刀。炎刀にかされることなく、それどころか相手の炎を喰らってしまう。



「な!?」



 それを見たクリムトが驚愕の声をあげる。


 ただでさえ不意をつかれ、不利な体勢でいたところだ。心装同士の激突でも敗れれば挽回の目はない。


 均衡が崩れるのは一瞬だった。



シャア!!」


「ぐ――があああッ!?」



 渾身の力を込めて振りぬいた空の一刀が、クリムトの刀を弾き飛ばし、肩口から腰まで一気に切り下げる。


 刀身から伝わる確かな手ごたえを感じながら、空は刀を振りぬいた勢いをそのまま次の攻撃につなげた。


 左足にけいを集中させ、そこを軸に身体を回転。足元の石畳いしだたみが悲鳴をあげるようにきしみ、焦げた臭いを漂わせる。


 すぐさま、今度は右足にけいを集中。目の前で無防備になっているクリムトの胸をめがけ、回し蹴りの要領で渾身の右足を叩き込んだ。



「――ッ!!!」



 ひとたまりもなくクリムトの身体が宙を飛ぶ。


 悲鳴をあげることさえできず、血しぶきをまき散らしながら。


 そのまま石畳に叩きつけられたクリムトは、まりのように二度、三度と弾みながら勢いよく転がっていく。


 やがて動きが止まったとき、クリムトの身体は門の向こう――空の邸宅の外にあった。



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