第八十五話 悪意はなく、されど(後)
「顔をあげよ、二人とも。クリムトの言葉が間違っていたわけではなし、気にしておらぬ」
ゴズの言葉にクライアはほっとしたように頭をあげた。
「ありがとうございます、司馬。あ、それと、これはできればでいいのですが、空殿のことがわかりましたら、私にも教えていただけるとありがたいです」
「……ほう?」
ゴズは驚いたように声をもらす。
ゴズが知るかぎり、二人と空は格別親しい間柄ではなかった。そのクライアが空の行方を気にするそぶりを見せたことが意外だった。
これはゴズだけでなく、クリムトも同感だったようで、驚いたように目を見開いている。
「姉さんがどうして空のやつを気にかけるんだ? そもそも、勘当されたあいつに
「空殿が勘当されたのは事実です。けれど、それなら私たちが空殿と共に学んだのも事実でしょう? それに、空殿は私たちの髪や目のことを一度だってからかわなかった。ベルヒの養子であることも、ね」
白髪紅眼――いわゆるアルビノである二人は、子供の頃から周囲の好奇の目にさらされてきた。成り上がりのベルヒ家の人間、しかも養子という立場もあいまって、からかわれ、いじめられることは日常茶飯事だったといってよい。
しかし、御剣の嫡子であった空は、そんな姉弟にわけへだてなく接してくれたのである。
今となっては記憶もおぼろだが、しつこくはやしたててくる悪ガキたちを追い払ってくれたこともあったように思う。あれはまだ五歳か六歳の頃だったろうか、とクライアは懐かしく想起する。
当時は御剣家に対する恐れと遠慮があり、また、ベルヒの家に認められるために勉学と修練に明け暮れていたこともあって、付き合いらしい付き合いはなかった。それは長じて同期生となってからも変わらなかったが、それでもクライアは空への感謝の念を忘れることはなかった。
その感謝は嫡子という地位ではなく、空という個人に向けられたもの。ゆえに空が勘当された後もクライアの感情に変化は起きなかったのである。
「あなたも覚えがないわけではないでしょう?」
「……ふん、なんのことやらわからないね」
わざとらしくそっぽを向く弟を見て、クライアはくすりと微笑んでから言葉を続けた。
「私が空殿のことを知りたいのは、アヤカが気にしているのではないかと思ったからよ」
「アズライトが?」
姉の口から出た名前にクリムトは困惑する。
アヤカ・アズライト。クリムトにとっては姉や空と同じく同期の人間である。ついでにいえば、これまでただの一度も試合で勝てたことのない相手でもある。
どうしてここでアヤカの名前が出るのか、とクリムトはいぶかしんだ。
むろん、アヤカと空が
クリムトは隊が異なるので詳しいことは知らないが、少なくともラグナとアヤカが不仲であると聞いたことはなかった。
「余計なお世話じゃないのか? ラグナのやつに目をつけられることになりかねないぞ」
「ラグナ殿はそこまで器の小さい人ではないでしょう。でも、そうね、たしかに余計なお世話になってしまうかも……」
弟の言葉をうけ、クライアは迷ったように言葉尻をさまよわせる。
実際、クライアは迷っていた。
いわゆる黄金世代と呼ばれた者の中で女性は三人。この三人の仲は良好で、
そのため、クライアは弟よりもアヤカとラグナの仲に詳しい。
クライアが知るかぎり、二人の仲はうまくいっている。アヤカがラグナへの不満をこぼしたことは一度もない。空への未練を口にしたことも一度もない。もっといえば、クライアはこの五年の間、一度としてアヤカの口から空の名前が出るのを聞いたことがなかった。
――だからこそ、気になってしまう。
クライアの目から見たアヤカ・アズライトという友人は、行動的で気立てがよく、飾らない人柄で目上にも目下にも、そして同輩にも好かれている。
そんなアヤカが、追放された許婚をまったく気にかけないということがあるものだろうか。
クライアの記憶では、空が島にいるときはアヤカの方が積極的に空にくっついていた。それは二人の関係を「不釣合いだ」とそしる声に腹を立ててのこと。つまりアヤカは、空に向けられた陰口に腹を立てるくらいには空を好いていたし、空と一緒にいるときは間違いなく楽しそうにしていた。
そんな二人の関係を内心で羨ましく思っていたクライアにとって、空が追放された後のアヤカの態度はひどく不自然なものに
これまでは気にしても仕方ないことだった。現当主の性格からいって空の勘当が解かれることはありえない。島を出た空と連絡をとる方法はなく、そもそも無事であるという保障もない。
だからクライアは、アヤカと顔を合わせても空のことを話題に出さなかった。
だが今、思わぬ形で空の消息がつかめそうである。これはアヤカに伝えてあげた方がいいのではないか、とクライアが考えたのは自然なことであった。勘当が解かれる可能性が出てきたのであれば、なおのことである。
……ただ、そう思う一方で、たしかに弟のいうとおり、自分のしていることは余計なお世話かもしれないとも感じている。
クライアとしても何が最善であるかが測りにくい状況だった。
無意識のうちに長い
「……アヤカに伝えるか否かはさておき、私が空殿のことを知っておく分には何の問題もないでしょう、クリムト。それに司馬。
◆◆◆
そんな風に話し合った翌日のこと、三人の姿はイシュカに向かう馬車の中にあった。
これはゴズのみがイシュカに行くという話を聞いたリデルが「三人ごいっしょに」と提案した結果である。
防衛線に穴が開いてしまうのでは、と危惧するクライアに対し、リデルは次のような理由をあげて心配する必要がないことを説明した。
――もともと、イシュカ政庁ならびに冒険者ギルドは、今日までスタンピードの最前線で奮闘してきた者たちに段階的に休養を与える予定であったこと。
――天幕暮らし、しかもいつ魔物が押し寄せてくるかわからない状況下では、身体を横にしても疲労が抜けきらない。そして、疲労が積み重なれば、いかな歴戦の戦士でも不覚をとってしまう。その事態を避けるための措置であること。
――本来であれば、スタンピードの最中に前線から戦力を
――今日までイシュカ本市を守り、結果として戦闘らしい戦闘を経験してこなかった部隊に、余裕のある今のうちに実戦を経験させておきたいという上層部の思惑もからんでいること。
それらを聞いたクライアは、それならばと納得した。
ゴズは「昨日のうちにいっておいてくれればよかったものを」と冗談まじりにぼやいた。
クリムトにしても、弱い魔物相手の戦いに文句をつけてばかりいたのである。休んでいいといわれて拒否する理由はなかった。
結果、三人はそろってイシュカを訪れることになったわけである。
イシュカの城門を通る際、ゴズは城外の一角を指差して問いを向けた。
「あの建物は
「ああ、あれは従魔用の厩舎ですよ。今はスタンピードに備えて、従魔は別の場所に移動してます。ソラさんの
軽やかな声でパルフェが応じる。
ゴズの目に興味の色が浮かんだので、パルフェは先を続けた。
「今は政庁の許可を得て、自宅の庭を厩舎がわりに利用しているそうです。竜は住民に人気があって、見物客が絶えないって聞きました」
「スタンピードの最中にか? イシュカの町人はたくましいのだな」
「それだけ冒険者や、ギルドに対する信頼があついってことです」
えっへんと胸を張ったパルフェは、何かに気づいたようにぱちんと手を叩いた。
「そうだ。ギルドに向かう前にソラさんの家に寄っていきましょうか? 今、ソラさんは南方の偵察に出ていますが、何日かに一度は帰ってきて政庁に報告をいれています。もしかしたらすぐに会えるかもしれませんよ?」
「それは是非に頼みたいところだが……今、南方の偵察といったか? 北だけでなく、南でも魔物は発生しているのか?」
「それについてはマスターから話があるはずです。申し訳ないんですが、私の口からはちょっと申し上げられません」
ソラはケール河流域で発生した新毒の対処に奔走している(ことになっている)。
この新たに発生した
「不治」に関する真偽が定かではない上、スタンピード発生という異常事態において、さらなる混乱の種をまけば取り返しのつかない事態になりかねない。イシュカの上層部はそれを危惧したのである。
パルフェの言葉を聞いたゴズは怪訝そうな顔をしたが、ギルドマスターから話があるというのであれば、ここで強いて受付嬢の口を割る必要はない。苛立ちをあらわにするクリムトを軽く制してうなずいた。
「そういうことであればギルドマスター、たしかエルガート卿であったな、その御仁に直接うかがおう。ともあれ、すまぬがギルドに向かう前に空殿の屋敷に立ち寄ってもらいたい。すぐに会うか否かはさておき、在宅しているのか、そうでないのかは確認しておきたい。さもないと、エルガート卿との話にも身が入らぬでな」
「はい、かしこまりました――というわけで先輩、よろしくです!」
手綱を握っていたリデルは、パルフェの言葉に肩をすくめて「了解」と応じた。
エルガートに先んじて、三人をソラのもとへ案内することに異論がないわけではない。だが、ゴズたちの態度を見れば、ギルドよりもソラを重んじていることは明白である。
ここでリデルが「いやここはまずギルドに」と主張しても、三人の心証を害するだけだろう。ここは後輩の思惑に沿った方が得策であった。
――後になってリデルは思う。
もしここでギルドに行くことを優先していたら、結果はもっと違ったものになっていたかもしれない、と。
それだけではない。
ゴズのみがイシュカに行くと聞いたときに「三人ごいっしょに」などと提案しなければ。
ゴズたちがソラの情報を欲したとき、倫理など気にせずに知っている情報をすべて――ことに『
三人の素性について、もう少し踏み込んで聞き出しておけば。
数えあげればきりがない後悔は、しかし、後にならなければ分からないものばかり。このときのリデルは、未来の自分があげる警告の声に気づくことなく、馬車をソラの邸宅へと向かわせてしまった。
やがてソラの家が見えてきたとき、パルフェががっかりした声をあげる。
「あらら、ソラさん、戻ってないみたいですね」
「そうみたいね。でも、留守というわけでもないみたい」
リデルがそう応じたのは、邸宅前を掃除しているシールの姿に気づいたからである。
わずかに遅れて、遠目にも鮮やかな金髪のエルフが門から出てくる。
二人の姿を見たゴズが興味深そうに口を開いた。
「ふむ、ヤマネコの獣人に……あのエルフがまとっているのは
「……そうですね。従者といってよいかと思います」
「なかなかに個性的な者たちだな。そう思わぬか、クリムト?」
「ふん、ただの従者ってわけでもないだろう。妙齢の女ばかり。
五年前、みじめに故郷を追放された人間が、今では力にあかせて女をはべらせている。
は、とクリムトは嘲笑した。
「ずいぶん出世したじゃないか、空のやつ。姉さん、アズライトに教えてやれよ。あいつに未練があったとしても、これを聞けば綺麗さっぱりぬぐい取れるだろうさ」
「クリムト、決めつけはよくないですよ」
「じゃあ、あいつらに直接確かめればいい。おい、はやく――」
手綱を握るリデルに何事か命じようとしたクリムトが、不意に口をつぐんだ。
リデルが不思議におもってそちらを見れば、クリムトは紅色の
クリムトだけではない。ゴズも、クライアもだ。
異様ともいえる三人の様子に、なぜかリデルの背に悪寒が走る。嫌な予感に駆られて三人の視線を追ったリデルの視界に映ったのは獣人のシールとエルフのルナマリア。
そしてもうひとり。
今まさに門から出てきたスズメ――鬼人の少女の姿だった。