第七十九話 蝕まれたもの
「あ……ソラさん。お久しぶりです」
およそ一ヶ月ぶりに再会したセーラ司祭の顔は、深い疲労と色濃い不安が溶け合わさり、ひどく青ざめて見えた。
俺を見てとっさに微笑むも、その姿は痛々しいという他ない。子供たちの様子から察してはいたが、
セーラ司祭は沈痛な面持ちで説明してくれた。
「薬も魔法も、はじめは効くのです。ですが、すぐに症状が再発してしまい……それだけではありません。再発した症状は、以前に効いた薬、魔法の効き目が薄くなり、ついにはまったく効かなくなってしまうのです」
その様は、あたかも病魔が患者の体内で成長進化しているようだという。
以前にこの村を訪れた際、俺は『組合』のつくった解毒薬だけでなく、ジライアオオクスの実も置いていった。セーラ司祭によれば、今のイリアにはジライアオオクスの実すら効果がないそうだ。
これはいよいよヒュドラの毒とみて間違いない。そう考えた俺は、ここ数日の出来事を司祭に語ろうとして――ためらった。
たとえれば、患者の家族に病が不治であることを告げる医師のようなものだ。ここで問題なのは、俺は医師のような専門の知識もなければ資格も持っておらず、肝心の「不治」の部分も推測に過ぎないということ。
いってしまえばヤブ医者である。
そんな人間が「この毒は不治の可能性がある」などといったところで、いったい誰が信じてくれるというのか。いいかげんなことをいうな、と怒鳴られるのがオチである。
俺がセーラ司祭の立場なら、怒鳴るだけではあきたらず、おもいっきりぶん殴るだろう。
なので、そこらへんのことは黙ったまま、ミロスラフの献身で出来あがった解毒薬(改)を渡そうか、とも考えた。
だが、これもこれで問題がある。
ミロスラフいわく、俺の血は劇薬と同じであるという。その劇薬を混ぜた薬を、何の説明もなくイリアに投与するのは問題だろう。最悪の場合、弱ったイリアの身体に致命的なダメージを与えてしまう。
かといって、そのあたりを詳しく説明すると、どうしても毒の不治性に言及せざるを得ない。俺自身の秘密もある程度明かす必要がある。
いずれもセーラ司祭にとっては雲をつかむような話であろう。
この危急のときに愚にもつかない
「……? ソラさん、何かあったのですか?」
「うぇ!? な、なんでそう思われました……?」
「ひどくおつらそうに見えたものですから……そういえば、今回の訪問の目的もまだうかがっていませんでしたね。何か相談事があるのでしたら、遠慮なくおっしゃってください」
そう言った後、今の自分の状態に思い至ったのか、司祭は恥じらうようにやつれた頬に手をあてた。
「あ……その、今の私では
そういって、セーラ司祭はぐっと力こぶをつくってみせる。
――俺は思わずその場で膝をつきそうになった。
娘が大変なときに、俺なんぞのために心をくだいてくれている可愛い司祭さまに
怒鳴られたくない、軽蔑の目で見られたくないという理由で必要な情報を出し惜しむ今の俺は、きっとゴブリンよりも低劣な存在だ。
今やらなければならないことはイリアの治療。それがわかっているのに、何を躊躇する必要がある?
たしかにヒュドラ云々という俺の推測に根拠はないが、悪意をもって偽りを口にするわけではない。その程度のこと、目の前の司祭さまが察してくれないわけがない!
「実は――」
俺は意を決して、今日にいたるまでの事情をセーラ司祭に
それに対し、セーラ司祭は終始真剣な表情で耳をかたむけてくれた。
◆◆◆
その後、俺は病室に招じ入れられ、一対一でイリアと向かい合った。
イリアは寝台の上で上体だけ起こしている。
その視線は俺ではなく、窓の外に向けられていた。俺から見えるのはイリアの顔の左半分だけ。その姿勢を保ったまま、イリアは無愛想な第一声を放った。
「で、どういうつもり?」
「それだけでは何と答えたらいいのかわからないぞ」
俺は肩をすくめてイリアに応じる。
その実、内心でほっと胸をなでおろしていた。
病室に入るまで、俺の頭の中ではあの村で見た患者とイリアの顔が重なっていた。だが、こうして間近で接してみれば、態度も声音も俺の知っているイリアそのもの。彼女の第一声は、俺の脳裏にこびりついた幻影を見事に掻き消してくれたわけで、それゆえの安堵であった。
そんな俺の内心を知る
「白々しいわね。どうして恨んでいる私を助けるのかって訊いてるのよ。私が死んだところで、あなたは喜びこそすれ、悲しんだりしないでしょうに」
「ひどい評価だな。まあ否定はしないが」
「ふん。それで?」
「お前に思うところがあるのは事実だが、お前が死ねば子供たちや司祭殿が悲しむ。あの人たちが悲しむ姿は見たくない」
「……ふん」
視線を窓の外に固定したまま、イリアはこちらの論法を小ばかにするように鼻で笑う。
次にイリアが口を開いたとき、話題は別のものに移っていた。
「ラーズから大体の話は聞いているわ。今ではミロもあなたのクランに加わったのですってね?」
「ああ、そうだ」
「あのミロが、ね。スキム山で命を助けられたとはいえ、ずいぶんと素直にラーズと別れてあなたにくみしたものだわ。あれだけラーズをたきつけて、あなたにけしかけていた人が。あれだけラーズを甘やかして、私を遠ざけていた人が」
「……何が言いたい?」
「イシュカを離れてから何度か思ったものよ。結果だけみれば、ミロの行動はずいぶんとあなたに都合がよかったんだなってね。ルナもミロも抜けて、ラーズもすっかり大人しくなった。『隼の剣』は消滅したも同然。すべては誰かさんの狙いどおり――そんな風に考えるのは
「さて、俺に訊かれても答えようがないな」
つとめて冷静に応じながら、俺は内心で気を引き締める。どうやらイリアは俺とミロスラフのつながりに気づいたようだ。
当然、自分が俺の標的に含まれていることも察しているだろう。
実際、イリアは次のように述べてきた。
「この毒だって誰かさんの仕業じゃないかと疑ってるわよ」
それを聞き、顔をしかめる。
たしかに疑われても仕方ない状況ではある。俺はラーズをだましてルナマリアとミロスラフを奪い、『隼の剣』を事実上の解散に追い込んだ。この状況で唯一残ったイリアが新種の毒に侵され、そこに都合よく俺が現れて新しい解毒薬を提供したとなれば――うん、怪しさ満点ですね。俺がイリアの立場でも俺の関与を疑うだろう。
だが、これに関してはまったくの事実無根である。強い口調で否定した。
「濡れ衣だ。子供たちや司祭殿を悲しませたくないといったのは本当だぞ」
またしても鼻で笑われるかと思ったが、予想に反してイリアはあっさりとうなずいた。
「でしょうね」
「……はい?」
えらく素直に濡れ衣を認めたイリアに目が点になる。
そんな俺に、イリアは疲れたように肩をすくめてみせた。
「わかってるわよ。母さんが手に負えない毒なんて簡単に作れるものではないわ。それに、子供たちをケルピーに襲わせて私をおびき寄せるなんて不確実にもほどがある。あなたがその気ならもっと効率的に立ちまわるでしょ」
だから、今回の一件に俺がかかわっていないことはわかっている、とイリアは繰り返した。
わかっているのに疑惑を口にしたのは――
「ちょっとした嫌がらせよ。散々あなたに――いえ、あなたたちに引っ掻きまわされたのだもの。このくらいの意趣返しはかわいいものでしょう」
「ノーコメントとさせていただこう」
「別に返答は期待してないわよ」
そういってイリアは小さくため息を吐いた。
俺はそんなイリアの態度に疑問を覚えた。真実を知ったイリアはもっと怒り狂い、激しく俺を
今は毒のせいで体調が悪いにしても、毒に侵される前にできることはいろいろあったはずだ。それこそラーズやセーラ司祭に俺の陰謀を話すことくらい、毒に侵されていてもできるだろう。今、こうして俺と話すだけの体力はあるのだから。
そう訊ねると、イリアはぶっきらぼうに言った。
「伝えてどうするのよ」
「どうするといって……反撃?」
「無理よ。証拠なんて何もないもの。糾弾するにしたって、証拠がなければ話にならない。以前なら状況証拠と『隼の剣』の発言力であなたを追い詰めることもできたでしょうけど、今ではそれもできないしね。なにより、へたにあなたを追い詰めれば、あなたは本気で私たちを殺しにかかる。私はそれが怖かった」
そのイリアの言葉は、以前に聞いたルナマリアの
ルナマリアもまた、俺とミロスラフのつながりを見抜きながら奴隷に落ちることを受け入れた。へたに拒めば俺が手段を選ばなくなる。それよりは――そういって進んで俺の手に落ちたのだ。
あのときのルナマリアと、今のイリアは同じ心境なのかもしれない。イリアはルナマリアと違ってソウルイーターに気づいているわけではないから、ルナマリアほどの切迫感はないだろうが、それでもイリアは以前の俺を知っている。そのぶん、今の俺の異常性を他の人間よりも深く認識できるわけだ。
その畏れが俺への反撃をためらわせたのかもしれない。そう思った。
そんなことを考えていると、不意にイリアが咳き込みはじめる。
はじめは軽く二、三度コンコンと咳き込むだけだった。だが、すぐに次の
苦しげに背を折るイリアを見て、俺はとっさに足を踏み出しかけて、あわてて思いとどまった。イリアも俺に背をさすられたくはないだろう。
ここはセーラ司祭を呼ぶのが最善だと判断し、部屋を出ようとする。
だが、そんな俺のすぐ後ろでひときわ激しく咳き込む音が響いた。そちらを見れば、イリアの手と口元に赤黒い液体がこびりついている。
のみならず、イリアが上体をよじるようにして寝台に倒れたのを見て、これはいけないと駆け寄った。
と、俺が近づく気配に気づいたのだろう、イリアが怯えたような顔を向けてきた。
――その瞬間、俺は息を呑んだ。
ここまでイリアはずっと顔を窓の外に向けていた。位置関係上、俺の視界に映っていたのはイリアの左半面だけ。イリアが俺に顔を向けたことで、俺は今日はじめてイリアの右半面を見たのである。
それをなんと形容するべきか、とっさに言葉が浮かんでこなかった。
イリアの右半面は――そう、ひどくふやけていた。
左半面は俺の知るイリアの顔そのままだ。鋭く引き締まり、
だというのに、右半面はまるで別人。頬肉はだらしなく垂れ下がり、目や眉の肉はぶよぶよと膨らんで、本来秀麗であるはずの顔立ちを醜く崩している。
それは、俺があの村で見た病人の症状とまったく同じものだった。