第七十四話 激動の始まり
「こうして顔を合わせるのは君とラーズとの決闘以来か。ずいぶんと見違えたよ、ソラ」
冒険者ギルドイシュカ支部のトップにして第一級冒険者であるエルガート・クゥイスは、そう言って穏やかに微笑んだ。
その言葉と表情に隔意は感じられない。かすかに漂ってくる香水のかおりといい、丁寧に撫でつけた銀髪といい、あいかわらずの
そのエルガートに対し、俺は冷然と応じた。
「ティティスの森に関する情報を共有したいとのことでした。相違ありませんか?」
挨拶を抜いていきなり本題を切り出す。馴れ合うつもりはないという意思表示だ。
それを聞いたエルガートの微笑が苦笑にかわった。
その後ろに控えているリデルが鋭い視線を向けてくるが、そ知らぬ顔で無視を決め込む。
必要なことを言い、必要なことを聞く。今やるべきことはそれだけだ。
「ああ、相違ない。結論から言うが、私はここ数日の状況から魔物の暴走――スタンピードの発生を懸念している」
説明をはぶいて結論から口にするエルガートに対し、こちらも同様の手法で応じた。
「ならばこちらも結論から言いますが、ティティスの深域は吹きこぼれる寸前の
そうなれば、外周部の魔物は押し出されるように森の外にあふれ出す。
エルガートは「やはり」と言いたげにうなずいた。
「あふれ出た外周部の魔物がイシュカに向かってくるのは時間の問題、ということかな?」
「はい。そして、深域の魔物がそれに続くのも時間の問題でしょう」
イシュカはかつてない規模の魔物の襲撃を経験することになるだろう――それがティティスの森をこの目で見た俺の結論だった。
魔物の暴走――スタンピード。エルガートと同じ結論である。
すると、エルガートはどこか沈痛な面持ちで天井を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「……二十年前の悪夢ふたたび、ということか」
「二十年前?」
俺が反応すると、イシュカのギルドマスターはため息まじりに応じた。
「この国は過去にスタンピードを経験しているんだよ。ざっと二十年ほど前、私が今の君より若かった頃だ。今回と異なる点は、異常が発生したのがティティスの森ではなくスキム山だった、という点だな」
そのスタンピードで多くの町や村が魔物に
当時、一冒険者だったエルガートはパーティと共にスタンピードに立ち向かい、仲間をふたり失ったという。
イシュカの街も被害を避けられなかった。現在の強固な防壁がめぐらされたのは、この一件を教訓としてのことだそうだ。
俺は眉をひそめて問いかける。
「原因は判明しているのですか?」
「活発化した火山活動によって、魔物の生態系が激変したことが原因だと推測されている」
……自然の気まぐれということか。
何者かの悪意によって引き起こされた、という真相よりはマシなのかもしれないが、いずれにせよ、やりきれない話だ。
ただ、今は過去に思いを馳せている場合ではない。
エルガートの話から導き出される結論は、今ティティスの森では火山活動に匹敵する異変が発生しているということ。
問題はその異変が何であるか、である。
俺が素直にギルドの招請に応じたのは、この情報が欲しかったからだ。情報と人脈。この二つの面で『
……まあ、ギルドが異変の正体を突き止めていれば、わざわざ俺の話を聞く必要はないわけで、そういう意味で核心に触れることはできないだろう。
ただ、異変解明につながる情報を抱えている可能性はある、と俺は踏んでいた。
そして、この推測が
「今回の件と直接の関わりがあるかは不明だが、ひとつ気になる情報がある。ケール河上流の村で、疫病がふたたび息を吹き返しているらしい」
「マスター!? それはまだ確認がとれていない情報です!」
エルガートの言葉を聞いたリデルが驚きと焦りを含んだ声を発する。
これに対し、エルガートは落ち着いた声音でこたえた。
「かまわないよ、リデル君。情報を共有するとはそういうことだ」
「は、はい。申し訳ありません、差し出口を……」
明らかに納得していない様子ながら、リデルは頭を下げて口をつぐむ。
ひとり
いつかも述べたが、ケール河の水源はティティスの森である。つまりケール河上流の村というのは、言葉をかえれば「イシュカの街よりもティティスの森に近い村」ということになる。
その村で疫病が息を吹き返しているという。
ここでいう疫病は、以前に出現したバジリスクと、魔物の影響で発生した腐海の
ジライアオオクスの実を用いてつくられた解毒薬でほぼ一掃されたはずの疫病が息を吹き返したということは――
「解毒薬が効かなくなった、ということですか?」
「そのようだ。薬が効かないほどに毒が強くなったのか、それとも薬の効き目が落ちたのかは分からないがね。実はこの情報がギルドにもたらされたのは今朝のことで、今、職員が実態を把握するために村に向かっている」
「……なるほど」
「言うまでもないが、このことは他言無用だ。解毒薬の誕生で落ち着いた人心がまた乱れてしまうのでね」
俺はその言葉にうなずいた。言われずとも言いふらすつもりはない。そういう方法でギルドを追い詰めるつもりはなかった。
ただ、この情報が持つ意味は考えずにはいられなかった。
スズメと共に深域に向かった際、新しい腐海が発生している気配はなかった。それはつまり新たなバジリスクが出現した可能性は低いということ。
にもかかわらず、疫病が息を吹き返している? それもジライアオオクスが効かないレベルの毒が?
しかもその毒は、河の水によって薄められた毒なのである。
必然的に、大本はすさまじいまでの猛毒であると推測できる。
今回のイシュカの異変がその猛毒によって生じたものだとしたら……
俺がそこまで考えたときだった。
唐突に部屋の扉が激しく叩かれ、室外から緊張した女性の声が飛び込んできた。
「失礼します! マスター、緊急報告です!」
「入りたまえ」
エルガートの声が終わるか終わらないかのうちに扉は開かれ、報告者であるパルフェが室内に飛び込んでくる。
先ほど顔を合わせたときとは打って変わって真剣きわまりない表情だった。
「ティティスの森から
それを聞くや、エルガートの目に刃のような鋭利な輝きが宿った。リデルもまた極度の緊張に晒されたように表情を強張らせている。
おそらくエルガートは冒険者なり職員なりにティティスの状況を見張らせていたのだろう。
その見張り役から
それが最悪レベルの凶報であることは、三人の表情からも明らかであった。