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第四十一話 スズメ



 鎮守ちんじゅの森。


 人間たちがティティスと呼ぶ大森林を、鬼人族はそのように呼び習わしていた。


 スズメはその鎮守の森を守るカムナ一族の生き残り――最後の一人である。



 もともと、カムナの里は百名あまりの鬼人たちが暮らす小さな集落だった。


 人間たちに対しては「侵さず、侵させず」をむねとし、むやみに森を荒らさないかぎり手は出さなかった。


 そんなカムナの里に対して、人間たちがとった選択肢は殲滅。五十年前、東からやってきた侍の一団を主力とする軍勢によってカムナの里は壊滅する。


 鬼人たちは懸命に戦ったものの、侍たちの力は圧倒的であり、生き残ったのはたったの七名だけであった。


 戦えないほどに年をとった老人と、同じく戦えないだけ幼かった子供たち。


 この子供たちの中にスズメの二親ふたおやが含まれていた。




 その後、生き残った鬼人たちは結界に守られながら細々と生活を再開させたが、魔獣の巣窟であるティティスの深域を、老人と子供だけで生きていくというのはいかにもきつかった。


 ある者は病に倒れ、ある者は魔獣に襲われ、ある者は少ない食料を子供たちに分け与えて自らは衰弱死した。


 一人、また一人と鬼人族は数を減らしていく。


 そうして、スズメが生まれたときにはもう生き残っているのは両親だけであった。




 その両親もすでにない。父親はスズメが三歳になった日、狩りに出かけて戻らず、母親はスズメが六歳になった日に病で息を引き取った。


 以来、七年。スズメは一人でカムナの里を守っている。


 日が昇っている間は森の中で木の実や食べられる草木を探し、日が沈めば村に戻って道端の掃除や家の手入れを行う。これは自分の家以外の家屋も含んでいた。


 これは母親がやってきたことで、母親亡き後スズメが継いだこと。


 いつか人が戻って来たときのために――そういってさびしげに笑う母の顔を、スズメは今も忘れていない。


 そしてもう一つ、スズメが母から継いだこと。それが村の北にそびえ立つ神木に供え物を捧げ、舞を奉納することだった。



 今もこの地に眠る大蛇おろち御霊みたまを鎮める、蛇鎮へびしずめの儀。



 カムナの里人が代々受け継いできた儀式で、スズメの両親は自分たちの食い扶持を減らしてでも供え物を優先させた。


 病に倒れた母親もこれだけは決して欠かさず、自らが踊れなくなった後は幼いスズメに舞の作法を教え込んで続けさせたほどである。


 以前、スズメが蝿の王に捕まったのは、供え物の量がどうしても足らず、危険を覚悟で結界から離れて食べ物を集めていたためであった。


 そこでスズメは一人の人間と出会い、助けられる。




 ――思えば母が亡くなって以来、他者と言葉を交わしたのはあれが初めてだった。




 それまでは生きるために必死で、人恋しいと思ったことはあまりなかった。


 鬼人の里は結界のおかげで魔獣が侵入してこないため、リスやうさぎ、ハリネズミに小鳥といった小動物がたびたび訪れる。彼らと話をすれば寂しさは紛れた。


 ツノを狙う人間への警戒は、両親から繰り返し教え込まれたこと。それゆえ、間違っても森を出て人間の街を訪れよう、などとは思わなかった。




 だが、あれ以来、スズメの中で人間に対する感情が少しだけ変化した。


 鬼人を見つければ目の色をかえて襲いかかって来る化け物ではなく、話もできれば笑い合うこともできる存在へと。


 森の中で迷っている人間を見つけたとき、これまでなら避けていたところを、声をかけて小川まで連れて行ったのはそのためである。


 川を下ればイシュカの街まで戻るのはたやすい。


 蝿の王から助けてくれた相手とは別人だったが、相手は同じ人間、恩返しの一つになればという思いもあった。




 まさか、その相手が自分の情報を奴隷商に売り払うなど、十三歳の少女に予測できるはずもない。


 それが原因で里の位置がおおよそ特定されてしまうことも。続けざまに狩人ハンターを送り込まれることも。そのせいで結界の外に出ることができなくなり、蛇鎮めの儀が執り行えなくなることも――すべて、予測できるはずがなかった。



 そうして現れた蛇の王(バジリスク)によって腐海が広がり、里の一部も飲み込まれ、神木も枯れて結界は消失。


 スズメは一人、襲来した魔獣と対峙することになった。


 蛇種特有の縦長の瞳孔。真っ赤に血走った目に映るのは獲物を前にした歓喜なのか、それとも長年にわたって封じられていた憎悪なのか。


 スズメは小山のごとき体躯の魔獣から何とか逃げようと試みたが、鋭い尾の一撃で木の幹に叩きつけられ、すばやく距離をつめてきたバジリスクによって体をわしづかみにされた。


 キュロロロ、と魔物がうれしげに喉を鳴らす。


 それを間近で聞いて全身に鳥肌が立つ。魔獣の口が大きく開き、自分を丸のみにしようとしている。



 ……ああ、ここで死んじゃうのかな。



 痛みと恐怖で震えながら、スズメはそう思う。そこには多分に安堵も含まれていた。


 腐海によって結界が失われた以上、仮に今日を生き延びても、明日からはこれまで以上に苦しい生活が待っている。


 十三歳の小娘が一人、ティティスの深域で生きていけるはずもない。


 であれば、ここで死んだ方が結果として苦しみは短くて済むだろう。


 父と母に会うこともできるかもしれない。



 『どうか幸せになって』



 ――幼い娘を残して逝くことを悔やみながら亡くなった母。その最期の言葉に応えられないことは悲しく思うけれど、でも、これ以上は無理みたいだ。



「……ごめんなさい、母様ははさま



 震える声で呟く。


 それをあざ笑うように、バジリスクが長い舌を伸ばしてスズメの身体をなめまわした。


 全身を這うおぞましい感触。


 だが、もうそれを払いのける力は残されていない。払いのけようと思う気力も残っていない。


 バジリスクはスズメを掴んだまま、神木の幹をはいのぼっていく。地上では他の魔獣の邪魔が入るかもしれない。そのために樹上に登ったのだろう。


 そうしている間にもスズメの視界は闇に染まっていく。スズメの意識は闇に呑まれていく。


 自身のすべてが黒に染まる寸前、スズメは誰かが広場に駆け込んでくるところが見えた気がした――が、それはきっと気のせいだ。スズメはすぐにそう思い直す。




 誰も来るはずがない。来るとしたら、気の早い死神くらいのものだろう。


 そんなことを考えながら、スズメはそっと意識を手放した……いや、手放そうとした。


 だが、そのとき。




「キュロアアアアアッ!?」




 至近で炸裂する魔獣の咆哮。


 何事か、と思う間もなくスズメの身体を浮遊感が包み込んだ。


 万力のように身体を縛っていたバジリスクの手がほどかれたのだ。



 バジリスクはスズメを掴んだまま木を這い登っていた。


 その魔獣の手を離れたスズメの身体は、自然の法則にしたがって落下していく。


 とうてい助かる高さではない。しかも、スズメの身体は持ち主の意思に反してぴくりとも動かない。


 魔獣の毒か、あるいは直前にすべてを諦めた反動か。


 そうして、スズメが思わず目をつむったとき、その声は聞こえてきた。




「――っと、危ない危ない。あやうく俺がとどめを刺すところだった」




 そんな声と共にスズメの身体はしっかりと抱きとめられていた。


 おそるおそる目を開ければ、そこには黒髪黒目の青年が口元に不敵な笑みをたたえてスズメを見下ろしている。


 見覚えのある顔だった。


 見覚えはあったが、どうしてこの時、この場にいるのかはさっぱり分からない。わけもわからず、だがとにかく礼を言わねばと口を開きかけたスズメは、次の瞬間、大きく目を見開いた。


 スズメたちの頭上にいたバジリスクが、目に憤怒の炎を燃やして幹を駆け下って――いや、幹から離れて降ってくる!


 バジリスクの巨体に押しつぶされたら、人間だろうと鬼人だろうとぺちゃんこだ。



「う……う、え……ッ!」



 身体同様、ろくに動かない舌で何とか青年に危険を伝えようとする。


 青年の両手はスズメの身体を支えることで塞がっている。今、彼はバジリスクに対抗する武器を持っていない。


 急いでこの場から逃げるしかないが、周囲の地面は腐ってぬめり、底なし沼のごとき様相を見せている。無事なのは青年が足場にしている木の根の部分だけだ。


 そこまで考えてスズメはふと疑問に思った。



 ――それなら、この人はどうやってここまで来たのだろう、と。



 だが、その疑問を問うより早くバジリスクの巨体が降ってくる。


 青年があごを持ち上げるようにして上を向いた。迫り来るバジリスクを見ても眉ひとつ動かさない。スズメの万分の一も動じていなかった。


 そして、上を向いた青年はゆっくりと口を開き――



カァッッッ!!!」 



 鼓膜が割れんばかりの大音声だいおんじょうを発した。


 その瞬間、青年の腕の中でスズメの身体がびくりと跳ねる。ただの余波だけで全身が振動の波に飲まれた。身体の芯まで震わせる巨大な圧力。耳がキンと高鳴り、一瞬、あらゆる音が聴覚から消えうせる。


 一方、余波ではなく直撃を受けたバジリスクはといえば――



「キュルロオオオ!?」



 至近から大砲の直撃を受けたように、十メートルを超す巨体が宙を舞う。


 青年は頭上から降ってきた魔獣を声だけで弾き返したのだ。


 むろん、本当に声だけでそんなことはできないから、実際は魔法なりアイテムなりを使用したに違いないが、そうだとしても尋常ではない。


 と、驚きのあまり目を見張るスズメに対し、青年が短く告げた。



「飛ぶぞ。舌を噛まないように気をつけろ」



 飛ぶ? と疑問に思う暇もない。次の瞬間、その場でぐっと膝を沈めた青年は、スズメを抱えたまま思い切り足元の根を蹴った。




 スズメはあやうく悲鳴をあげそうになった。そのくらい、強い衝撃が全身を襲ったのだ。


 青年はスズメを抱えたまま、あっさりと腐海の土を飛び越える。人間では、いや、鬼人であってもとうてい不可能な動き。


 気がつけば、スズメはかたい地面の上に立っていた。


 スズメを下ろした青年は、目の前の地面に刺さった黒い刀に手を伸ばす。スズメが思わず後ずさってしまうほどにまがまがしい力を放っているその刀を、青年はためらいなくつかみとった。


 そして、向こうで地面に落ちたばかりのバジリスクに向かって無造作に刀を振るう。


 届くはずもない一撃は、しかし、あっさりと魔獣の脚を切り落としてのける。毒血をまきちらしながら魔獣の脚が宙を舞う。これで魔獣の脚は四本に――いや、三本になっている。スズメを掴んでいた脚はとうの昔に斬り飛ばされていた。



 ここでようやく、スズメは自分の身に何が起こったのかを悟った。



 おそらく、この場に駆けつけた青年は、ここから幹に張り付いていた魔獣の脚を切り落としたのだ。目的はスズメを助けるため。

 脚を斬り飛ばした青年は、刀を地面に突き立てて両腕を自由にすると、落下するスズメを受け止めるために神木の根元まで飛んだ。


 とうてい人間業ではない。



「……なんて、でたらめな……」



 思わず、そんな言葉が漏れる。


 すると、青年は楽しげに声をあげて笑った。



「はは。じゃあ、でたらめついでにもう一つ、でたらめを披露しようか――『その血は煮えたぎり、その髪は燃え盛り、そのまなこは沸き返る』」



 青年が詠唱を開始する。


 いかにも剣士といった風体の相手が、まさか魔法を使うとは思わなかったスズメは、何度目のことか、大きな眼をめいっぱい見開いた。



「『纐纈こうけつの城、髑髏どくろの椅子。翻るは叛逆の旗、倒れ伏すは凶刃のにえ血眼けつがん炎手えんしゅ、我が敵に死の抱擁を――火炎姫』」



 火の上級魔法を完成させた青年は、それをバジリスクに向けて解き放つ。


 宙を走る炎の腕はあわせて五――いや、六本。


 通常の術士が使えば腕の数は二本まで。よほどに優れた術士でも三本が精一杯だろう。


 青年が現出させた腕はその倍。しかも、いずれの腕も大蛇を思わせる太さと長さ、そして速さでバジリスクに襲いかかっていく。


 それらはそのまま術士の力量と魔力量の強大さを物語っていた。




 六本のかいなに全身をからめとられたバジリスクの悲鳴が腐海中にこだまする。


 呆然とそれを見ていたスズメは、不意に近くから焼けるような熱気を感じて驚きの声をあげた。


 あわててそちらを見れば、青年の黒刀がまるで炎と化したように赤々と燃え盛っている。


 それがけいを極限まで燃焼させたものだと、スズメは知る由もない。だが、原因はわからずとも、黒刀が発する驚倒せんばかりの熱量は理解できた。



「腐った森ごと焼け落ちろ――幻想一刀流 ほむら



 青年が放った刀技が生んだ炎の激流は、あたかも津波のように森ごとバジリスクを呑みこんでいく。


 その光景を、スズメは夢でも見るかのような心地で見つめていた。


 目の前の光景が悪夢なのか、吉夢なのかもわからぬままに、ただ夢心地で見つめていた。




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