第二十三話 藍色翼獣(インディゴ・ワイバーン)
マンティコアは森林に
その顔は年を経た老人のもので、人語を話すことができる。
ただし、お世辞にも友好的とはいえず、遭遇したらほぼ確実に戦闘になる。
獅子の胴体は見た目どおり俊敏であり、森林を駆けること平地のごとく、森の中でこの魔物の追撃から逃れることは不可能に近い。
サソリの尾は猛毒を宿す他、二十四本のトゲを生やし、その一撃は大木すらへし折る破壊力を誇る。また、マンティコアの中にはこのトゲを飛ばして飛び道具とする個体もいるという。
どうあれ、森の中では出会いたくない魔獣の一種だった。
「そのマンティコアが十頭か。どういうめぐり合わせだ、まったく」
俺はため息を吐きながら、持っていた薬草袋を地面におろす。
戦うにせよ、逃げるにせよ、邪魔にしかならない。事が終わったら回収しようと心に誓う。
「シュシシ! 翼獣に比べれば食いではないが、人間は人間で味がある。ここで我らに
こちらを嘲弄するマンティコア。俺は以前に資料で読んだことが本当かどうか試すことにした。
「太陽が西から昇り、
「吠えよ吠えよ、汝の運命はすでに定まっている、シュシシシ!」
こちらの意味不明な言葉を、マンティコアはまったく意に介さない。
人語を話すからといって、話をする意思があるとはかぎらない。
マンティコアは自分が言いたいことを言っているだけで、相手と対話する気はみじんもないのである。
なるほど、資料に書いてあったとおりだな。無駄な労力を費やさずに済んだ。
「翼獣は落ち、人間は死に、我らの腹は満たされる。シュシシシ! 愉快、実に愉快」
「ならば愉快に死んでいけ――
その言葉と共に俺の手に黒刀が握られる。
マンティコアの群れが、風になびく
警戒しているのは明らかだったが、どうせ警戒するなら抜刀まで待った方がいい、と忠告したかった。この状態の心装は、いってみればただの武器でしかないのだから。
「喰らい尽くせ、ソウルイーター」
炸裂する黒い閃光にマンティコアたちが怯んだように後ずさる。
そんな魔獣たちを見据えつつ、俺はすっと身体を沈めた。刀は左腰に、切っ先は後方に。
構えとしては居合いに近いが、俺の心装に鞘はないので、あくまで似ているだけだ。
その体勢で
ただし、あの
それでも十分すぎる威力だったから気にもしなかったが、今の『自分』の力をすべて乗せたらどんなものになるのか、という興味があった。
レベル一の呪いから解放された歓喜にフタをして。
それでもまだレベル六程度だという思い込みにフタをして。
みずからが人間であるという常識にもフタをして。
過小評価も過大評価もいらない。ただ純粋に『今』のすべてをこめる。
刀身にまとわせた
ギリギリと空間が軋む。早く魂を喰らわせろと心装がせがんでいる。
その力の高まりを本能的に感じ取ったのだろう。
先ほどのマンティコアが周囲の同胞に高い声で呼びかけた。
「いかん。飛べ!」
「遅い!」
叫びざま、黒刀を横一文字に一閃させる。
敵との距離を考えれば届くはずもない距離。しかし、たっぷりと俺の
斬撃を飛ばしたというより、距離そのものを喰ったような異質な一刀。
いかに俊敏さを誇る魔獣といえど、この攻撃はかわせない。
複数のマンティコアが驚愕と苦痛の声をあげ、血煙をまきちらしながら地面に倒れた。
数は五頭、ちょうど群れの半分にあたる。他ははじめから斬撃の範囲に入っていなかったか、あるいはリーダーとおぼしき個体の命令にいちはやく反応したものだけだ。
跳ねるように宙へ飛んだ三頭を見て、俺は唇を曲げる。
真横に振り切った刀の切っ先を翻して剣筋修正。宙に飛んだマンティコア三頭に狙いをつける。
俺の視線の先で、リーダー格が目を剥いて驚愕しているのが見えた。
「
羽を持たない身では空中の攻撃はかわせない。
俺の第二撃は三頭を軽々となぎ払った。
本来、マンティコアの胴体は硬い筋肉に覆われ、外皮は脂でぬめり、刃を肉に届かせるのも容易ではない。
だが、黒刀はそんなマンティコアの胴体を豆腐のように切り裂いてしまう。
人喰いの魔獣はそれぞれに血しぶきを弾けさせ、宙に三輪の血の花を咲かせた。
直後、すさまじい量の魂が流れ込んできて、喜悦のあまり「くっ」と咽喉をならしてしまう。
やはり俺は強い。
先のレベルに関する推察は正しかった。少なくとも、これまでの俺の認識は間違っていた。そのことをはっきりと確信する。
さて、この調子で残る二頭もしとめてしまおう。
そう思って生き残りのマンティコアに目を向けた俺が見たのは――
「グルゥオオオオオオ!!」
一頭のマンティコアの頭蓋を噛み砕き、もう一頭の胴体を尾の一撃でへしおっている
おそらく二頭とも即死だったろう。
翼獣の
どう見ても重傷だった。いっそ瀕死といってもよさそうだったが、さすがはワイバーン種の中でも
どれだけダメージを負っていても、相手が一頭二頭のマンティコアなら一蹴できる力を備えているらしい。
……さて、問題はこの翼獣が、その強大な力を俺に向けてくるか否かである。
結果として助ける形になったが、向こうがそれを理解してくれているとは思えない。
凶悪さでいえば藍色翼獣もマンティコアも大差はないのだ。人間への敵対心という意味でも同様である。
今この瞬間に襲いかかって来ても不思議はなかった。
ちなみに、
ただ、基本的にそういった翼獣は卵から人間の手で育てる必要がある。野生の翼獣にとって人間はエサでしかなく、いくら手厚く育てようとも、なかなか馴れるということがない。
ことに藍色翼獣はその傾向が強いと聞く。ワイバーン種の中でも上位に位置する能力を持っているだけに、なんとか飼いならそうと努力する者は後をたたないらしいが、それに成功したという話はついぞ聞いたことがなかった。
その藍色翼獣であるが、噛み砕いたマンティコアの頭部を、まずそうにぺっと吐き出すと、ぐるると唸って俺を見た。
来るか、と思ってとっさに黒刀を構えたが、予想に反して翼獣は襲ってこない。
思ったよりもつぶらな瞳をこちらに向けて、じっと俺を見つめている。蛇を思わせる縦長の瞳孔に俺の姿が映っていた。
と、不意に翼獣の視線が俺から離れて、別の方向を向いた。
ほぼ同時に俺もそちらに目を向ける。マンティコアのうちの一頭、リーダー格のやつがまだ生きており、その場で立ち上がったのだ。
しとめ損ねていたか、と舌打ちする。
と、ここで藍色翼獣が動いた。
さっきまで散々に痛めつけられて、喰われる寸前だった恨みがあるのだろう。翼獣の長い首がぐぐっと大きく膨らみ、口元から蒸気のようなものがあふれ出す。
って、
ちょっと待て。こんな森のど真ん中で炎のブレスを放って大丈夫か!?
そう思ったが、ここでへたに手を出してこちらに敵意を向けられても困る。
それに、喰われる寸前まで追い詰められた怒りと恐怖、無念は俺にも覚えがある。その恨みを晴らそうとする翼獣を邪魔するのはためらわれた。
結果、藍色翼獣から放たれたブレス――というより人間の頭ほどもある火炎弾は一直線に宙を飛び、こちらに背を向けて逃げようとしていたマンティコアに直撃。
あえなく、マンティコアは炎に包まれて消滅した。
◆◆◆
その後、俺は近くの森を少し調べてまわった。
マンティコアが群れを――それも十頭もの群れをつくるなんて聞いたこともない。
そもそも、このあたりでマンティコアを見かけたのも初めてだ。おそらく普段はもっと奥で暮らしているはずのマンティコアが、集団で外に流れてきた。
これまでの生息地を何者かに奪われたのではないか。そう考えたのである。
だが、三十分やそこら調べたところで手がかりが見つかるはずもない。
マンティコアの足取りをたどって最深部に踏み込めば、あるいは何かわかるかもしれないが、そこまでの準備はしていない。なにより、そんなことをしていたらせっかくミロスラフを捕まえている意味がなくなってしまう。
当面は森の動きに注意を払う、ということで自分を納得させるしかなかった。
そうして元の場所に戻ってきたとき、俺は驚いた。
藍色翼獣が苦しげな声をあげながら、どしん、ばたんと地面の上でもだえ苦しんでいたのである。
さっきまでは何ともなかったのにどうした、と思った俺は、はっと気づいた。
マンティコアの尾には猛毒がある。幸い、俺は一度もくらわなかったが、この翼獣は何度も尾に刺されたであろうことは想像に難くない。
どうする、どうする?
幸いというか、薬草だけなら先ほど山のように摘んだばかりだ。しかし、さすがにマンティコアの毒を中和できるような強力な毒消し草は含まれていない。
いちおう巣に戻れば毒消し草はある。監禁中に何かあったときのために用意しておいたからだ。
だが、量は最低限で、翼獣の巨体を考えると、全部飲ませても効果があるかどうか。
それ以前に人間の薬草って翼獣に効くのだろうか?
「毒消し……毒消し……どっかで……って、ああ、そうだ! あったな、蝿の王の麻痺毒を中和した効き目ばっちりのやつが!」
ジライアオオクス。ここからならさほど離れていない。
……冷静に考えたら、ワイバーン相手にそこまでする必要はないし、なんなら今すぐ斬ってしまうのもありなわけだが――さっきのつぶらな瞳を思い出すと、そうすることはためらわれた。
ま、まあ、仮にも共闘した仲だしな。毒が治った後、恩知らずにも襲ってくるようなら、そのときこそ喰ってしまおう。
長い首を地面に横たえ、苦しげにうなっている翼獣を見た俺は、軽く屈伸してから、全速力で駆け出した。