第九十八話 開戦
轟音が大気を震わせる。
鼓膜が悲鳴をあげ、衝撃が不可視の
目の前で
軍配があがったのは
鋭利な矛が分厚い盾を突き破るがごとく、俺の
のみならず、そのまま宙を走って
その瞬間、赤眼を爛々と輝かせていた竜顔がめきりとひしゃげ、そのまま後方に勢いよく
それはまるで見えざる巨人の
一拍の間をおいて、苦悶とも驚愕ともつかない幻想種の咆哮が轟きわたった。
その咆哮を聞きながら、俺は音を立てて地面に降り立つ。そして、間髪いれずに
吼えるように
これで八つ首のうちの二つが俺に向けられたわけだ。残りの六本はこれまでとかわらず、まっすぐに進行方向を向いたまま。
ぶん殴ってこちらに振り向かせてやればいいのだから。
俺が狙いを定めたのは、
幸いというべきか、新たにこちらを向こうとしている首は、いまだにその動作を完了していなかった。もたもた、と形容できる
そんなヒュドラに向けて、気合と共に心装を振り下ろす。
幻想一刀流、
次の瞬間――
「……ぬ?」
俺は眉根を寄せた。こちらの放った攻撃が、ほとんど何の抵抗もなくずぶりとヒュドラの首にめり込んだからである。
竜の鱗と聞いて想像するような堅固さ、強靭さは少しも感じられなかった。
それだけではない。千年樹の幹を思わせるヒュドラの太首があっさりと上下に両断された。熟れ過ぎた果実が枝から落ちるように、ヒュドラの頭部が落下していく。
ぼちゃり、と音をたててヒュドラの頭部は毒海と化した地面に落ちた。そして、そのままずぶずぶと飲み込まれていく。俺の視界から完全に消え去るまで、さして時間はかからなかった。
狙いどおりといえば狙いどおりなのだが、あまりの手ごたえのなさに自然と警戒心がわきおこる。
魂の流入は感じるから幻影や
このまま
その証拠に、首を失ったヒュドラが反応らしい反応を示していない。
ただ一撃で首をはね飛ばされたというのに、痛みも脅威も感じていない様子である。
――そんなことを考えていると、今しがた両断した首の断面が、不意にぼこりと膨れ上がった。血が噴き出したのではない。強いていうなら
あふれ出た肉汁は、まるでそれ自体が意思を持っているようにぼこり、ぼこりと不気味な音をたてながら膨張を続けていく。天に向かってまっすぐに、長く、太く。
そして、ある程度上昇した後、ひときわ激しく脈動を繰り返しながら見覚えのある肉塊に変貌しはじめた。
「――チッ」
次に起こることを察した俺は、再生中の首に向けて次の攻撃を放つ。
だが、その攻撃はようやくこちらに向き直ったもう一本の首によって阻まれた。
みずから
と、そうこうしている間に一本目の首の再生は完了していた。そして、二本目の首にも、一本目のときと同じ再生行動が始まった。
つまりは、これがヒュドラの特性なのだろう。
簡単に斬れるが、簡単に再生する。そして攻撃される
毒という己の特徴を把握した、実に厄介な防御方法だといえる。へたに硬い鱗で身を守るよりもよっぽど効果的だろう。
俺の場合、遠距離からの攻撃だから毒の影響を受けずに済んだが、もし実際にヒュドラの身体に取りついて剣を振るっていたら、飛び散る血肉を浴びて無事ではすまなかったに違いない。
さて、どうするか。
斬るたびに魂は入ってくるから、ダメージがないわけではないだろう。このまま延々
ただ、それではいかにも
何よりも、いまだこちらを向かない六本の首がこの戦い方の有効性を否定する。この選択肢がヒュドラにとって脅威となるなら、八本の首すべてが牙を
現状、俺の危険度は首二本分。それがヒュドラの下した評価であった。
「それなら強引にでも振り向かせてやるさ」
もとより
古来より不浄を清める方法は三つ。水に流すか、土に埋めるか、火で燃やすか、である。
猛毒というヒュドラの特性を考えると、水と土は避けた方がいい。であれば、後は火一択。
用いるのは幻想一刀流、
かつて
今日までこの技を使ってこなかったのは、
簡単にいえば強力すぎるのだ。街中で使えば確実に火災を誘発してしまう。それは
攻撃対象と一緒にまわりを焼き払ってもかまわない――そういう状況でないと使えない剣技なのである。
そして、幸か不幸か、今はまさにそういう状況だった。バジリスクのときよりもさらに強力になった炎の剣を遠慮なく振るうことができる。
俺は地面を蹴ってヒュドラに接近した。
だがそれは、猛毒によって腐敗し、汚水と化した地面に足を踏みいれねばならないということ。あいにく、俺には沼地の上を駆けるような特殊技術の持ち合わせはない。ゆえに焔での攻撃は不可能だった――つい先刻までは。
ゴズとの戦いで得た知識は心装に関する事柄だけではない。
俺はこれまでもっぱら脚力ばかりを強化していたが、ゴズは脚力の他に足底の制御にも意を用いていた。足の下に
脚力を強化しても、踏み込む床や地面がしっかりしていなければ十分な速さを得られない。ゴズは――というより幻想一刀流の門下生たちは、みずから足場をつくることでこの条件をクリアしたわけだ。
熟達した使い手ともなれば、海面を駆けて大陸と鬼ヶ島を渡ることもできるのだろう。
俺の場合、
こちらの接近に対し、当然のようにヒュドラも反応したが、その動きはやはり鈍い。あるいは再生したてということもあったかもしれないが、いずれにせよ好機は好機。
俺は心装を高々と掲げ、振り下ろした。
「幻想一刀流――
その瞬間、俺の
文字どおりの奔流となってヒュドラの首二つを飲み干した
ヒュドラの体表を覆っていた血が一瞬で蒸発し、次いで轟音があたり一帯に轟き渡った。
直撃を受けた箇所の鱗は衝撃で吹き飛び、皮膚は猛火によって
あらわになった幻想種の肉が高熱によってあぶられ、毒気が蒸気となってたちのぼる。
しばしの間、その光景を観察した後、俺は口元を笑みの形に動かした。
「やっぱり火でつけられた傷は再生しないか」
先ほど
激流に飲まれた二本の首も同様だ。半ば焼け落ちた頭部ががくりと力なく崩れ落ち、そのまま猛毒の海に着水する。起き上がる気配はなく、再生する気配もなかった。
――気がつけば、ヒュドラが前進を止めていた。
それまで俺に見向きもしなかった六本の首が、そろってこちらに振り返る。
と、その中の二本が牙をひらめかせながら動いた。
俺は噛み付きを警戒して後退しようとしたが、ヒュドラが狙ったのは俺ではなく、焼け落ちて動かなくなった己の首だった。
首の根元に噛みつき、切り裂き、喰いちぎる。胴体から切り離された首はそのまま毒海にずぶずぶと沈んでいった。
同士討ちというべきか、あるいは自傷行為と呼ぶべきか。俺はヒュドラの予期せぬ行動に眉根を寄せたが、この不可解な行動の理由はすぐに明らかになった。
喰いちぎられた首の根から、
炎でつけられた傷口は再生しない。だが、炎傷ごと喰いちぎってしまえばその限りではない、ということらしい。
「ハッハハハハ! そうだ、そうこなくちゃ面白くない!!」
瞬く間に八本首に戻ったヒュドラを見て、俺は思わず声をあげて笑っていた。
火で傷つけたら再生しませんでした、そのまま倒せました――そんなものが幻想種であってたまるものか。そんなものが竜であってたまるものか。
それでは期待はずれもはなはだしい。
苦戦を楽しむつもりはない。が、楽勝を望んでいるわけでもない。
せっかくの幻想種との戦いなのだ。俺が一段も二段も上にいけるような、そんな徹底した闘争を期待していた。その闘争を制した上でヒュドラを喰らいたいのだ。
その意味で、今のヒュドラの行動は実によかった。
そんなことを考えながら、あらためてヒュドラと向かい合う。
ヒュドラが八本首に戻ったことで戦況はふりだしに戻ったと思われそうだが、そんなことはない。
いまやヒュドラは前進をやめ、八つある首はすべて俺に向けられている。すなわち、ヒュドラは完全に俺を敵として認識した。
ふりだしに戻ったのではない。
今、ようやく、俺とヒュドラの戦いが始まったのである。
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