山の死亡フラグを立てる話

作者: 石化

 あいつはふらっと帰ってきた。


 日本の山を登り尽くして、海外に出て行ってはずっと山に登っている。


 この静かな立山のふもとの町の大きなお寺。芦峅寺の一人息子にして立山修験道の正統後継者。

 修験の全てを叩き込まれた男。そして、その父親をして、あいつは神に愛されていると、そう言わしめた男。それが彼、芦峅山岳坊だ。


 私と同い年だから28歳。

 この世の全てを知っているような達観した表情の中には、尽きることのない山への情熱が眠っている。


 そういえば、と私は思い出す。

 しばらく前に、世界最高峰が更新されたんだった。

 その発見と登頂を果たした5人の登山家が、誇らしそうにテレビに映っていた。

 山岳が、そこにいたかもなんて、ありえない妄想をしたっけ。

 山岳は孤高だ。誰かと協力して山へ登るなんてことがあるはずがない。


 ただ彼は黙々と山に登るだけだ。

 そのスタイルは立山で訓練していた頃と少しも変わらない。

 海外での彼の姿を実際に見たことはないけれど、それは容易に想像できた。


 山に登って登って自らの信仰を際限なく高めていく。

 下に降りるのはどうしても食料が必要になった時だけ。そんなことが書かれた彼からの手紙を受け取って、私は苦笑するのだ。やっぱり山岳は山岳だなあって。


 そんな彼が帰ってくる。


 私は村の外れまで迎えにいく。

 待ってるこっちの身にもなれっての。

 それでもやっぱり彼が帰ってくるのは嬉しい。


 冬の林の中から、錫杖を突いて山伏姿の山岳が姿を表す。

 これで8000mの山にも登ってるっていうんだから信じられない。


「山岳!」


 大きく叫んで手を振った。


神琴(みこと)か。久しぶり。」


 山岳は離れていた間のことを何も感じさせないような笑顔でそう言った。

 普段は少々無愛想だが、私の前ではその限りではない。それにちょっぴり優越感を感じながら、私は手を引く。

「みんな変わりないか?」

「あー、健三おじいちゃんが亡くなったよ⋯⋯。」

「そうか。あの人も歳だったからな。あとで真言をあげに行こう。」

「喜ぶよ。」

「神琴も神事を行ったのだろう?どうだった?」

「んー。流石にまだ慣れないね。でも責任重大だから、頑張る。」

 山岳が芦峅寺の一人息子であるように私は白山神社の一人娘だ。神事なんかもきちんと執り行わなきゃいけない。

「誰かが支えてくれれば楽になるんだけどなー。」

 そんなことを言って山岳の様子を伺う。

「いつかいい人に出会えるさ。」

 このにぶちんは全く気付いていない。


 私は思いっきり頰を膨らました。

 全くもう。


 ●


 里の諸々の用事を済ませた山岳は私の家に来て、山に誘った。

「行くぞ、神琴。」

 ああもうそんな顔で頼まれたら断れないじゃない。

 冬の白山は夏とは比べ物にならないほど厳しい環境の山だ。

 日本海を吹き抜ける風が水蒸気を呼び、立山連峰に当たって猛烈な雪を降らせる。

 世界で見ても有数の豪雪地帯だ。


 それでも。

 山岳がいるのなら、私に不安は全くなかった。


 ●


 一般的な登山者は室堂平を拠点として立山に登る。

 でも私たちは違う。大昔から立山に参るために使われたルートを通っていく。

 当然こちらの方が道は険しい。

 私も何度も通っているから慣れてはいるんだけど、それでも冬という環境が無慈悲に体力を奪っていく。

 先頭に立って雪をラッセルしかき分けていく山岳の姿がとてもかっこよく見えた。


 尾根に上がると不思議と雪が降らなくなった。

 山岳は大日如来のお導きだなと言っている。

 そんなことあるはずないと理性は言っているけれど、あまりに自信満々な山岳の様子を見ているとそれが正しいのかもしれないと思ってしまう。


 大日岳、奥大日岳。

 立山へ続く道のりは、巨大な太陽が覆いかぶさっていて、冬じゃないみたいだった。

 これが山岳の力なのだろうか。


 ちょっぴりおそろしくなった。


 別山、真砂岳、大汝山。

 立山の主峰の峰々を越えれば、白山神社のお(やしろ)が佇む雄山だ。

 雪庇(せっぴ)の発達した尾根道は、雪の積もった地面と空中に張り出した雪庇の区別が付きにくく、踏み抜いて落ちてしまう危険性がある。

 でも山岳は、本能で正解を導き出しているかのように、一番確かな道を選ぶ。

 おかげで私はその踏み跡を辿るだけで良かった。


 思っていたより何倍も早く、立山山頂にたどり着いた。

 山頂には立派な社が立っている。岩の下に大きな社、上部の上には少し小ぶりな社。


 山岳は私をその上の社に連れて行った。


 いつのまにか吹雪は近づいていて、何故か私たちの周りだけが無風だった。山岳信仰の加護といっても限度があると思う。実際に起きてるんだから認めるしかないけど。



「神琴、頼む。」


 真剣な表情の山岳に頷いて見せる。

 山岳は、山頂で神事をして欲しいと言っていた。

 彼が帰った時に必ず行う(みそぎ)の儀式だ。


 この場所で行うことは初めてだったけど、不安はない。

 山岳が見守ってくれるなら、私は神だって降ろしてみせる。


 衣装を巫女服へと変える。山頂にだけ降り注ぐ太陽のおかげで寒さをあまり感じない。


 神楽鈴を構えて一歩体を前に進める。

 シャラン。鈴が鳴る。

 体に染み込ませた動きを、この狭い山頂という場で表現する。

 一歩一歩慎重に、流れを止めずに流麗に。


 いつしか体は意識せずとも勝手に動き始めた。

 神が宿るとも呼ばれる忘我の状態。


 奉納するはずの神が私と一緒に踊っているような、そんな気持ちで心地よい。


 シャランと、鈴が一際大きな音を立てる。


 偶然か否か、頭の上にだけ広がっていた青空が、一気に拡張した。

 室堂平。その下の富山市街地。雪に閉ざされた剣岳。後立山に薬師岳。南の果てには槍ヶ岳。

 誰もが待ち望んで果たせない、そんな冬の奇跡の好天。

 それが私の舞の終わりと共にやってきた。

 世界が開けた。


「ありがとう。神琴。」

 山岳がお礼を言う。

「今度は俺の番だな。」

 私は下がり、山岳が前に出る。

 修験道は神仏混交。

 神社の前で祈ることも問題ではない。

 一番大事なのは山に祈るかどうかと言うことだけだ。


 即席の護摩壇と力の入った真言を聞きながら私は思う。


 今回の旅で何かあったんだろうか。

 いや、きっとあったんだろう。

 あったからこそ彼はここにきた。自分の信仰を確かにするために。

 その助けに私を呼んだ。それは素直に嬉しい。

 でも。それでも彼はまた行くのだろう。次の山へと。


 全ての山を踏破し、神仏の真奥に達する。

 その大願はまだ道(なか)ばだ。


 私はそれに着いていけはしない。

 私にできるのは彼の帰る場所を守ることだけだ。


 だから、必ず、帰ってきて。そう強く、私は願う。


 ●


「もう行くの?」

「ああ。次の山が俺を待っている。なかなか骨が折れそうだ。」

「無事に帰ってきてね。必ず。」

「もちろん。俺が帰らないことなんてなかっただろ?」

「⋯⋯うん。」


「心配するな。⋯⋯、あれだ。今度帰ってきたら神琴に大事な話がある。」

「それって!?」

「だから、待ってろ。」


 不器用に笑う山岳。


「うん。」


 頭を撫でられた。

 脳の処理が追いつかない。

 あれ?

 今までで一番進展してない?

 私があわあわしている間に、山岳は腰を上げた。

 錫杖が鳴らされる。


「じゃあ。行く。」


 山岳は、旅立つ。

 今度の山はどれほど難しいのか。

 一抹の不安を感じながらも、私は彼の背中をずっと見送っていた。

彼が無事に帰ってきますように、と。