76.怪物
「今……何と……?」
「おかしな事を言いましたか……? 私の妻になりなさいと言ったのですよ」
デナイアルは何でもない事のようにルミナに妻となる事を要求する。
貴族同士の政略結婚は数あれど、ここまで何の熱も感じないプロポーズはほとんどない。
「公爵家の失伝魔術を手に入れるには"失伝刻印者"のあなたに刻まれた術式の欠片を長い間調べなければいけません……ならば、結婚してしまったほうがいいでしょう?」
「なに、を……」
デナイアルは魔術契約書をルミナのほうへと放る。
高級な羊皮紙の鑑定済みの刻印、すでに書かれているデナイアルの署名、そして中には契約の内容が書かれていた。
「契約の内容は簡単なものです。あなたは私を異性として慕う振りをし続ける事、その証として常に私の味方となる事、あなたから私と婚姻を結びたいと宣言する事、そしてこの契約内容を他言しない事……婚姻後は嫌でも従って貰うのでこれだけで構いませんよ」
魔術契約書にはルミナの意見を全て無視したような内容が書かれていた。
こんなものは契約とはいえない。そもそも魔術契約というのは互いの利になる事のために結ぶもの……あまりに一方的な内容では逆に契約の正統性を疑われて国の介入が入る。
だというのに、書かれた内容はこの国では禁止されている奴隷契約のように本人の意思を捻じ曲げる内容だった。
「こんな、こんな馬鹿げた内容に従うと……?」
「ん……? 従うでしょう?」
自分の意思で署名しなければ魔術契約は成立しない。
拷問や尋問で精神が疲弊している時には術式が起動せず、無理矢理書かされても起動しない。
なにより貴族は面子を重んじる。魔術契約の重要性を知っている上級貴族はこのような一方的な内容を書かされる状況にならないように立ち回るし、もしそんな状況になれば外部に告発するか死を選ぶ者が大半だが――。
「あなたはこの世界から出れないし、死ぬわけにはいかないでしょう?」
「――」
デナイアルはルミナを見透かすようにそう言い放つ。
そう、今のルミナはどちらも封じられている。
外部にこの事を伝える方法もないのは勿論、死を選べない事すらばれている。
「あなたの昔話はメリーベル様からも聞いていますよ。私は別にあなたを死体にして研究してもよいのですが……あなたが死ねば、幼少の頃にあなたを助けてくれた女性の意思が無駄になるのでは?」
「メリーベル様も……仲間、なのですか……?」
「ええ、当たり前でしょう? 妻にしちゃえば、と提案してきたのもあの方ですよ」
ルミナの表情から徐々に光が消えていく。
デナイアルが姿を見せてから薄々わかってはいたが、昔から友人だと思っていたメリーベルもグルだという事実と自分の選択肢が一つしかないという絶望で。
「まさかその女性の子が……っと、これは言わなくてもよいですね、私達も最近知った事ですし……今回の計画には関係ありませんから……」
そんなデナイアルの声は届いていなかった。ルミナの視線は魔術契約書に落ちている。
この契約書にサインをすれば、自分を脅迫するデナイアルを異性として慕う振りをして、味方をする人生が始まる。身近で自分を支えてくれた人に嘘を重ねて、デナイアルの行動を正当化し続ける嘘に塗れた人生が。
……さらに、そんな男に自分から求婚までしなければならない。
それは将来を夢見る十二歳の女の子にとって、死ぬよりも辛い精神の凌辱。
ルミナは上級貴族としての価値観を叩きこまれているゆえに、普通ならばこの場での自死を選んでいただろう……だが、できない。
どれだけ辛くとも、ルミナはこの命を投げ出す事だけはできない。
生きなければ、あの日自分を救ってくれた女性の命に報いる事ができなくなってしまう。
「何故、こんな、回りくどい……」
時間稼ぎのつもりなのか、ルミナは震える声で問う。
デナイアルは少し考えて、口を開く。
「私は物語が好きなのです……特に、主人公がね……羨ましくて仕方がないのですよ」
「……?」
「だって、何をしても正当化されるでしょう?」
デナイアルの視線にルミナの背筋に寒気が走る。
本当の意味で自分が今どうしようもない岐路に立たされているのを自覚させられる、絡みつくような視線だった。
「私自身、宮廷魔術師となるまでの間、それこそ多くの事を経験してきましたが……宮廷魔術師になってからは少しばかり退屈でしてね。どうせならば、第五域に至る過程で、私自身が描く完璧な筋書きの主人公でありたい。
公爵家のパーティーに呼ばれた宮廷魔術師が公女と出会い、二人は密会のために消え、熱愛の末にやがて結ばれる……献身的な妻の支えで宮廷魔術師は第五域へと到達し、この国の歴史に残る魔術師となった……。
私が一人で第五域に至るよりも大衆受けしそうな、美しい筋書きでしょう? 公女を攫って公爵家の失伝魔術を手に入れるだけでは味気ないですから、これくらいの美談にしあげませんとね」
デナイアルはそう言って、ルミナに向かって羽根ペンを投げた。
ルミナは自分の人生がこの男の気まぐれで消費されるのだと理解した。理解してしまったがゆえに、自然と涙が流れた。
つい先程までの幸福な時間がまるで遠い昔の事のよう。
家族とパーティーに出て、初めて男の子と踊って、周りの人と気兼ねない話をしながら過ごした時間がもう戻ってこないのだと、失ったものを数えて涙した。
「書かないのなら、ずっとここにいますか? 見つからないあなたを、あなたの家族に永遠に探させますか?」
ルミナを追い詰める声が容赦なく耳に届く。
自分がいなくなった後の家族の姿を想像して、ルミナは震える手で羽根ペンをとった。
「それとも、今ここでその命を散らしますか? 別に私はそちらでもいいですよ? あなたの家族があなたが生きていると信じて探し続ける間、私は素知らぬ顔であなたの死体から失伝魔術を探しましょう。
味気ない筋書きにはなってしまいますが……公爵家が必死になる姿を肴にできると思えば……まぁ、悪くはありません」
胸の奥に爪を立てるように言葉が一つ一つルミナに刺さる。
死ぬわけにはいかない。あの日、自分を救ってくれた女性に報いるためにも。
あの女性はルミナが生きる事を願っていた。だから生きないと……生きないと。
貴族としての尊厳を踏みにじられ、少女が見る夢に汚泥を塗りたくられるような要求を突き付けられ、恥辱に塗れた人生を歩むとしても。
「これは私のためだけでなく、ひいてはこの国のためになる事でもあります。この国を守る役目もある宮廷魔術師が……さらなる飛躍を見せるきっかけになるのですよ?」
心を削るような言葉を突き付けたと思えば、デナイアルは声色を優しく変える。
そのわざとらしい落差がルミナは憎たらしく、しかし弱った心が縋れるものがそこにしかないのがあまりに残酷だった。
「あなたがその魔術契約書に署名すれば、あなたの周りの人達には一切危害は及ぼしません……元より私達の目的はあなたですから」
家族には手を出さない。それらしい定番の言葉ですら今のルミナには飴そのもの。
ルミナは握った羽根ペンに魔力を籠める。インクはいらない。
魔力を籠めたまま、魔術契約書にサインをすればそれで契約は成立する。
「私を信じて、ルミナ様」
一切の信頼が置けない男の、信用ならない綺麗な言葉。
ルミナは涙を魔術契約書に落としながら、魔力を籠めた羽根ペンの先を契約書の上に置いた。
「――見つけた」
声と共にぎょろり、と黒い瞳がこの術式を覗き込む。
同時にルミナとデアナイルの頭上の夜空にひびが入り、そのひびは徐々に大きくなっていく。
偽りの夜空がひび割れていくその様は、外の誰かが干渉する証。
「こ、れは――!?」
「え……?」
デナイアルとルミナはその音に夜空を見上げた。
そこにはひびわれた夜空から突き出される一本の腕。
割れるような破壊音と共に、扉無き世界をこじ開ける誰かの存在がそこにはあった。
「まさか……誰かが私の術式に、無理矢理――!?」
先程までルミナを追い詰めていた様子とは打って変わって、デナイアルは戦慄する。
誰かがいる。外からデナイアルの術式を認識し、かつ介入できる誰かが。
否。そんな実力者はいなかったはずだ。今回集まっていた誰もがデナイアルの術式を認識できなかった格下ばかり。
――ならば、この世界に突き出されている腕は一体誰だ!?
来る。
来る。
来る。
――来る!
少女を閉じ込めるくそったれな世界を壊しに、来る――!
「ああ、こうなってるのか」
突き出された腕が夜空の一部を砕き、こじあけるようにして一人の少年が姿を現す。
突如として現れた乱入者――カナタの黒い瞳は倒すべき敵をすぐに捉えた。
涙を流すルミナの前に立つ宮廷魔術師の姿を。
「こんな所にいらしたんですねルミナ様、さあ帰りましょう」
「カナタ……カナタぁ!!」
「まさか、こんな子供が私の世界に……!?」
無理矢理この空間に現れたカナタは偽りの夜空を砕きながら降り立つ。
脅えろ宮廷魔術師。どうする自称主人公。
お前の描いた筋書きに――この怪物の姿はあったか?
お読み頂きありがとうございます。
明日のお休み後、第三部後編ラストに向けての更新を開始します。