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第六十六章 恐怖の猫耳猫屋敷

 お風呂に関しては、一方が入っている間は必ずもう一人が脱衣所で待機をすること。

 入っている間は、一定時間ごとに脱衣所に声をかけること、の二つが条件として提示された。


 え、なんでお風呂に入るのに定時連絡が必要なんだ、とは思ったが、こればかりは仕方ない。

 水中適性を付加するアイテムでもあれば話は別なのだろうが、水中適性アイテムは全てレアか、期間限定品だ。

 おそらくはあのヒサメだってそんなアイテムは持っていないだろう。


 そういえば、水中適性アイテムを持って水中ダンジョンで決闘すれば低レベルでもヒサメにも勝てるかも、という意見がネットで出されたこともあった。

 が、そもそも水中ダンジョンでのヒサメの目撃例がなかったので断念されたはずだ。


 以前に俺は、ヒサメは魔王撃破以外のどんな時にもランダムに現れてプレイヤーを手伝ってくれる、とか言っていたと思うが、よく考えたら水中ダンジョン以外にも高い塔や天空都市では現れたという報告を聞かないし、結構選り好みしているのかもしれない。


 ……もしかして、うまく誘導してお風呂で戦えば楽に勝てたりしたのだろうか。

 しかしあの時点では家を買うことなんて特に考えてもいなかったし、もう場所を決めてしまった以上、後の祭りという奴だろう。


 あー、失敗したなーと一人で頭を抱えていると、


「…ソーマ、いる?」


 やけにこもったリンゴの声が、俺の耳に飛び込んできた。


「……う」


 必死の現実逃避も虚しく、その声に俺は今の状況を改めて意識してしまう。

 俺がさっきから必死にとりとめのないことを考えているのは、リンゴが風呂に入っているからなのだった。


 それがどうしたと思う人もいるかもしれないが、扉一枚隔てた場所に裸のリンゴがいることを意識しつつ、リンゴが脱いだ服の隣で、浴室からの水音をひたすら聞き続けていなければいけないのだ。

 他の奴はどうだか知らないが、ぼっちな俺が平然と流せるようなシチュエーションではない。


「…ソーマ?」


 どっちが定時報告をしているのだか。

 俺の懊悩も知らず、無邪気に催促するようなリンゴの声に、


「あ、ああ、いるいる! 間違いなくいるぞー!」


 俺は大声で返事を返し、


「……ん」


 リンゴのどこか満足げな返答を聞きながら、俺はもう一度、さっきよりも強く頭を抱えたのだった。



 その地獄のような極楽のようなひとときの後、俺たちは早めに就寝することにした。

 もちろん俺の希望である。

 一日目からこれでは先が思いやられるが、ここから慣れていくと思いたい。


「それじゃ、また明日な」

「……また」


 俺たちは自分たちの部屋の前で別れ、リンゴはハートとピンク成分だけで組成された隣の部屋に、俺はレトロなテレビと電話のある自分の部屋に入っていったのだが、その数分後、


「……で、なんでリンゴがここにいるんだ?」


 俺の部屋には、ハートマークだらけの布団を手にしたリンゴの姿があった。


 いくら部屋に鍵はかけていないとはいえ、まさか別れて数分も経たない内に入って来られるとは思わなかった。

 道理で部屋の前で別れた時、「また明日」って言わなかった訳だ。

 俺は抗議の意思を視線に込めてリンゴを見やるが、


「…ここでねる」


 動じる様子もなくリンゴは一方的に宣言すると、俺のベッドの隣に横になろうとする。

 もちろん俺はあわてて止めた。


「ちょ、ちょっと待て!

 自分の部屋だってちゃんと決めただろ?!

 どうしてそんな……」


 それに対し、リンゴは悪びれもせずに俺の言葉を受け止めると、はっきりと言い切った。


「ソーマは、わたしが目をはなすと……しぬ」

「不吉な予言みたいなこと言うのはやめてくれ!」


 あーもう、と頭をかきむしる。

 風呂場での一件が、リンゴの心配スイッチを押してしまったらしい。

 なまじ善意からの行動だけに、あまり厳しくも出られない。


「……仕方ない」


 俺は枕元に置いてあったくまのぬいぐるみを投げ渡す。


「枕、持ってきてないんだろ。それ使えよ」


 紳士はここでベッドを譲ったりするのかもしれないが、それをすると本格的に居着いてしまいそうだ。

 かといって一緒のベッドで寝る度胸もない俺は、その程度の譲歩をするのがせいいっぱいだった。


 リンゴは受け取ったくまのぬいぐるみとたっぷり10秒ほど見つめ合った後、


「…ありがと」


 と言って、おもむろにそれを頭の下に敷いた。


「そのくらい、気にするな」


 条件反射のようにそう言ってから、俺は突然の罪悪感に襲われた。


 本当にこのくらいのことが何でもなくなるくらい、俺は今までリンゴにたくさん助けられてきた。

 対して俺は、きちんと誠実にリンゴに向き合っていると言えるだろうか。

 リンゴに常識がないのをいいことに、俺は自分のことをあまりに隠しすぎているのではないだろうか。


 いや、まあ、なんてことはない。

 リンゴのため、というよりも、これは自分のため。

 リンゴに自分の素性を明かしていないことが、何だか急に後ろめたくなったのだ。



「……なぁ、リンゴ」


 俺はベッドの上で、リンゴはベッドの下。

 位置関係からお互いの顔は見えないし、そうでなくても光源は窓から差し込む月明かりだけ。

 しかしその状況が、俺に普段話せないような言葉を紡がせた。


「俺が、普通の人間が知らないようなことを知ってるっていうのは、気付いてるか?」


 その問いかけに、しばらく答えはなかった。

 もしかしてもう寝ているのか、と思ったが、やがて小さい声で返答があった。


「…なんとなく」


 なんとなく、か。

 リンゴらしいと言えば、リンゴらしい答えだ。

 俺は苦笑しながら、話を続ける。


「俺がどうしてそんなことを知ってるのか、考えたことはないか?

 その、知識の出どころを、不思議に思ったりとか……」


 そこで言葉を切って、リンゴの返答を待つ。

 ここでリンゴが、「ない」と答えたなら、そこで話をやめるつもりだった。

 当人が気にしていないのに、無理に話すようなことでもない。


 けれど、もし「興味がある」と答えたのなら、説明をしてもいいかと思った。

 ここがゲームの世界、という所まで話すかはともかく、俺がこことは全く違う、遠い場所で育ったということくらいは。


 だが、さっきよりも長い沈黙の果てにリンゴが口にしたのは、そのどちらでもなかった。


 

「………ゲーム?」



 小さく、自信の感じられない声で、しかし、彼女は確かにそう言った。

 誰も知らないはずの『正解』を言い当てたのだ。


「なん、で、それ…!」


 俺は混乱した。


 『ゲーム』という単語自体は、この世界にもあるだろう。

 だがこの世界に、コンピューターを使うような高度なゲームはない。

 あるはずがない。

 この世界でゲームと言えばせいぜいが機械などを使わない素朴な遊びを示すはずであって、それが知識に結びつくとは普通は考えない。


 すると、むしろ俺のその過敏な反応に戸惑うように、リンゴが途切れ途切れに説明を始める。


「…まえに、ソーマがいってた」

「前? 前って、いつだ?」


 俺の切羽詰まったような問いに、リンゴが答える。


「きのう、おおきな……」


 しかし、その言葉が終わらない内に、



 ――ジリリリリリリ!!



 けたたましい音が部屋に響いて、彼女の声をかき消した。


「な、何だ?!」


 俺は反射的にベッドから飛び起きた。


 ――ジリリリリリリ!!


 目覚ましのアラームのようなその音は、部屋の隅に置かれた、真っ黒な物体から聞こえていた。


 VR全盛期の現代にあって、既に旧時代の遺物と言える骨董品。

 それは確か、『黒電話』とか呼ばれる機械だったはずだ。


(こんな時に、なんて間の悪い)


 昼間は使えなかったように思ったが、受信は別なのだろうか。

 そもそもこんな場所にこんな時間、電話が来るなんて思えないが、とにかく取ってみれば分かるだろう。


「もしもし!」


 俺は苛立ちを込めた声で、受話器の向こうの誰かにそう呼びかけた。


『……る』


 耳に当てた受話器から、かすかな声が聞こえる。

 しかし、声が小さくて言葉が聞き取れない。


「あんた、何を言って……」

『…………を、……やる』

「え?」


 二度目の言葉も、最初だけがどうしても聞き取れなかった。

 だが、その次。

 三度目の言葉は、はっきりと聞き取れた。



『おまえたちを、ころしてやる』



 その言葉を、脳が理解するのとほぼ同時に、


『にくいにくいにくいいきてるやつらがにくいぜったいにゆるせないなかまにおまえたちもしねばおれたちもしんでいるおまえたちもしんでころしてころしておまえたちをなかまぜったいにぜったいおまえたちをころして――』


 突然に押し寄せた言葉の奔流に耐え切れず、俺は受話器を手放した。


「何だよ、今の……」


 まるで悪意だけを煮詰めたような言葉の羅列だった。

 地面に落ちた黒電話を気味悪く眺め、俺がそうつぶやいた直後、


 ――バン!!


 俺の背後で、何かが破裂するような強い音がした。

 反射的に後ろを見た俺は、思わず息を飲んだ。


「な! こ、これ……」


 壁に、真っ赤な手形がついていた。

 こんな物、部屋に入った時はなかったはずだ。

 一体なぜ……と考えた時、ふたたび、バン、という破裂音。


「手形が……」


 増えていた。

 まるで、見えない人間が前に進んででもいるかのように、新しい真っ赤な手形が壁に刻まれる。


 ――バン! バンバンバンバンバンバン!!


 それから堰が切れたように破裂音が連続し、その目に見えない何かの歩みを報せる。

 壁を這い回るその手形は心なしか、俺の方に近付いているように見えた。


(くそ! 一体何が起こっているんだ?)


 訳が分からない。

 訳が分からないが、とにかくここにいるのは危険な気がした。


「リンゴ、今すぐここを……」


 本能的な恐怖を感じた俺が、外に出ようと言いかけたその時、


 ――ザ、ザザ、ザー。


 新たな異音が横合いから響く。

 その、出どころは……。


(テレビか!)


 今まで何をしても映らなかったはずのテレビの画面に、ぼんやりとした人影のような物が映っている。

 いや、それだけでは終わらない。


 ――…がさ、ない。


 不気味な声が聞こえる。

 そして、そのテレビの画面から、まるで二次元と三次元の壁をまたぐように、髪の長い女が這い出して、


 ――にがさないぃぃ!!


 そいつは、一足飛びに俺に向かって飛びかかってきた。

 あまりのことに、とっさに身体が動かない。


「ソーマ!!」


 だが、そいつの両手が俺に届くよりも一瞬早く、リンゴの鋭い声が闇に響く。

 閃光が暗い部屋を眩く照らし、俺に迫っていた女を吹き飛ばした。

 リンゴの雷撃だ。


「た、助かったよ」


 少し上ずった声で礼を述べると、リンゴはにこりともせずに俺の腕を取って、部屋の出口に誘導しようとする。


「そとに、はやく…!」

「いや、でもさっきの奴は、今……」


 俺が言いかけた時、


 ――に…がさ、…い。


「え?」


 テレビの方から、ふたたびノイズのような物が聞こえた。

 それにつられて振り返ると、


 ――にがさ、ないぃ…!


 さっき倒したはずの髪の長い女が、こちらに向かって物凄い速度で這ってくるのが見えた。


「んなっ! 嘘だろ!」


 俺たちは大慌てで部屋の外に出た。

 いそいで扉を閉める。


「これで……」


 何とか逃げ切れた、と口にすることは出来なかった。

 ガチャガチャ、ガチャガチャという乱雑な音と共に、激しい勢いでノブが回される。


「ま、まずっ!」


 間一髪、扉が向こうから開かれるより、俺がドアに飛びつく方が早かった。

 扉が開かれるのをギリギリで阻止する。

 しかし、中から扉を押しあけようとする力は強く、このままでは長く持ちそうにない。


「リンゴ、鍵を頼む!」


 一階の全部の部屋の鍵を開けた後、館の鍵は居間のテーブルに置きっぱなしにしてしまった。

 この扉を閉めるには、それをどちらかが取りに行かなければならない。


「…まってて」


 こういう時のリンゴは頼りになる。

 パニックになることも指示を聞き返すこともなく、素早く身を翻した。


 ――にが、にがさな、にがさないぃ!!


「ぐっ!」


 間断なく扉に衝撃が走る。

 その度に、俺の身体は弾き飛ばされそうになる。


 だが俺も必死だ。

 ドアに背中をつけて、全力で足を踏ん張る。


 ――あけ、ろぉ! あけろぉぉ!


 頭に直接響くようなおどろおどろしい声と共に、ドアに一際強い衝撃が走る。

 このままでは俺が力尽きる前に、扉自体が破られてしまいそうだ。


「リンゴ! まだか!?」


 俺は思わず叫んだ。

 その祈りが届いたのか、


「ソーマ、これ!」


 リンゴの声が、闇を切り裂く。

 飛来した輝く物を俺はしっかりとつかみ取った。

 館の鍵だ。


 ――にがさないぃ! ぜったいにぃぃ!!


 なおも聞こえる怨嗟の声に耳を塞ぎたくなるのを堪え、俺は鍵穴に鍵を差し込んだ。

 震えそうになる手を叱咤して、ガチャリと回す。


 鍵がかかった瞬間、扉の向こうの圧力が一瞬にして減じたのが分かった。

 しばらく声も衝撃も続いていたが、やがてその勢いも弱まっていき、


 ――にがさない。にが、さな……。


 数秒後、部屋の中は静かになった。


(……やった、か)


 ずるずるとその場に座り込む。

 風呂に入った後だというのに、冷や汗をかいてしまった。


 暗い廊下で数秒、俺が座り込んで動けないでいると、


「…げんき、だして」


 ちゃっかりくまのぬいぐるみだけは持ち出していたリンゴが、俺の肩をぽんぽんと叩いてくれた。




 残念ながら、廊下の電気は消えてしまっている。

 特に操作した覚えはないので、時間が来ると自然と消えるように出来ているのだろう。

 今の状況を考えるといやらしい仕様だと勘ぐりたくもなるが、今はその追及は控える。


「……ライト」


 光の基本魔法を唱え、最低限の明かりを生み出す。

 誰でも使える魔法だけあってその光は、『爪に火を灯す』程度の明るさしかないが、これがあるだけでもずいぶんと違う。


「リンゴ、油断するなよ」


 そう声をかけて、俺たちは廊下を進む。


 風呂の一件があったばかりだ。

 気を抜いているつもりはなかったが、正直、ここが『猫耳猫』の世界であることを意識しなさすぎていた。


 風呂のデストラップはおそらく意図せぬバグのような物だろうが、『猫耳猫』でプレイヤーを悩ますのは決してバグだけではない。

 『猫耳猫』スタッフのありあまりすぎた遊び心による、自重の全くない傍迷惑なイベントの数々。

 実に性格の悪い場所に仕掛けられたそれが、『猫耳猫』における第二の敵だと言える。


 私見だが、『猫耳猫』で注意が必要な物を危険度の順に並べると、1位がバグ、2位が製作者の悪意、3位がNPC、4位がモンスター、のような順序になる。

 今回のことは、『猫耳猫』の製作者の底意地の悪さを知っていながら、自宅なら危険はないだろうと高をくくり、テレビや電話などの目に見えた地雷を回避しなかった俺の落ち度だとも言える。


 とはいえ、いくらなんでも全部の部屋にここまでひどい仕掛けがあるとも思えない。

 冷静に振り返ると、あれはホラーの定番を詰め込んだ、という感じだった。

 おそらくさっきの部屋のコンセプトは、『心霊現象』か『恐怖体験』といった所だろう。

 要は、かなりの外れを引いてしまったということだ。


 探索をすれば、特に実害のないコンセプトの部屋も見つかるはずだ。

 それに、鍵をすれば中の異変は収まると判明したこともプラスの材料。

 たとえ危険な部屋を引き当ててしまったとしても、鍵さえ持っていれば最悪の事態を回避することも出来るだろう。


(しかし、長いな)


 こんなに部屋と部屋の間隔は開いていただろうか。

 それとも暗い中を進んでいるから距離感がおかしくなっているのか。

 そんな風に俺が不安に思い始めた時、新しい扉を見つけた。


「入るぞ?」


 と声をかけて、ゆっくりとドアノブを回して、中を覗く。


(……あれ?)


 中は、意外なほどに普通の部屋だった。

 広さはさっきの幽霊部屋と同じくらいだが、家具や壁にも異常な所はないし、見た目には危険はなさそうに思える。

 他の部屋と比べ、最低限の家具しかないが、眠る分にはこれで充分な気がした。


(コンセプトは『質素』かな。

 いや、でもこんな部屋、最初に回った時はなかったような……)


 とはいえ、部屋に鍵はかかっていなかったし、電気がついている。

 一度探索した部屋なのは間違いないはずだ。

 あまりにまともすぎて印象に残らなかったとかだろうか。


(んー。とりあえず判断は保留するか)


 純粋にこんなまともそうな部屋は貴重ではあるし、この部屋を詳しく調べれば何か分かるかもしれない。


「まず、この部屋が本当に安全かどうか、確かめよう」


 前のように寝ている時に襲われても困る。

 警戒しながら部屋の中を探ったが、特に怪しい物は出て来なかった。

 強いて言うなら、家具を留める金具がやたら多いような気がする程度か。


「……まあ、あんまり考えすぎても仕方ない。

 何かあったらすぐ動けるように警戒しながら、ここでちょっと休むとしようか」


 俺が言うと、リンゴはうなずいてから、困ったようにベッドの横の地面を見た。

 リンゴの布団は、俺の部屋に置きっぱなしになっている。

 かと言って、布団を取りにもう一度あの部屋を開けるような勇気は俺にはない。


「じゃ、じゃあ、一緒にこのベッドを使うか?」


 幸い、この部屋のベッドは結構広い。

 端と端で寝れば、お互いの身体が触れ合うこともないだろう。

 それに、また前のようなことがあった場合、あまり俺とリンゴの距離が離れるのも問題だ。

 だからこれは、どうしようもない措置なのだ。


 そう言って俺が自分に弁解をしている間にも、リンゴは迷いなく動いていた。

 いちはやくベッドに駆け寄ると、まずベッドの脇の金具に手にしていたくまのぬいぐるみを固定。

 そのまま布団をめくってベッドに飛び込んだ。

 そして、「はいらないの?」と言いたげな目で俺を見てくる。


「あ、ああ。うん、そうだな」


 それにならい、俺もリンゴの反対側の端からベッドに入る。

 出来るだけ端に寄ったはずだが、リンゴが思いの外真ん中の辺りに陣取ったため、少しだけ、腕と腕が触れる。


 考えてみれば、この大きな家にいるのは鍵のかかった部屋の魑魅魍魎を除けば俺とリンゴだけ。

 こんな状態で、平然としていられるはずがない。

 心臓が早鐘を打つ。


(あぁ、くそ! 静まれ俺の心臓!)


 これがリンゴにばれたらとても気まずい感じになってしまいそうだ。

 俺は必死に静まれ静まれと念じ続けた。


 その願いが通じたのだろうか。

 いや、全く関係ないだろうが、異変はその次の瞬間に起きた。


 ――突然、天地が逆転したのだ。


「へ?」


 当然何の備えもしていなかった俺は、為す術なく宙に投げ出される。


「ぐぁ!」


 2メートルほど落ちて、手にした布団ごと、地面にぶつかった。

 いや、地面じゃない。


(これは、天井、か…?)


 地面の模様が、さっき心臓を落ち着かせながら見ていた天井の模様とそっくり、いや、そのものだった。

 隣で同じように落ちてきたリンゴを助け起こしながら、俺は頭上、さっきまで俺たちが落ちてきた場所を見た。

 天井には、俺たちがさっきまで寝ていたベッドがくっついている。


(そうか!)


 不自然に開いていた隣の部屋との距離。

 家具がずれることを恐れるように、念入りすぎるほど念入りに取り付けられた固定用の金具。

 そして、一度は探索したはずなのに、見覚えがなかったというその事実。


 それが意味する所は一つだ。


(ここは、最初に見つけた『全ての家具が天井に張り付いている部屋』だったのか!)


 いや、正確に言えばそれは正しくない。

 ここはきっと『一定時間ごとに床が180度回転する部屋』なのだろう。


 この部屋はおそらく、何かの仕掛けで一定時間ごとに回転して、床と天井の位置が入れ替わる。

 最初に来た時は床と天井の位置が逆転している時だったので、『家具が全て天井に張り付いている部屋』に、さっき来た時は床と天井の位置が入れ替わってない時だったので、『家具が床に固定されているだけの普通の部屋』に見えたという仕組みだ。


 部屋と部屋の間隔がやけに広かったのは、この部屋の回転半径を取るためだろう。

 回転系の仕掛けがあったために、他の部屋より場所を取ったのだ。


「なんて家だよ、ここは……」


 思わず、愚痴がこぼれる。

 遊び心は買うが、もうちょっと中に住む人間のことも考えて部屋を作って欲しい。


 とにかく、こんな部屋で休むことは出来ない。

 俺は、


「……くまさん」


 と、天井に固定してしまったくまのぬいぐるみを未練がましく見詰めるリンゴを引っ張って、その部屋を後にした。



 次に訪れたのはリンゴの部屋だ。

 ピンクピンクしいこの趣味は頂けないが、単に少女趣味というだけなら何とか暮らせなくても……と思ったのだが、


「な、なんだ!?」


 俺とリンゴがハート型のベッドに腰かけた途端、また地面が動くような感触。

 また回転かと思ったが、今度の回転は横だった。

 俺たちが座ったベッドが、メリーゴーランドのようにぐるぐる回り始める。


 そして同時に、部屋の明かりがちかちかと点滅するどぎついピンク色に切り替わり、どこからともなくムーディーな音楽と、「あん」とか、「あはーん」とかいう女の人の声が……。


「ここは……」


 この部屋のコンセプトは間違いない。

 これは、これはもしかしなくても、ラブ……。


「と、とにかく出るぞ!」


 この部屋はリンゴの教育上非常によろしくない!

 俺はあわててリンゴの手を引いて、その部屋から逃げ出した。




 そして最終的に俺たちが辿り着いたのは、入り口から一番近くの部屋。

 ベッドも何もない、単なる居間だった。


 これ以上はどの部屋に行っても眠れない気がする。

 だったら何の設備もない代わりに、何の仕掛けもない、このだだっ広い部屋で寝るのが一番だと考えたのだ。

 やはり、リンゴも疲れていたのだろう。


「もう、今日はここで寝ようか」


 という提案に、彼女も逆らいはしなかった。


 幸い、この部屋のソファーは大きく上等で、人が一人寝転ぶくらいの大きさは充分にあった。

 回転部屋と真っ赤な壁紙の部屋から布団だけを持ってきて、テーブルを挟んで向かいに位置するソファーに、それぞれ横になる。


 今度こそと「おやすみ」を言い合って、各々のソファーで目を閉じたのだが、


(ああ、くそ!)


 ここでは何も起こらないはずだと分かっているのに、過敏になった神経はなかなか治まらない。

 物音がする度に飛び起きてしまって、なかなか眠れなかった。


(はぁ。馬小屋が懐かしい……)


 今にして思えば、どうしてあそこで寝ていた時に文句を言っていたのか、分からない。

 あそこには寝床にするのに充分な広さと、暖かな布団があった。

 月明かり星明かりのおかげで視界も充分に利いたし、警戒しなければいけない脅威はせいぜい泥棒程度。

 まるで楽園のような場所である。


(あの時の俺は、ずいぶん贅沢だったんだなぁ……)


 なんてことを思っていると、とんとん、と肩を叩かれた。

 どうやらリンゴが眠れずに、俺にちょっかいをかけてきているらしい。


(……まったく)


 俺も全然眠れずにいるので正直嬉しい気もするのだが、ここで相手をしてしまったらお互いますます眠れなくなってしまうだろう。

 俺は心を鬼にして、無視を決め込むことにした。

 しかし……。


 ――とんとん、とんとん。


 リンゴのちょっかいは、なかなか終わらない。

 ずっと寝たフリを続けてきたのだが、それもそろそろめんどくさくなってきた。

 そしてとうとう、


 ――とんとん、とんとんとん。


 リンゴが俺の肩をさっきよりも強めに叩いた時、俺の我慢も限界に達した。


「おい、リンゴ。そろそろ寝かせてくれよ」


 俺が思わず声を荒げると、


「…わたし、ここだよ?」


 遠くから、リンゴの声。


(……えっ?)


 今の声の感じからすると、リンゴは向かい側のソファから動いていない。


(じゃあ、今俺の肩を叩いたのは誰なんだ?)


 悪寒が全身を駆け巡る。

 恐ろしい何かが、自分を見ている、そんな予感に囚われる。


 だが、振り返らなければ何も分からない。

 俺は勇気を出して身体を逆側に倒す。


 すると、そこに……。

 誰もいないはずのテーブルの上に、『何か』がいた。


「あ、あぁぁ……」


 薄闇に、影が浮かび上がる。


 人ではありえないそのフォルム。

 異形とすら言える、太くて不恰好な手足。

 全身をどぎつく彩る、その黄色。


 間違いなかった。

 闇に浮かび上がったその影の正体は……。



 ――リンゴが気に入って持ち運んでいた、くまのぬいぐるみだった。




「はぁぁ……」


 大きく息をつく。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだが、こんな物にびびってしまうようでは俺も根性が足りない。


「まったく、脅かしてくれるよ」


 俺はもう一度ソファに寝転がりながらそのくまのぬいぐるみを抱き上げ、そんな愚痴をこぼした。

 が、ふと気付く。


(あれ、待てよ。

 確かこのぬいぐるみ、回転する部屋に置いてきたんじゃ……)


 そこまで思い至った瞬間、とんとん、とふたたび腕が叩かれた。


 当然、辺りに人影などはない。


 まさかと思いつつ手中のぬいぐるみを見ると、愛らしく笑っていたはずの口元がニタァ、と大きく裂けて、



 

 に が さ な い よ ?





「ぎゃあああああああああ!!」






 恐怖の夜は続く…!




続きません

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