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第六十五章 極楽に一番近い場所

 飛び散った水を拭いて、初めに見つけた居間らしき場所に荷物を置いた俺たちは、鍵を片手にその豪邸の探検を始めた。

 一階にあったのは食堂に調理場、それに屋内プールに浴場、あとは大量の寝室だった。


 寝室と一口に言っても、それぞれの部屋ごとに明確な特徴があって、家具が全て天井に張り付いている部屋や、中の壁紙が全て真っ赤な部屋、ぎっちり張られた女の人の写真で天井も壁も地肌が見えない部屋に、部屋全体が騙し絵みたいになっていて、入っているだけで自分がどこにいるのか分からなくなる部屋など、『ネタとしては面白いが絶対に住みたくはない部屋』がこれでもかとばかりに並べられていた。


 こういう、『誰もが一度は思いつくけれども良識が邪魔してやれない悪ふざけ』を本当にやっちゃう辺り、実に『猫耳猫』的だと言える。


 どこもろくでもなかったが、俺はその中でも比較的無難そうな『明らかに旧式なテレビや電話のある、レトロな内装の部屋』を選んで、自分の部屋にすることにした。

 見た目からしてファンタジーな世界観が完全に崩れていると思ったが、流石にテレビも電話もただのオブジェで、実際には使えないらしい。

 『猫耳猫』スタッフにも欠片ほどの良識は残っているようで、少しだけ安心した。


 俺が部屋を決めると、リンゴはすぐにその隣の『部屋にある全ての物がハート型か、ハートのプリントがされている部屋』を自分の部屋に定めた。

 見た目がピンクピンクしている以外では何とか過ごせそうな部屋ではあったが、ベッドがハート型のため、足を伸ばして眠れそうにないという所だけはちょっと心配だった。


 一応大丈夫なのか尋ねたが、リンゴは自信ありげに、


「…だいじょぶ」


 と答えたので、きっと大丈夫なんだろう。

 普段であればもう少し追及したかもしれないが、その時の俺は、どうしても行ってみたい場所があって気が急いていた。


「部屋も決まったことだしさ。

 俺はちょっと行きたい所があるんだけど、いいかな?」

「…ん」


 俺が切り出すと、リンゴは短く返答して俺の後をついてこようとする。

 それを、俺はあわてて押し留めた。


「いや、ちょっと待った。

 悪いけど、その場所には一人で行きたいんだ」

「…どうして?」


 どうしてか?

 そんなのは決まっている。


「これから俺が行く場所が、風呂だからだよ!」




 という訳で、大浴場である。

 ゲームの時は完全に服を脱ぐことは出来なかったので着衣風呂をしていたはずだが、この世界では関係ない。

 心配だからとついてこようとするリンゴを何とか説得すると、俺は脱衣所で素早く服を脱ぎ、大浴場までやってきた。


 実はこの大浴場。

 探検をしていた時から、いや、そのずっと前から目をつけていたのだ。


 俺はこの家を買ったことがないので当然この大浴場に来たこともないのだが、ここはゲーム時代にも評判が高く、「このためにこの家を買ったと言っても過言ではない」「現実の風呂なんかではこの感じは絶対楽しめない」「極楽というのが一番ぴったりな場所」「潜れる風呂というのは斬新」「魂が抜け出るっていうのはこういうことかと理解した」「もうやめようと思ってもついつい入ってしまう。ある意味悪魔の風呂」などと大絶賛されていた。


 俺には広い家なんて必要ないと突っ張っていたせいでこの家を買うことはなかったが、唯一そこにあるという大浴場自体には前々から興味があったのだ。


「それにしても、本当に大浴場って感じだなぁ……」


 そう独り言をつぶやくと、その声が広い浴室にわずかに反響する。

 そこは10メートル四方くらいの部屋で、その半分くらいが全て風呂になっている。

 もはや銭湯か温泉かというレベルの大きさである。


「よーし、じゃあ早速!」


 俺はいきなり風呂の中に飛び込んだ。

 この世界での風呂は魔力で動く自動浄水装置とやらが付いているおかげで、汚れることがないという設定なのだ。

 たぶん、水が汚れる演出が面倒なので適当に『猫耳猫』スタッフが考えた設定だと思われるが、今ばかりは彼らの適当さに感謝だ。


(あれ、思ったよりも熱くないな……)


 温泉のような見た目だったので熱いお湯を想像していたのだが、湯の温度はそれほどでもないようだった。

 だが、かといってぬるいと言うほどでもなく、その温かさはじんわりと身体中に伝わっていく。


「ふわぁあああ……」


 意図せず、気が抜けた声が漏れてしまった。

 こっちの世界に来てから緊張してばかりの毎日だったので、こうやって心置きなく力を抜ける場所というのは久しぶりだった。


 しばらく風呂の温かさを堪能した後、おもむろにメインイベントに移る。

 大きく息を吸い、一気に風呂の中に潜った。


(おおぉ!)


 おそるおそる目を開けた水の中。

 そこには、実に幻想的な光景が広がっていた。


 風呂の中心には光を放つクリスタルが設置されていて、それがミラーボールのように辺りに不規則な光を振りまいて、水の中に光の芸術を作り上げていた。

 しかもそのクリスタルは水に揺られてわずかずつ揺らめくため、中を照らす光も一瞬たりとも同じではない。

 一瞬一瞬毎に変わるその光と水の世界に、俺は言葉もなく見入っていた。


(そうか。これはゲームの世界だからこそ見られる光景、なんだな)


 最初の興奮が収まると、目の前の美しさを分析する余裕も出て来る。


 何の道具も使っていない俺が、水の中でこの光景をはっきりと見ることが出来るのは、『猫耳猫』の水中の仕様による所が大きい。


 なんと『猫耳猫』のゲームでは、『水の中に入ると息が苦しくなる』という効果はないし、水の中で目を開けていても目が痛くならないし、普通にしゃべることすら出来る。

 水の中にいる状態というのはVRマシンの仕様的に実現が難しい所であり、『猫耳猫』には水中ダンジョンや水中戦などもあるからだ。

 速度にわずかにマイナス補正がかかり、息が続かなくなる演出として割合でHPが減っていくものの、基本的に『猫耳猫』では水の中でも陸上と同じように活動出来るようになっているのだ。


(これが、現実では絶対に楽しめない、って言葉の意味か)


 今の世界をゲームと呼ぶか現実と呼ぶか、それは難しい所だが、ゲームの仕様が残っているからこそ楽しめる物もあるということだ。


(そろそろ、一度上に上がるか)


 ここでは息が続かなくなるということもないし、お湯がそんなに熱くないため、いつまででも潜っていられそうな気はするが、完全に潜ってしまうとHPが少しずつ減っていってしまう。

 俺は名残惜しい気持ちを抑えて、一度水面から顔を上げた。


「ふぅぅ……」


 そのまま浴槽の縁に頭を預けて、のんびりと風呂に身体を浮かせる。

 他では絶対に見られないような綺麗な物も見れたし、それだけでこの家を買ったのは正解かもしれないと思ってしまう。

 何より、こうやって何も気にせずにのんびり出来るというのがいい。


(なんか、ずっと、こうしていたい、なぁ……)


 やはり、今まで気を張っていた反動が来たのだろうか。

 居心地の良すぎる空間に、だんだんと意識が遠のいていく。

 それにつれてずるずると頭が下がっていき、やがて……。




「――ソーマ! ソーマ!」


 誰かに名前を呼ばれ、俺は目を覚ました。


「リン、ゴ…?」


 見ると、リンゴが必死な様子で俺の身体を揺すり、いつもとはまるで違う切羽詰まった声で俺を呼んでいる。

 そんなに必死になってどうしたんだ、と思ったが、その時に自分の身体の異変に気付いた。


(身体が、重い…?)


 ゲーム的に言うのなら、HPがほとんど残っていない状態、という所だろうか。

 一体俺に何が起こったというのか。

 焦って周りを見渡すと、そこはまだ浴室の中。

 俺は浴槽の近くに仰向けに寝かされているようだった。


「これ、いったい、どうしたんだ?」


 うまく回らない舌でそう尋ねると、リンゴがぽつぽつと事情を話してくれた。


 俺がなかなか風呂から出て来ないので浴室の前まで呼びに来たのだが、呼びかけても返事がない。

 とうとう心配になって浴室の中に入ると、俺が風呂の中に沈んでいた、と言うのだ。


(もしかして、あのままウトウトして沈んじゃったってことか?)


 そういえばあまりの気持ちよさに、意識が遠のいたことはかろうじて覚えている。

 しかし、それとこの身体の倦怠感はどうつながってくるのか。


(いや、そうか! 水の中では常に割合でダメージを喰らうから……)


 初期のバグで、水中ダンジョンのボスが何度行っても姿を見せないというのがあった。

 その原因は水中ダンジョンのボスに水棲属性を付け忘れていたことで、なんとそのボスは水中ペナルティの継続ダメージによって死んでしまっていたのだ。

 水棲属性がなければボスでさえ死ぬのだから、何の装備もない一介のプレイヤーがそれに抗えるはずもない。


 そこまで考えて、俺の背筋をぞぞっと恐怖が這い上がった。

 この世界では、現実と違って水の中にいる時の自覚症状に乏しい。

 現実でもお風呂で寝てしまうのは確かに危ないが、いくらなんでもお湯の中に沈めば起きるだろう。

 しかし、こちらの世界では話が違う。


 ここでは水の中に入っても息が苦しくなることもないし、お湯はそう熱くもないので、頭の上まで浸かっていても、熱くて飛び起きるなんてこともない。

 常にお湯の中にいてもむしろ居心地がいいというくらいで、風呂の中で寝てしまっても覚醒を促す要素がないのだ。


 しかし一方。

 水中でのペナルティとして、身体は最大HPに従った割合ダメージを受け続ける。

 今回は、リンゴが見つけてくれたからよかった。

 だがもし、誰にも気付かれずにそのまま眠り続けていたとしたら……。


(俺は、死んでいたかもしれない)


 自分が冗談ではなく命の瀬戸際にあったと自覚して、改めて血が冷えるような怖気が俺の全身を駆け巡った。


 それに、考えてみればよく訓練された『猫耳猫』プレイヤーがただの大きい風呂をあんなに絶賛するはずもなかった。

 彼らはきっと、この大浴場の罠にとっくに気付いていたのだ。


 どこの場所よりもリラックス出来る場所だが、本当にリラックスしてしまうと自然と水の中に沈んで、やがてHPがなくなって死んでしまう。


 ――それがこの、『極楽というのがぴったりな』『魂が抜け出る』『悪魔の風呂』だったのだ!




(やっぱりとんでもないな、『猫耳猫』って奴は)


 世界で一番安全なはずの自分の家。

 その中でも一番リラックス出来るはずの風呂にデストラップがあるなんて、誰が想像するだろうか。


 リンゴにはつい数時間前、


『わたしがいないと、ソーマはすぐしんじゃいそうだから……』


 と言われていたが、図らずもその言葉の正しさを証明してしまったことになる。


 とにかく、リンゴは命の恩人だ。

 俺は改めてリンゴにお礼を言おうとして、


(あ、あれ? ちょっと待てよ?

 ……ここって、風呂、だよな)


 あまりの事態に、すっかり頭から抜け落ちていたある事実に思い至ってしまった。


「…?」


 こちらを見るリンゴの格好を改めて見る。

 さっき別れた時と同じ格好で、防具屋で買った装備まできちんとつけている。

 俺を助けたせいか鎧まで濡れてしまっているようだが、この世界なら大丈夫だろう。

 むしろ服が透けたりするのを防止してくれていると言えた。


 ……それより問題は、俺の方にあった。


(ま、さか……)


 祈るような気持ちで、そっと視線を自分の身体に落とす。


「うわぁああああ!!」


 次の瞬間、俺は飛び起きてリンゴから自らの身体を隠した。

 当然のことではあるのだが、風呂にやってきた俺は何も身につけていない状態、つまりマッパだったのだ!


「…だいじょうぶ?」


 一方で、もう一人の当事者のはずのリンゴは平然としたものだ。

 命の危機という非常事態があったというのも確かだが、俺の裸を見ても一切何とも思っていないように見える。


「い、いや、大丈夫、大丈夫だ!」


 ここでリンゴにまで照れられたりしても困るのでよかったと言えばよかったのだが、それはそれで切ない気分になった。

 それこそ一番初めの時からリンゴにそういう羞恥心がないのは分かっていたはずなのだが、男心は複雑な物なのだ。


 とにかく、これ以上リンゴの前で裸を晒すのは、リンゴはともかく俺の精神が耐えられそうにない。


「じゃ、じゃあ、俺はすぐ上がるから、先に外に出て待っててくれ」


 俺は懇願するような勢いで頼み込んだ。

 対してリンゴはごく淡泊に、


「…ん」


 とうなずくだけ。


 一欠片の羞恥も見せずに平然と立ち上がり、浴室の扉に向かって歩いていく。

 そして、恥ずかしさで顔を真っ赤にした俺が見守る中、よどみなく足早に歩いていたリンゴが、


「――ッ?!」


 突然、足を滑らせた。

 ビタン、という結構いい音を立てて、床と激突する。


「リンゴ!?」


 天然ではあっても決してドジではなかったリンゴにしては珍しい失敗だが、床が濡れて滑りやすくなっていたのかもしれない。

 俺は思わず駆け寄ろうとするが、


「…いい」


 気丈にもリンゴはすぐに身体を起こし、身振りで俺が近付いて来ようとするのを押し留めた。


 俺はその様子に胸を撫で下ろしたが、すぐにおかしなことに気付く。

 リンゴは怪我もなくちゃんと起き上がったはずなのに、決して俺の方を振り返ろうとはしなかったのだ。


「まさか今、転んだ時に顔をぶつけたんじゃ……」


 俺が心配になって声をかけるが、リンゴはまるでそれを拒絶するように、


「…だい、じょうぶ」


 と言って立ち上がると、頑なに俺に顔を見せようとはせず、


「…じゃあ」


 短くそう残して、結局は俺に一瞥もくれないまま歩いていってしまった。



 その後、着替えを済ませてリンゴに会いに行った所、彼女の顔には心配していたような傷はなかったのだが、


「なぁ。もしかしてさっきのこと怒ってるのか?」

「……そんなこと、ない」


 それからしばらく、リンゴは俺とまともに目を合わせてはくれなかったのだった。


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