第四十二章 願いの成就
本当にこれを使う時が来るとは……
(待て待て、じゃあこれ、どういうことなんだ?)
明らかに文字化けをした鑑定紙を前に、俺は混乱していた。
ついさっきまで俺は、彼女がここにいるのはイベントのせいなのかと考えていた。
本人に自覚がないのは問題だが、記憶喪失の女の子がプレイヤーの所にやってくるなんていうのはある意味定番のイベントだと言える。
しかし彼女がバグっているとなると、それは違うのかもしれない。
というか考えてみればそもそも、『猫耳猫』のゲームではキャラクターが裸になることは出来ないはずだ。
だとしたら、全裸でプレイヤーの前に出現するなんてイベントが存在するはずがない。
それともイベントでここまで来てからバグが発生して、そして裸になったということなのか。
(いや、むしろ逆に考えてみるべきか?)
彼女はバグったからここにきた。
例えば、バグのせいでシステムから弾き出され、その結果、ある意味この世界の特異点と言えるプレイヤーの許に転送された、みたいな仮説も……いや、ないか。
バグがあるから世界から弾かれるとか、プレイヤーが特異点だとか、それはどちらかというと人間の、自意識のある者の発想だ。
ゲームのプログラムは、いくら判断力を持っているように見えても所詮はプログラム。
特別な人工知能を搭載している訳でもない、『猫耳猫』のシステムがそんな思考を行うはずがない。
その割にこの世界が機械的でもプログラム的でもないのは、打出の小槌(?)か何かの力でリアルとゲームがごちゃまぜになっているせいであって、この世界にあるファジーな部分はあくまでも『願い』の影響。
ゲームのバグというシステム的な物が原因で、こういう突拍子もない出来事が起こるとは考えにくい。
少なくともゲーム内では、バグった何かが突然プレイヤーの許までワープされてくる、なんてことはなかった。
(だとすると、俺の所までやってきたのは、あくまで彼女の意思、か?
いや、それもなぁ……)
そうするとやはり、彼女がどうして俺の所までやってきたかという問題になってくる。
もし俺の部屋に来た後でバグってしまったのなら、もしかするとその原因が明らかになることは二度とないかもしれない。
それでも彼女に質問を続け、もう少しだけ詳しい状況を把握した。
彼女の自分に対する記憶は一切なく、かろうじて穴だらけな一般常識が備わっている程度。
彼女にちゃんとした記憶があるのは俺が起きる数時間前から。
その時から既に彼女は全裸で俺の布団の上にいて、それから俺が起きるまでの間、じっと寝そべったままでいたらしい。
服を着るとかいう発想がなかったのかとか、突然変な場所に出てきて驚かなかったのかとか、とりあえず俺に事情を訊こうと思わなかったのかとか、色々とツッコミどころはあるが、それを問いただしても、
「…?」
と首を傾げるだけ。
どうやら質問の意図がさっぱり理解出来ていないらしい。
完全にバグっていると言うべきか。
その他にも色々と訊きたいことはあったのだが、答えが返ってきそうにもない。
ということで、
「それじゃ、君のことは何て呼べばいいかな?」
名前がないというのはとかく不便だ。
とりあえず最優先で彼女の仮の呼び方を決めることにした。
彼女は俺の質問に少しだけ考えた後、
「…リンゴ」
と答えた。
「何でそんな名前に」と思わず訊きそうになったが、今リンゴを食べたいだけだということは、深く考えずともすぐに分かった。
適当すぎるネーミングだと思ったが、まあ本人が付けたのだから、流石に後で文句を言ったりはしないだろう。
当面の彼女の呼び名も決まった所で、俺たちは外に聞き込みに行くことにした。
まず宿屋の主人とアリスちゃんに、さっきの誤解を解く意味も込めて、彼女、リンゴのことについて尋ねる。
「この子のこと、以前に見たことありませんか?」
主人のおっさんの方は真剣に、アリスちゃんは何を白々しい、という表情ながら、質問自体には真面目に答えてくれた。
しかし結論としては、彼女の顔には二人とも全く見覚えはないらしい。
もし彼女が有名なキャラであれば、面識はなくても顔くらいは分かるだろう。
彼女が主要キャラであるという可能性が少しだけ低くなった。
それに、宿屋の入り口にはおっさんかアリスちゃんのどちらかが必ずいたそうなので、リンゴの侵入経路が問題になってくる。
窓から入ったという可能性もあるが、バグか何かでワープ、みたいな可能性も絵空事ではなくなってきたかもしれない。
「さて、どこに行ったものか」
二人と別れ、宿から外には出たものの、特に行くあてがある訳ではない。
お金があるのなら情報屋なんかに行くという手もあるのだが、残念ながらこちとらほぼ文無しである。
まあ、リンゴが果物が好物だというのなら、ちょうどいい。
俺は情報通の『ある人』に会うべく、歩き始めた。
のだが、
「リンゴ、リンゴ、こっちだって」
そこでリンゴの特異性が遺憾なく発揮された。
なんというか、指示したことしかやらないし、指示しても頻繁に段差につまずくし、うまく誘導してやらないと障害物とか壁に平気でぶつかっていく。
すんごく頭の悪い仲間キャラを連れて戦争物のSLGをやっているような気分になった。
いちいち注意しても直らないので、仕方なく手を引いて歩いていくことにした。
色々と面倒だが、まあそれも今だけだと考えれば我慢は出来る。
「しかし、身元が分からなかったらどうすりゃいいんだろ」
王都にいるのに彼女のレベルは1。
俺もレベル13なのであまり人のことは言えないが、この調子ではイーナのように冒険者として独り立ちさせるなんてことは到底無理だろう。
(それとも、バグでレベルが下がってるだけで、実はそれなりに強い、とか?)
そう思って、俺はリンゴを観察してみた。
強いとか強くないとかを論じる前に、やっぱりそこはかとない違和感を覚える。
本来とは全く違う格好をしているような、どこかしっくり来ない感じ。
特に頭の辺りが何か寂しい気がした。
それはひとまず置いておいて、次はリンゴは今何を考えているのだろうと彼女の顔を覗いたが、そこにはどんな表情も映っていなかった。
というか、無表情以前にこっちを見てすらいなかった。
ヒサメなんかも無表情で無反応だが、リンゴはそれとはまたタイプが違う。
ヒサメは感情を表に出さないので無表情なのだが、リンゴが無表情なのはたぶん、そもそも感情の起伏がほとんどないからだ。
それに、ヒサメが人の存在を完全に認識した上で反応しないタイプだとしたら、リンゴは人の存在そのものに全く反応しないタイプだ。
どっちがより悪質かは分からないが、まあ普通にどっちもどっちと言ってしまっていいかもしれない。
「なぁ、リンゴ」
俺が呼びかけると、リンゴは無言でこっちを向いた。
素直さで言えば、断然リンゴの方が上だ。
そこは正直によかったと言っておく。
「例えばなんだが、あそこにあるベンチをスキルとか魔法で壊したり、なんて出来るか?」
俺が尋ねると、
「スキル…? 魔法…?」
と不思議そうに繰り返した。
そこからかよ、と思わなくもなかったが、出来るだけ丁寧に説明する。
「ほら、例えば今の状況なら。距離がある場所にある物を壊すのは大変だろ?
だから、剣から衝撃波を出したり、火とか水とか雷なんかを出したりして、相手を倒すんだよ。
それがスキルとか魔法なんだけど……」
この調子ならやはり覚えてなさそうだ。
体格的にパワーファイターということはなさそうなので、もしかすると魔法使いだったのではないか、と思ったのだが、本人が覚えていないなら仕方ない。
俺がそんな風に思って、彼女に「気にするな」と告げようとした、その瞬間だった。
リンゴが無造作に右手を持ち上げて、
「――え?」
そこから激しい雷光がほとばしった。
生まれ出でた強烈な光は瞬く間にベンチに到達し、
「え? ……えぇ?」
一瞬で、ベンチを木端微塵にした。
どういう原理なのか、ゲーム世界の不思議法則によってベンチは一瞬で四散して、ただ、その場に残った小さな木切れがぱちぱちと音を立てて燃えている。
控えめに言って、とんでもない威力だった。
「これ、スキル?」
だが、それとは裏腹に、自分がしたことの意味も分かっていない様子でリンゴが淡々と尋ねる。
「い、いや、これは……」
しかし、そんなことを訊かれても俺にも何が何だか分からない。
今のが魔法だとすると、レベル1のキャラに使える領域を遥かに超えている。
いや、しかし、一つだけ分かることがある。
「とりあえず、逃げるぞ!」
ベンチを壊した俺たちは、確実に怒られるということだ。
何とか衛兵さんに見つかることなく、俺たちは逃げおおせた。
ポイズンたんのことといい、俺は衛兵から逃げ続ける
……いや、思わず逃げてしまったが、ポイズンたんのことはとにかく、今回は完全に器物損壊なので、きちんと留まって事情を話すべきだったかもしれない。
出来れば後で何か埋め合わせをしよう、と一応心のメモ帳に記入しておく。
それはともかく、だ。
(あの雷の魔法、どこかで見たことがあるような……)
それをレベル1の彼女が使えたというのも問題だが、あの凄まじい威力を持つ雷を、俺はゲームでも見た気がするのだ。
しかしそれは、一体どこでだったか。
「……あ」
そんなことを考えている内に、目的地についてしまった。
その、目的地とは……。
「新鮮な野菜だよ! ほら買っといでぇ!」
口上を聞いて分かる通り、八百屋である。
ファンタジーらしく、ここではゾウより重いジャガイモや、家ほどもあるカブが売られたりしている、なんてこともなく、何の変哲もない八百屋だが、店主のおばちゃんがちょっとした情報通。
油断するとご近所さんのゴシップ話を二時間ぶっ続けで聞かされたりするので注意が必要だが、お金がない時に王都の何かを知りたい時は、まず彼女に訊け、というのが『猫耳猫』の常識だったりする。
「おばちゃん! リンゴ一つ!」
「はいよ、50Eね!」
とりあえず、話を聞く前に何かを買うというのもゲーム時代からの基本だ。
俺はリンゴを一つ買うと、それをリンゴに放り投げた。
どっちもリンゴでややこしい。
「食べていいぞ」
と許可を出すと、彼女は心持ち嬉しそうにうなずいた。
服の着方が分からなくても、食事の仕方は覚えているのか、彼女はそのままリンゴにかじりついて……。
「あ、ああぁ!!」
その姿を見て、俺は叫び声をあげた。
彼女に駆け寄って、その髪の毛を弄る。
ばらばらになった髪を丁寧にまとめ、左右に流して、すると、出て来たのは……。
「シェルミア、王女……」
『猫耳猫』が誇る、超人気キャラクターの顔だった。
決め手になったのは、彼女がリンゴを食べているシーンだ。
数少ない王女イベント、『王女の休日』にも、王女がリンゴを食べるシーンが出て来るのだ。
そのおかげで完全に思い出した。
あのベンチを粉砕した雷の魔法。
あれも、『王都襲撃』の時に彼女が使っていた魔法で、あの雷によって無数のモンスターを屠っていたのを今さらながらに思い出した。
――しかし、これで全部がつながった。
彼女が服の着方を知らなかったり、裸を気にしなかったり、何か言われないと全く動かなかったりしたのは、バグではなく、王女の特別なAI設定のせいだ。
何しろ『人形王女』と言われるくらいの、イベント以外には全く動かないAIである。
それが忠実に再現されたとしたら、このくらいになってもおかしくない。
俺が彼女に見覚えがあるようで、しかしはっきりと分からなかったのは、彼女がいつも身に着けているドレス姿ではなく、しかも頭の上にいつも載せていたティアラもなかったからだ。
それでもこの瞬間まで気付かなかったのは鈍感のそしりを免れない所だが、シェルミア王女はその人気とは裏腹に、ゲーム内での出番は非常に少ないのだ。
はっきりと顔を覚えていなくても仕方がなかった、と自分に言い訳をしておく。
俺は黙々とリンゴをかじり続けているリンゴ、いや、シェルミア王女に声を掛ける。
「君の正体が分かったよ」
「…?」
それは流石に気になるのか、彼女は顔を上げた。
「あのな。君は実は、この国の……」
言いかけて、止まった。
(待て、よ?)
確かに彼女の正体も分かり、彼女の不可解なほどの常識のなさも説明がついたが、それと彼女の名前がバグっていることは、何の関連性もない。
ゲームでのシェルミア王女は、日常生活を送る思考ルーチンが備わっていないだけで、バグってはいなかった。
そもそも、彼女がシェルミア王女だとすると、どうして俺の所に来た?
彼女に自分からプレイヤーの許を訪れるようなイベントはなかったはずだ。
それに、彼女が王城を抜け出したことはこの世界的にはどう処理されているんだ?
(なんだ、この、嫌な感じは……)
そうだ、それだけじゃない。
シェルミア王女は仮にもこの国の王族だ。
ゲームとしてプレイしていただけの俺はともかく、自分の国の王女を街の人間が見ても全く気付かないというのは、ありえるのだろうか。
「わ、悪い! ちょっと待って!」
どんどん違和感と不安が膨れ上がっている。
なぜか、大事な何かを見落としている気がした。
「す、すみません!」
俺は慌てておばちゃんの所に駆け寄ると、王女のことについて訊いてみることにした。
「ちょっとお聞きしたいんですけど、シェルミア王女について、最近変わった噂とかありませんか?」
俺が尋ねると、おばさんはきょとんとした顔をした。
「あん? 誰だって?」
もしかして、いきなり王族の話題を出したりするのは不敬に当たるのだろうか。
凄い迫力に気圧されかけたが、もう一度尋ねてみる。
「ええと、だから、シェルミア王女です。
最近病に臥せってるとか、あまり顔を見ないとか、そういう話を聞きませんか?」
「さぁ。知らないねぇ」
俺は必死に食らいついたが、返事はにべもなかった。
この様子では、これ以上話を聞くのは難しそうだ。
俺はそこで会話を切り上げようとして、
「大体、誰だい、そのシェルミアとかいう奴は。
この近くの国に、そんな名前の王女なんていたっけねぇ?」
続くその言葉に、背筋が凍りついたような気がした。
他の人間ならともかく、事情通であるはずの彼女が自国の王女を知らないはずがない。
不吉な予感が俺の中でますます大きく膨れていく。
いや、と俺は首を振った。
きっと、何かすれ違いがあるのだ。
そう思って、必死に言葉を連ねて説明する。
「誰、って、この国の王女様です。
王様の、一人娘で……」
だが、俺の言葉は無情にも彼女の怒声に断ち切られた。
「何を馬鹿なことを言ってるんだい!
この国に王女は一人しかいないし、その人はシェルミアなんて名前じゃないよ!」
彼女の口は、そんなありえない言葉をぶつけてくる。
そうだ、ありえない。
俺が『猫耳猫』でこんな初歩的な勘違いをするはずがないし、『猫耳猫』に準拠したこの世界で、王女の名前が違うなんて、そんな大きな差異が生じるはずがない。
それでも、それでも俺は、彼女に尋ねた。
「じゃあ、じゃあこの国の王女は、一体なんて名前なんですか?」
俺のその質問に、「あんた、本当に知らないのかい」と言いたげな胡乱げな目付きをした後で、彼女は言った。
「――マキ・エル・リヒト様だよ」
(なっ!)
頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
(今、この人はなんて言った?)
脳が、その言葉の受け入れを拒否していた。
『猫耳猫』に『マキ』なんてキャラはいない。
いなかった、はずだ。
なのになぜだ。
その名前に、妙に聞き覚えがあるのは。
つい、ありえないはずの可能性を考えてしまうのは。
背中を嫌な汗が流れて止まらない。
動揺する俺に追い打ちをかけるように、おばさんがしゃべりかけてくる。
「どうやら驚いているようだけど、あんたがどう思おうが、昔から王女様は……」
「ちが、う」
だが俺は、思わずその言葉をさえぎっていた。
「……ちが、う。王女じゃ、ない」
その時既に、俺の脳裏には仮説とも言えないような、突拍子もない想像が浮かんでいた。
その考えに押されて、俺は思わずそうつぶやいた。
「いや、違うって言うけど、だからね……」
おばさんがまだ何かを言っているが、それはもう俺の頭には入ってこなかった。
そう、王女だけれど、王女ではない。
王女ではなく、『お姫様』なのだ。
「だったら、それは……」
それは、いつ起こったのか。
俺は、わざわざこの国の王族の名前なんて確かめはしなかった。
だから、俺がこの世界に来た時からそうなっていたという可能性だって、本当なら考えられる。
だが俺は、もう半ば確信していた。
具体的な証拠は全くない。
しかしこれを偶然で片付けるには、あまりに状況が合致しすぎている。
「それは、たぶん、今朝起こったんだ」
俺が目覚める数時間前に、リンゴ、つまりシェルミアは俺の部屋に来たと言った。
目覚める数時間前というのはもしかすると、午前0時ぴったりだったのかもしれない。
いや、きっと、そうだったのだろう。
本当の『それ』がいつ起こるとされているのかは分からない。
だが、少なくとも今回の『それ』は、日付の変更と同時にその効力を発揮したのだ。
「今日、は……」
ゲーム生活、七日目だ。
そして、俺がこの世界にやってきた、一日目。
その時現実世界は、7月1日だった。
つまり、つまりだ。
そうなると、今日は――
「――今日は、七夕だ!」