死人の森の断章6-1 病的グランギニョル
少女の唐突な思いつきを聞いて、周囲が呆然としていたのは一瞬のことだった。
過去の出来事を再演することで時間の流れを書き換える。
そんな途方もない試みは、しかしごく当たり前のこととして受け入れられた。少女の自信に満ちあふれた佇まいに、誰もが一つの確信を得ていたからだ。
この少女ならば、何かを成し遂げてくれるに違いない。
大人たちは、年端もいかぬ幼い姿に、いずれ大業を成すであろう大器を見つけたのだ。不思議な確信と共に、彼らは動き出した。
任せてくれ、と請け負ったのは、旅路で一緒になった流れの劇団である。
見知らぬ国の人々の為に立ち上がった少女の真情に共感し、賛同してくれたのである。気のいい劇団員が中心となって過去の再演は行われることになった。
ヒュールサスと盟約を結んでいたという六つの王国には偉大な王の伝説が残っており、仕事柄そうした伝承をよく知っていた劇団は即座に台本を仕上げ、演出を決定し、有り合わせの道具と材料でちょっとした小道具まで作ってしまった。
あっという間に準備は進んでいく。
少女はヒュールサスの宿で、退廃に満ちた街の光景を見ては悲しそうな表情を浮かべながらも、台本を手に練習を重ねていた。
その目の前で、牙猪が苦言を呈した。
「本当に、俺がやらなくちゃならないのか?」
「あなたが一番身体が大きくて立派なんですもの。だから、王様役はあなた」
当然、といった口調で少女は小さな手でそれを示した。
牙猪が苦い顔で見ているもの。すなわち、大きなきぐるみである。
「しかし、不格好ではないか?」
「中に入ってしまえば、そして幕が上がってしまえば、それはもう本物。お芝居と現実の区別なんて誰も意識しなくなる。あなたが台詞を間違えたりしなければ」
それが一番不安なのだ、とは言えない牙猪は、改めてきぐるみを見る。
中に人が入れる大きさの、人の皮だ。死体から剥いだ皮をつなぎ合わせて作ったその呪具には、ひとたび中に入ればたとえ種族が違えども外からは本物そっくりに見えてしまうという神秘的な力が働いている。
「それに、ちょっと荒っぽいこともするから、力の強い人がいいのです。親切で手伝ってくれているみんなを、危ない目には遭わせられない」
「芝居で危険があるというのも奇妙な話だ」
「お芝居だけど、実際に過去へ行くのと同じこと。だから、失敗したらお芝居の世界から帰ってくることができなくなったりするかもしれない」
恐ろしいことを言う少女だったが、当人は平然としている。既に豪奢な衣装に身を包んで準備は万端だ。少女の腰回りを幾重にも取り巻く布は穢れ無き純白で、広がったスカートはふわりと軽やかだ。
牙猪の声と態度に不安が表れる。
彼女の方こそ、主役たる牙猪と同じくらい危険な役だというのに――。
少女はにこやかな表情で続ける。
「これはきっと、神様から私たちへの試練なのだと思う。だから一緒に乗り越えましょう。そうすればきっと、かわいそうな狼さんを助けることができるから」
当初の目的を口にして、少女は牙猪の左手をそっと握った。
やがて二人を呼ぶ声がして、まもなく舞台が開演する。
はじめに演じられるのは美しい王の物語。
この世のものとは思えぬほどに美しい髪の毛を持つ、男の話だ。
「それは、遠い遠い昔の話。【煌めく星々の時代】――呪術と棍棒が支配する時代の出来事です」
どこからともなく響く語りと共に、ゆっくりと世界が広がっていく。
広大な円盤の大地と、端から流れ出す大海。天を界竜ファーゾナーが覆い、世界を取り巻く暗黒に数多の星々が輝く。輝きを発しては消えていく星々の全ては、生まれ死んでいく内世界だった。
あらゆる世界は栄枯盛衰。数々の宇宙が急速に生まれ、あまりにも儚く滅び去っていく、急ぎ足の時代。エスポダス、デルゴニア、オウィトウクレトル、キルグニルといった名前だけ残った文明、そして名前すら残らなかった文明の勃興と衰亡に、人は星々の煌めきを見た。
そんな大世界の内側に無数に存在する小世界の一つ、更にその中で数限りなく瞬いているとある一国。宇宙の中の、砂粒ひとつ。
「【丸まった大地の時代】には栄華を誇っていたこの国も、今となっては数多くある小国でしかなく、地の果てで細々と長らえるばかり。住人はみな、衰退と停滞に慣れ、そして飽いておりました」
その国の名はラフディ。
球神ドルネスタンルフに守られた、大地と共に生きる人々が暮らす土地。
緩やかな衰退を迎えながらも、人々が纏う空気は穏やかだった。町並みもどこか丸々とした角の少ない建築物が多い。
王国の首都でもそれは変わらない。
どころか、中心部に存在する王宮は大小の球体を組み合わせたような作りをしていた。球体と円形、それによってラフディという国は成立している。都市は外壁に守られた綺麗な円であり、整えられた街路もまた曲線の組み合わせによって円を描いている。
都市の近くを流れる河は大きな弧を描き、その源泉たる山は自然物とは思えぬほどの球形である。およそあらゆる直線や角というものが存在しないかのような光景に、その土地に初めて足を踏み入れる者は驚くという。
そんな、丸い王国の中心点、王宮でのこと。
やはり丸い体型の、丸い帽子をかぶった老人たちが言葉を交わしていた。
何かの噂話か相談事か。ラフディ国民の穏やかな気質に似合わぬ暗鬱な表情で口々に誰かについての言及を続けている。
「今日も政務が滞るばかり。陛下は今日も寝所に篭もりきりだ」
「陛下は病に罹っておいでだ」
「古の昔より今の今まで、ついぞ人はかの病に打ち勝つことができなかった」
「おお、嘆かわしや。熱に浮かされる陛下の姿といったら!」
王宮の重臣たちは、ある者は額に手を当てて、ある者は大仰に両手を広げて、それぞれに嘆きを表現する。仕える主が病に倒れたとなればそれは悲しみもしようが、それにしては様子が少々妙だった。
皆、呆れかえったような表情でため息をついているようなのだ。
それもそのはず。
彼らが言う病とは肉体を蝕む病にあらず。
その正体とは。
「ひどい、ひどいわ陛下! わたしを生涯愛すると言ってくれたのは、嘘だったというのですか!?」
王宮中に響きわたる声。
飛び出してきた娘が、目の端に涙を浮かべてわめき散らす。
すると続いて現れた男は悪びれることなく答えて見せた。
「嘘ではない。俺は自分自身の気持ちに嘘をついたことなど一度もない。我らが神の丸さに誓って、常に自らに正直に生きているとも。そして正直に今の気持ちを言うが、飽きたので次の恋を探したい」
「死ねっ!」
娘の発言は一国の王に対して不敬もいいところだったが、周囲の家臣たちは何も言わない。どころか、娘に同調しかねない白い目を王に向けていた。
捨て台詞を最後に走り去っていく娘。後を追う者は誰もいない。それはいつも通りの王宮の光景であった。
「ふむ。今回も目新しい発見は無かったな。いったいいつになったら俺は真実の愛を手にすることができるのか」
朗々と響く声はひどく蠱惑的だった。耳元で囁かれれば、老若男女問わず骨抜きにされて立っていられなくなるほどの甘い音の連なり。
しかし、その声が紡ぎ出すのは聞くに堪えない享楽と退廃の戯れ言のみ。
「誰も彼も、かくあれと望めばそのように振る舞い、この俺に傅く。全く持って退屈極まりないことだ。これではまるで人形遊びだ――困ったことに、俺は人形がそう嫌いでもない。ゆえにこの身の内から溢れ出す熱情は尽きることを知らぬ」
王が昼夜を問わずに寝所に誘い込む相手の数は星の数、あるいは浜辺の砂粒の数ほどと噂されるようになって久しい。
だが悦楽に耽溺しながらも、彼の表情には翳りがあった。
それはどうしようもないほどの飢えだ。
「満たされぬ。ああ、まるで満たされぬ」
呆れかえる臣下たちのことなど歯牙にもかけず、男は平然と言い放つ。
その国の王は、目も眩むような美しい男だった。
と言っても顔かたち、体つきはあくまでもありふれた範囲での美しさである。
非凡だったのは、その髪の毛だ。
腰まで流れ落ちる艶やかな頭髪には丹念に櫛が通され、毛根から毛先までは青から白銀へと移り変わる緩やかな勾配が美しい。さらには輝かんばかりの光沢、誰もが羨むような艶。国民の誰もが頭髪を伸ばすという慣習があるからこそ、その図抜けた髪の美しさは誰の目にも明らかだった。
王は日毎に髪型を変える。
専属の髪型意匠家が整えた、様々な工夫が凝らされた頭髪。それらはありとあらゆる多様性で見る者の心を掴んで離さない。新たな髪型が考案される都度、市井の人々はそれを真似し、それは流行となって王国に出入りする行商人や吟遊詩人らに伝わり、国外へと広がっていく。
吟遊詩人たちはこのように吟ずる。
丸き王国ラフディに、恋多き男あり。
その二つ名は【恋の病】。この時代の貴人の常として、まことの名ではなく通称が公に用いられ、それが事実上の名となっていた。
マラード・ディルトーワ・アム=ドーレスタ・エフ=ラフディ。
麗しき髪の王。
名付け親たる『第二の魔女』は彼がどのような男に育つのかを予期して臣下たちに助言を与えていたが、その放埒さを窘めることはついに誰にもできなかった。
「陛下、早急に神官を集め、球神に加護を祈願しなくてはなりません! このままではこのラフディは衰退していくばかり」
「そうですぞ、色事にうつつを抜かしている場合ではございませぬ。今年は前年よりも子宝に恵まれぬ者が多く、我ら大地の民は減少の一途を辿っております」
「夜月からの移民たちもかつてほどの勢いは既に無く、その末裔たちの中には我が国を見放して『帰国』しようとする者まで出てきております」
「国内では『人狼たちが不当に我らの利益を奪っている』などという声も上がっており、住民の間で軋轢が生まれているのです」
「神々の加護の衰退は他国でも起こっています。困窮した諸外国がいつ攻め込んで来るとも知れません」
「陛下のご裁可が必要な案件が山と積み上がっているのです。どうか、執務室へお戻り下さい」
美しき王は、次々と詰め寄ってくる臣下たちを一瞥して、つまらなそうに一言だけを返した。瞳には何の関心も宿っていない。
「よきにはからえ」
と一言だけで全てが済んだかのような顔をする所が、このマラードという王の性格であり、臣下たちの頭を悩ませている原因であった。
「陛下っ」
あとはもう、何も聞こえていないかのように振る舞うのみ。
王の世界には、世の中の雑事など入る余地が無いのだ。
「つまらん。美しく偉大なこの俺は、価値のあることしかしたくない。そう、たとえば、激しく恋され、熱く恋する、燃えるような本物の恋!」
王には学が無かった。幼少期から施されているはずの英才教育は実を結ばず、必要に応じて学ぶという習慣はついぞ身につかなかった。政務に携わろうにもそれを成すだけの知識が無いのである。必要無くとも生きていられたし、その美しさがあれば欲しいものは全て手に入った。
「ああ、どうにもつまらぬ。この俺を楽しませてくれる相手はいないものか」
王は世界に飽いていた。
彼の目には、治めるべき国ではなく貪るべき快楽のみが映し出されているかのようだった。臣下らはその有様を見て、失意の表情で散っていく。
そうした周囲の目すら気にならない様子で、マラード王は大声を張り上げた。
「ルバーブ! ルバーブはいるか!」
マラード王の呼び声に、即座に応えて一人の男が進み出る。
ひどくみすぼらしい男だった。
だらしなく丸々と太った体型。顎は首の肉に埋まり、目尻は垂れ下がっており鼻は大きい。なにより乱れた黄色の髪が不潔であり、それはこの国においては最も醜悪と見なされる要因だった。
圧倒的なまでに美しい王の目の前で跪いているため、その差がより一層明確になってしまっている。
いっそ残酷なほどの差であったが、マラードは機嫌良く呼び出しに応じた男を見て、彼に笑顔を向けた。
「おお、来てくれたかルバーブよ。早速だが、俺は退屈している」
「僭越ながら、お断りさせていただきます」
マラード王が全てを言い終わらぬ内に、ルバーブという従僕らしき男は早口で言った。王は宝石のごとき目を二度、三度と瞬かせた。
「まだ何も言っていないが?」
長髪の男は、青年というにはやや幼い仕草で首を傾げた。
無邪気な瞳に宿っているのは、どこまでも不思議そうな色だけだ。
ルバーブはあるかなきかの小さな溜息を吐いてから言葉を続けた。
「陛下が次に仰せになるのはこうです。『ルバーブよ、今日もまた、街に新たな出会いを探しに行きたい。口うるさいじじいどもの目を誤魔化す為に、俺と入れ替わるがよい。髪をくれてやるから明日まで幻影のまじないで周囲を上手く誤魔化すのだぞ』といった所でしょうか」
ルバーブは特に声色や口調を真似することなく、相手の内心を言葉にしていく。
淡々とした代弁に、マラードは深く頷いた。
「良く分かっているではないか。流石は我が第一のしもべ、話が早い。『迅速』の二つ名は伊達ではないな」
「お戯れはほどほどになさいませ、陛下。政務が滞っております。加えて、本日は重要な賓客がおいでになります。どうか、ご自重を」
「おお、そうであったな。しかし、それとてお前が相手をすればいいではないか。お前は優秀だ。いっそ全て任せてしまっても良いのではないかと最近は思うよ」
朗らかに無責任に、マラードはルバーブにあらゆるものを投げ渡そうとする。
その余りの無造作な振る舞いに、ルバーブの表情が苦しげに歪んだ。
「陛下。私のような卑小な者に、そのような大業はとても務まりませぬ。王の役割は王がこなさねば、王国は立ち行かなくなってしまうでしょう」
「なんだ、俺の言う事が聞けぬのか」
ルバーブの言葉は、王が許容できる諌言の域を超えて反抗と受け取られたのか。
そこで初めてマラードの顔に不快さが滲んだ。
彼がこのような負の感情を露わにするのは極めて珍しいことだった。他のどのような臣下に叱責に近い忠告、進言を受けてもこのような表情は見せたことがないというのにだ。
ルバーブは「滅相もございません」と即座に否定し、言葉を続けた。
「あの掃き溜めからこの醜い『針モグラ』めを拾い上げて下さった陛下に報いること。それのみが私の生き甲斐にございます」
臣下の忠誠に、マラード王はほっとしたように愁眉を開いて言った。
「卑屈な事を申すなルバーブ、我が手足よ。それに、掃き溜めは既に無い。見よ、我らが築き上げた美しき都を」
王宮の窓から臨む美しい都を示して、マラードは続ける。
そこに広がっているのは、曲線の街路が紋様のように走る、ひとまとまりの芸術作品のような市街の光景だった。都市工学、建築学、土木工学などの知識を総動員して築き上げられた、極めて優れた設計の都市空間。
――おおむね、そのような解釈を許すであろう、世界的に見ても屈指と言えるほどに美しい都市。曲線の組み合わせ、球形の連なりという単純さが、どれだけ人の目を楽しませる事が出来るのか、この地を訪れた者は思い知ることになる。
治安維持や移動コスト、経済的な合理性といった観点からだけではなく、芸術的な感性にも訴えかける――すなわち莫大な呪力を生み出す形態。
明確な意図を持った都市計画がこれを可能にしたのだろう、と誰もが最初に推測する。しかし、実態はまるで異なっていた。
それは、ただ一人の男が心のままに土の上に描いた結果として出来上がった、偶然の産物。
髪の美しさの他には何も持たぬ男が為し遂げた唯一の偉業であった。
あるいはそれは、極限の美貌だけを持つが故に可能なことだったのかもしれない。このたった一つの功績があるがゆえに、臣下や民たちは放埒な王に希望を抱き続ける事をやめられないのだ。美観はそれ自体が呪力を生み出し、また観光資源として王国を富ませていた。
「お前を縛る過去は変えた。卑しい生まれは既に清められたのだ。この上でまだ卑屈になるというのか?」
マラードは両手を広げ、真っ直ぐと丸々とした体躯の下僕を直視して、どこまでも真剣に語りかける。
しかし、ルバーブは項垂れたままだ。
弛んだ顔の肉が、より一層と重力に引きずられていくようだった。
「王よ。それでも私は、醜さからは逃れられませんでした」
「お前とて幾度も俺と入れ替わり、実感しているであろう。こんなもの、皮一枚、まやかし一つでどうとでもなるのだ。お前の価値はそんな所には無い」
王の真摯な言葉に、跪く丸い体型の男は、重々しい沈黙を返した。
ややあって、口を開く。
「陛下」
「何だ」
「お言葉ですが、陛下をお諫めしていた筈の私が、なにゆえ逆に諭されているのでございましょうか」
「うむ。それはな、話を上手くすり替えたかったからだ」
またしても、しばしの沈黙。
ルバーブは顔を上げて言った。
「陛下、それでは謁見の間へ」
「いや、俺はこれから街にだな」
「陛下」
短い呼びかけに、有無を言わせぬ響きがある。
マラードは渋い顔で低く唸ったが、やがてその音も絶えた。
円形の床、半球状の天井という空間に、天頂から光が降り注ぐ。
採光窓から降りてくる光は球体をくり抜いて人ひとりが収まるようにした形状の玉座を照らし、神々しい様を演出していた。王は球神、すなわち太陽と月の代理人であるという認識を共有する為の儀式場がこの謁見の間である。
「国王陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく――」
「うむ、よきにはからえ」
礼を尽くして口上を述べる相手に対して、気のない返事を投げるのは美しき髪の王、マラード。聞いているのかいないのか、ぼんやりとした表情で玉座に寄りかかっている。
各地から寄せられる請願や陳情を聞き、周辺諸国からの外交使節との謁見を重ねるというのは、一国の王が行う政務としてはごく平凡なものだ。
マラードという男はそれを心底から退屈だと認識している様子で、欠伸を隠すことすらしようとしない有様だ。周囲の重臣たちは揃って苦い顔をするが、もはや諫めることに疲れ果てたのか、何も言おうとしない。
丸く醜い、汚れた乱れ髪のルバーブを除いては。
明らかに憤慨した様子の相手が退出した後で、太った男は諌言を口にする。
「陛下。どうか、王たる身に相応しい振る舞いを心がけて下さいませ」
「ふむ。だがなルバーブよ。このような雑事に煩わされることが、果たして美しく偉大なる王者に相応しいだろうか。役の方が俺に対して不足しているというものであろう。もっと適切な――そうさな、華やかな宴、舞踏会や演奏会などはどうか。観劇も良い」
「どのような役柄であっても、気品と風格が滲み出てしまうのが王というものではないでしょうか。役不足、結構でありましょう。つまらぬ役を食ってこその役者というものではございませぬか」
ルバーブの言葉を聞いても、マラードは肘掛けに寄りかかって指に長い髪を巻き付けるばかりだ。細く長い指から滝のように流れ落ちていく毛束の煌めきに、王に対して非難や呆れ、諦めの眼差しを向けていた者たちは揃って息を飲み、陶然とする。あらゆる短所を帳消しにするほど、彼の髪は美しかったのだ。
しかしただ一人、ルバーブはその美しさを直視しながらも口を開くことを止めなかった。
「陛下。次は中原より十二賢者の方々がおいでになります。近年、多発している厄災や国難にいかに対処すべきか、助言を仰がなくてはなりません」
「ほお、キャカールの十二賢者か。そういえば、そんな時期であったな――面倒な。またぞろ訳の分からぬ戯言を聞かされるのか」
「――陛下は賢者の方々に一つよりも多くの質問をすることがお出来になれます」
「なんだその迂遠な言い回しは――いや、待て。そうか」
王は得心がいったというように膝を打って、表情を明るくさせた。
たった一言にどのような意味が込められていたのか、ルバーブはこの怠惰な放蕩者をやる気にさせることに成功したようだった。
「良いぞ、賢者のお歴々を案内せよ。丁重にな。なにせ、これからその知恵をお借りしようというのだから」
そして、謁見の間に次々と現れたのは世にも名高い賢者たち。
どのような勢力にも属さず、しかし時の権力者たちに助言を与え、世界の秩序を維持するという役割を自らに課した当代屈指の呪術師たちは、慣習に倣ってそれぞれ贈り物と祝福を王に捧げていく。
王が好むのは人形である。賢者たちは珍しいつくりのからくり仕掛けの人形や、曰く付きの呪われた人形などを持ち寄って王を楽しませた。それらはほとんどが見目麗しい少女の形をしていた。王は恋するようにうっとりと少女人形たちに魅入り、愛で、じきに飽きて放り出した。
おおむね、それが彼にとっての恋であった。
そうしたやりとりが順繰りに十回ほど行われ、案内された賢者たちが勢ぞろいすると、ようやく本題である。
マラード王は彼らに順繰りに問いかけを行い、国政に関する助言を授かる。
古来より繰り返されてきた半ば儀式じみたやり取りは、普段ならば王の関心を惹くようなものではない。退屈と決めてかかって、いい加減に流してしまうのみである。
だが、今日ばかりは違った。
というのは、お定まりのやり取りの後でこのようなやりとりがあったからだ。
王は賢者たちに、政とは全く関係のない、個人的な問いを投げかけた。
「永き時を生き、万事に通じるというそなたたちに問おう。真の恋とはいずこにあり、どのようにすれば手に入るのだ?」
周囲に控えていた家臣たちはルバーブの機転に舌を巻いた。このような餌でもなければ王宮でじっとしていることすらできないのがマラードという王である。それに、この問いに答えが与えられたならば自然と王は妃を娶ることとなろう。独り身でなくなれば王の放蕩ぶりにも歯止めがかかるのではないか。
勢ぞろいした十人の賢者たちは、その期待に応えて十人十色の答えを用意して見せた。曰く、
「頭蓋を開き脳を洗い、微弱な稲妻を流せばたちどころに最上の快楽が得られましょうぞ。真実とは得てしてその程度のものでございます」
「恋とはすなわち生の躍動。すなわち極限における命の実感こそがそれを生み出すのです。愛しき相手と殺し合われませ」
「一切はまやかしに過ぎませぬ。あらゆる執着を捨てるのです」
「陛下が求めておられる恋とは求めているが故に恋なのです。手にした瞬間それは消え去ってしまう。永遠に求め続けられませ。それが手に入らぬ恋を楽しむ唯一の道にございます」
「真実の恋が無いなら作れば良いのです。その魔性の髪で人形を操り、貴方様に奉仕する恋人を作る。架空の色事を演じれば、それはいずれ真実になりましょう」
「齢三千にもなって恥ずかしいのですが、私は童貞でしてな。大賢者などと呼ばれている身でありながら、そうした事柄には疎く、お力添えできそうにありませぬ」
「端末貸してやるから自分で紀元槍検索しろカス。発狂しても知らないけど」
「まず真の恋、というものの定義から明確にしていただけませんと回答できません」
「データベース検索結果を表示します。該当、約二十四万八千七百件。更なる絞り込み検索を推奨しますが、いかがなさいますか?」
「いずれ来る十九の獣がこの世の全てを滅ぼし、その終末すら大いなる存在が喰らい尽くしてしまうであろう。恋など終わりが終わらぬという恐怖に比べれば些細な問題に過ぎぬ。おお、恐るべきは終端を喰らうもの! うあああ、天井の採光窓に、窓に! そこかしこから大きな口を開いて待ちかまえている! ブレイスヴァが! ブレイスヴァが! 呪われよ! 呪われよ!」
というような答えが返ってきたが、マラードは今一つ納得しかねるのか首を傾げるばかりだった。賢者たちは優れた呪術師たちだったが、同時に世間一般の常識から外れたものがほとんどだ。これは期待はずれだったかと落胆する王と臣下たち。
見えてはいけないものが見えてしまっている第一位の賢者オルヴァ・スマダルツォンが口から泡を吹きながら担架で運ばれていくが、誰も気にもとめなかった。カシュラム人が出し抜けに錯乱するのはよくあることだからだ。
虚空を凝視しながら「ブレイスヴァが! ああ恐ろしい!」と喚くその姿からは、とてもかつてカシュラムの王であった面影は見いだせなかった。古い時代、ラフディはカシュラムと長く敵対関係にあったが、ヒュールサス、ガロアンディアン、ドラトリアといった国々が仲裁に入ったことでその関係は安定期に入った。
キュトスの魔女が一人、廃園のカルルアルルアの導きに従って、世に言う七王国の盟約を結んだかつての王たちは、軍勢を結集させて恐るべき外敵クロウサーの脅威と戦ったと伝えられている。しかしそれも過去のこと、盟約が形だけのものとなって久しい。
「もう良い。そなたたちが言うことはわけがわからぬ。下がるが良い」
マラード王は手を振って賢者たちに退出を促した。一国の王とはいえ、賢者と呼ばれる者たちに対してぞんざいに過ぎる態度であり、ルバーブがそれを窘めようとする。そのときだった。
十一人目の賢者が、遅れてやってきた。
「ごめんごめん、地下居住区の同胞たちの様子を見に行っていたらすっかり遅れてしまったよ。贈り物を持ってきたから許して欲しい」
ふわふわと黒衣を翻し、浮遊しながらやってきた夜の民は、つかみ所の無い口調でそう言った。
小柄な体を鹿にしたり狼にしたりコウモリにしたり、あるいは不定形の光の靄にしたりと忙しなく変幻させていく。
幻姿霊と呼ばれる氏族である彼、あるいは彼女は、次々と姿を変えながら王の前に降り立った。黒衣はいつしか真紅に染まり、小さな身の丈の不釣り合いなほど巨大な杖を手にした少女となって膝を突く。
「キャカール十二賢者が第二位、ウルトラマリン=イヴァ・ダスト、遅参いたしました。ご無礼、平にご容赦を」
「良い、許す。俺は知りたいことがあるのだ。お前の知恵を借りたい」
「何なりと」
遅れてきた賢者はそう言ってマラード王の言葉を聞いた。
真の恋を求める男に、少女の姿をした賢者はふむと一つうなずいて、それからあどけない声で提案する。
「陛下は女性も羨むほどの美しい髪とかんばせをお持ちと讃えられるほどのお方。そこでどうでしょう、一つ私のまじないで女になってみるというのは。今までとは違った視点で恋を楽しめるやもしれませぬ」
性別が無い、あるいは男女両性を併せ持つ夜の民らしい意見だったが、マラードはぞっと身を震わせてその提案を退けた。
「とんでもない。俺は美しき花を手折り、可憐な人形たちを手繰り、恋人を愛でたいのだ。愛でられる側になるなど耐えられん」
「そうですか。我々には分かりかねる理屈ですが、陛下がそう仰せであるのならば、私からは何も。ああそうだ、我が父母マロゾロンドからの祝福と贈り物がまだでした」
賢者は黒衣の神よりの祝福を王に与え、また懐から小さな石と人形とを取り出してみせた。それは世にも珍しい人形で、古今東西のからくり人形や呪物を目にしてきたマラード王をして驚きの声を漏らすほどのものだった。
「それは何だ? どのようなものなのだ」
マラードはまず賢者から受け取った小さな石を手に取り、教えられた通りに何度か揺らしてみせた。
すると、その中からカラカラという音がしてくる。石の中に、更に小さな石が入っているようであった。
「それはアエタイトと申しまして、聞いての通り石の中の空洞に更に小さな石が入っているという品でございます。異界より来たる幻獣――怪鳥アキラがもたらしたる呪水晶がその正体であると言われております」
「聞き慣れぬ響きだ。これが異界の呪力を宿した結晶だというのか」
「さようでございます。その石英を運んでくるという幻獣は、産出されました南方の言葉ではダワティワといい、死人を葬り去る聖なる鳥とされております。こちらの言葉ではそう、ホーデングリエでしたかな。スキリシアでは、首のないアキラの紋章は外世界の呪力を宿すという伝承が」
「能書きは良い。どのような加護が得られるのか、要点を述べよ」
「小さな石を内包した様が子を宿している母親に似ていることから、安産を祈願する呪力が宿っているとされております」
マラードは大きく鼻を鳴らした。
あからさまに機嫌を損ねたふうに柳眉をひそめて、小さな賢者を睨みつける。
「皮肉か」
「とんでもございませぬ。私なりに陛下が良き出会いをされれば、と考えた末の贈り物でございます。いずれ巡り会った真の恋人に贈っていただければ幸いです」
「ふむ。そう言われれば気の利いた品物であるような気がしてきた。して、そちらの人形は何だ?」
賢者は続いてやや大きく、球形に近い人形を王に捧げた。
ラフディでは球形のものを美しいと讃える文化がある。よって、丸い人形の贈り物はさして珍しいものでもない。しかし、それは独特の構造をしており、今までのラフディにはそうした発想は無かった。
人形がぱかりと上下に割れ、その中から一回り小さな、外側とうり二つの人形が現れたのだ。
「鷲石に着想を得まして、人形でこれを再現してみましたのがこちら。人形の中に人形、その中にまた人形。これぞ入れ子人形でございます」
人形はよく見れば一つ一つ細部や色が異なる。九つ目の人形が現れると、小さなその人形の中から一番最初の人形と全く同じ人形が現れる。
一つ目の人形が割れて、二つ目の人形が現れ、それが繰り返された後に九つ目が一つ目を、そして全体を内包した有り様を見せるのだった。
王は瞼を揉んだ。
自分の目がおかしくなったのかと思ったのだ。
だが、目を凝らし、指折りして何度数えても人形の総数は九つ。幸い両の指で数えられる範囲であったが、細部を凝視すればするほど現実は理解を絶していく。
一番小さな人形が割れる瞬間、かっと目を見開いて一部始終を見届けようとするも、次の瞬間には一番大きな人形がその次の人形を吐き出しているのだ。もちろん、一番小さな人形が割れて一番大きな人形を内包したまま。細部を縮小していく度にそれが全体として立ち現れる自己相似形。そしてそれは無限に続いていくのだ。まるで、合わせ鏡をのぞき込んだ時のようだった。
「頭がおかしくなりそうだ!」
「あまり深く考えてはなりません。ありのままを受け止めることです。ところで陛下。この人形、どれが外側でどれが中身か、おわかりになりますか?」
マラードは返答に窮した。
一番外側にある人形を一番内側にある人形が内包しているのなら、それは明確に決められないのではないか。
賢者は曖昧に微笑んで言葉を続けた。
「陛下は偽りの恋ではなく、真実の恋を求めておいでだ。真実とは常に細部に、そして中心に存在するもの。しかしながらそれが裏返ったならどういたしますか」
「お前の言うことはわけがわからん」
「では質問の仕方を変えましょう。陛下は真の恋と仰せですが、それは真実の恋人を求める、という事で間違いございませんか?」
「その通りだ」
「では、陛下は既に答えを持っております。求めるべきものは一つ」
「それは何か」
「陛下が探すべきは恋ではありませぬ。人を探すと良いでしょう。あるいは、天空から可憐な少女が降ってくることを神々に祈ればよろしい」
王は賢くはなかったが、賢者の言葉の陰に隠れた微かな嘲弄を敏感に感じていた。
不快さを表情に出して鼻を鳴らすと、「もう良い、下がれ」と賢者を退かせた。
賢者ウルトラマリンは大人しく王の言葉に従う。マラード王は憤慨したまま次の賢者を呼ぼうとしたが、他にはもう助言を仰げる賢者がいないことに気付いた。
そう。キャカール十二賢者のうち、十一人が既に王に助言を与えていたのだ。
しかしいずれもマラードの求める答えを用意できなかった。
不満が募る王は、とうとう十二人目はどこかと大声で呼ぶ。
すると、周囲に控えていた家臣たちが大慌てでそれを諫める。王の行為はそれほどの暴挙であった。
「ええい、なぜ止める! そもそも、なぜ一人足りぬのだ! ウルトラマリン殿のように、遅れてでもいるのか?」
マラードの疑問に、ルバーブが答えた。
「いえ、はじめから呼んでいないのです」
「なぜ一人呼ばなかったのだ。持てなす為の皿が足りなかったか?」
「恐れながら王よ、この城の財政状況がそこまで困窮していれば貴方様はとうに玉座を追われているものかと」
「ほう、そうか。その言葉、俺とお前の間柄でなければ不敬罪で縛り首にしているところだが、まあ良い。して、不在の賢者はなぜ呼ばれなかったのだ」
「恐れながら陛下、グールイェン様は第五の賢者。もたらす祝福は、名高き変異の三手のものでございます。かの神の祝福を呼び込むことは、たとえ賢者様の不興を買ってでも避けねばなりません」
「それは全くその通りだ。まさかペレケテンヌル神に祝福されるわけにもいかぬ。お前の判断は正しい」
ものを知らない王であっても、さすがにペレケテンヌルの数々の逸話は聞き及んでいたのか、即座に納得した。ペレケテンヌル神に気に入られてしまったばかりに無惨な最期を迎えた国の数は両手の指では数え切れないほどだ。
だがそのとき、不意の闖入者が現れる。
噂をしていたのが聞こえていたかのように、長身の影が謁見の間の入り口に差したのだ。蓬髪を振り乱した壮年の男は、まるで自らこそがその場における最上位者であるかのごとき堂々たる所作で舞台の中央に進み出ていく。
その姿を見て、マラード王とルバーブが硬直し、目を見開いた。
両者共に身を震わせ、続いて表情に敵意と怒りを漲らせていく。
二人は同時に叫んだ。
「グレンデルヒ!」
「おや、まことの名を明かされてしまったな。どこで知ったのかな? 困ったことだ。賢者グールイェンというのが私の通称なのだがね」
言葉とは裏腹にさして困った様子も無く言ってのける賢者に、マラードが玉座を立って飛びかかろうとするのを、進み出たルバーブがその左手で制止した。
丸い肥満体からは想像もできないほどの速度で主君に先んじたルバーブは奇声と共に賢者に肉薄すると、体重を乗せた掌を突き出した。
賢者の肉体が、ぐんと一回りも二回りも大きくなったかのように膨張する。
ルバーブの打撃を受けても壮年の大男は身じろぎ一つしないまま。
代わりに、打撃を受けた場所を起点とするようにぱっくりと生肉が割れて内側が覗けた。つるりとした禿頭の表面で入れ墨のような微細な溝が光を放ち、屈強な筋肉に押し上げられた胸部は女性的に盛り上がっている。
「お前は」
ルバーブが何かに気付いた瞬間、賢者の肉体を包んでいた分厚い脂肪が流動し、肉のきぐるみとなって再び全身を覆い尽くす。
くぐもった女性の声が、静かに告げた。
「特異調整・二十パーセント」
変異した脂肪が蠢き、壮年の男の姿を再現する。
賢者は伸ばした自らの腕をルバーブの腕の上から腰の後ろ、服の帯に回して掴むと、そのまま豪快に投げ飛ばした。
「は! ラフディ相撲とやらも大したことが無い!」
賢者が聞こえよがしに嘲笑する。
鮮やかに倒されたルバーブは転がりながら受け身をとり、マラード王の下へ退いた。その表情には切迫した焦りが浮かんでいる。
マラードが叫んだ。
「なぜ、貴様がここにいる?!」
呼ばれてもいない賢者がやってきたのは何故か。
王の言葉はそう捉えるほかないものだったが、意外な人物が来ただけにしてはその声には強すぎる敵意と、そして隠しきれない恐怖が滲んでいた。
賢者は口の端を吊り上げ、ことさらに悪意を強調するかのごとき表情で威圧してみせる。そしてそれは物理的な実行力を伴ってでもいるかのようにマラードとルバーブを退かせたのであった。
「もちろん、この茶番をぶちこわしにするため――」
賢者がそう言いながら重く足踏みをした瞬間、赤絨毯の敷かれた大理石の床が踏み抜かれ、木製の舞台床が砕けた。破綻した箇所を中心として世界に亀裂が入っていく。壮麗な謁見の間と言う空間そのものが色褪せ、半球状だったはずのその場は奥行きを失い、天より降り注ぐ光がぐらりと揺れて、歪んだ景色の向こう側に黒い照明器具が見え隠れした。
色を失う周囲をじっくりと眺め、可能な限り間を延ばしに延ばしてから、壮年の男はよく響く女の声で言葉を続けた。
「――じゃあ、ないから安心しな。無粋な真似をしないってのが私と」
それから急に声が男の低さとなり、
「私の主義でね。圧倒するのはかまわないが、一方的なのはつまらない。相手にも勝ちの目がなければ遊戯は成立しない。定められたルールの中で競い合い、力の差を見せつけてこそ最強の証明となるのだよ」
最後の方は、男女の声が重なって紡ぎ出されていた。二人分の意志が一致したかのような迫真と共感が宿った宣言に、場は王者の風格を見いだしたのか。自然と照明が男に引き寄せられていくのだった。
「簡潔に用件を言おう。私も混ぜろ」
「ふざけるな」
ルバーブの鋭い声を、男とも女ともつかない賢者は無視した。
「この舞台の上で競い合おうではないか。というよりも、この世界を利用させてもらうと言った方が実状に即しているかな。私にもちょっとした目的があってね。この舞台を壊して君たちを蹂躙するのは簡単だが、それは少々勿体ない。使えるものは有効に使うのが私の主義だ」
男と女の声が交互に入り交じる。余裕を感じさせる語りは長く続いて、あたかもその場がたった一人の為に用意された舞台であるかのようであった。
緊迫する空気。
そんな状況に一石を投じようとしたのか、マラード王が口を開く。
「しかし、お前は、お前、は――」
だが続く言葉が途絶えたまま、王は口を開閉させながら固まってしまう。
虚空をさまよう王の腕を、ずり落ちそうな重い髪の毛を、忠臣の左手がそっと支え、戻した。
「陛下、招かれざる客人とはいえ、グールイェン殿、いえ」
ルバーブはそこで言い直し、
「グレンデルヒ殿は十二賢者が一人。他の賢者の方々と同じような応対をなさればよろしいかと」
と賢者グレンデルヒに対する態度を決めかねていた王に指針を示したのだった。
狼狽していたマラード王はその言葉で落ち着きを取り戻したのか、幾分か力の抜けたふうに安っぽいつくりの玉座に深々と腰掛けて、王らしい尊大な態度で振る舞った。
「良いぞ、賢者グレンデルヒよ。お前も俺に知恵を貸して見せよ。真の恋がいずこにあり、どうすれば手にはいるのか、答えてみせよ」
世界が荘厳な雰囲気を取り戻していく。
マラード王は豪奢なつくりの玉座から、疵一つ無い硬い大理石の床に立つ賢者を見下ろして問いかけた。天頂の採光窓から降り注ぐ光は変わらず王を神々しく照らしている。グレンデルヒは不敵に笑いながら言った。
「私としましては、そのまま放埒に、軽やかな恋愛を楽しんでいただくのがこの国にとって最も良いと考えているのですがね」
すでに女の声は跡形もなく消え去り、男そのものの声質と口調が取り戻されていた。力強く、自信に満ちあふれ、不遜ともとれる態度である。
「この国にとって、とはどういうことだ? 説明せよ」
「陛下が特定の相手を抱え込まず、短い恋愛を楽しまれるのは素晴らしいことなのですよ。この王国において最も富める者が大量に消費してこそ、市場は活発になり、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる。自由な市場の在り方に委ねることが一番なのです」
賢者グレンデルヒの言葉に、マラード王は目を白黒させていたが、対照的に忠臣ルバーブは額に皺を寄せて眼光鋭く語り手を睨み付けた。
続く言葉を聞いて、肥満体の男の眉は更に危険な角度に吊り上がる。
「大抵の商品は粗悪な檸檬のようなもの。しかし、こと恋愛市場における商取引は古代の考え方で、どれだけ上手く品質を誤魔化して高く売りつけるかという詐術の延長線上にあります。陛下がこの質の悪い檸檬に口をつけることで、全ては中古品として一定以下の価値となり市場に放出されます。貧乏人たちにも手が出しやすくなるわけですな。更に中古品どもは自らの身の程を知り、わきまえるようになる。こうして需要と供給が一致するようになるのです」
「陛下、この男の妄言に耳を貸してはなりません」
ルバーブが鋭く長広舌を遮るが、マラードは不満げに言い返す。
「何故だ。賢者に知恵を借りよとお前が常日頃から言っていることであろうに。いや、しかし、グレンデルヒ殿。私が求めているのはそのような答えではない。なにやら国のため、民のためには現状を維持しろと申しているように聞こえるが、俺はそれが耐えられんのだ」
王にとっては、賢者の持論よりも自らが望む答えが与えられることが重要なのであった。外部の権威によるお墨付きさえあれば、放埒な王は好き勝手に振る舞えるからだ。賢者は薄く笑って返答を告げる。
「これは失礼。ではもっと簡単な解決策をご教授いたしましょう。何のことはない、商品の価値が下がっているのが問題なのですよ」
「何?」
発言の意味がとれなかった王が訊き返すと、グレンデルヒは簡単な算術の問題を子どもに教えるかのごとき口調で解説を続けていく。
「恋愛の価値とは相対的に変動するものです。勝者であり、魅力と価値を有する陛下のもとには何もせずとも女が集まってくる。そして数が多すぎるがゆえに恋愛、そして恋人ひとつ一つの価値が下がっているのが陛下の抱くご不満の原因です。大量に溢れた品々をいかにするか。供給量を絞り、質の悪い、価値の無い商品を減らせばよろしい」
「減らすとは?」
「言葉通りです。廃棄すればよろしい」
グレンデルヒはこともなげに言ってのけた。
それから大仰に両手を広げて、耳に心地の良い美声で言葉を連ねていく。
まるで、美しい詩歌を吟じるかのごとく。
「この世には紛い物が多すぎる。そのような愚かで醜い偽物を導いてやるのが我々のような賢く美しい本物の使命。とはいえ、我らに奉仕するためであれば適度に間引くことも正しいと言えましょう。何しろ我々の方が優れている。劣った者、努力の足りない者とどちらが重んじられるべきか、考えるまでもありますまい」
「陛下、どうか私めにこの男を追い出せと命じて下さい!」
ルバーブがもはや絶叫に近い勢いで嘆願するが、マラードは片手を振ってそれを退けた。グレンデルヒの言葉にひどい不快感を覚えているらしき臣下とは対照的に、主たる美貌の男には感じ入るところがあったらしい。
「やはり、俺が今まで交わしてきた恋の全ては偽りだったのだな。だからあんなにも虚しく、満たされなかったのか。本物を手に入れればこの飢えも消えるのだろうか。いや、もはや俺はそうする以外に道を知らぬ」
「さようでございます、陛下。そして真贋を隔てる指標は価値の有無に他なりません。つまり価値が高まればより本物に近づいていく。質の悪い品や中古品は全て廃棄処分するがよろしい。さすれば供給量を需要が上回り、本物と巡り会える蓋然性が高まります。また、重要なのは群がる貧乏人の男どもを殺さぬことですな。分不相応に夢を見た愚か者どもの目の前で高級な品を買い上げ、惨めに這い蹲らせながら愛を交わすさまを見せつけてやるのです。大量の敗者を踏みつけてこそ真の勝利が得られるというもの」
「そうだ、かつてこの王国を、都を再び築き上げた時もそうであった。俺の目の前には未だ見ぬ新たな道が開けていた。その先には雄大なる我が城がそびえ立つ。本物に至る道筋は自らの手で切り開く、それこそが王道! 土木工事の為には、大きな破壊が必要なのも道理であるな!」
王と賢者はかみ合っているようなかみ合っていないような会話を交わしながら、血腥い結論へと至った。
ルバーブは憤怒の表情で糾弾する。
「ほざけっ、貴様はただ徒に国を乱したいだけであろう! もはや容赦はせぬ、即刻その首をへし折ってくれる!」
再び挑みかかったルバーブは、だがあまりにもあっさりとねじ伏せられてしまう。
大人が子供の手をひねるが如き光景だった。
グレンデルヒは侮蔑を込めて肥満体を足蹴にして言い放つ。
「塵芥に等しい貴様が、本物の男同士が交わす会話に入ってきてはいけないな。みすぼらしい人生の敗者、惨めな貧乏人は平伏していればいいのだ」
「グレンデルヒ殿、その者は俺の臣下、俺のモノだ。いかに賢者といえど、そのような振る舞いは許されぬぞ」
マラード王は不快感を露わにして抗議するが、グレンデルヒは深々と嘆息してこれを拒否した。物わかりの悪い生徒にものを教えなければならない教師の労苦、そんな空気を滲ませながら。
「やれやれ。いけませんな、陛下。このような人生の敗者を身近に置くこと、それ自体は間違ってはおりません。陛下の美しさがより一層引き立ちますからな。ですが、そのような甘い扱いではいけない。身の程を教え込まないからこのように思い上がり、自分がまるで本物の男であるかのような勘違いをしてしまう」
グレンデルヒが肥満体の男に向ける視線、口調、全てが対等な相手に対するものではなかった。それは自分よりも劣った存在、家畜などの動物か、それ以下の物に対するまなざしである。
「人生に失敗し、さらにはその自覚すらなく自分が強いと理由もなく信じ込むその愚かしさ。醜い中年の童貞男が生きている価値など、本物の価値を相対的に押し上げる為にしかないというのに」
「何を、いわれなき誹謗中傷を。ルバーブには奥方とご息女がいるのだぞ。結婚式では俺からも祝福の言葉を贈ったものだ。そこに偽りなどなにもない」
「関係ありませんよ、陛下。この男は魂の形が惨めな童貞の敗残者なのです」
グレンデルヒは長い足でルバーブの鼻面を蹴り上げた。豚のような悲鳴を上げて転がっていくその姿はひどく惨めである。点々と床に落ちていく血は潰れた鼻から流れ出したものだろうか。
「良いですか、結婚しただの幸せになっただの、そんなものは現実を直視できない童貞の逃避と言い訳に過ぎません。十代で女を抱けなかった者は永遠に、死ぬまでその鬱屈を抱え続ける。その傷はけして癒せません。生まれながらの勝者、本物を妬みながら、内面だの能力だの財産だのといった空虚な偽物にすがりつくのみです。この世は生まれ持った運命と器量と才能が全てであることが明白であるにも関わらず!」
力強い叫びに気圧されるように、マラードは頷いた。
彼が座しているのは玉座であり、彼が立っているのは王という立場だ。
ゆえに、グレンデルヒの言葉に否定する箇所などありはしない。
だが、納得しながらもその視線は地を這うルバーブへと向かう。未練のように。
「この惨めな男は、自分は敗者であるという傷を生涯抱え続ける。本来己の力で勝ち取り、従えるべき妻に哀れまれ、慈しみの心で嫁いで貰った、という屈辱に耐えなくてはならない。そしてそれに甘んじている以上、これは男ですらない。精神が、魂が去勢されている。これは人生に既に失敗し、ただ生き残っているだけの肉の塊」
ついにグレンデルヒの口調から蔑みすら消えた。
後に残っているのは、ただただ冷淡な、人間ではない物に対するまなざしだ。
「そもそも、娘というのもこれの胤かどうか怪しいものだ。いかに知恵と意志の足りない女風情とはいえ、果たして尋常な精神の持ち主が惨めな中年童貞の子を産みたいと思うだろうか? より優れた血を我が子に与えてやりたいと思うのが自然な親心では? まあ、仮にこの無様なモノの血を引いているとしよう。だが最新の科学理論では子供には女が以前に交わった男の形質が受け継がれるという結論が出ている。処女が中古品よりも高い価値を有するのはこの為だ。これの妻になるほど安上がりな女ならば間違いなく払い下げの中古品。となればそれまでの使用者の形質がどれほど混ざっているか知れたものではない。全く、ぞっとするな。貧乏人の世界とはかくもおぞましい」
吐き捨てるように言って、グレンデルヒは再び教え諭すように王へと語りかける。
「これが現実。これが真実。残酷な世界の理。この世には勝者と敗者が存在し、美しく優れた本物と醜く劣った偽物が存在する。この差は厳然として埋めがたい。だが、その正しい世界認識を得てこそ人は己の振る舞いを正しく位置づけられる」
「しかし、それではあまりにも」
「言い訳は弱者がすること。敗残者がどれだけ顔を真っ赤にして事実を否定しようとも、それはただ惨めさを露呈させているだけに過ぎない。本当のことを言われたからこそ彼らは必死になって理論武装をし、自分たちにとって都合の悪い現実を受け入れようとしない。その見るに耐えぬ姿こそ、現状をありありと映し出す鏡だとも気付かずに」
「だが、グレンデルヒ殿」
「くどい。勝者であるはずの貴方が、なにゆえにそうまでしてこの者を庇うのです? まるで自分自身のことを言われているかのようだ。貴方は生まれながらにして天与の美貌を持っていた、本物の男。貴方のそれは敗残者をより貶める偽りの慈悲に他なりません。しょせん、これらは我々とは同じ場所に立つことなどできはしないのだから」
もはや、王には返す言葉が無かった。
もとより弁舌の立つ方ではない。賢者の立て板に流れる水がごとき口舌を前にして、ひたすらに圧倒されるばかり。ついには心に抱いていたはずのなにがしかの思いすら見失い、己が虚空にさまよわせていた腕、忠実な従僕へと差し伸べようとしていた手と言葉すらかき消されてしまっていた。
明暗はここに分かれた。
光差す世界には見目麗しきマラード王と力強く賢いグレンデルヒ。
その外側で惨めな姿をさらすのは敗れたルバーブ。
言葉以上に、光景こそが雄弁にグレンデルヒの意志を表していた。
だがそのとき。
光の射し込まぬ暗がり、空間の片隅からじわりと染み出すようにして、何者かの影がその場に現れた。その小さな、どこか不吉な空気を纏った人物は、ゆっくりと倒れ伏したルバーブに歩み寄る。
「本当に、そうでしょうか。それだけなのでしょうか」
鈴が鳴るような、幼さの抜け切っていない少女の声。
蜂蜜色の髪と灰色の瞳、異国風のゆったりとしたドレスに身を包んだ新たな人物の言葉は、下から上に向かって放たれた。見上げるような高さの壮年男性に、果敢に挑みかかるようにして。
「貴方は」
マラード王は、呆然と少女を見つめながら問いかけた。
視線は強く幼いかんばせに吸い寄せられている。まるで魅入られたかのように、まばたきの時間すら惜しいとばかりに凝視を続ける。
少女はあるかなきかのほほえみを浮かべて、王に己の名を告げた。
「私の名はセレス。人呼んで冥道の幼姫。十三番目の賢者にございます、陛下。貴方様に生と死の神ハザーリャの祝福があらんことを」
そう言って、優雅に腰を折る少女――賢者セレスの振る舞いは見た目の歳からは想像もつかないほどに精錬されていた。
マラードは自らが王であることすら忘れてしまったかのように、忘我の表情でセレスの愛らしい容貌、小さな頭や赤らんだ頬、柔らかそうな唇を順番に見つめていたが、やがて我に返ると、取り繕うように問いかけた。
「十三番目の賢者だと? 聞いたこともない! しかしその美貌、その振る舞い、きっといずれかの王家かそれに連なる高貴な血筋の姫君に違いあるまい。良いぞ、その方も賢者として迎えよう」
グレンデルヒが不平を申し立てるが、マラードにはもはやその言葉が届いていなかった。小さな子供の魔性に囚われてしまったかのように、その目にも耳にもたった一人の言葉と振る舞いしか届かなくなってしまっているのだ。
「では、十三番目の賢者よ。俺に知恵を貸して欲しい。真の恋とは、一体どうすれば手に入るのだ?! この飢えはどうすれば満たされる?!」
「逆に問いましょう。陛下。貴方様は、今必死になって真の恋を求めていらっしゃいます。そうまでして本気で欲し、心から求め、愛したはずと思った相手が真の恋人ではなく、二人で築き上げた全てが偽りであったとしたら、いかがいたしますか? 私が、これが本物の恋でございます、と用意したものを信じて受け入れ、それを後から、実はそうではなかった、と明かされたとすれば?」
「そのような無礼な真似をすると申すか!」
気色ばむ王に対して、少女は澄まし顔で応じてみせた。
「たとえ話でございます。偽物、本物、それらはただの言葉。誰かにそうだと決めつけられたからと言って、その時まで抱いていた確信が揺らぐなどおかしな話」
「だが、俺はいつも気付いてしまうのだ。これは違う、本物ではないと!」
「それは錯覚です。失礼ながら陛下、貴方様はあまり賢くはございません。でなければ賢者の知恵を借りようなどとは思わぬはず。違いますか?」
「それは確かにその通りだが」
「であれば、貴方様の気付きとは間違ったものなのです――よろしいですか、陛下。貴方様の鬱屈、その原因を外側に求めるということがそもそもの間違いです。問題は貴方様の内側にある」
賢者セレスの灰色の目は王をひたむきにまなざし、その外側にいるもう一人の賢者グレンデルヒを完全に排除した。魔性の輝きを宿した色彩に魅了されたのか、マラードはもはやグレンデルヒに関心を向けることは無い。
少女の微笑みは幼くも妖艶にひとりの男をとらえて離さない。
「私が、貴方の病を見事癒してさしあげましょう」
見つめ合う少女と男。
その様を、グレンデルヒは険しい表情で睨み付けていた。
「どういうことだ、あれは!」
俺は強引にチリアットの身体の制御を奪うと、ヴィヴィ=イヴロスの胸ぐらを掴んで壁に押しつけた。
キュトスの魔女は表情を動かさずにこちらを見返してくる。相手の反応は冷静だ。こういう揺さぶりは無意味だと判断して手を離す。
ここは舞台袖で、今は幕間――の更に幕間だ。ラフディの王マラードと賢者セレスにまつわる劇中劇は前半が終わり、ひとまず幕となった。そこで、最初の劇中も一度幕を閉じるという段取りを踏んでようやく『いまここ』というレベルにまで戻ってくる。面倒なことだが、必要な手続きだった。
「アキラ、落ち着いて」
現在は幼い姿となっているコルセスカが牙猪チリアットが演じている俺を窘める。もちろん彼女のお陰でこの上なく落ち着いているので、今更そんなことは言われるまでも無い。だが、それでも理性的に腹に据えかねるということはある。怒りを態度として相手に示して威嚇する事が必要な場合は俺はそれをやる。
「やれやれ、まるでチンピラだな――日本語の用法はこれで正しいかな?」
「――合ってるよ」
舌打ちしたいのを堪えて答えた。
相手の態度、表情に含む所は無さそうだ。なによりコルセスカが一切警戒を示していない。
どうやら、ヴィヴィ=イヴロスはこの件に関しては関係が無いらしい。
「正直、私も驚いている。私の浄界にこうも容易く侵入され、あまつさえ破壊されかけたばかりか利用されるとはね」
「あれは、間違い無くグレンデルヒだった。それでいて中身は、あれは――」
「力士のゾーイ・アキラでしたね」
コルセスカが俺の認識を保証する。
俺が白昼夢を見ていた可能性もこれで消えたというわけだ。
場面が一旦終わった瞬間、あの男あるいは女は忽然と姿を消してしまった。それが上級言語魔術師としての呪術なのか、力士としての瞬間転移能力なのかは判然としないが、いずれにせよ最悪の事態が起きていた。
「悪役系力士が得意とする変身能力。脂肪を操作してグレンデルヒを再現して、舞台上でグレンデルヒ本人に成り代わってるわけだ」
二人の魔女と情報を整理したところ、結論はこうなった。チリアットが役者として俺を演じて俺本人が『役』としてこの空間に存在できているように、ゾーイが役者となることで、グレンデルヒもまた『役』として存在できている。そうすることで、この劇による過去干渉に横槍を入れようとしているらしい。
「スムーズに事を運ばせてくれないどころか、相手の都合の良い過去改変をされればより現代の状況が悪化しかねないってことか」
「あちらが同じ土俵で勝負しようとしていることが救いと言えば救いですね。どうやら、即興で台詞を組み立てて脚本の流れを改変しようとしているようです」
ということは、それに流されず本来の流れを守りきればこちらの勝利となるわけだ。劇を破綻させないように相手の台詞に応じながらも、予定された結末に辿り着かせることが必要だった。
「冷静に対処すれば、有利なのはこちらです。ただ」
「さっきのグレンデルヒの誘導、かなり露骨に残虐な方向に誘導しようとしていたな。下手したら舞台の方向性や空気が台無しになる」
頭が痛かった。
突然のゾーイとグレンデルヒの介入、妨害、過去改変、即興劇にも似た特殊なルールでの戦い。果たして、本当にこの調子で最後まで演じ切れるのか?
「大丈夫」
コルセスカは、灰色の瞳で俺を真っ直ぐに見つめて言った。
その時、俺はまるで自分が長い髪の王になったかのような錯覚を覚えていた。あの鬘は、今は外されて小道具と一緒に置かれているというのに。
「私がいます。昔話では、良い魔法使いは悪い魔法使いなんかに負けたりしないものですよ。もちろん、傲慢な王さまも最後には改心するんです」
いつも通りの温度の低い声は、ひどく柔らかい響きを伴って俺の心に溶けていく。矛盾するようなイメージの組み合わせだが、その冷たさに、俺は安堵の暖かみを感じていた。