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4-11 星見の塔トーナメント(前編)





「発勁用意! NOKOTTA!」


 清澄な空気を、サイバーカラテユーザーたちの力強い発声が切り裂いていく。

 溢れかえる汗と熱気が冬場の冷たさを押しのける様は圧巻と言っていい。比喩ではなく、立ち上る熱は湯気となって広々とした空間を暖めていた。

 間近で見ていると、今が冬であると言うことを忘れそうになるほどだ。


 霊木板を組み合わせた床は広く、試合用のジョイントマットは転倒や衝撃のダメージを効率的に吸収する防御呪術が付与されている。

 同時に八ヶ所で試合を行えるだけのスペースに、溢れ出さんばかりの人が詰め込まれており、そこには第五階層そのものとでも言うべき混沌が凝縮されていた。


 種族、年齢、性別、ありとあらゆる猥雑がてんでばらばらに声を上げ、好き勝手に行動している。高い天井に浮遊絨毯で昇って試合を念写撮影したり、試合を妨害しようとしたり、何に使うのかわからない賞品を売りさばこうとしたりしては警備ドローンに掴まって連行されていく。恐らく行き先は『反省室』だろう。


 立体映像の掛け軸が『心頭滅却すれば火もまた涼し、心頭滅却の為の催眠・幻覚呪術の購入は下記のURLをクリック、今ならキャンペーン中で大幅値下げ実施中』の文字を上から下へと流している。自走する自動販売機がペリグランティア製薬の健康飲料を販売して回り、壁一面を透過させるほど巨大な採光窓からは世界槍と広大な外界の様子が覗いていた。


 巡槍艦ノアズアークは『港』を離れ、世界槍の周囲を巡航中である。世界槍の呪力で航行しているので、離れ過ぎて墜落しないようにつかず離れず、衛星のようにぐるぐると回り続けていた。


 広々とした空間は大まかに八つに区切られ、各ブロックでは試合が行われていた。周囲を参加者や観客が取り囲み、歓声を上げている。

 観客といっても、このトーナメント会場にいるのはほぼ全てがサイバーカラテユーザー、つまりはサイバーカラテ道場の第五階層支部に通ったことがある面々ばかりだ。


 知らない顔のほとんどは通信受講者だと思われる。サイバーカラテユーザー以外もいるがごく少数派だ。

 インドアユーザーやカジュアルユーザーといった積極的には実戦をしない層、いわゆる格闘技マニアたちが、それぞれ試合についてコメントしたり独自の改善案を考案したりと議論を交わしていた。


 実戦データを収集できるこのような場所は、サイバーカラテユーザーにとって垂涎の『狩り場』である。

 こうして多角的にデータが集積され、そこに様々な視座からの考察がなされることでサイバーカラテという総体は更なる適応力を獲得していくのだ。


 サイバーカラテユーザーがいわゆる比武、武術大会を定期的に集まって行う事を好むのはこうした事情がある。

 個人が休日に知人を家に集めて行う小規模なものから、このように国が大々的に宣伝して行う大規模なものまで、それはガロアンディアンの日常に根ざしていた。今やサイバーカラテは第五階層の国民的スポーツである。


 ここは巡槍艦下層に増設された圧縮空間内部に構築された練武場。

 サイバーカラテのインストラクション動画を撮影する他、デモンストレーションや武芸の奉納儀式、道場の門下生を集めて御前試合を行うといった用途に用いられる。トリシューラが第五階層に道場を建てるまではここをサイバーカラテ道場第五階層支部として使っていたものだ。


 原則として土足が推奨されているため、蹴り技の威力はひどく険呑だ。場合によっては怪我人も出る。今も、鋼鉄が入った靴での蹴りが直撃した男性が救護ドローンによって運び出されていくという光景が目に入った。


 サイバーカラテは拡張身体としての靴、義足を用いる事を前提とした武術だ。

 感度が鈍るからと裸足に拘るものもいるが、多くの者は敷かれたマットの上で頑丈な靴や義足を動かしている。


「さっきの人、大丈夫でしょうか。心配だなあ」

 

 隣で観戦しているレオが呟く。

 体調が思わしくない俺を気遣ってあれこれと世話を焼いてくれる少年は、セージでなくとも魅了されるほどに愛らしい。


 茶白の猫耳が微かに動くたびにセージの表情が緩み、彼が甲斐甲斐しく俺にかまい付ける度に忌々しげに舌打ちする。

 更にはそれを遠巻きに見ているファルが陶然と溜息を吐いていた。

 何なんだこの構図。


「サイバーカラテの試合ではよくあることだ。流石に首や目、急所なんかへの攻撃は禁止されてるし、死人や重傷者が出たりはしないから大丈夫だろう」


 安心させるようにそう言うと、レオは「良かった」と目を細めて小さな肩を撫で下ろした。

 セージの表情が目まぐるしく変化し、それに見とれていたファルが対戦相手の一撃を喰らって昏倒する。試合中に余所見するからだ。自業自得である。


 ファルの敗北によって試合会場が空き、比武は滞りなく進行していく。

 そう――ここで行われているのは、武術の腕前を競い合う比武――そのトーナメント戦だ。


 第五階層から広く強者を募り、己の武威、流派の誇りを世界に示すための大会。

 急な開催にも関わらず、告知後にサイバーカラテユーザー以外のエントリーが殺到したのはこの世界に於いて名誉や栄達が即物的な価値に直結するためであろう。


 アストラルネットで全国中継されているため、敗北は名誉の失墜、勝利は存在の強度の上昇を意味する。

 コルセスカが言うところの『名声値』をかけた勝負は、この世界において極めて大きな意味を持っているのだった。


 トリシューラ不在の今、あえてこのような催しをするのには幾つか理由がある。

 女王陛下が不在のこの時期であるからこそ、俺を始めとしたサイバーカラテ道場の武力を定期的に示す必要があることもそうだし、【マレブランケ】の練度を高める目的もある。


 現在【マレブランケ】の構成員は五人。トリシューラは最大で十二人まで増やす予定だと言っていたが、彼女のお眼鏡に適う使い手がそうそういるはずもない。

 めぼしい人材がいれば勧誘するようにとトリシューラから言いつかってはいるのだが、今回は勧誘は二の次三の次である。


 トーナメントを行う、なによりも大きい理由は二つ。

 ひとつは、【変異の三手】に対する誘い。不安定な状況を打開し、一気に決着をつけるためである。

 敵対勢力がこちらを付け狙っている状況下で、わざわざ拠点である巡槍艦に不特定多数を招き入れるような真似をすれば、露骨な罠だとあちらも気付くだろう。


 来ないならば来ないでいい。

 ただし、俺たちは既に名指しで公開挑戦状を叩きつけている。

 来なければ一方的な勝利宣言を行い、相手の名声に攻撃を加えるだけだ。そしてそれを許せば、【変異の三手】の呪的な格は凋落する。

 

 つまりこれはこちら側からの能動的な攻撃なのだった。

 思惑は上手く嵌った。

 既に【変異の三手】に所属している探索者たちのエントリーを確認している。

 流石に手練れ揃いで、順調に初戦を勝ち上がってきていた。


 懸念としてはリーダーであるグレンデルヒと三人の副長の姿が見えないことがあるのだが、黒いローブで全身を隠している『自称夜の民』が四人いる時点で察してくれと言っているようなものだ。


 なお全員身長は平均的な夜の民どころかギネス記録級のアズーリアやラズリ以上であった。

 俺が言えた事ではないが、まじめに変装しろ。


 大会を開催したもうひとつの理由としては、俺の不調を迅速に治し、万全の体勢で襲撃に備える為、というのがある。

 この【星見の塔トーナメント】はコルセスカの発案で行われている、歴史のある呪術儀式だそうだ。


 星見の塔で行われ続けてきた、闘争の祭典。

 それが今、名前はそのままに、形を変えてこの場所に甦っているのだった。

 一定の手順に従い、とある形式をなぞることで俺の回復が可能になるらしい。コルセスカ本人もトーナメントに参加して順調に勝ち星を挙げている。


 恐ろしい事に、コルセスカは呪術を一切使っていない。

 穂先に布を巻いた試合用の三叉槍を振るって武技のみで勝ち上がっている。

 武術を競う大会であり、投射型の邪視はルール違反なので当然と言えば当然なのだが、しかしコルセスカが後衛というのは一体何だったのか、と思えてならない。


 第五階層には上下の勢力から腕に覚えのある探索者が集まってくる。

 よって、試合はかなりレベルの高いものとなっていた。

 余りにも動きが速いため、機械による判定が行われているほどだ。


 浮遊する無数のカメラアイに、立体幻像の審判が正確無比な判定を下していく。

 二頭身のデフォルメ魔女は、何故か黒い烏帽子に男性用の衣服であるはずの直垂ひたたれを身につけており、更には軍配団扇を手にしていた。いつも通りの微笑みを浮かべているのだが、装いのせいかやや奇妙な印象が拭いきれない。


(行司シューラだよー)


 柔らかな緑色の瞳が、荒々しい激闘を子犬のじゃれ合いか何かのように見守っていた。無感情な笑顔はいつも通り。予定通りなら、『本体シューラ』は今頃月で言語魔術師試験を受けているはずだが、大丈夫だろうか。


 そんなことを考えていると、頭でっかちの顔がこちらを向いた。

 視線が絡み合う。

 思考が同期していないため、何を考えているかはわからない。


 ――なぜか、奇妙な違和感を覚えた。

 それが、俺の脳内ちびシューラが復旧できずにいることが原因なのか、同期が切れたままであることが原因なのかはわからないが、とにかく奇妙な感覚としか言いようが無かった。

 

 兎にも角にも、状況は進んでいく。

 次々と脱落していく敗者たちと、勝ち上がっていく勝者たち。

 今回は敗者復活戦が無いため、負けた者は大人しく観戦に回るしかない。


 本来、戦いには相性があり、より厳密に勝率で『強さ』を判定しようと思えば総当たりのリーグ戦の方がいいのだが、そこは時間の問題、盛り上がりの問題というものがある。


 特に新生したばかりのサイバーカラテは参照する戦術理論が極めて多岐にわたり、最善手の統一見解について合意形成に至っていないものが数多くある。

 ちびシューラによるアシスト機能によってかろうじて機能していると言って良いのだが、それでもどの戦術を選択するかについての最終決定は未だ当人の匙加減次第、というのが現状だ。


 本来のサイバーカラテの理念からすれば自分自身で戦う道を選び取るようなことはあまり望ましくないのだが、そうしたデータを積み重ねていけば最終的には決定を外部に委ねることが出来るようになるので、ある程度は必要だと割り切らなければならない。


 よって、ここで『読み合い』が発生する。

 対戦相手は膨大なサイバーカラテのデータベース、プールされた戦術理論、武術体系から取捨選択して試合に挑む。


 相対する同じサイバーカラテユーザーとしては、その傾向を読んで、その武術体系に最も有効な応手を構築することが勝ち筋となる。

 未だ完成形とは言えないサイバーカラテ同士がぶつかり合うことで、選択した武術体系の相性によって勝敗が決定する、と言うことがあちらこちらで起きていた。


 インドアユーザーたちは情報戦を繰り広げ、トリシューラからのお咎めがない程度に勝敗予想で賭が行われ、メタゲームに敗れた強者が第五階層ランキング下位の相手に敗北する。


 現環境下における一つの流行はカーインの摸倣だが、同レベルで内力を操れる使い手がいない為、当人と相対してしまえば敗北するしかない。

 そのためカーイン対策がトップメタであり、更にそのアンチがそれに次ぐ数だけ存在する、という状況になっていた。


 だが、ロウ・カーインはその程度の対策などものともしない。

 「拡張身体だ」と言い張って重装甲を纏った対戦相手を重さを増した下段蹴りで攻めて足に負荷を集中させて膝をつかせる、相手の力を利用した柔法で投げ飛ばすといった当然とも言える対応を見せて勝ち星を重ねていた。


 対策をしているのはサイバーカラテユーザーだけではない、ということだ。

 カーインが鮮やかに勝利していく度に、俺の脇でレオが歓声を上げる。相変わらずの強さを見せるカーインに少しばかり心がざわついて感情が凍りかけたが、レオが喜んでいるのを見ると些細な事に思い煩うことが愚かしくなる。茶縞の耳が小さく動くのが可愛らしい。


 一方、トーナメントは順調なばかりではなかった。

 人が集まれば、トラブルも発生する。

 典型的なのは、判定に対するクレームだ。


 カメラに写されると魂を奪われる、機械など信用出来ない、という物言いがつく場合は、副審であるゼドの出番となる。

 四英雄の権威と説得力は絶大なのか、彼の判定にまで文句をつける参加者は皆無だった。


 ちなみに銃の使用は禁止であるためゼドは不参加だ。更に言えば、影響力が大きすぎるので迂闊に力関係を明確にするような大会に出る事は望ましくない。なお、同じ四英雄のコルセスカはまったく自重する気が無い模様。


 銃士になりたての【マレブランケ】の一人、カルカブリーナもまた徒手空拳での出場となったが、彼は初戦で敗北していた。

 カルカブリーナを破ったのは、黒色のフード付きローブで全身を覆い隠した参加者だった。夜の民に関しては呪術的事情があるので風貌を隠すことを咎められないのだが、まあ正体はほぼ間違い無く【変異の三手】の幹部たちだろう。


 フードの下を暴くことは簡単だが、露骨な変装であっても咎めることは人種差別だと非難されかねない。全世界に生の映像を配信している最中にそれはまずい。

 勝ち上がるにつれて、四人いた黒衣の参加者がそれぞれ仲間同士で戦う組み合わせとなってしまい、うち二人が棄権した間抜けさに免じて内側を曝くのは後にしてやろう。


 その場を辞した二人が群衆の中に消えていくのをファルとカル、公社の人員に追跡させながら、俺はいよいよ終盤を迎えつつあるトーナメントを注視した。

 勝ち上がってきた猛者たちもついに八人にまで絞り込まれ、ドローンたちがジョイントマットを組み替えて一つにしていく。


 ここからは全試合が一つずつ消化されていく。

 ショウとしての側面を考慮して、多少時間がかかっても盛り上がりを重視したいというのがコルセスカの考えのようだ。呪術儀式を成功させるためには観客の熱狂が必要になってくるらしい。


 思惑通り、準々決勝を目前にして会場は段々と盛り上がっていく。

 その観客席(といってもパイプ椅子を並べただけだが)で安静にしている俺の元に、のしのしと足音を立てて近付いてくる者があった。


 大きい。

 そして、凄まじい凶相であった。

 肉体各部の太さ、厚み、そして高さと重さにおいて、この男を上回るものはそう多くはないだろう。


 彼の容貌は、ブルドッグの頭部を持った獣人、という言葉で簡単に形容できる。

 しわくちゃの顔面は醜さと愛嬌が鬩ぎ合う何とも味のある皮の弛んだものだ。

 初対面の時、レオが『洗顔が大変そう』などと間の抜けた事を口にしてしまい、大いに笑われたのは一ヶ月――2,592,000秒ほど前のことだ。


「いやあ、負けた負けた。カーインの奴、まぁた強くなりやがったな。追いつけるのはいつになることやら」


 ベストエイトを決定する戦いで惜しくもカーインに敗れた男は、俺の隣の席にどしりと座り込んだ。加重にパイプ椅子が軋む。


 このブルドッグのような男の名はカニャッツォ。

 【マレブランケ】の一員であり、虹犬ヴァルレメスという犬の獣人――そして『下』の出身者である。


 元々公社の地下興行であった蠱毒デスマッチで、長くチャンピオンとして君臨していた男だ。ロドウィによって奴隷同然の扱いを受けていたにも関わらず公社に――というよりも幹部の一人であったアルテミシアに忠誠を誓っており、一時は俺たちを仇と見定めて対立していた。


 俺とカーインに連戦連敗し、トリシューラに屈伏させられ、とどめにレオに絆されたことで今ではすっかりガロアンディアン王国民となっている。


 古いリングネームを捨て、新たにカニャッツォという名前で再スタートし、いずれ俺とカーインを超える力を身につけてガロアンディアンの頂点に返り咲く事が今の彼の目標らしい。


 『合法化』された表の闘技場で再スタートを切った彼の格闘家人生はそれなりに順調のようだ。

 カーインに敗北したにも関わらず、その表情に暗さは無い。ただただ、前に向かおうとする意欲が漲っていた。


「お疲れさん。この間よりはいいとこまで行ってたように見えたが、やっぱ問題は足だな。後半、かなり下半身にきてただろ」


「おう、じわじわ効いてくるんだ、あの蹴りが。お前の両腕がやばいのは見ればわかりやすいんだが、カーインの奴はむしろ足のほうがやべえ」


 俺からすると、点穴を衝いてくる貫手の方がよほど怖いのだが、確かにカニャッツォの言う通りあの速く正確な蹴り技は驚異的の一言だ。

 長身であるが故の打撃の重さも侮れない。


 第五階層屈指の手練れであるカニャッツォをして認めざるを得ない実力者、それがロウ・カーインなのだった。

 隣でレオがカード型端末を操作しながら口を開く。


「えっと、準々決勝の最初の試合はカーインの試合からみたいですね。ここまで来て呆気なく負けたら恥ずかしいですけど、相手はどんな方なんでしょう」

 

 何故かカーインに対して微妙に厳しいレオである。誘拐犯だったからか。

 彼の疑問に答えるべく俺もまたレオの端末を覗き込む。

 見慣れない名前だった。

 にもかかわらず、そのカタカナの文字列に既視感がある。


「グラッフィアカーネ――ってこれ確か、トリシューラが言ってたマレブランケの予定名簿の中にあった名前だな。偶然、じゃないよな。新メンバーか?」


 聞いてない。が、トリシューラが俺に黙って事を進めるのはいつものことなので特別に驚くようなことでもない。

 既に『新たな名』を与えているのだとすれば、この人物もまた仲間ということでいいのだろうか。


 審判である行司シューラがカーインとグラッフィアカーネの名前を高らかに呼ばわり、試合会場となった練武場の中央に両者が進み出ていく。

 足を隠す立体幻像を纏った道服の男。長髪を天眼石で束ねる長身の美丈夫の名はロウ・カーイン。


 対するのはそれに比べるといくらか体格で劣る若者だ。

 身長は俺と同じ程度だろうか。

 どうやら種族はカニャッツォと同じ虹犬らしい。


 歳はそれなりに若く、レオやファルよりも少し上の十代後半と言ったところだ。

 ブルドッグ氏族ではなくビーグル氏族で、垂れ耳がどこか愛嬌を感じさせる。

 毛並みは良く、色はトライカラーの白、黒、黄褐色タンである。


 片方に鈴が付いた金剛杵と思しき武器を手にしており、それをガラガラと鳴らしているのは、何らかの呪術的パフォーマンスだろうか。

 カニャッツォがブルドッグ顔をにたりとした笑みの形にして説明を加えた。 


「実は、俺がトリシューラの姐さんに紹介したんだよ。ジャッフハリムにいた頃にちょっとした縁があってな。まあ見てな、かなり使える奴だからよ」


「あのトリシューラが認めて、プライドの高いお前が保証してるってことは相当だな。どんな戦いを見せてくれるのか、少し楽しみだ」

 

 というか、対戦カードを見ていると他にも気になる名前が並んでいるのだが、これは見間違いじゃないんだよな。

 レオが手にしている端末をもっと良く見ようとして身を寄せる。


 ガタッという音がしたので視線を向けると、パイプ椅子から勢い良く立ち上がっている人がいた。暗色のヴェールに隠れた表情が美しい。店員さんことラズリ・ジャッフハリムさんである。何故か息が荒く顔が赤い。


「ふわー」


 頬に手など当てたりして、なんだかよく分からない反応である。

 食い入るようにこちらを見つめている。


「――あっ、ええと、ごめんなさい!」


 縮こまるようにして椅子に座り直す店員さん。この謎のアルバイター探索者は何故か大会に参加しており、しかも勝ち上がってきていた。

 今は大人しく観戦しているが、いざ試合となると恐るべき鋭さで杖を操って相手をねじ伏せる。てっきり後衛だとばかり思っていたのだが、杖術の心得もかなりあるようだ。


 そして次のコルセスカの対戦相手こそ、彼女なのだった。

 大変心苦しいが、コルセスカに肩入れする以外の選択肢を俺は持っていない。

 というわけで応援はできない。誰だよこんな対戦カード作ったのは。トリシューラか。じゃあ仕方無いな。


 向かい合ったカーインとグラッフィアカーネの間に緊張が横たわる。

 行司シューラの合図と共に、カーインが疾走する。

 放たれたのは派手な蹴り技だ。


 絶え間なく繰り出される連撃を、小柄なビーグル犬の獣人は自然体のまま回避していく。身体からは完全に力が抜けており、とても戦いに挑む武人とは思えぬたたずまいだ。しかし、正確無比な蹴りの数々を全て見切っているのも確かな事実。


 と、グラッフィアカーネが手に持っていた金剛杵を懐にしまい込む。この場に合わせてか、彼は白と黒の袴を着ていた。

 流れるように動き続ける虹犬を確実に仕留めるため、より正確性と速さを求めてカーインは一撃必殺の貫手を解禁する。


 内力を送り込む量を調節すれば死ぬ事は無いといっても、かなり過激な手段だった。カーインの恐ろしさを知る者たちが一斉に息を飲み、哀れな虹犬が昏倒する未来を予感する。


 しかし、そう結論するのは早計というものだった。

 腕が霞むほどの速度で放たれた貫手が、ぐるりと回転する。

 いや、回転しているのはカーインの全身だ。


 獣人は手刀によってカーインの貫手の勢いを受け流し、その上で力を完全に無駄なく利用して中心軸を崩し、投げ飛ばしたのだ。

 接触点はつかず離れず、完璧な調和を保ってカーインを『運んで』いく。

 気付けば、カーインとグラッフィアカーネの呼気が完全に合一していた。


 脱力した虹犬の身体、その重心を軸にして円弧を描くようにして力が完全に受け流され、あたかも二人で協力して技を組み上げたかの如き状況が出来上がっていた。あまりに見事すぎて、打ち合わせの上の八百長ではないかと信じかけてしまう程に、それは鮮やかなカーインの敗北だった。


「円転の理――合気か!」

 

 思わず言葉が漏れ出した。

 グラッフィアカーネの胸元から覗く金剛杵が、濁った鈴の音をガラガラと鳴らしながら稲光を放っている。全身に青白い稲妻を纏わせた犬の獣人は、おそらく呪術で生体電流を増幅して自らの肉体を完全に制御し、更には相手の神経反射を制限することで自他の動きを完璧に合一させて技をかけたのだろう。


 生体電流を利用した合気の技は俺の基礎知識、つまりは前世にも存在している。

 サイバーカラテで言えば電磁化勁が近いが、相手の呼吸を読みとって『機』を見極める能力はどちらかと言えば俺が失った【Doppler】と【サイバーカラテ道場】のアプリ連携戦術に近いものがある。


 勝敗は決したかに思われたが、そこで物言いが入った。

 呪術で相手の肉体に干渉したのはルール違反ではないかというのだ。

 行司シューラがゼドを始めとした副審たちと話し合いを始める。


 大会ルールでは呪術によって自らの肉体を強化することは認められているが(そうしないとそもそもサイバーカラテユーザーである大半の参加者が失格となってしまうからだ)、相手に対して呪術によって干渉するのは禁止されている。

 カーインもウィルスによる相手の弱体化は禁じ手としているのだ。


 相手の使った『合気らしきもの』をどう捉えるかは微妙な所だ。武術の体系そのものに生体電流による干渉と、それによる自他の合一が含まれているとすれば、それは相手の武術体系そのものに対する否定だ。


 サイバーカラテ的に考えれば、ここはグラッフィアカーネの勝利でいいと思うのだが――そこで、意外な事に本人から声が上がった。


「いえ、ここはルールに違反した俺が退くべきでしょう。勝ちに拘りはありませんし、単にこういう催しに参加して自己紹介の代わりにしたかっただけなので」


 どこか覇気の無い口調でそう言うと、あっさりと身を翻して観客席の方へ去っていく。というか、知り合いらしいカニャッツォの隣にやってきた。俺を見ると、無言のまま目礼してくる。なんとなくこちらも目礼。


 判定を出すまでもなく、辞退ということで決着してしまった。

 とらえどころのないビーグルの獣人はぼんやりと観戦の姿勢をとっている。

 ブルドッグ顔の方の獣人は何やら済まなさそうに、


「悪いな、こういう奴なんだよ。何事にもあんまり力を入れねえ主義っつうか、それがコイツの持ち味でもあるんだが」


 とフォローしていた。

 カニャッツォの言葉は、わからないでもない。あの自然体、あの気質ゆえにああまで相手の動きと調和した『投げ』が行えるのだろう。


「あることになると目の色を変えるんだがなあ」


「あること?」


「ああ。こいつがウチに入った理由でもあるんだが――ま、それはトリシューラの姐さんにでも聞いてくれや」


 ブルドッグの獣人カニャッツォは多くを語らなかった。

 恐らくごく個人的な、立ち入った事情なのだろうとは思うが。

 一方、敗北したにも関わらず勝ち上がることになってしまったカーインは苦々しげな顔をしながら起き上がろうとしていた。


 そんな彼の目の前に立ち、見下ろす者がいる。

 いつの間にか観客席を離れてカーインの傍に歩み寄っていたのは、レオだった。

 先程の試合に物言いをつけたのも、同じくレオ。


 カーインの雇い主である少年の表情は、俺のいる位置からは見えない。

 後ろ姿と純白の耳は何も語らない。

 ただ静謐にカーインを睥睨している――そんな気がした。

 冷ややかな声が響く。俺は一瞬、それがレオの言葉だとは信じられなかった。


「情けないね。無様を晒すのは何度目なのかな?」


「――返す言葉もございません」


「言い訳くらいしなよ。両手両足を振るって勝つことができないのなら、もう口を動かすしかないでしょう?」


 辛辣な言葉。優しく慈愛に満ちたいつものレオと、本当に同一人物なのかどうかも疑わしい。

 セージが「攻め責めなレオくんもステキ」とか寝言をぬかしているのを見ると、どうやらあの光景は公社においては特に異常事態というわけでもないようだ。


 『公社組』であるレオ、カーイン、セージの日常について俺は詳しく知らないのだが、天使のようなレオにもああした一面がある、ということなのかもしれない。

 それにしても。


「愚図。口先だけ。役立たず。のろま。かっこ悪い」


 レオに抱いていたイメージがガラガラと音を立てて崩れ去っていくようだった。

 それほどまでに、少年の清らかな声から紡がれる悪口雑言は意外性の塊だ。

 カーインが内功による肉体の強化を制限し、厄介極まりないウィルスによる攻撃を封印していたとはいえ、確かに不甲斐ないと言えば不甲斐ないのだが。


 今までは彼がトリシューラの勢力に組み込まれている事が異様に思えてならなかったが、この光景を見て、あの罵詈雑言を聞いていると逆にしっくりくる。

 そういえばレオは、トリシューラの事を『先生』と呼んで慕っているのだった。


 まさかあいつの悪影響じゃないだろうな。

 膝を着いて平身低頭するカーインは、屈辱に身を震わせながらも次の勝利を約束する。しかし。


「そんなの当たり前。言われなくても出来て当然」


 レオはゆっくりと身を屈めていく。俺の居る場所からその詳細は見えないが、おそらくはカーインに顔を近づけて、高い声を目一杯低くして呟いたようだ。


「あまり僕を失望させないでね――でないと、そのうち捨てちゃうから」


 それに対するカーインの反応はよく分からなかったが、何故かガタッと音を立てて店員さんが立ち上がっていた。食い入るようにレオとカーインを凝視しているが、何したの?


「あっ、違うんです、違うんですこれはっ、あの、座ってます!」


 何が違うんだろう。

 とりあえず、頬を染めて小さくなる店員さんは非常に可愛らしかった。

 女神を眺めることで、先程の衝撃でぐらついた心を立て直す。


 よし大丈夫だ。俺は動揺していないしレオがトリシューラ系統の性格に染まっても態度を変えたりしない。

 レオがカーインを引き連れてこちらへ帰ってくる。 無邪気さと善性を笑みの形にしたような、いつも通りのレオだった。


「これはあとでお仕置きだね、カーイン?」


 少年がにこやかに言い放つと、何故かセージが悔しそうに筆舌に尽くしがたい唸り声を上げ、店員さんがガタッと立ち上がる。だから何したの。

 当のカーインは、何やら思い詰めた、というか追い詰められたような顔をしているが――。


 特に思うところは無い。カーインは基本的には俺よりも強い――というか生身の近接戦闘においては第五階層最強と言っても過言では無いと思うが、それでも両腕が揃った俺は何度も勝利しているし、道場内でもサイバーカラテによる最善手の模索によって全体的な勝率は上昇しつつある。


 カーインもまた、日に日に強くなり続ける挑戦者たちと組み手をすることを「これも修行」と歓迎していたわけだが、最近はその余裕も無くなってきた。

 万能のサイバーカラテとて負けるときは負ける。

 しかし、試行回数が増えれば増えるほどその勝率は本来の期待値に収束していくのである。


 無限大の試行と上昇し続ける期待値、それこそがサイバーカラテの強みだ。

 読み合いの『無駄』を削ぎ落とし、戦闘をより純粋な確率論の鬩ぎ合いの中に落とし込んでいく。自らの判断で駆け引きを行うのではなく、アウトソーシングした『読み』の基準が相手を打ち負かす蓋然性を際限なく高めていくということだ。


 絶対的強者であっても、無限回の試行を繰り返せばいずれは勝てる。

 その可能性が極小でも、繰り返しの中で勝てる確率を増大させていく。

 途方もない試行回数は、多人数による分散処理によって時間的に圧縮する。

 それがサイバーカラテの強み、すなわち数の暴力だ。


 ユーザーの中に強者がいればいるほど他のユーザーたちの戦闘能力も底上げされるため、その進歩は加速度的と言っていい。

 今はまだ不完全だとしても、いずれはカーインという一つの基準を完全に上回る時がくるだろう。


 あのグラッフィアカーネという少年がサイバーカラテユーザーになれば、その日がまた一歩近付くに違いない。

 そして、カーインという水準点を超えることができる強者がまた一人。


「次ってチリアットさんでしたっけ?」 


 レオの問いに頷いて答える。 


「ああ、相手は【変異の三手】に所属する、夜の民の探索者だそうだ。登録名は『クレーグレン』とあるが、まあ正体はほとんど知れているようなものだな。チリアットならそろそろあのローブを剥がしてくれるんじゃないか」


 続いて試合会場の中央に現れたのは、黒いローブで全身を覆い隠した何者かと、カニャッツォにも負けず劣らずの巨体を誇る獣人だった。

 両者共に俺の尺度で言うところの二メートルを超えており、更には道着がはち切れんばかりの鋼めいた筋肉の塊、そして恐ろしげな強面という点で共通している。


 相違点は、カニャッツォのしわくちゃな凶相がブルドッグ特有の愛嬌に満ちているのに対して、チリアットの異相はただ単純に凶悪で獰猛であること。

 そこにいたのは、恐ろしい牙を持つ猪の獣人であった。


 それもただの猪ではなく、鹿猪バビルサという極端に犬歯が発達した動物を思わせる、牙猪種という種族だ。

 頭の方に湾曲した上下二対の牙は長く発達しており、特に上顎犬歯は肉を貫いて鼻の天辺から突き出て尖端部分が自らの目の前に来ているほどだ。


 そのまま伸びれば発達した牙が頭部に突き刺さって死に至るという呪われた宿命を持つ稀少種族であるチリアットは、ガロアンディアン屈指の実力者と言われている。実際、俺やカーイン、更にはコルセスカとすら渡り合う事が可能な数少ない使い手である。


 リーダーのマラコーダ、ファルファレロ、カルカブリーナ、カニャッツォ、そして新参のグラッフィアカーネを加えて六人となった現在の【マレブランケ】最後の一人であり、マラコーダと同じく最古参。


「いざ、尋常に――発勁用意!」


 巨体の動きは目を見張るほどに素早かった。

 野太い腕が大砲じみた掌打を放つ。

 躱すも受けるも困難な、速く重い一撃である。


 だが黒衣の対戦相手、『クレーグレン』なる人物は軽やかに打撃を避けてみせた。舞うような動きから、黒衣の中身に察しがついた。

 格闘において最も重要な要素の一つである『重さ』がクレーグレンには欠けている。チリアットの打撃は基本的に野太い両腕による掌底打ちである。


 だが、その全てがカーインの蹴りに匹敵する『重さ』を内包している。

 彼の全身は重さの塊だ。旧来のサイバーカラテにおいて理想とされる掌打。

 しかし、『軽さ』でもって回避を続け、攻撃後の一瞬の隙を突いて手刀をチリアットの関節部に叩き込んでいくクレーグレンの動きに臆したところは無い。


 それどころか、一気呵成に攻め立てているチリアットの方がいつしか劣勢に追い込まれるという奇妙な状況になりつつある。

 クレーグレンは体格においては俺よりやや勝るがカーインには劣るといった所であり、手刀には圧倒的に威力が足りていない。つまり『重さ』が足りない。


 敵は呪術による殺傷禁止を律儀に守っているがゆえに致命的な一撃になることはなかったが(もし公然とルールを破ればその時点で【変異の三手】全体の名誉に対する攻撃機会が生まれる)、正確無比に弱所に繰り出される『鋭さ』は十分な速度もあってチリアットを着実に追い詰めているのだった。


 とはいえ、このままやられるチリアットではない。

 あの男は、追い詰められてからが本番である。

 危機感と恐怖がトリガーとなり、焦燥がストレスとなってチリアットの精神を苛んでいくのが、その表情と精彩を欠いていく動きからはっきりとわかった。


 そしてそれこそが、彼の内的邪視の発動条件である。

 目前となった敗北――それが彼の反り返った牙と重なる。

 極限まで増大した恐怖、肥大化した生存欲求が、彼の内的宇宙に劇的な変化をもたらしていく。


 黒衣の男が繰り出した鋭い手刀の一撃。

 今まではことごとく命中していたそれが、ここにきて初めて空振りする。

 猪の獣人は血走った目を限界まで見開いて、大きな鼻を荒々しく鳴らすと同時、腰を低くして相手の懐に飛び込み、体重の乗った肘打ちを叩き込んだ。


 形勢が鮮やかに逆転する。

 クレーグレンの攻撃を全て見切っていくチリアットの動きは、その重量感にもかかわらず軽快である。次々と繰り出される手刀を見事に回避していくと共に、剛腕による反撃が唸りを上げる。


「牙猪種は、目前に迫った死を強く意識することで擬似的な臨死体験を経て、死の瞬間を限りなく長く引き延ばそうとします。そうして発動する彼らの邪視は、主観時間の加速を可能とするのです」


 解説をしてくれたのは、いつの間にか近くにやって来ていた店員さんである。

 店員さんは『下』の出身なので、あちらの種族のことについて詳しいのだろう。


「死を見つめる種族――冥府に近しいその性質から、滅びた眷族種、再生者オルクスとは牙猪のような外見なのではないかと言われ、画家たちによって再生者イコール牙猪というイメージが出来上がりました。牙猪たちのことをオルクスとか、オークとか呼ぶ言語も存在するくらいです。もちろん、全くの誤解なのですが」


 牙が湾曲して伸び続け、眼前に死が迫り続けるという特異な稀少種族。

 それが牙猪種であり、チリアットもまたいつかは『寿命』で自らの牙が頭部に突き刺さって死ぬ定めだ。


 種族的な非業の運命――しかし、それが彼に力を与えていた。

 知覚能力、神経反射、思考速度、そしてそれに付随して上昇していく身体能力。際限なく加速していくチリアットの自己加速は、最高速ではコルセスカと戦いが成立するレベルにまで達する。


「俺は死なん! まだだ、まだ死ぬわけには行かぬのだ!」


 優勢であるにも関わらず、チリアットは必死だった。

 必死になることこそがその圧倒的な力の根源であり最大の武器なのだが、それは同時に弱点でもある。


 猪の顔に浮かぶ悲愴な感情によって、サイバーカラテの技が乱れていく。

 焦燥感や恐怖を闘争心に変えるのはどちらかと言えばバイオカラテ的な思想であり、サイバーカラテとは相性がやや悪い。


「嫌だ、俺はまだ死にたくない! 誰か、誰か助けてくれっ」


 トリシューラによる呪術的延命処置と引き替えにガロアンディアンに協力することを約束しているチリアットは、普段は呪術による感情制御で死への恐怖を紛らわせている。

 しかし何かの弾みで追い詰められれば受容しがたい死を目の前に錯乱し、真の力が発動してしまう。


「嫌だぁ、死にたくない、助けてくれ、おお、我が友よ、どうか、どうか!」


 涙と鼻水を惨めったらしく垂れ流しながら、しかしその一方で動きはどこまでも速く、一撃の重さは更に増していく。

 恐るべき連撃が全て黒衣に叩き込まれ、対戦相手が錐揉みしながら吹き飛んでいく。一切の容赦がなかった。下手をすれば死んでいるかも知れない。


 勝敗は決した。誰もがそう思ったが、チリアットにとってはそうではなかった。

 相手が生きている以上、最後まで反撃を警戒する必要がある。

 相手を打ちのめし、倒したのならトドメを刺さなくてはならないのだ。

 もちろん、殺し合いならばの話だ。


「よせチリアット! これは試合だぞっ」


 俺の叫びは既に遅く、チリアットは絶叫しながら肉体を異形のものに変貌させていく。

 野太い腕から黒々とした肉腫が膨れあがり、蠢き、『変身』が始まった。


 右腕が漆黒の鱗に覆われていき、蜥蜴人のように変化していく。

 地上の修道騎士、その中でも異獣憑きたちが寄生異獣によって肉体を変異させるのとどこか似通った光景だった。


 今やチリアットの威圧感は尋常ではないレベルにまで膨れあがっている。

 常人が対峙すれば間違い無く圧倒されてしまうであろう、恐るべき怪物。

 どうしてか俺は、魔将エスフェイルや、王獣カッサリオといった超常の存在を思い出した。


「あれはアンブロシア――そう、彼はダエモデクの――」


 ラズリ・ジャッフハリムが小さく呟いたが、意味はよく分からない。

 訊ねる前に、チリアットが動いた。

 大きく息を吸い込んだ猪は、行司シューラの制止を無視して疾走し、立ちはだかったゼドの妨害を恐るべき速度でかいくぐっていく。


 そして倒れ伏して動けない黒衣の対戦相手、クレーグレンの前に立ったかと思うと、そのまま息を吐き出した。

 漆黒の霧のようなものが吐き出されて、黒衣とマットに降り注いでいく。


 じわり、じわりと黒い染みがマットに広がったかと思うと、それらは見る見るうちに腐敗していく。

 あの呪術ならば俺でも知っている。

 亜竜と呼ばれる蜥蜴人の上位種が使う、【吐息ブレス】という高位呪文だ。


 変異した黒蜥蜴人――否、黒亜竜人の右腕がチリアットに力を与えているのだろうか。腐敗の吐息はクレーグレンを無慈悲に襲い、黒衣をぼろぼろにしていく。

 ラズリが眉を顰めて言う。


「あれは感染呪術――身体の一部や持ち物を分け与える事で、遠く離れていてもその呪力で誰かを守ろうとする強い力です。髪の毛の入ったお守り、死者の細胞を移植しての肉体強化。今の彼は『上』で言うところの、魔将級の異獣憑きに匹敵する危険性を秘めているかと」


 その講釈なら確かトリシューラに聞いたな。

 『元々同じだったものは繋がりを持つ』だったか。

 要するにあれは地獄式寄生異獣ということのようだ。

 原理はともかく、厄介にも程がある。下手をすれば観客を巻き込みかねない。


 動けないことが歯痒くて仕方が無い。

 暴れ狂い、死人にむち打つような残虐行為、過剰殺傷を行うチリアットを止めるべくドローンとゼドが動いているが、撒き散らされる腐敗の吐息と恐るべき速度で振るわれる亜竜の右腕が次々とスクラップを量産していく。


 ゼドをして苦戦させる、魔将の如き力を振るうチリアット。

 このまま彼の暴走が続けば、トーナメントそのものが中止になりかねない。

 その時、観客席を飛び出していく者がいた。

 カーインだ。


 荒れ狂う腐敗の霧の中に飛び込んでいくが、何か目に見えない呪的なエネルギーを纏っているのか、【吐息】がカーインを害することは無い。

 親指貫手の形に構えられた両腕が疾風の如き勢いで繰り出される。だがチリアットは異常な反応速度で硬質な鱗に覆われた右腕でそれを防御。


「悪いが、亜竜人の弱所なら知り尽くしている」


 右の貫手が黒亜竜の腕に食い込んでいた。

 チリアットが絶叫しながら仰け反り、白目を剥いて仰向けに倒れ伏した。

 右腕の変異が解除され、元通りの牙猪となった彼は泡を吹いて痙攣している。


 蔓延する黒い霧はセージの水流によって浄化され、腐敗したジョイントマットの取り替えが行われる。しばし進行が滞った。

 行司シューラによるチリアットの反則負けが言い渡され、ドローンがチリアットを搬送していく。


 勝者は倒れ伏したクレーグレン。

 ぼろぼろになった黒衣が剥がれ落ちて、中にいた人物の姿が露わになる。

 勝ったにも関わらず、女性的なまでに美しい顔を悔しそうに歪める男の名は、やはりというべきか、【変異の三手】が副長の一人、クレイ=ライニンサルだ。


「無事かな」


 カーインが手を差し伸べると、クレイは鋭く相手を睨み付けた。


「余計な真似を」


「すまない。君の誇りを傷つけるつもりはなかった。ただ、次に戦う相手には礼を尽くしたいと思ってね」


 カーインの口調は礼儀正しいものだったが、聞く相手によっては慇懃無礼ともとられかねないため、挑発になりかねない。俺がそうだ。

 そして、クレイにとってもそれは同じようだった。

 刃の如き眼光が向けられるが、カーインはそれを平然と受け流した。


「恥じることは無い。チリアットはかの伝説の再生者を引き合いに出して語られるほどの猛者だ。むしろあの吐息を受けて生きていることが君の強さを証明しているように思うが――」


「黙れ」


 クレイの声が一段低くなり、物理的な圧力を伴ってカーインの長広舌を一刀両断した。それは低位の呪文である。

 極限にまで薄く小さく押し固めた【空圧】の刃。

 それが、カーインの髪と頬を浅く切り裂く。


「ヒュールサスの名を消し去った地獄の人間が、再生者オルクスを語るなっ」


「――ほう」


 気色ばんで下からカーインを睨み付けるクレイ。

 興味深げにそれを見下ろすカーイン。

 一触即発となった二人をドローンとゼドが引き離したことで、その場はひとまず収まることになる。準決勝に波乱の予感を残して。


 カーインとクレイの対峙を見てまたしてもガタッと立ち上がってしまった店員さんは慌てて座っているが、次出番なので立って下さい。

 

 それにしても。

 準決勝で激突する両者は、奇しくも揃って敗北しながらも勝ち上がっている。 

 勝利条件など、状況次第でいくらでも変わるため、強さの単純な比較はあまり意味がない。


 それでも、人は強さを序列化することが好きだ。かく言う俺も、自分やカーインらの第五階層における強さのランキングが変動する度に一喜一憂している。

 いや、憂いは一方的にコルセスカだけに預けてしまっているのだが。


 強さとは何か。

 ルールを厳密にすればするほど、それはゲーム、スポーツ、競技としての色合いを濃くしていく。


 『制限を設けないこと』こそ最強とするなら、最終的には天変地異かウィルスあたりがそうであると結論付けるという極論に行き着いてしまう。

 その意味では、ウィルスを相手に感染させるカーインの厄介さはこの上無いと言えるだろう。


 逆に『制限の中での強さ』を想定すると、それはその制限ルールについて知悉し、その中で極限の修練と適応を繰り返した者こそがそうであると考えられる。

 人の時間は余りに短く、それに焦り、絶望する者もいる。

 ゆえに技術を体系化し、継承させていくことで強さを研ぎ澄ませていく、拡散させて多数の人海戦術によって精度を上げていくといったアプローチが生まれる。


 しかし、それは人の命が限られているという前提に立った上での話だ。

 その寿命が無限である不老不死者ならば。

 あるいは、輪廻転生を繰り返して知識や技術を引き継げる者ならば。

 その思考実験を形にした存在が、今まさに現れようとしていた。


 整えられた練武場の中央に、細やかな光の粒子が舞い落ちる。

 それは氷の欠片。

 風もない室内を不自然な北風に乗って銀なる白が踊っていた。


 やがて様々な明色はその輝きの度合いを増していき、遂には天井の照明すらも超えた眩さで人々の目を覆い尽くしていく。


 光が収まり、困惑する人々はそれを見た。

 広大な空間に屹立する、巨大な氷の三叉槍を。

 その名を誰かが呼ぶより早く、淡く光るオブジェクトに亀裂が入り、盛大な音と煌めきと共に内側から白い少女が現れた。


 刃を潰した氷の模造三叉槍を器用に回転させながら左右と頭上の氷片を吹き飛ばした冬の魔女は、右の義眼を強く輝かせた。

 三叉槍の穂先が鋭く前に突き出され、対戦相手の方を挑発的に指し示す。


 ど派手なパフォーマンスに会場が一斉に湧く。

 大盛り上がりの観客たちの声援を受けても、そんなものは慣れっこだとばかりに涼しい顔をしているコルセスカだが、俺は知っている。


 あの演出は、徹夜でやったゲームに出てきた冬の魔女の登場シーンそのままだ。

 フィクションの影響を受けやすいというか何というか。

 それが神話の魔女ということなのだと思うのだが、事情を知っているとなんというか、妙な子供っぽさを感じてしまう。


 多分ここにいる大半が素直に格好良い四英雄の姿を見ているのだと思うと、どうしてかそれが可笑しかった。

 意思が伝わったのだろうか、青い視線が一瞬だけこちらを向いて、小さく微笑みを作った。


 挑戦を受けて立つように、俺の傍から進み出るのは店員さん――ラズリ・ジャッフハリムだ。

 ヴェールに隠れた表情は引き締められ、静かにコルセスカを睨み付けていた。


 手にしているのは普段使用している錫杖で、尖端は円盤に似て鈍器としての威力は十分ありそうに思える。 

 殺傷は無しとはいえ、下手をすれば怪我くらいはしかねない。

 ただし、相手は地上最強の四英雄の一角だ。


 これまで勝ち上がってきたとはいえ、下方勢力の探索者が勝てると本気で信じている者はあまりいないだろう。

 聞くところによればラズリ・ジャッフハリムという名前は地獄においても無名らしい。第五階層に来てから頭角を現した探索者であり、評価こそ急上昇しているものの、その名声値は地上の四英雄に匹敵する程ではないという。


 というより、どうやら地獄は探索者の総数が地上よりも少ないようだ。

 四英雄に相当する強力な探索者もおらず、そうした職業に就く者は地獄でもアウトロー的な存在らしい。

 どうも社会体制の違いがこのような差を生んでいるらしいが、詳しい事まではわからない。いずれ地獄についてもきちんと知っておきたいものだが。


「ラズリ・ジャッフハリム、参ります」


 宣名はそれなりの迫力を静かに醸し出したが、コルセスカの圧倒的な呪力に抗しうるほどのものではない。


 陽の部の反対ブロック――陰の部の準々決勝第一試合。

 それはすなわち、呪術的事情によって陰陽の部に分かたれたこの特殊ルールの星見の塔トーナメントにおける、女子の部の準決勝を意味していた。


 陰陽二つのトーナメントで練り上げられた二種の呪力。

 それぞれの部の優勝者同士がぶつかり合うことで、極限に到達した呪いによって強引に俺の肉体に陰陽の調和をもたらすということらしいが、正直それ理屈が通っているのか? と不安になる。理屈が通ってない呪術なのかもしれないけど。


 行司シューラの試合開始宣言と同時に、両者は同時に踏み込んだ。


 突き出されたコルセスカの槍をラズリの錫杖が打ち払い、円盤型の尖端が弧を描きながら横に振るわれた。

 初手から派手な撃ち合い。相手の出方を待つ事などどちらも考えてすらいないかのような熾烈な武器と武器のぶつかり合いに、会場の熱気が増していく。


 双方、長柄武器を手にしての戦い。

 一定の間合いを維持しながら必殺の機会を待つ、繊細な読み合いの勝負が繰り広げられる――俺はそう予感したが、そうはならなかった。


 ラズリは大振りの攻撃を次々と繰り返した。隙を圧倒的な速度と錫杖の威力で埋めながら、広範囲の横薙ぎで面を制圧していく。

 圧倒的な先端重量が可能とする力任せのゴリ押しだ。


 武器の特性を考えれば、払いよりも打ち下ろしの方が適しているようにも思えるが、真下へ叩きつけた錫杖が空振りになれば大きな隙が生まれてしまう。

 横方向の薙ぎ払いで相手を追い詰めつつ上から下への速度のある攻撃でとどめ、という戦術だろうか。


 対するコルセスカは、薙ぎ払いの軌道を正確に読み切ると円盤の根本に三叉槍を突き込み、引っかけ、武器の軌道を逸らしていく。

 三叉武器の使い方としては定石とも言える技だが、基本形を丁寧になぞった古流の槍術はラズリの体勢を大きく崩した。


 得物を取り落とす事は無かったが、かえってそれが良くなかった。

 床に先端を落とされた錫杖は完全に動けなくなっている。

 三叉槍で相手の武器を封じ込めたコルセスカは素早く踏み込んで間合いを詰めると、左の掌底を勢い良くラズリの胸元へと叩き込んだ。


 それを、


「――手ぬるい攻めです」


 ラズリの全身が粘土のごとく歪んだかと思うと、コルセスカの掌打が体内に飲み込まれてしまう。

 極められた。

 それも、肉体をどろどろに融かして変異させるという異様な手段で。


 咄嗟に三叉槍から手を離したコルセスカはその手でラズリの顔に貫手を放つ。

 回避したラズリは黒色の塊となって床を這っていき、瞬時に離れた場所で人型を取り戻した。

 ヴェールに覆い隠された表情が、微かに緩んだ。


「冬の魔女――貴方は攻め手になりたがっているだけ。本質的には受け手です」


「何を」


「これからわたくしが、本当の攻めというものをご覧にいれましょう」


 夜の民という種族特性が可能にする、俺の理解を絶した体捌き――それを体捌きと呼んで良いのかどうかすら俺には判断ができない。

 あまり前衛向きではなく、触手槍術と呼ばれる独特の武術を使う種族だと聞いていたが、それは決して夜の民の前衛が弱い事を意味しないようだった。


 恐らくラズリ・ジャッフハリムは単純な膂力に於いては準々決勝に残った者の中でも弱い方だろう。

 しかし、肉体を精緻に使う手段、体内のエネルギーを制御、運用する効率にかけてはサイバーカラテユーザーをして唸らされるものがある。


 ラズリは腰を低く落とし、爪先を内側を向けて八の字にしていた。

 柔らかい膝と股関節は静かに脱力しているようだが、内側に向かう運動エネルギーは充溢し、足の底は左右どちらかの方向にはじき出されるのを今か今かと待っていることは間違い無い。


 足底が僅かに持ち上げられて、地面をなぞるように移動していく。

 まるで影の中に足を沈ませ、その中から足を引き抜かずに滑らせていくかのような歩法――いや、それを歩くと称していいものなのか。


 柔らかく股関節を動かして地を『泳ぐ』、円弧を描くような流麗な歩法。

 それこそが彼女が用いている武術の要であり奥義なのだと、俺は理解した。


 重力を利用した沈墜勁を制御・維持したまま自在に動き回る精密な体捌きは、地を這う影の如き種族、夜の民ならではの完成度だ。

 足裏は背後に存在する確かな体系を踏まえながら、一切の淀みなく舞踏や演武のように運ばれていく。


 八歩で完成する二重の円周、螺旋の動き。

 相手の認識からかき消える零の瞬間、空隙の姿勢。

 そこに最後の一打が加わり、合わせて九の動と零の静が曲線を一枚の絵画のように連結させていく。


 内実である九節と空虚なる零の一節。

 それは足から始まり掌で終わる。

 自他の間合い、確度、高さまでもを計算に入れた螺旋勁。

 足底から発して足首、膝、大腿、腰、背、肩、肘、前腕、手首、そして掌へ。


 完璧に制御された体軸が横回転しながら四肢の末端へとエネルギーを伝達していく。呪術的には、それを丹田から発する内力、などと形容するのかもしれない。

 打撃を行う右腕の反対側、左腕もまた同様に伸びていた。全身の調和と共に放たれた力は、静かな流水のようでいて、激流のような重さを宿している。

 

 杖術を織り交ぜながらの連撃を、コルセスカはかろうじて拾い上げた三叉槍で捌いてみせたが、今度杖を手放したのはラズリの方だった。


 コルセスカの背面に回転しながら回り込み、腕をとると同時にコルセスカの踵を足で固定して鋭い肘の一撃。

 しかしコルセスカは恐るべき神経反射を発揮。視界からかき消えたラズリの動きに反応して見せた。


 コルセスカの身体が脱力しながら僅かに沈み、同時にラズリの打撃が冬の魔女の体表面を滑っていく。

 その背中を、氷が覆い尽くしていた。

 摩擦が無くなった背を斜めに滑るラズリの肘。


 夜の民としての異形の歩法の次は、冬の魔女としての奇怪な防御。

 共に尋常ならざる呪術と武術、その複合。攻防の後、旋回した槍と杖とがぶつかり合い、快音を響かせる。


 両者、飛び退って体勢を立て直した。

 コルセスカが左目を眇めてラズリの足を凝視する。


占星術アストロマンシー――いえ、占地術ジオマンシーですか」


「正解ですわ、冬の魔女。禹歩も少し混じっていますけれど」


 翻訳なのか俺の前世からの引用なのか判断に困るが、いずれにせよラズリ・ジャッフハリムが使っているのはただの武術ではあり得ない。

 それは一目瞭然、見ただけで誰にでもわかる。

 なぜならば――それは呪術であったからだ。


「――易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」


 太極とは万象の根源であり、両儀とは天地すなわち陰陽、四象は日月星辰すなわち太陽・太陰・少陽・少陰を意味する。

 自然に俺の中に知識が浮かんできたということはやはりこれは引用だ。

 異界から引き出された意味が、呪力となってラズリの周囲に充溢する。


 呪術の使用は、自らの肉体に影響を与えるものに限れば許可されている。

 よってこれは反則ではない。

 ラズリが通過した後に、痕跡としての影が張り付いていた。

 それがゆっくりと浮き上がると、黒々とした文字の形を成していく。


 それらは呪文であると同時に夜の民としての身体の一部である。呪文を身体性の拡張であると捉えているのならば、呪文の行使はすなわち『武術』だ。肉体言語魔術も非殺傷用途ならば許可されている。その意味では殺傷しかできない剣詩舞士のクレイは不運としか言いようがないが、それはともかく。


「わたくし、お客様にはとっても感謝しているのです。何しろ、これだけ強くなれたのはあの方が日本語を――漢字をこの世界に持ち込んでくれたからですもの」


 『店員さん』の周囲を乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八文字が浮遊している。それらは点と線で繋がっていき、白と黒の象徴的な図像に内包されていく。

 『離』と『震』の二文字が白の中の黒点に凝縮され、錫杖の円盤と重なり合った陰陽の図像を巨大な呪力が取り巻いていった。


「色々な表意文字を試したのですが、漢字が一番しっくり来ました。この戦い方が完成したのも、全ては異界信仰のミームの賜物なのです。その意味では、これもまた異界の武術サイバーカラテの亜種なのかもしれませんね」


 流れるような移動と一体となった錫杖の突き、払い、打ち掛け、振り下ろし、巻き込み、捻り、開きという多用な変化が次々とコルセスカに襲いかかる。

 ラズリが足を踏み出す度に足下から浮かび上がった漢字が白あるいは黒の光を纏いながら錫杖先端へと導かれ、呪力を纏って威力を増幅させる。


 目の前で起きていることが信じがたい。

 対応が追いつかず、コルセスカが押され気味になっていた。

 気がつけば、ラズリ・ジャッフハリムの存在強度は宣名時とは比較にならない程高まっていた。


 観客たちの見る目も完全に変わっていた。

 四英雄コルセスカの引き立て役ではなく、その存在を危うくする強敵として。

 絶え間ない歩法の繰り返しの中で、いつしかラズリの全身は不定形の影となって形状を崩壊させていた。


 それでいて、極めて安定した流れを維持している。

 まるで水だ。

 影となったラズリ自身が文字に変幻して、錫杖を持った『辰』の字がその内側に無数の星々を煌めかせながら円弧を描いていく。


「辰とは日月星を含めた全天、すなわち星辰配置のこと。占星術師が扱う領域であり、翼持つ者クロウサーの掌握範囲。そして元々は天体マーディキ神群が司っていた陽中の陰。ですが、わたくしはそうした神格を参照しようとは思いません」


「夜の民だというのに――マロゾロンド以外の古き神の加護を?!」


 防戦一方となったコルセスカにもはや打つ手は無い。

 あらゆる反撃の機会を悉く潰されて、受けに回って有効打を避けることで精一杯となっている彼女の青い瞳に、焦燥が浮かぶのがわかった。


「槍神の従属神、パーシーイーの神働術――その身で受けるといいでしょう」


 低く、低く、黒い影が沈んでいく。

 ばねのように力を撓ませて、極限まで張り詰めた沈墜勁が影を疾走させる。

 錫杖を振り上げた影が変幻していき、漆黒の枝角を生やした鹿の頭部が吠える。

 青い鹿頭に有翼の人身という獣人となったラズリの勢いは止まらない。


「八卦良ーい――のこった♪」


 可愛らしい声と共に、険呑極まりない連撃が放たれた。

 ありとあらゆる方向から錫杖が、触手が、翼が、枝角が、足による動きの固定が、肘が、掌底が、コルセスカを滅多打ちにしていく。


 勝敗はここに決した。

 倒れ伏したコルセスカを見下ろしながら、ラズリは冷淡に言い放つ。

 驚くほどの長広舌は、まさしく自意識の強い呪術師そのものだ。


「参照可能なあらゆる異世界は、数学の系が同一です。ゆえに、数字という記号は内包する意味を保持しやすい。その神格性を数字によって表記するパーシーイーはどのような『音』に変異しても同一の性質のまま、強大な神格としての存在強度が発揮できる――槍神の従属神であり知名度は低く、キュトスに付随するハザーリャのような存在ですが、その格は決して低くありません。むしろ主神の力を最も強く受け継いでいると言う事もできましょう。所詮は受けに回るしかできない神格の加護では、この私とパーシーイーの攻めには勝てません」


 槍神の従属神から加護を引き出した結果があの圧倒的戦闘能力だとすれば、その力は確かに恐るべきものだ。

 感心したような声が響いた。


「なるほど、両性あるいは無性、中性の神格ですか。マロゾロンドと通じますし、夜の民の信仰する神として相性がいいのは確かなようですね」


 ラズリは愕然と金色の目を見開いた。

 そして、コルセスカの全身が粉々に砕け散るのを目の当たりにする。

 氷の像と幻影による偽装。

 そこにはコルセスカは存在しない。


 行司シューラから反則だという声は上がらなかった。

 なぜならば、その氷はコルセスカの血液を凍らせて作りだした彼女の身体の一部であるからだ。自らの肉体に呪術を行使することは認められている。


 元々一つであった肉体の一部は遠隔作用によって相互に影響を及ぼし合う。それが感染呪術の考え方であり、【生贄】の呪術の極意である。

 しかし、時空を操作する凍結の邪視者コルセスカにとって世界の全ては『場』として捉えられるものでしかない。


 摸倣子への干渉によって生じた『呪力場』の歪みによる近接作用。それは時間軸を凍らせながら物語を生起する人間の本性、認知可能な事象を整理する時間的秩序をすり抜け、『隔離された今』への退避を可能とする。


 自分の血液のみを消費してほんの一瞬だけ発動させた氷血呪。

 虚空に出現した無数の氷鏡。硝子のようなそれらが次々と砕け散って行く。最後の一枚をぶち破りながら飛び込んできたコルセスカが、本来の時間軸に帰還する。


 そして、雨――否、雹の如き連撃が繰り出される。

 虚空に保存されていた『攻撃時間』が一斉に解凍され、一瞬のうちに夥しい数の刺突がラズリを襲ったのだ。


 黒紫の衣服が無惨に引き裂かれ、ぼろ切れとなっていく。

 衝撃で鹿の獣人としての形態が維持できなくなり、元の霊長類型の形態に戻されてしまう。

 露わになった肌を隠しながら、ラズリは悲鳴をあげて蹲った。

 俺は思わずぐっと手を握って快哉をあげる。


「よし、でかしたコルセスカ!」


 鮮やかに逆転したコルセスカを褒めただけですが、何か?

 やめろ、揃って俺を白眼視するのはよせ。

 レオにまでそんな冷たい目で見られると傷付く(コルセスカが)。


 本当にコルセスカの勝利を喜んだだけなのに、どうして信じて貰えないのだろう。日頃の行いが悪いのかもしれない。


 腕で胸元を押さえて頬を羞恥に染めるラズリは、恨めしそうにコルセスカを睨み付けて言った。


「ああ、服がこんなに。下のポイントこっちで使えないのに。出費がまた――それにこの服気に入っていたのに、ひどいですひどいですー!」


 ラズリの悲痛な叫びが練武場に響く。ポイントってなんだろう。

 コルセスカは冷ややかに座り込む対戦相手を見て、言った。


「どうやら、加虐嗜好を気取っているだけの被虐嗜好はそちらのようですね?」


「ううー!」


 じわり、とラズリの目尻に大粒の涙が浮かぶ。

 店員さんを泣かせるとか普通なら許し難いが、コルセスカなのでむしろ良くやったと褒め称えたい。涙目の店員さんがもっと見たいので更に苛烈に虐めていいぞコルセスカ。


 頬を膨らませているラズリ・ジャッフハリムは下唇を噛みながら上目遣いにコルセスカを睨み据え、それから幼子がいやいやをするように首を振って、最後に癇癪を起こした。


「――あなた嫌いです。戦ってみてわかりました、冬の魔女はやっぱり悪者です。いい子にしてないと冬の魔女がやってきて氷漬けにされちゃうって、クエスおじさまの言っていた事は本当だったんだわ」


「そうですか。私も何故か貴方を見ていると無性に腹立たしくなります。気が合いますね」


「気が合うのは嫌なのでやっぱり好きです――はっ、わたくしったらなんてことを! 違うんです、そう言う意味ではなくて、ああお姉様ごめんなさい!」


 何言ってるのかわからないけど馬鹿っぽい店員さんも素敵だ。

 と、彼女は俯いて聞き取れないほど小さく何かを呟いた。

 それからきっと視線を持ち上げて、勢い良く立ち上がる。


「――不埒者。数々の無礼、まことに許し難い。冬の魔女、忌まわしい我らが怨敵。積年の恨み、ここで晴らしてみせましょう」


 ラズリの声が一段と低くなって、金色の目が険呑な色合いを宿す。

 奇妙な感覚だ。外見は変わっていないのに、何故か別人に見える。

 まるで彼女の中に、誰かが入り込んでしまったかのように。


「星間追放の刑に処す」


 異様な雰囲気にコルセスカが身構え、行司シューラがラズリを制止するが、半裸の魔女を取り巻く呪力はより一層不気味さを増していくばかり。

 膨れあがった影のような力の渦が、呪文と共に凝縮されていった。


「其は煌めく星のように――【天招星歌・星夜光】!」


 かっと金色の目が見開かれ、瞳孔が砲身と化して呪力を放出した。

 ラズリの両目から放出されたのは、星の光を集めたかのような煌めきの束。

 光線が空間を走り、コルセスカへと突き進んでいく。

 コルセスカが咄嗟に邪視を発動して破壊的な光に抵抗した。


「今どき目からビーム?! まさかこれは、イングロールお姉様と同じ起源を持つ【星見の塔】の権能ですかっ」


「この【星夜光】を目からビームと形容した者を、わたくしは絶対に許さない! 命でその罪を贖うがいいでしょう!」


 危機的状況の筈だが、どこか緊張感の無いやりとりだった。

 しかしラズリの金眼から放出される光線の威力は凄まじい。あのコルセスカが凍結させて無効化するのに時間がかかっている。

 ――いや、というより、無効化できていないのか?


 まさか、と思った。

 だが、やがて疑惑は確信へと変わる。

 コルセスカの眼前で静止している光の束は、拮抗を打ち破ってじりじりと冬の魔女に迫りつつあった。


 邪視の座の末妹候補、コルセスカが、まさか邪視で圧し負けるなどということがあるとは思えない。

 だが、現実にそれは起きていた。

 コルセスカが、邪視で負けるというのか。


 いつも妙な余裕と自信に満ちた表情が、苦しさに歪んでいる。

 それが見ていられなくて、気付けば叫んでいた。


「何をやってる、それでも冬の魔女かコルセスカ! そのくらい、『アイスブラッド』なら余裕で跳ね返せるし、『幻想戦記』なら全て回避できるはずだっ」


 俺の言葉は多分、周囲のほとんどの人にとっては意味不明だっただろう。

 しかし、コルセスカはその言葉を聞いて、何かに気付いたように息を飲んだ。

 それは俺たちが子供のように徹夜で遊んだゲームのタイトル。

 参照したのは、その中に登場するフィクションの冬の魔女だ。


 コルセスカの三叉槍が青白い光に包まれて形状を変化させていく。

 変貌した【氷球】は自律的に呪文を作動させる呪具と化して【水鏡の盾】を発動。本来は水の鏡面を作り出す呪術はコルセスカが使用した事で氷の鏡となって極大の閃光を吸い込み、反射した。


 ラズリは影の塊となってその場から退避。観客席へ向かった光線をゼドが間一髪で迎撃する。

 行司シューラが試合中止を呼びかけ、ドローンが乱入する中を、ルールなど知らぬとばかりに二人の魔女が縦横無尽に駆け巡る。

 

 影となったラズリが神出鬼没に現れては目から光線を放っていくと、コルセスカは右の義眼と【氷球】の広範囲感知能力でそれを捕捉して全てを迎撃。

 乱反射する光がドローンを破壊し、駆け回って観客を守るゼドやカーインを疲弊させ、【霧の防壁】を維持するセージから罵声を上げさせる。


 戦いは既に武術の競い合いという枠を逸脱していた。

 両者失格としても問題無いほどの大迷惑な戦闘を繰り広げながら、コルセスカの動きは目に見えて良くなっていく。


 ラズリの移動能力と圧倒的な破壊力の光線攻撃が組み合わされば、大抵の相手は一瞬で敗れ去るだろう。

 だがその恐るべき『目からビーム』に対応する手段を、コルセスカは獲得しつつあった。

 それは、一瞬前までの彼女には無かった力。


 コルセスカは、戦いの中で成長していた。

 俺の言葉で気付きを得たコルセスカは、冬の魔女としての力を過去から引き出しつつあるのだ。


 気付けば白銀の少女の目の前に、おぼろげな半透明の、少女と瓜二つの幻影が出現している。

 それは、コルセスカが妄想の中で幻視した『冬の魔女』の姿だ。


 幻影は様々な冬の魔女に次々と移り変わっていく。

 それは転生者ゆえの特権。前の人生を参照して、技量や経験の『引き継ぎ』ができるという、ゲームで言うところの周回プレイ。


 神話のコルセスカの痕跡ゴースト。神話の幻像、前世の履歴。

 リプレイデータの参照。

 様々な能力、数々の戦いを潜り抜けてきた経験、無数のコルセスカ像。


 コルセスカは、歴代の冬の魔女たちのプレイングを参照して、その技術をなぞり、摸倣し、盗み、そしてレコードを乗り越えようとしている。

 コルセスカの足が踏み出され、より速く、より強く、より前へと突き進む。

 そして、幻影に追いつき――追い抜いた。


 無数の氷柱が星の光を引き裂いて、不定形の闇に突き刺さった。

 絶叫を上げるラズリだが、ヴェールに包まれた少女の顔とどろどろに融け合った牡鹿の頭部からは戦意が消えていない。

 金眼が閃き、錫杖が示す先に『それ』が現れた。


「その痕跡ゴーストは――!」


 コルセスカが瞠目する。

 ラズリの前面にも、コルセスカと同じように幻影が出現しているのだ。

 そして、その動きを摸倣して乗り越えようとすることで技量が精錬され、引き離されたコルセスカとの実力差が埋まっていく。


 両者、無数に切り替わる多種多様な幻影に追いすがり、時に追い越し、時にそれを見せ札フェイクとして相手の思考を誘導しながら、熾烈な戦いを繰り広げる。戦いの次元が高みにありすぎて、既に誰も二人を止める事はできなくなっていた。それは同じ四英雄のゼドであってもだ。


 熾烈を極める頂上決戦。

 地上と地獄という両勢力の探索者、その最高峰の戦い。

 互いに死力を尽くし、片方の攻め手がより高度な応手を引き出し、致命的な罠としての受け手が更に苛烈な一手を練り上げさせる。


 歓声は完全に止んでいた。

 制止しようとする副審たちも、ドローンを止めてその戦いに見入っている。

 拮抗した実力は時にお互いの力を限界以上に引き上げる。

 一生のうちに出会えるかどうかという、得難い好敵手。


 そうした運命的な関係に二人があることはもはや自明であった。

 高く跳躍し、天から舞い降りたコルセスカが氷の球体を三叉槍に変えて突き下ろし、迎え撃つラズリが枝角を触手として伸ばしながら青い翼を広げ、胴体から生やした少女と牡鹿の頭部から四条の光線を放つ。


 砕け散る氷とその中を乱舞する星の閃光、それらが極小の空間で超新星爆発のごとく煌めいて、踊る槍が、錫杖が、氷柱が、触手が、蹴りが、翼が、あらゆる空隙を埋めて激突していった。


 絶え間ない攻防を制して長柄武器の間合いに標的を捉えたのはコルセスカ。

 空中から落下することで位置エネルギーを――すなわち重力を利用して槍が振り下ろされる。

 

 しかし重力を味方につけているのはコルセスカだけではない。

 身軽さを武器にして縦横無尽に上方を跳ね回るのがコルセスカの歩法ならば、ラズリの歩法は地を這い、時に影の中に沈み込む下方へ飛び回る歩法。


 共に三次元的な『高さ』を重視した戦法。しかしその性質は上下に対極。

 天より来たる必殺を深く沈み込んで受け流したラズリは、そのまま股関節と膝を緩めながら円の動きでコルセスカの目の前から消える。


 先の攻防の再現。

 相手の虚を突いて背面から攻める流水の如き動き。

 錫杖を捨てて身軽になったラズリは回転しながら触手と化した足をコルセスカの足に巻き付けて完全に固定し、沈墜勁からの十字勁という緻密な重心制御と身体制御によってより速く早い肘打ちをコルセスカに叩き込む。今度は氷によって受け流されぬよう、肘先からは小さな枝角状の触手がスパイクとして生じていた。


 解放された力が十全に伝達され、発された威力はコルセスカを打ちのめした。

 俯せに倒れ込むコルセスカ。力尽きた身体が動くことは無い。

 勝利したラズリは息を吐き、


「残心がなっていませんね」


 頭上から落下してきた【氷球】に頭蓋をかち割られて倒れた。

 割り砕かれた頭部から黒い粘液が流れだし、無数の気泡を生む。

 その泡の中から次々と小さな牡鹿や縮小されたラズリが出てきて、甲高い声で口々に喚く。


「いたいですー」「ずるいずるい」「ひきょうものです!」「やりなおしをようきゅうします」「ものいいがはいりました」「おなかすいたですよ」「おねえさまー、ふゆのまじょがいじめるー」「ばーかばーかあなたのぜんせでべそー」


 何この、何?

 小さなラズリたちは一つに依り合わさってうねうねとしたイソギンチャクのような触手生物に変貌し、割れたラズリの頭部の中に入って内側から傷を埋めていく。頭部が修復されると閉じられていた目がぱちりと開き、本体が息を吹き返す。


 俯せに倒れたままそれを見ていたコルセスカが、小さな声で言った。


「転生者のゴーストに、【星夜光】の奥義。そういうことですか。トリシューラからは、何も聞いていないのですが」


「あの方は、ああですから」


 意味のとれないやり取りだったが、何かまたトリシューラの隠し事が露見したということに違いない。後で問い詰めよう。

 激闘を繰り広げた両者は共にかろうじて生存しているが、倒れ伏したまま動かない――動けない。


「わたくし、もう動けません」


「そうですか、奇遇ですね、私もです」


 両者戦闘不能。

 それ以前に、再三のルール違反により両者失格。

 準々決勝に進出した二人の探索者は、こうして双方敗北という形で退場することになった。


 担架で並んで運ばれていく二人。

 俺の目の前を通り過ぎるコルセスカは柔らかく微笑んで、小さく「ありがとうございます」とだけ言った。


 同じく俺の目の前を通過していくラズリが「ふわー」と頬を紅潮させていたようだが、本当に何なんだろうこの人。どこに反応してるの?

 二人が一度に退場したことで、次に行われる女子の部で勝利した者が準決勝を飛び越して決勝進出することが決定してしまった。


 公式大会の私的利用なのであまりおおやけにできない目的だが、俺の治療という成果を獲得するためにはコルセスカかカーインに優勝して貰うのが望ましかったが、こうなっては仕方が無い。


 それに、こちら側の陣営にはもう一人頼りになる存在がいる。

 女子の部に参戦する、陰の気を宿すサイバーカラテユーザーの黒帯保持者。

 【マレブランケ】のリーダー、マラコーダが試合会場に進み出た。


 その鍛え上げられた美しい肉体は男性のものだが、彼女のアストラル体は紛れもない陰の気を宿した女性のものだ。


 長身と長い脚から繰り出される蹴り技の鋭さはカーインのそれを単純比較において上回るほど。ミアスカ流脚撃術というこの世界独自の足技格闘技の達人は、順当にここまで勝ち上がってきていた。


 彼女もまたサイバーカラテユーザーのランキング上位者であり、基準点であるカーインを破ることが可能な安定した実力を有している。無論、それが単純にカーインよりも強い、ということにはならないのだが。


「さあて、それじゃあ行ってくるわね」


 俺に向けて軽く微笑んで颯爽と進んでいく彼女の腰に、常には無い異形が張り付いていた。

 生えていたのは、先端が尖った長い尻尾。


 マラコーダが形成した『蠍の尻尾』はとある古代生物の細胞を核に、第五階層の物質創造能力で外殻を構築した『尻尾の義肢』である。

 トリシューラが言うには、それは新型の擬態型寄生異獣であるらしい。


 俺を使い魔にしたことによって呪術師としての位階が上昇し、新しい感染呪術が試せるようになったのだとか。

 遠隔地であっても呪力によって切り離された身体部位は影響し合う。

 本人が死んでいても、それは有効である。


 古の闇妖精、蛇蝎王ハジュラフィンの怨念は残された遺骸に宿り、過去から現在へと呪力を伝え続けている。

 偉大な人物が残した遺骸、遺品などに呪力を見出す考え方があり、それらの品を聖遺物と呼ぶが、それはすなわち感染呪術的な思考と言える。


 更に関連して、『血が繋がっている』という関連は『基を辿れば起源を同じくする』という繋がりによって呪力を生み出す。

 旧時代に群雄割拠していた闇妖精の諸王たちの一人を祖先とするマラコーダは、強い繋がりによってその尻尾を使いこなすことができるのだった。


 記憶を司るという『藍』の色号が、彼女の蠍の尻尾を淡く輝かせている。

 『血族』という呪術基盤から祖霊を参照し、己の力となす呪術。

 本気を出したマラコーダの戦闘能力は序列上位の修道騎士に匹敵、あるいは凌駕するほどだ。


 よほどのことがない限り、易々と敗北することは無いはずだ。

 マラコーダの試合が始まるのと前後して、俺の端末にファルからの通信が入る。

 トーナメントを棄権した【変異の三手】の残る二人、黒衣の刺客らしき人物たちの正体が判明したのだ。


 エントリー名『イアー』が副長のイアテムで、『ニケ』が【死人の森の女王】であり、現在はそれぞれのブロックの控え室で大人しくしているらしい。

 だとすれば、黒衣を纏って夜の民を自称している最後の一人こそが、【変異の三手】のリーダー、グレンデルヒ=ライニンサルなのか。


 ――最初から、奇妙さは感じていた。

 グレンデルヒ=ライニンサルは男性だとされている。

 だというのに、エントリーされているその人物の性別は女性であった。


 呪術的な検査でも陰の気が検出されたため、女性の部に参加することを許可したのだが、本気で女性であると考えたわけではない。

 大方、俺とゼドが女装して潜入した事への意趣返しのつもりなのだろうと判断したのである。そのふざけた名前も含めて、こちらを翻弄するための策略だろうと。


 結論から言えば、それは半分ほど的外れだった。

 見上げるほどに背が高い女性が、ゆっくりと歩みを進める。

 すらりとしたマラコーダ、むくつけき巨漢であるカニャッツォやチリアットとほぼ同じくらいの長身、というより巨体。


 近頃ガロアンディアンで正式採用が検討されているメートル法換算で、およそ二メートルにやや届かない程度。

 今まで全ての対戦相手をただ一度突き飛ばしただけで場外へ押し出し、完全勝利を繰り返してきた、恐るべき膂力の持ち主。


 その登録名を、『アキラ』といった。

 それを見た俺は自然、ゼドから聞いた『ニセアキラ』の話を思い出す。

 同様にゼドも「気をつけろ」とだけ言ってその動向に目を光らせていた。


 今まではストレートで勝ち上がってきたが、相手がマラコーダほどの強敵であればその黒衣の内側を曝くことも可能になるだろう。

 対峙した二人の『女性』は礼をして、行司シューラを挟んで睨み合う。

 緊張が高まり、軍配団扇を構えた行司シューラが試合開始の合図を言葉にしようとしていた。


 その時、デフォルメされた少女の口元が、奇妙な歪み方をするのを、俺は見た。

 ――彼女は、あんなふうに、笑いを堪えるような、滑稽さを嘲笑するような表情をするタイプだっただろうか。


 実際にどうなのかはわからない。

 俺はトリシューラについて、まだ知らない事だらけだ。

 しかし、思考の隅に引っかかった違和感は、いつまでも消えない部屋の汚れのように何か形容しがたい不快さを残していった。


「発勁用意、NOKOTTA!」


 マラコーダは発声と共に疾走し、長い脚を生かした上段蹴りで先制攻撃を仕掛ける。更にその背後からは蠍の尻尾が後を追うという、二段構えの連撃である。

 最初の一撃を凌いでも、麻痺毒の呪いを宿した尻尾が襲ってくるという単純ながら効果的な攻めの一手。初撃としては順当だと言えた。


 ――相手が、尋常の使い手だったならば。


 一撃だった。

 誰も、何も言えずにその光景を唖然として眺めるばかり。

 戦術の分析だとか、理解不能な現象に対する驚きだとか、そういう一切が不要なわかりやすい結果に、逆に誰もが事態を理解し損なっていた。


 マラコーダの対戦相手は、単純な技をかけただけだ。

 ただ単に、それがマラコーダよりも速く、鋭く、重く、力強かっただけ。

 一切の抵抗を許さずに一撃で敗北するほど、圧倒的に。


 喉輪。

 黒衣の『アキラ』は、マラコーダの喉元を片手で真正面から掴み、もう片方の手で腰を、道着の帯を掴むと、そのまま上方に持ち上げて背中からマットに叩き落としたのだ。


 技の名は、喉輪落とし。

 行司シューラが決まり手が吊り落としという宣言をしたことで、ようやく勝負が一瞬でついたという事実がその場に浸透していく。

 それを吊り落としと呼んでいいのかはともかく――堂々たる勝者の女子の部優勝と、総合部門における決勝進出が決定したのは確かだった。


 巨体の横に浮遊する二頭身の行司シューラが、何故か得意げに胸を張って、こちらを見ていた――いや、それだけではない。

 黒衣の中、認識阻害の呪術の奥から、『アキラ』がこちらを見ているのが、はっきりと理解できた。


 そいつは、出し抜けに身に纏っていた黒衣を掴むと、まるでステージ上のパフォーマンスのように派手に剥ぎ取ってみせた。

 宙を舞う黒マント。

 内側から現れたのは、よく知られたグレンデルヒ=ライニンサルのものではなかった。


 予想に反して、と言うべきか。

 それとも、予想通りの外見、というべきか。

 屈強な女性だった。

 

 格闘家が用いるグラップリングパンツとレオタードが一体になった独特の衣装と、最先端技術が用いられた機巧廻しはボディアーマーとして民間警備会社で正式採用されている極めて強度の高い装備。


 剃り上げた頭部には頭髪の代わりに刺青のようにびっしりと刻まれた情報回路。

 最先端の脳侵襲機器とナノマシンが搭載されている事を示す頭部の前面には、精悍な、それでいて少し気怠げな顔立ちが張り付いている。張り付いているというのは比喩ではなく、制御可能な人工的な表情であるということだ。


 禿頭の側面に、【Neodetroit】の文字が輝く。

 恐ろしく太い首をこきりと鳴らして、女は眠たげな目をゆっくりと開き、穏やかな表情を獰猛なそれに変えていく。


 その姿を見て、俺の中に残留していた知識が呼び覚まされる。

 女子新相撲を経由して、屋外におけるモンゴル相撲、中国における柔術的要素を取り込んだシュアイジャオ、レスリングなどを包括する新競技として誕生した、今世紀最大の格闘技。


 SUMOスモー

 従来の大相撲に対する訳語ではなく、新たな単語として世界規模で使われるようになったそれを行う超人たちを、力士スモーレスラーと呼ぶ。


「はじめまして、シナモリ・アキラ。私はゾーイ・アキラ。『問題』を『解決』しに来た――と言えばわかって貰えるかな」


 流暢な日本語で、彼女は俺に笑いかける。

 宣名によって放たれる呪術的現象は一切無く。

 しかし、俺のみに感じられる威圧感は途方もない戦慄をもたらしていた。


「正々堂々、正面から。貴方にも納得がいくように、完全燃焼させてあげにきた。何も教えないまま、抵抗も許さずに叩き潰すってのは趣味じゃなくてね――そうだな、とりあえずは」


 既に失われた過去の記憶。

 彼女――ゾーイ・アキラはそこから俺を追ってここまで来た。

 運命に追いつかれた。


 こんな時でも、首筋から広がる冷気が俺の拍動を整えてくれていることが、どこか可笑しく感じられる。

 恐怖はない。

 それでも、今が過去最大級の窮地なのだと、俺は理解した。


「こう言えばいいのかな――たのもう」


 サイバーカラテユーザーは、たじろがない。


「どうれ」


 椅子に座り、身体を冷やさないようにどてらを羽織り、額に保温符を貼り付けてごほごほと咳をしながら、俺はそう言った。

 ――まずい、今度こそ死ぬかもしれん。






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