4-8 黒百合館
「『ニセアキラ』の話を知っているか」
そう切り出したゼドが色の付いた米を頬に付けていたので指摘すると、真顔で摘んで口に入れた。パエリアとも炒飯ともつかないこの料理はこの男の好物である。
俺は首を傾げた。
「いや、初耳だ。というか、【死人の森】と【変異の三手】絡みの話かと思って来たんだが」
「それもある――というか、その件で調べを進めていたら耳に入った情報だ。確かな事は言えないが、どうもそういった輩がいるらしい」
「俺の偽物が?」
まさか、という思いだった。
今はゼドに通された個室で向かい合って食事をしている最中だ。
娼館で宿で食堂で探索者協会の支部で――という雑多な施設が入り交じった建物は、事実上ゼドの根城だ。
ごく平凡なホテルのワンルームといった風情の部屋。
綺麗に整えられた空間に、ゼドの趣味らしい鍵盤を中心とした軽やかな音楽が流れている。ラグタイムっぽい、と言えなくもないような雰囲気だ。
たまにジャズっぽい感じのも混じるが、そういった音楽のカテゴリに含まれるものかは不明。
ある程度収斂進化するとはいえ、歴史は完全に同じではないだろう。
二人で運ばれてきた料理を楽しみつつ、頼んでいた【死人の森】の探索調査の結果を聞いていたが、相変わらず成果は無いとのことだ。
はっきり言って、ゼドが調べて駄目ならどこがやっても駄目だろう。
ゼドは四英雄で最も探索者らしい探索者だ。
戦いよりも遺跡などの探索に向いており、またそれさえ出来れば魔将を討伐したりといった主たる攻略には興味が無い、という性格である。
事実、ゼドが四英雄であるのは裏面に展開された古代世界における数々の調査研究の成果と、異獣の生態や罠の詳細、迷宮の地図作成といった情報面での功績、そして企業や国家に所属していない非正規探索者たちに希望を与えるため、という側面が大きいらしい。
とはいえ実際に戦って弱いということはない。古代世界の固有種を倒しているし、第九魔将ピッチャールーとの追撃戦の様子を仲間の一人が念写で撮影していたため、動画をネットで見ることができる。
魔将の攻撃パターンを読み切って『こうすればこうなる』という戦術を瞬時に構築、相手の行動を任意の方向に誘導し、更に迷宮の罠を逆に活用した『ハメ手』は探索者の間で語り草になっている。【風の王】との戦いの際には共闘してその力は実感済みだ。彼の事は信用している。ここで訳の分からない嘘を吐く男でもない。
しかし、ニセアキラ、ねえ。
それに何の意味があるのか、イマイチよくわからない。
「アキラと名乗っているのは確かなようだ。そして、サイバーカラテ特有の――『発勁用意』とかいう発声を耳にした者が何人もいる」
「サイバーカラテユーザーってだけなら珍しくも無いし、アキラって名前もこの世界では十分あり得るんじゃないのか」
「【三報会】が完全に潰された。文字通り、物理的に拠点ごと叩き潰されたって話だ。つい先刻入った知らせだがな」
少し、驚いた。
しつこく生き残っていた件の犯罪組織が潰されたという事実もだが、ゼドがその所在を掴んでいたこと、そしてその情報をこちらに教えたことにも俺は驚いていた。同盟関係にあるとはいえ、ゼドが手持ちの情報を無条件で開示することはあまり無い。何らかの見返りを要求されるかとも思ったが、それも無いらしい。
「それをやったのが、『アキラ』だという噂が流れている。当然お前はその時道場にいるはずだ」
「やったのはニセの方、ってことか」
「そういうことだ。どうも、かなり険呑な使い手らしい。三報会に残った最後の頭目、【報復】のティムが幹部の仇討ちに手勢を引き連れて動いた。つい10,800秒前のことだ」
三時間前か。
恐らくガロアンディアンの監視の目にもひっかかった筈だが、トリシューラは知らせるまでも無いと考えたのだろうか。
ちびシューラに訊ねると、意外な返答。
(え? そんな記録、入ってきてないよ? おかしいな、ちょっと調べてみる)
奇妙な感覚。
彼女がセージと共同で管理する監視網はほぼ完璧と言っていい。
残された三報会などの動きも大まかには把握できており、あとは時期を見計らって一網打尽にするだけだったのだが。
「結果は全滅。仇には三倍の報いを受けさせるというのが連中の信条だが――奴らが受けたのは三倍どころじゃない。これが死体の画像だ」
端末から立体表示された映像を見て、軽く眉を顰める。
俺は揚げた鶏肉をフォークで突き刺して口に運びながら苦言を呈した。
「お前それ俺じゃなかったら殴られるレベルの行為だからな。にしても、なんだこれ、どうやったらこんな死体が出来る? 象でも引っ張ってきたのか?」
挽肉――というよりも、それが肉なのかどうかすら事前に教えられていなければ分からないレベルだ。
原形を留めていないどころではない。
尋常な打撃、個人が生み出せる運動エネルギーでは到底不可能だろうと思われるほどの、それは徹底的な破壊だった。
凄まじい重量物を繰り返し繰り返し、完全に生命活動が停止した死体を粉微塵になるまで叩きつけてようやく可能だろうか、というほどの執念を感じる。
瓦礫と粉塵にまみれた小さな肉片の群れ。
石によって舗装された床は滅茶苦茶に砕かれ、その中に擦り込まれるようにして大量の血や臓物の欠片が見え隠れしている。
「象なら俺の銃で狩れるんだがな――どうやらこいつはそれ以上の怪物だ。いつだったか、お前が『俺は一般人だ』とか馬鹿みたいなことをぬかして、異世界の超人の話をしただろう」
「ああ、ブシドーとかニンジャとかスモーレスラーとかな。現代だと前線に出る『訓練された』軍人は無人兵器より強くないと意味が無い。極限まで無人化が進んだ先進国にとって防衛の基本方針は原則的に少数精鋭――要するにワンマン・アーミーとしてアホみたいな軍事費を投入された怪物が生まれるわけだ」
こうした知識は、一般常識として俺の頭の中に残っていた。
全身を機械化したり遺伝子操作したり生体強化を施したりといった超人たち――彼ら彼女らは前世紀までの戦争の常識を覆す人の形をした歩く兵器だ。
正規の軍人レベルまでは行かずとも、民間警備会社に所属する傭兵たちも似たような事情で人の枠を逸脱した超人と化している。
無人兵器の採用が増え、サイバー化が進む各国の紛争地帯やテロリストに対抗する為には必然的な流れだと言える。
「それだ。前に聞いたそのスモーレスラーとやらなら、こんな惨状を演出することも可能なんじゃないのか」
陰気な口調で肉を食うゼドを、思わずまじまじと見つめる。
死体が飛散する現場と見比べて、「本気か?」と問おうとしたが、どうやら冗談で言っているわけではないらしい。
「俺以外の外世界人――可能性はあるが、スモーレスラー、つまり力士ってのは国有の財産であり、国家機密たる軍事技術の結晶でもある。そう簡単に異世界に寄越すとは思えないんだが」
「だが絶対は無い。お前がサイバーカラテを持ち込んでこの世界に普及させたようにな。アレは多世界連合からの厳重な警告を喰らったにも関わらず、既にこの世界の文化に組み込まれたとして事実上黙認されているだろう。そう言うことが、今回も起こっていないと言い切れるか?」
そう言われると、確かに警戒の必要がある気がしてきた。
何か、俺の知らない場所で致命的な事態が進行している。
そんな気がしてならない。
「とりあえず、ニセアキラについてはそんなところだ。より詳しい情報が入ったら知らせる」
「悪い。助かる」
「見返りはお前の主から貰っている。俺としては報酬が手に入り、拠点が確保されているだけで十分だ。雇い主としては、小うるさい地上の大企業どもよりお前たちの方が上々だ。金払いが良く、なにより物わかりがいい」
薄く笑むゼドは、口元をソースで汚していた。何故こいつは微妙に食べ方が汚いのだろう。見た感じ、丁寧に食事を進めているのだが。
本人も自覚があるのか、首元にはしっかりとナプキンをかけている。かなり盛大に汚れていた。
「本題に入ろう。『地下』についての調査結果だ」
現在の第五階層は事実上ガロアンディアンが掌握している状況だが、完全な支配には至っていない。
ゼドが率いる『盗賊団』――無法者を名乗ってはいるが実際は名前だけの、要するに非正規探索者たちの寄り合い所帯――は同盟相手とはいえ別勢力だし、『駆除』から逃れた小規模な犯罪組織も幾つか残っている。
「どうも最近、『地下』を中心に動いている組織があるらしい」
「公社が完全に封鎖しているはずだがな」
【死人の森】の浸食によって死人が溢れかえっている地下は危険地帯だ。
そんな場所で活動できるということは、その組織は死人の群れに対処出来る程度の腕利き揃いか、それとも。
「【死人の森】と何らかの繋がりがあるってことか」
「そういうことだ。そして、連中は互いを識別するための符号として三本の手を持った三角錐の紋章を身体のどこかに、あるいは持ち物に刻んでいる」
それは、地下迷宮で目にした【変異の三手】を示す紋章だ。
敵は、地下から密やかにその上のガロアンディアンを狙っている。
じわじわと、少しずつ、這い寄るように。
「健全化が進んでいるとはいえ、非合法な薬物の取引、ネジの外れたレートの賭博、違法な売春の全てを撲滅するのは難しい。こいつを見てくれ」
ゼドが端末から投影された立体映像を切り替える。
カプセル型の薬だった。三角錐の形で、脇に日本語の説明文が記されている。
洒落にならない効用――そして、圧倒的な安価さだった。
公的に販売している合法ドラッグを駆逐しかねないほどの危険性が、このドラッグにはある。
「これ、どのくらい広まってる?」
「まだそこまでじゃない。だが、ウチの馬鹿が一人虜になってな。完全にぶっ壊された。再起不能だ」
「そう言うときはトリシューラの所に連れてこい――いや、悪い。それは駄目だな。失言だった」
俺の謝罪に、ゼドは沈黙で答えた。
同盟関係にあるとは言っても、全ての探索者たちが俺やトリシューラを快く思っているわけではない。
明確に借りを作ったり弱みを見せたりするようなことは、四英雄として、非正規探索者たちのとりまとめ役としてできないのだ。
とはいえ、こういう時に協力ができないのでは何のための同盟なのだとも思いたくなる。この状況は近いうちにどうにかしたい。
「まだ生きてるんだろう? 適当な理由――そうだな、薬欲しさに脱走したことにでもして中央通り辺りに放置しとけ。巡回してるドローンが自動的にマニュアルに従って公社の呪術医院に放り込むはずだ。そっちの方が幾らかマシだろう」
「――悪いな」
「俺じゃなくてトリシューラの作ったシステムにでも礼を言っとけ。まあ治療が上手く行くかはわからんが、多分後払いで死ぬほどふんだくられるからそう太っ腹な話でもない。後で文句言われるかもな」
ガロアンディアンの福祉は国家への奉仕義務と一体だが、同時にその医療技術の証明とトリシューラの呪術医としての能力への信頼を集めるための行為でもある。
要するに治療しまくって名声を高めれば高めるほどトリシューラの存在の強度が高まっていくわけなので、別にフィランソロピーに溢れた慈善活動というわけではないのだ。
そんなことはゼドも理解しているだろう。
が、それはそれとして礼は口にする。そういう男だった。多分、言葉だけではなく形としても何かトリシューラに謝礼を出すつもりだろう。公にならないレベルでの情報や物品のやり取りはいつものことだった。
「――続けるぞ。分析によると、広まっている霊薬は錬金術によるものらしい。データは既にそっちに送ってあるが、極めて強力な呪力が検知された。依存性が高く、特定の夢を見せることができるらしい。得られた証言はこうだ。『森の奥でママが待ってる』」
「はぁ?」
日本語が翻訳される前から、その言葉はこの世界でも母親を意味していた。
ママ、という幼児が最初に発声できる言葉。場合によってはそれが父を意味していたりもするが、大まかには全世界的に、霊長類系の知的生命体はその言葉で母親に呼びかける。
「まるで悪霊に取り憑かれたみたいに虚ろな目をして、森の奥で待っている女性の所に行こうとするんだ。薬をやれば会える、と言ってな。それからもう一つ。以前、『死人の娼館』の噂について話したな?」
「ああ。それも確か、【変異の三手】が関わってる可能性があるって話だったな」
どれだけ性風俗を公営化しても、社会が社会そのものを維持する為に肯定できないものがいくつかある。
幼児に対するものと、過剰に暴力的な――治癒呪術による限界すら超えた凄惨極まりない加虐ポルノ。あるいは、殺人の光景を楽しむためのスナッフムービー。それにネクロフィリアたちの死体に対する性行為。食人の嗜好。
幻影による迫真のフィクションでは満足できないという者たちが行き着く先。
代替娯楽によってそういった傾向がある者を満足させ、反社会的な行動をとらせないように罰則を強化し、治安維持と予防に力を入れることがまっとうな対処だ。
あとは、直接その組織を叩き潰すくらいしか打つ手が無い。
敵が明確になれば、あとは女王の猟犬として動くだけだ。
ゼドはそれに対しては特に感情を向けるでもなく、淡々と言葉を続けていく。
「あくまで噂だがな。そもそも存在は知られているのにそこから帰ってきた者がいないって怪談話か都市伝説じみた情報だ――しかし、いやにディティールが確かだ。エーラマーンの囁きだとしても確度はそれなりに高い」
エーラマーンというのは、確か噂の天使とかいう伝説上の存在だ。
あれ、神だっけ。まあどっちでもいい。似たようなものだ。
「その噂に、こんなものがある。『娼館の女主人は【変異の三手】の副長の一人がやっている』というものだ」
探索者協会に提出されている公式のデータでは、【変異の三手】のリーダーはグレンデルヒ=ライニンサル、副長はイアテムとなっている。
噂ではグレンデルヒの下には副長が三人いるということだが、イアテム以外の二人について明確なことは分かっていない。あくまで噂だけの存在なのだ。
大規模な集団であるためその他の構成員もかなりいるが、その中に他の二人の副長がいるということは無いらしい。
クレイ=ライニンサルという名前で調べても、それらしい情報はまるで出てこなかったという。
だが、もう一人の副長は、少しだけだが曖昧な噂が流布していた。
世界的に有名な、本名及び顔が不明のポルノスター、【ステュクス】がそうではないかと言われているのだ。
誰もが魅了されるほどの美貌と妖艶な姿態を誇るが、『満足』してしまうとその詳細なイメージは脳内から忽然と消えて全てを忘れてしまい、ネットの海に流れる動画は跡形もなく消えてしまう。
都市伝説じみた話だが、半ば願望を語るようにしてその存在は信じられていた。
その正体こそは同じく正体不明の【変異の三手】の副長であり、更には違法な娼館の女主人――少々、根拠が不足し過ぎている推測のようにも思えるが。
「【ステュクス】は基本的に『年上の女性』として姉あるいは母のように振る舞い、動画を体験する視聴者に直接快楽を与える。時に自分の事を『ママ』と言い、相手を甘やかすかのような言動が特徴的だという話だ」
「そういう符合か。んー、繋がるといえば繋がるが、全体像が見えないな。つまり、どういうことだ?」
「ポルノスターってのは一種の偶像にもなり得る。つまり、信仰を――原始的な性欲のエネルギーを一身に集めるその対象は、極まれば凄まじい呪力を宿しうるということだ。あるいは、神に近いほどの」
三ヶ月前、紙幣という価値への絶対的な信仰によって圧倒的な力を振るっていたキロンのことを思い出す。
金は強力な欲望を引き出す源になりうる。
ならば、性欲でも似たような事が可能なのではないか。
もし【変異の三手】がドラッグやポルノといった媒体を利用して呪力を集め、神にも等しい存在を作り上げようとしているとすれば。
それは、【ダモクレスの剣】と並んでトリシューラを脅かしうるだろう。
「生殖行動に根ざす性欲と死体性愛っつうと何かミスマッチな感じもするが、そういうのにも意味があったりするのかね、呪術だと」
「ああ。吸血鬼がその典型だな。死への衝動を性的衝動に変換することで強い呪力を発揮する。お前のもう一人の主も似たようなことができるはずだ」
あー、コルセスカな。厳密には他の吸血鬼とは違うらしいが。
「リビドーに根ざした呪力を集めることそのものにも意味があると俺は見ている。【死人の森】の伝承には、どうも性的な含みを持たせたものが多い。地母神系の祭儀に生殖に関連した伝承が見られるのは珍しいことでもないが、それにしても生と死という言葉が頻出し過ぎている。それと、春と冬の象徴。聖なる結婚、というモチーフもだ」
一流の探索者であるゼドは、博士号を持つ学者でもある。
そんな彼が大学に留まらずに探索者をやっている理由は不明だが、彼の盗賊団には高学歴で研究調査のスキルがある者が少なくない。過去について詳しく訊ねたことはないが、何か地上世界の闇っぽいものを覗いてしまいそうで恐ろしかった。
「なんかやたらと馴染みのあるフレーズだ。呪術の重要用語だったりするのか」
「お前たちにも関わりが深い。キュトスというのはそもそもあらゆる地母神像が神話として揺らいだ後に立ち現れる神的イメージ、つまりは『紀神』だ」
「意味がわからん」
「そうか。ふむ」
困ったな、と小さく呟くゼド。なんだか申し訳無くなる。
眉根を寄せ、帽子の鍔をいじろうとして、今は食事中で帽子を脇に置いていることに気がついたようだ。所在無さそうな指先がふらふらと虚空を彷徨った。探索中は鋭い雰囲気の男なのだが、どうも普段は覇気が無い。
「まず、地上で信仰されている槍神というのは父なる神であり、天空神だ。天上の至高存在であり、普遍的な一者。そしてあらゆる異獣を平定する武神でもある」
「まあ、そのくらいまではトリシューラに聞いた話だな」
始まってしまった説明に調子を適当に合わせた。
俺の周囲には説明好きが多いような気がするが、なんなんだろうな、これは。
この世界に特有の傾向なのか?
「それに対置されるのが地母神、つまり大地と豊穣を象徴する母なる神というわけだ。原始、世界は混沌と野蛮に満ちていたという。男神は力強い槍によって女神キュトスを切り裂き征服することで現在の秩序を形作った。大地、混沌、異なるもの、野蛮――そうしたものと戦い、収奪によって報酬を勝ち取り、平和を維持するというのが槍神教の原理原則だ。ここまではいいか」
「あー、うん。どうぞ、続けて」
脳味噌筋肉でできてんじゃねえのか地上の連中、と一瞬思ったが人の事は言えないのだった。あー、これ地上に行ってたら一瞬で適応してたかもしれない。探索者あたりになってそう。そうしたらゼドの所で世話になっていた可能性があるな。
「混沌、というからには女神のイメージとて一様ではない。世界中に散らばる、無数の女神伝承。そこには共通点もあり、差異も多種多様に存在する」
「それは何か聞いた事あるな。元型論だっけ」
世界中の神話というのは何かしら似通ったところがあるらしい。これはあらゆる異世界でもかなり似通ってくるということなので、人間が居住できる環境下ならある程度パターンが決まってくる、ということのようだ。
まあ同じもの――つまりは世界そのものを参照してそこからでっち上げるものなので、当たり前のことである。人間の脳はだいたい同じ構造をしているし、想像力などというのは有限なものでしかない。
自然現象を参照した神なら似たような特徴を持つだろうし、あらゆる人は死を恐れ悲しみ忌むがゆえに冥府へ赴き愛する者を取り戻そうと願う。不老不死の追求はありふれているし、国産みも、男神が武力を誇るのも、女神が美しさや情愛を司るのも、器質的な必然である。
とはいえ何もかも同じというわけではない。たしか現代日本では太陽神が最高神とされていたはずだが、異国のような過酷な環境下、たとえば砂漠地帯においては太陽が恐れられ月が尊ばれる、といった細かいパターンの違いがある。
しかし、その差異もまた同じものから生まれる『別の解釈』に過ぎない。
人の世界には多様性が満ちている――ようであり、別の見方をすれば至極単純な形をしているようでもある。
ゼドは小さく頷いて言った。
「そうだ。人間が人間であるがゆえに、あるいは自然環境の共通点ゆえに、想像力は一定のパターンに収斂進化する。夢もまたある程度は共通するし、神話もまた然りだ。集合無意識の海やアストラル界といった世界にネットワークを広げられるのはこれが理由でもある」
便利なことだ。普通の『杖的な』インターネットもあるらしいが、この世界で主流なのはやはりアストラルネットである。俺もトリシューラの夢の中に入った時にはコルセスカの助けを借りてアストラル体を投射していたと聞いたが、今ひとつ理屈がわからなかった。
「『地母神』という言葉によって想起されるイメージの群があるとしよう。その全てを包括するもの、あるいは全ての集合が重なり合う部分こそが『紀神』だ。地母神という言葉にとっての核心と言い換えてもいい」
「ああ、言いたいことが何となく分かってきた。つまり、個別の信仰を集めている各地母神の一番の大元、あるいはそれらが習合していった先の到達点か。とにかく一番『でかい』女神だから、原理的にこの世界では呪力が集まりやすいんだな?」
「そうだ。ゆえにキュトスは最も強大な地母神であり、それが槍神によって引き裂かれたためにあらゆる地母神は零落することになった。散逸した七十一の地母神伝承、すなわちキュトスの姉妹たちはその混沌の成れの果てだ」
キュトスの七十一姉妹はあらゆる地母神の属性を無数に分割したもの――あるいは、元々存在した地母神の要素がそう呼ばれているだけなのかもしれない。
春の魔女トリシューラと冬の魔女コルセスカにも、そうした地母神の性質を引き継いでいると、前に聞いた事がある。
「話を戻すが、そのキュトスの姉妹の中に、まさしく生と死を司る魔女がいる――いや、いたというべきか」
「いた?」
「既に『代替わり』して消滅したと聞いている。四年ほど前のことだ。詳しい事は不明だが、星見の塔内部で大規模な勢力の変動があった。最も有力な姉妹の一人であった第五位の『姉』が存在抹消に追い込まれたらしい」
初耳だった。
俺がこの世界にやってくる前の話だから、当然と言えば当然だが。
「真相は様々な情報が飛び交っていて定かでない。何しろ神秘主義の結晶、星見の塔でのことだからな。『叡智を求めて神々の図書館を襲撃し、言理の妖精に返り討ちにされた』なんて噂まであるが、どこまで本当かはわからない」
「あー、ちびシューラも知らないって言ってるな。何でも、古き神に挑んで権能を簒奪するような好戦的な性格らしいから、あながちあり得ないとも言い切れないらしいんだが」
「まあ真相は闇の中だ。とにかく、旧第五位は生と死を司っていたわけだ。その次に第五位に座った姉妹は別の属性を司っているから、現在生と死の地母神は『不在』ということになる。その信仰も失われたままだ。だが、失われた古代世界にはそれが当時のまま残っている場合がある」
話が繋がってきた、のだろうか。
失われた信仰、失われた女神。
それが、
「【死人の森の女王】ってことか」
「そうだ。【死人の森の女王】と呼ばれる存在は、俺は失われた地母神そのものか、その巫女ではないかと見ている。性的な仄めかしの数々は、神聖娼婦の類が存在したことを示唆している」
また新しい用語が出てきたな、と思ったが、要するに性交渉を呪術的な儀式として行う巫女のことらしい。ガロアンディアンの娼妓も、呪力を生み出すという点では神聖娼婦に近い――というかそこから着想を得たもののようだ。
「なんか漠然と繋がってきた、ような感じだな。要するに、【変異の三手】はその生と死を司る地母神を復活させようとしているとか、そんな感じか」
「そうだ。それも、【紀】に直接繋がった根源的な生と死の女神。場合によっては、三ヶ月前のエルネトモランの再現――あるいは、より致命的な災厄が引き起こされる可能性もある」
「死人が溢れかえったっていう、アレか」
「あの時も生と死に関連した古き神が同時に顕現して混乱が引き起こされたが、エクリーオベレッカは人格神ではないしハザーリャは従属神だ。意思を持った女神が復活した場合、厄介さの性質が変わってくる」
それはつまり、災厄の方向性がコントロールされるということだろう。
相手の思惑通りことが進んだ場合、俺たちは【変異の三手】と復活した女神を相手にしなければならないというわけである。
トリシューラの暗殺によって引き起こされる【ダモクレスの剣】による大量破壊。俺を経由したクラッキングによって発生する可能性がある言震。地下に広がる【死人の森】。違法霊薬と死人の娼館が示唆する女神の復活。
その全てに【変異の三手】の影がちらつき、ガロアンディアンを脅かそうとしている。更にはトライデントの協力者までもが接近してきているという。
何というか、頭が痛い。
「とりあえず、グレンデルヒって奴をぶっ飛ばせばいいのか? いいんだよな?」
「落ち着け。まあ最終的にはそうなるだろうが――どうだろうな。奴は今ひとつ考えが読めん。神出鬼没で有名な男でもある。会おうと思って会えるものでもない」
「めんどくさいな」
とはいえ、とにかく一つ一つ対処していくしかない。
ふと疑問に思って、質問してみる。
「そう言えば、その第五位の姉妹ってのはなんて名前なんだ?」
「――ディスペータ、だ」
どうしてだろう。
ゼドが口にした、意味すらわからない音の羅列。
それが、ひどく寒々しく心臓を鷲掴みにするような気がした。
深く長く、息を吸って、吐いた。
その後、俺が少し独自に調査してみると言うと、ゼドは薬の売人が出没する辺りや違法娼館があるらしい場所の情報を端末に送信してくれた。情報料としてトリシューラ作の呪文データが入った情報素子とちょっとした手土産を渡して、俺はその場を後にした。
建物を出る直前、ちびシューラが思い出したように呟いた。
(ディスペータお姉様といえば、一つだけ気になることがあるよ。あのね、誰もディスペータお姉様の詳細な顔を思い出せないの。直弟子であったリールエルバですら、詳しく思い出そうとすると記憶に靄がかかったようになるって言ってた)
いなくなった姉妹。失われた五番目の姉。
何かが一つの線で結ばれるような予感がしつつも、肝心な所がよくわからない。
もどかしさを抱えながら、俺は再び夜の街に足を踏み出した。
娼妓というのは男性と女性ばかりではない。
どちらでもない性の需要も存在している。
俺に声をかけてきた街娼は、ひどく小さく、そして可愛らしい姿をしていた。
というかあやうく踏みつぶす所だった。
足を軽く引っ張る、黒い布を纏った姿。
かがんで両手に乗せると、フードの奥で光る目をこちらに向ける。
「あきらー」
「ああ、うん。俺がアキラだけど、何か用事でも?」
「おきゃくー?」
「うーん、ちょっと今は用事があるから無理だ。悪いな」
「きもちよくする? できる? わるいよーにはしない?」
会話していると妙な罪悪感が生まれて即座に冷たさと共に消えていく。
恐らく、正規の認可を得た成人の筈なのだが、それでも俺の中の『常識』がこの小さな街娼と性的な事柄を結びつけることを拒否しているのだ。
黒衣の裾に隠れた小さな手を一生懸命に振り回して意思を伝えようとする小さな生き物は、夜の民――それも地上で最も数が多い、青い鳥という種族らしい。
呪術的な事情により姿を隠しており、その実体は不定で影のような存在だとか。
アズーリアや店員さんがこの小さな生き物と全く同じ種族だと聞いた時は何かの聞き間違いかとも思ったが、本当らしい。
地上――特に槍神教のお膝元であるアルセミットでは全身を覆い隠さなくてはならないらしく、夜の民といえばイコールで黒衣らしいが、地獄では店員さんのように薄いヴェールでもいいらしい。他にもスカーフとか、文化や宗派によってバリエーションが有り、中には全く隠さない者もいるようだ。
「がんばるよ?」
「いや、頑張られても」
多分、この両腕の義肢という特徴が知れ渡っているせいで、声をかけられたのだろう。店員さんに好意的なことが『夜の民好き』という印象を広めている可能性も否定できない。いや、確かに可愛いとは思うんだけど。
身長が小さい系統の種族には年齢という制限をアレしたアレな需要があるので、それなりに客は途切れないと聞いている。
とはいえ、正直俺にそういう傾向は無い。無い、はずだ。
夜の民の、とりわけ青い鳥氏族は平均身長が極めて低い。その幅は広く、俺の直観で把握しやすいメートル法で言えばなんと最小で十センチほどの者もいるという。今まさに俺が掌の上に載せている人物も羽のように軽く、人形のようにちんまりとしている。
百四十センチで長身と呼ばれるらしいから、相当なものだ。
ある種の小人にも近いのかもしれない。
なんでも『変身』すると大きさは一気に膨れあがるらしいが、ちょっと物理法則を無視し過ぎだと思う。まさに呪術世界の生命体といった感じである。
「えっとねー、こどもじゃないよ?」
「ああ、うん。悪いな、そういう風に考えないようにしてはいるんだが。失礼な態度をとってしまったなら申し訳無い。侮辱するつもりはないんだ」
「おとなっぽいほうがすきー? 『のっぽのアズーリア』のまねとかするのー?」
どうやってこの無垢っぽい相手を傷つけずに断れるものやら、と考えていた所、思いも寄らぬ名前が出てきて硬直する。
甲冑に包まれてなお小柄な身体を、抱えて夜の森を疾走したことを思い出す。
驚くほど軽く、硬質な感触。
恐らく内側のアズーリアの身長は、百五十センチメートルにも満たないだろう。
だが、それでも青い鳥としては頭抜けた高身長なのである。
店員さんもジャッフハリムでは双子の姉と並んでギネス記録の保持者らしい。
青い鳥は基本的に前衛に向かないと聞いた時、かつて第五階層で見たアズーリアの勇猛果敢な戦い振りを思い出して信じられない思いだった。
が、単にアズーリアが特殊だっただけのようだ。
掌の上に乗った夜の民はそれには遠く及ばない体格だが――しかし自在に変身できるのなら体格ぐらい自由自在なのかもしれない。
何か複数人で合体して巨大化するとか分裂するとかいう噂も聞いたことがあるし、本当に謎種族と言う他無い。それはともかく。
「真似、できるの?」
「できるー! えーゆーのまね、がんばる!」
「そっかーがんばるかー」
「するー?」
「んー」
「んー?」
「あー」
「ほえー?」
「えーっと」
「ふにー」
「よし!」
「何が『よし』ですか」
冷ややかな声と共に後頭部を叩かれた。
振り返ると、絶対零度の視線。やめろ、凍る凍る死ぬ。
青く輝く氷の瞳で顔の右半分を覆った異相の少女。
異形の美しさを誇る、冬の魔女コルセスカがこちらを睨み付けていた。
「全く、私とトリシューラが不在の隙を狙ってこんな所に足を運ぶなんて」
(ほんとほんと。サイテー)
夜の民の誘いを断った後、コルセスカと並んで歩きながら俺はひたすらお叱りの言葉を受けていた。ステレオで。
(やっぱ去勢だよ去勢。ちょんぎっちゃうよ)
「やはり一度しっかりと私が躾けた方がいいでしょうか。そもそも、最初は徹底的に調教しようと思っていたのです。ここは一つ初心に帰ってみるのもいいのでは」
(大丈夫、潰したり捨てたりしないから)
コルセスカとちびシューラが怖いことを言っている。
ていうか、ちびシューラはそれでどうするつもりなんだよ。
(え? それは、お部屋に保管しておくけど)
トリシューラの執務室に大量に保管された、人体部位の数々。
その中に、俺の一部が浮かぶ光景を想像し――思わずぶるりと震える。
「今の鍵だけでは不十分ですね。もっと厳密な、生理的なレベルでの管理が必要です。今まではやり過ぎかと思って容赦していましたが、視界のフィルタリングも実行しましょう。それか、一定の欲望を抱いた場合に相貌失認に陥らせる呪術というのもありでしょうか――?」
やばい、こいつらは本気だ。
話を逸らすべく、こんな所にいてもいいのか訊ねる。
たしか、サリアのご機嫌取りと探索で忙しいのでは。
「サリアはアルマに預けてきたので暫くはこちらに滞在できます。あの子の狂気もたっぷり吸ってきたので、当分狂乱することも無いでしょうし」
「そうか、それは良かった」
「ええ。ですから、ずーっと一緒にいられますよ。貴方のそのだらしない獣のような本性を躾けて馴らして、『いい子』に調教してあげます」
ぞくりとした。
こちらを覗き込む、俺より少しだけ低い位置にある青い目が、ひどく不気味な光を放っているような気がしたからだ。
「えっと、コルセスカ?」
「なんですか?」
「何か、いつもと雰囲気違わないか? 何かあった?」
「何かあったか、ですって? ええありましたよ。私のことを先に選んだくせにあっさり乗り換えた上に二股をかけるひどい人が、その上でまたしても浮気を繰り返すなんてことが」
陰気に、恨めしそうに――どこか、心を病んだかのような声と表情で。
コルセスカが、ぶつぶつと呟く。
「いや、その件についてはほら。話がついたというか、全員で合意に至ったというか、そういうことだった、よな?」
「でも、飽きたんでしょう」
「いやそんなわけが」
「どうせ偽物の人狼や偽物の吸血鬼なんかじゃなくて、本物の夜の民である青い鳥がいい、とか思ってるんでしょう。触手ですか。そんなに触手がいいんですか」
なにを言ってるんだろうこの人。
触手って何のこと?
「全部委ねて信じて心を開いて何もかも許してくれるって受け入れてくれたくせに感情を預けて一緒に共感して共有してずっとずっと一緒にいてくれるって仲間になってくれるって言ったくせに使い魔だって言って血を吸わせてくれたくせに地獄の底まで付き合うって約束してくれたのにどうしてですかねえやっぱり最初にちゃんと調教しておかなかったのが間違いの元でもっとしっかり管理して管理して管理して秒刻みで何もかも把握しておかないと――」
「待て待て待て、本気で今日のコルセスカはおかしい! 何か変なものでも喰ったんじゃないのか?」
そういえばさっきサリアの狂気を吸ったから大丈夫とかなんとか言ってたな。
それか。それだ。
本当に変なものを吸っていたというわけだ。
だが、ちょっと待って欲しい。
じゃあ何か。
サリアとやらはこんな感じだということなのか。
――うわあ。
「よし、コア。ちょっとこっち来ようか。中和しよう中和」
「躾けて馴らして調教、躾けて馴らして調教――」
虚ろな瞳のまま呟き続けるコルセスカの手を引いて、人気の無い路地裏の物陰に連れて行く。
しばらくして、服の胸元を直しながらぐったりとした俺と頬に赤みが刺したコルセスカが表通りに戻ってくる。
「何でしょうね。今なら世の中の何もかもが許せそうな気がします。悟りを開いた賢者というのはこういう心境なのでしょうか」
「――それは良かったな」
あー、けっこうごっそり吸われたな。水分補給したい。
しかし、サリアとやらの狂乱の度合いはそれほどだったのか。
狂乱っていうか、妄執?
吸われている間、なんかコルセスカの牙を通して害虫駆除とかいう恐ろしい単語が聞こえてきたのだが。
幸い、そうした意思はそのままコルセスカに影響を及ぼすのではなく、『調教』というやや歪んだ愛情として発露されるらしい――幸い?
俺の感情や感覚が余りに流れ込み過ぎるとコルセスカ自身の意思にもある程度の影響が出るようなので、気をつけないといけない。
こうしてみると、コルセスカにせよトリシューラにせよ、他人の影響を受けやすいという点で共通している。
「とりあえず、落ち着いたようでなによりだ」
「ええ。でも、夜の民が好きなのは否定しないんですね?」
沈黙。
コルセスカは軽く吹き出して、冗談です、と言った。
その口調に、病的な響きは既に無い。
「わかってます。貴方にとって、特別な相手ですからね。構いませんよ。私たちは似ているけど別物で、偽物で――だからこそ、こうして一緒にいられるのかもしれません」
それから、少し寂しげに続けた。
俺は口を開こうとして、コルセスカにそれを制止される。
俺に、何かを否定させないために。
コルセスカは俺の感情を、気持ちを全て理解している。
そしてその全てを受け入れて、肯定してくれるのだ。
時にそれはひどく残酷で、痛みを伴う。
一方的に、彼女だけに苦痛を強いる繋がり。俺はただ、冷たさしか感じない。
「いいんです。それに、本当は不実さということで責められるべきは、私です。『一番』が別にあるという点では、私は貴方を責められないから」
何を言えばいいのか、わからなくなった。
『それ』にどう向き合えばいいのか、俺自身答えが出ていないからだ。
沈みかけた空気を吹き散らすように、コルセスカが朗らかに言葉を繋ぐ。
どこか、無理のある響きの声だった。
「しかし、まさかあのアズールがアキラの恩人のアズーリアでおまけにあの時地上で出会った夜の民の方で知らない間にサリアの友人になっていて最終的にはハルベルトの使い魔になるとは」
「世間狭いなー」
「トリシューラは確実に気付いていたはずですが――あの子の思惑も相変わらず不透明ですね。まあ昔の号がノーレイなのでらしいと言えばらしいですが」
適当に雑談を交わしていると、それなりに調子が戻って来た。
やはりコルセスカとどうでも良い会話をしていると落ち着く。
意味も無く目的地も見えない、会話をすることが目的の会話。
現在、俺が【変異の三手】の暗躍について調査しているのだと言うと、自分も協力すると申し出てくれたのでありがたく手を借りる。
コルセスカといれば、そうそう負けることは無いだろう。それこそキロン並の強敵が現れない限りは。
コルセスカはそれに、と補足するようにして付け加えた。
「私にとっても、【死人の森の女王】は因縁のある相手ですから――というか、因縁のある可能性がなきにしもあらずというか」
「要領を得ない説明だな」
コルセスカは端末を弄りながら、何かを検索し始める。
やがて検索結果が出ると、立体投影してこちらに示してきた。
「一説によるとですね。私の元ネタである【冬の魔女】は【銀の森の魔女】とも言われているらしいのです。その【銀の森】、かつては【死人の森】と呼ばれていたとか、いないとか」
「どっちだよ」
ていうか元ネタって。
いや、伝承を元に人工的に作られた魔女だってことは知ってるけど。
確か、神話の魔女だったか。
「それが、諸説有りまして。創作と史実がごっちゃになっていて、おまけに【大断絶】による大地の分断などでその森は失われています。検証が既に不可能な伝承なのです。この第五階層の裏面である【死人の森】を探索すれば、何かわかる可能性はあるのですが」
【神話の魔女】らしい話ではあるのだが、なんというか――。
しかし、そうなるとコルセスカまで関係者ということになる。
元々キュトス、そして地母神という線で繋がっていたわけだが、それがより一層強固になった形だ。
暫く二人で花街の奥、より入り組んだ路地裏の方へと進んでいく。
監視用ドローンが巡回しているため迂闊に違法なことは行えないが、その目をかいくぐって素早くことを済ませる連中というのは確実に存在する。
ゼドからもたらされた情報を頼りに二人で目を光らせ、それらしい動きをしているものを捕まえる。
最初は尾行するつもりだったが、コルセスカがいるのでより確実な手段が使えた。つまりは催眠術による誘導だ。
義眼の輝きに魅せられた薬の売人は、まるで本人が薬物漬けになったかのような足取りで俺たちを案内する。
すると、意外な事にその人物は表通りに出た。
花街の、とりわけ華やかな一帯。
そこではレオと友好関係にあるティリビナの民たちが植樹系の呪術露店や花屋といった商売をしている。この歓楽街を明るく彩るために必須となる一画と言えた。
贈り物、飾り、果ては催淫作用がある呪術の花まで、その需要が途切れることは無い。この通りは、文字通り花に満たされた場所である。
その、絢爛豪華な通りの一番奥、非常に目立つ場所に、その建物はあった。
咲き誇る黒紫。
それを美しいととるか毒々しいととるかは人によるだろうが、俺にはその色彩が魔性を宿しているように思えた。
強烈な薫りが漂う小さな前庭の奥にある、漆黒の館。
黒百合に満たされ、黒曜石の柱が厳かなその建物は、ごく自然な佇まいでそこに存在していた。
(んん? あれ? こんな公営娼館、認可してたかな――セージに任せてたやつだと思うんだけど、おかしい感じがする。アキラくん、ちょっとそこ気をつけて。あと、調査お願いできる?)
ちびシューラの要請に従って、建物の中に潜入することが決まった。
公的な手続きをすれば恐らく後ろ暗い所は隠されてしまうだろう。
こんな風に堂々と店を構えているということは、よほど偽装に自信があるか、あるいはこちらのミスで全くの潔白かのどちらかだ。
案内をさせた売人にはコルセスカが呪術的な発信機を付けて泳がせてみる。ふらふらと店の内部に客として入っていく男の視界は、現在コルセスカによってジャックされているらしい。
「んー、見た感じ、普通のアレなお店ですけど」
平然としてるが、こういうの平気なのだろうか。
なんかセクハラ強要しているみたいで申し訳無い。
「なんとなく、地下に呪力があるような感じがします」
「コルセスカの勘って要するに邪視の応用だろ? かなりの確率で黒だよな」
「おそらくは。ただ、視界を乗っ取っただけだとちょっと中の様子がわかりづらい――というかこの人、女性の身体ばかり見るので建物内の状況が掴みづらいといいますか」
まあ、それはそうだろうなあ。
暫くすると、コルセスカの左の眉尻がぴんと上がって、頬が薄く染まる。
咳払いして、若干目を逸らしつつ、
「とりあえず、得られる情報はもう無いだろうと判断して中断しました」
ああ、始まったんだな、と何となく察して、それ以上は追求しないことにする。
本当はその後にどこかに連れて行かれるパターンもあり得るので出来れば窃視は続けて欲しかったのだが、まあ無理強いは出来ない。
ということで俺自らが潜入しようというその時、待ったがかかった。
「アキラ? まさか普通に客として入る気ですか?」
「それしか無いように思うんだが」
「ほう」
「いやまて、邪視使うのはやめろ。凍って死ぬ。何もしない。調べるだけ、ちょっとだけ中に入ってどんな様子か調べるだけだって」
「中の具合を調べる――?」
「あ、何か今致命的な誤解が」
「幾ら私でも、そういう露骨な振る舞いは許せないのですが――?」
などと一悶着あり、結果として。
「これで良し! 中々似合――わなくもないと、幻影呪術を駆使すれば強弁出来なくもない予感はあったりなかったりするかもしれません」
「無理があるだろこれ! 誰が得するんだよ!」
女装させられた。
ひどい。レオとかファルとかならまだ普通に少女で通用するのだが、俺がやるともう筆舌に尽くしがたい、というか目も当てられない惨状だった。やばい。
「落ち着けアキラ。あと臑毛を剃れ」
俺の横に立つ長身の女装男が低い声で指摘する。
普通に百八十センチはあるが、姿勢の良さと堂々とした姿がかえって様になっている。同じ女装男とは思えない。
「いやお前、探索はどうしたよ」
「延期だ。こちらを優先することにした」
女装したゼドは陰気な声で答えた。
更衣室と衣装はゼドが用意したものである。
彼は変装術にも長けていて、特殊な化粧やら呪術の道具やらであっという間に女性らしくなってしまった。
明らかに男の骨格、男の顔つきなのだが、『そういう女性』なのだと納得してしまうような説得力があった。立ち居振る舞いの問題なのかも知れない。
失ったアプリを駆使すればなんとかなった可能性はあるが、今となっては無い物ねだりである。
潜入先は男娼は扱っていない上に、今は娼婦以外の求人も無いようだった。
従業員として潜り込むなら女装しかない。本当か。清掃員とかそういう潜入方法もあるんじゃないのかとコルセスカに問い質すと目を逸らされたので、多分半分以上楽しんでやっている。駄目だこれ。
ちびシューラが即時に発行した偽造身分証を駆使して三人で面接へ向かう。
というか、本当にいいのかこれ。
「コルセスカお前、めっちゃ楽しそうだな」
「いいえ? 念写して記念にとっておこうなんて思ってませんよ?」
「やめろマジでやめろ」
と、ゼドが興味深そうに俺たちの馬鹿なやり取りを見ていることに気付いた。
コルセスカは半眼でゼドを睨み付けて言った。
「何ですか。言っておきますが、あげませんよ」
「そうか。残念だ」
何だ今のやりとり。
二人は以前から迷宮で顔を合わせることが多く、旧知の間柄らしい。
関係性は、あまり良くはないようだ。敵対しているわけではないので、場合によっては情報交換くらいはする、と言う程度の間柄だとか。
コルセスカのことだから、『待望の盗賊キャラ!』とか言って仲間に誘っているかと思ったのだが、そう言ったら彼女にはひたすら嫌そうな顔をされた。
何でも初対面が最悪だったらしい。
「この男、私たちが苦労して古代遺跡の守護者と戦っている隙にまんまと最深部に侵入して宝物を全て掠め取っていきましたからね。あれは流石に腹が立ちました。サリアなんて次に会ったら殺すとまで息巻いていましたから」
流石にコルセスカはそこまで激怒しているわけではないようだ。
それはそれで盗賊のロールとして正しいから、だそうだ。何だそれ。
更には、ゼドの方でもコルセスカをあまり好んではいない様子で、
「火竜退治なんて狂気の沙汰だ。付き合う気は全く無い」
「と言いつつ、私が地獄で戦っている隙にジャッフハリムの宝物庫に忍び込む気なんでしょう」
「無論だ。やらない理由が無い。俺は四英雄の『寄生虫』だからな」
「いつか恨みを買って殺されますよ」
「その時は自慢の逃げ足の出番というわけだ」
と険悪なやり取りが続く。
本気で敵対する様子が無いのは、コルセスカが盗賊王の振る舞いに対して『それはそれであり』というスタンスであるためだが、他の四英雄には蛇蝎の如く嫌われているのがゼドという男だ。
一方で、他の四英雄や松明の騎士団からしか成果を掠め取ることはしないので敵よりもむしろ味方が多いのも事実である。
『富の再分配』だとか『義賊』だとか言って人心を掌握する術に長けているこの男は、やはり英雄であり『王』と呼ばれているだけのことはあるのだ。
そんな風にして待っていると、従業員が現れて奥に案内された。
面接が始まる。
さて、このいい加減な女装で果たして潜り込めるのかどうか。
俺は胸に人工乳房の重量を感じながら、小さく嘆息した。
そして。
闇の中に振り子の剣が現れる。
誰もいないその場所で、切っ先は左に揺れ動き、不自然に傾いたまま止まった。
やがて巨大な剣は消えていく。
振り子が示す三人目は、既に動き出していた。
静かに、密やかに、そして嗜虐的に。
全員受かった。
幻影呪術と催眠術の合わせ技というのが効いたらしい。
どう見ても男二人に異形の義眼という取り合わせの新人が採用されるとは思えず、実際には強行突破になると覚悟していたので拍子抜けだ。
「大丈夫、表に出すプロフィールの念写映像は補正かけまくるから全員極上の美女に見えるわ。あ、コルセークは眼帯付けてフリフリの服着て――うんいいわね。この路線でいけるわ」
面接の担当をしてくれたクレナリーザという少女は真顔でそんなことを言っていたが、まあどこも似たようなことはしているので詐欺だと目くじらを立てるようなことでもない。ちなみにコルセークというのはコルセスカの偽名である。
(公開されてる情報だと、正規の手続きを経て公社が承認した娼館だね。まっとうな感じがするけど、何か気になるんだよね)
ちびシューラはしきりに首を傾げていた。
魔女の勘というのは馬鹿にならない。
注意して、内部を眺める。
建物は三階建てで、全体的に黒を中心とした薄暗い雰囲気作りがなされていた。
黒百合の強烈な香りが立ちこめ、エントランスホールの中央には見事な旋回式の噴水が時計の役割を果たしている。
上司であるクレナリーザは、吊り上がり気味の目できっと俺たち三人を見ると、はきはきとこの場所における注意点を述べていく。
「いいこと? まずこの館のコンセプトは母娘と姉妹による歓待というものよ。家族関係を擬した私たちはお客さまを持てなす――家族の一員としてね。お客様は父であり息子であり兄であり弟でもある。滅多に無いけど、女性客が来た場合でも家族として振る舞うの」
当然、持てなしの内容にはそういうことも含まれる。
とりあえず催眠用の呪符を用意してあるので問題は無い。適当にやり過ごして、隙を見て内部を調査するのが一応の方針である。
「決して、この場所の『夢』を壊すことは許されないわ。私はこの場所の長女であり、貴方たちは末の妹たち。常にそれを意識して振る舞うこと。いいわね? 返事は『わかりました、お姉様』よ」
声を揃えて返事をする。変声呪術が作用しているため、異様に高い声がでて困惑する。慣れないといけないとわかってはいるのだが――いや、やっぱり慣れたくはないな。
長女クレナリーザの指示に従って、全員が別々に行動することになった。
コルセスカが若干緊張した様子だったので、別れ際に一声かけておく。
「安心しろ、ちゃんと可愛く見える」
「ひゃ――! み、耳元で囁かないで下さい!」
大きな眼帯にヘッドドレス、フリルがふんだんに使われた白いツーピースという、前世で言うところのロリータ服を着た姿は実際可愛らしい。
じろりと睨み付けられた後、ふいと目を逸らして足早に立ち去ってしまう。
と思ったら、反転してこちらに駆け寄ってくる。
「言っておきますけど、催眠術でやり過ごすだけなので。変な事はしませんから――だから、あの」
「わかってる。それよりいいのか、早く行かないと怒られるぞ」
「なんか、どうでも良さそうですね」
「は?」
「ちょっとくらい心配してくれたって――じゃあもういいです。どうなっても知りませんから」
コルセスカはきっと青い瞳でこちらを睨み付けると、先程よりも早足で靴音を鳴らしながら立ち去っていく。
しまった。怒らせてしまったようだ。
(いや、あれは怒ってるっていうか、まあ怒ってるんだけど――あー、なんか腹立つ。アキラくん、わかっててやってない? 半分くらいわざとだよね?)
ちびシューラが対抗して黒系のアバターに着替えているが、お前それコスプレ気分なら止めとけよ? ファッションとしてちゃんと普段着にするんだろうな? 適当にスタイルころころ変えるのお前の悪い癖だからな?
(何でセスカはいいのにシューラにだけ厳しいの! ひどいよ!)
憤慨するちびシューラを無視して、指示された作業に入る。
端末で連絡を取り合いつつ、それぞれ動くことになったのはいいが、何故か俺だけが清掃や飲み物の給仕などをすることになった。どうも、そういった細々とした仕事を娼婦が行う事で経費を削減しているらしい。その分給金はいいようだが。
部屋の汚れを掃除していると、なんだか陰鬱な気分になってくる。
いや、様々な体液で敷布が汚れていることはいいのだ。それは覚悟していた。
ただなんというか、幼児用のがらがらとか、おしゃぶりとか、赤ん坊が転落しない為の柵とか、知育パズルとか、絵本とかが散乱しているのを見ていると、何か現実感が失われていくような気持ちになる。
家族を模す、といっても、主な需要はどうもそっち方面らしい。
面接時に子守歌を歌わされたのはこういうことだったのか、と納得してしまう。
(みんなママがそんなにいいのかなー?)
ちびシューラが首を捻っているが、まあ、なんというか、そういうこともあると言うか何というか。
端末から入ってくる連絡によると、他の二人は適当に客をあやしていたら終わったとか、絵本の読み聞かせに終始していたとか、催眠術を使って眠らせたら『こんなによく眠れたのは久しぶりだ』と感激されたとか、そんなのばっかりである。
現代人疲れすぎだろ。
「そこ、何を怠けているの! キリキリ働きなさい!」
「はい、ただいま、お姉様!」
クレナリーザは腰に手を当てて厳しく俺の指導に当たっている。というか掃除しかしていないがいいのかこれ。
そういうものなのか、それとも今ひとつ女性らしさに欠けていることを見抜かれているのか。判断がつかない。
「ここって、クレナリーザお姉様が経営されているんですか?」
そうではないことは事前に調べて知っていたが、それとなく探りを入れてみた。
すると、
「馬鹿ね、私は代理。この黒百合館の主人は『お母様』よ」
という答えが返ってくる。
お母様――つまりはママ。
ゼドの情報にあった、『森の奥でママが待ってる』という言葉を思い出す。
「えっと、ではお母様にはご挨拶しなくてもよろしいのでしょうか」
そう言った途端だった。
「そう――お母様に、お会いしたいのね?」
クレナリーザの瞳が、空洞になったかのような錯覚。
ぞっとするほどの暗闇を瞳に湛えながら、瞬き一つせずに無表情にこちらを見る少女に対して返答を迷い、ちびシューラに相談しようとする。
返事がない。
手の中に隠していた端末から、コルセスカとゼドの反応が途絶する。
それどころか端末で通信そのものができなくなっている。
掃除していた室内の照明がふっと消えて、黒い壁面が不可思議な燐光を放ってかすかな視界を確保していた。
そして、俺の目の前で、いつか見たような光景が展開される。
(ごめ――やられた――防壁迷路――キラく――――)
ノイズ交じりの音声と共に、ちびシューラが無数の壁に取り囲まれて消えていく。何度呼びかけても一切の応答が無い。
どうにかコルセスカとの繋がりは残っているように思えたが、それもどうやらかなり薄弱なようだった。
「案内するわ。ついてきて」
クレナリーザは平坦な声で告げると、部屋の外へと出て行く。
どうする。追うべきか。ここは一時的に離脱した方がいいのでは?
だが、コルセスカとゼドの安否が気になる。あの二人がそうそう窮地に陥るとも思えないが、しかし万が一ということもあるだろう。
それに、今は千載一遇の好機だ。
誘われている、と感じた。
ほぼ間違い無い。相手はこちらの思惑を理解した上であえて内部に招き入れたのだろう。最初から客として入っても結果は同じだったはずだ。
覚悟を決めて、一歩を踏み出した。
四英雄でも駄目なら【マレブランケ】あたりを援軍として呼んでも仕方が無い。
誘いに乗った上で、その企みを正面から殴り飛ばしてやればいい。
どの道、いずれは相対しなくてはならないのだ。
薄暗い廊下を歩く。
クレナリーザの先導に従って奥の方に進むうちに、黒百合の強烈な香りが薄れていくことに気がついた。
そして、その香りはより濃密な臭気を打ち消す為のものだったことに気付く。
死臭。
血と臓物、腐敗の臭いが、そこには漂っていた。
暗がりの中でよく目を凝らせば、美しく着飾って通路を歩く娼婦たちは皆どこか様子が変だ。
カタカタと剥き出しの歯を打ち鳴らし、空洞の眼窩から眼球を零れ落とし、腐乱した乳房がべちゃりと床を汚していく。
客にしな垂れかかる骨と皮ばかりの手には一滴の血も通っていないし、この上なく細い腰にはそもそも肉が存在しない。
はみ出した腸を引きずりながら歩く淑女たちに、男たちは溜息を吐きながら見とれ、安心しきって身を委ねていた。
「ようこそ、黒百合館の『本館』へ。真の快楽――性と死の楽園に、貴方を誘って差し上げるわ」
振り返ったクレナリーザの顔が腐り落ちていく。
通路は不自然なほど長く、果てがないようにも思えた。異様な空間の中、並んだ扉が次々と開いて中から全裸の女性たちが現れる。
余計な服や皮、肉すらも剥ぎ取ったありのままの姿を晒した娼婦たちが、来客を持てなすために一斉にお辞儀した。
「まあ、補正かけるのなんてどこもやってるしな。普通普通」
詐欺だと目くじらを立てるほどのことでもない。
俺が女装しているのに比べれば、全員きちんと女性なのだし。
無限に続くかと思われた通路を抜ける。
つくりものの月光が冴え冴えとした光の柱を作っていた。
通されたその広間では、ネクロフィリアの殺人鬼やスナッフムービーの撮影者、更には度を超えた加虐嗜好の者たちが快楽の渦に沈んでいる。
「当館では、貴方が死体を陵辱するのではなく、死体が貴方を陵辱いたします」
「客を殺すのが、ここの流儀か」
「それがお客様の心に秘められた、真なる願いでありますれば」
死人たちに群がられ、彼女たちへの無意味な殺戮を繰り返し、逆に返り討ちにされている特殊な嗜好の客たちは、歓喜の声を上げながら息絶えていた。
殺されることで快楽を得ているのだった。
ここでは、死とは性的な欲求を満たすことと同義。
性行為とは、すなわち殺戮である。
それらは転倒し、一体となる。
引き裂かれた人体は絶叫と共に肉塊と化し、物言わぬ死人が増えていく。
断末魔の言葉は、どうしてか決まってこうだ。
「ママ! ママ!」
さてこの場合、呼びかけているのは彼らを生んだ母なのだろうか。
それとも、彼らを殺す母なのだろうか。
周囲を取り囲む死人たちが、一斉に口を開く。
「当館では貴方が私どもを痛めつけるのではなく、私どもが貴方を痛めつけます」
「そうか。ならネクロフィリアのマゾヒスト向けに宣伝するといい。きっと評判になるだろうから。何なら口コミで広めてやってもいい」
「あら、それは出来ない相談ですわ」
「それはどうしてだ?」
クレナリーザは、にっこりと微笑んで見せた。皮が剥がれ落ち、剥き出しの表情筋が千切れて頬が落ちる。
「当館では、物事は始まりから終わりへと進むのではなく、終わりから始まりへと進むからです――貴方は、出口には、辿り着けない」
溢れかえった死人たちが押し寄せてくる。
息を整えながら、腰を低くして構えをとった。胸の重量とひらひらしたスカートの分を計算に入れて誤差を自動修正しつつ、サイバーカラテ道場を起動。
さて、ちびシューラのアシスト無し、外部とも通信不能のこのスタンドアロンの状況、どこまで戦えるものやら。
微かな繋がりを頼りに『右腕』の力を解放しながら、俺は死人の群れを薙ぎ倒して奥へと突き進んでいく。
「ママとやらがどこにいるのか、確かめさせてもらう!」
クレナリーザの顔を掌打で弾き飛ばして宣言して包囲を突破。
暗闇がわだかまる通路へと飛び込んだ。
暗転。
そして、俺は夢の中に飛び込み。
己の罪と、対面する。
闇の彼方に、腐乱した狼の死体が立っている。
四つ脚の色は骨の白。
陥没した胴体から、血まみれの何かが迫り出してくる。
息が止まった。
気付けばそこは暗く深い森の中。
粉砕された肉塊がゆっくりと盛り上がり、やがてそれが破壊された何かであるということが明らかになっていく。
木々の間から差し込む月光に照らされた死体。
打撃によって砕かれた顔面から、眼球がこぼれ落ちていく。
痛い苦しいと呻き続けて、最後に俺の名前を呼ぶ。
その声を、その光景を、俺は確かに知っている。
今はもう存在しない『鎧の腕』が、血に濡れて悲鳴を上げているようだった。