4-7 花街
朝起きたら、目の前にトリシューラの寝顔があった。
艶のない黒を基調とした金属製の肌。
所々に走る銀のラインは、彼女が機械の身体であるということを強調している。
寝ている間は質感を再現するテクスチャの呪術が働かないらしい。
安らかな寝息を立てる――という自動的な振る舞いを適度な乱数を加えてそれらしく実行するトリシューラは、寝ている間であっても人らしくあろうとしているようだった。思わず感心する。
いや、感心している場合ではない。
何だこれは、どういう事態だ。
巡槍艦内部に宛がわれた一室に寝泊まりするようになってから早三ヶ月。
その間、こんな状況に遭遇したことは一度も無い。
寝台の中に、トリシューラが潜り込んできていた。
いや、まさかそんな馬鹿な。
待て待て待て、落ち着け。
まずは昨夜のことを思い出せ。
昨日の夜、確かに俺は普通に一人で就寝していた。部屋のロックも万全だ。万全のセキュリティで守られたこの場所には、俺とトリシューラ以外誰も侵入する事は出来ない。
「――つまり、トリシューラが自分の意思で入ってきたってことだよな」
混乱するな。大丈夫だ、俺は正常に思考できている。
つまり、これはトリシューラの何らかの悪ふざけか、それか呪術的に必要な行為なのだろう。
今日は遂に言語魔術師試験の当日だ。
その準備とか、そういうことなのだろう。きっとそうだ。
そうであってほしい。
それにしても。
光を吸い込むような黒い金属製の肌、血のような赤い髪、そして安らかな寝顔。
こうして見ていると、彼女がアンドロイドなのだと実感する。
しかし、完全に停止しているわけではない。
寝ている人体を絶えず摸倣するその様子は、確かに人らしくあろうとする彼女の意思を感じさせてくれる。
思考より先に、左手が動いた。
細やかな赤い髪。寝ている際に乱れないようにまとめられている一房にそっと触れて、撫でていく。
寝ている相手に対してしていい行為でないことは百も承知だが、左手の動きは止まってくれない。そのまま頬に指先が伸びていき――。
そこで、トリシューラが目を開いた。
緑色の瞳がこちらを見て、頬に触れている左手を見て、事態を理解していく。
ややあって、絶叫が迸った。
「いやあああああすっぴん見られたあああああ」
「それすっぴんなのか」
その状態はその状態でわりと好きだけどな。
まあ本人が見られたくないというのならあまりじろじろ見るのも良くない。
「アキラくんの馬鹿! 責任とって!」
「トリシューラがいいのなら幾らでもとるけど」
「は? ペットの分際で何勘違いしてるの? 駄犬のくせに機械に欲情するとかもう最低最悪の変態だね! このお猿さん!」
朝から元気そうだな。というか犬で猿って地獄の新しい種族か何か?
相変わらずでなにより。
起き上がって、ブラインドを上げる。
朝の光が室内に差し込んで、眩しさに眼を眇めた。
振り返ると、トリシューラはまだ布団を被ったままふくれていた。
「うー、こうなったら【取り消し】の呪文で直前の操作を無かったことに――ああもう一回寝ちゃったから無理ー!」
「いいからさっさと起きて支度しろよ。月に行くんだろ?」
というか、必要な手続きは最初の段階で済んでいるはずだ。
だらだらとラブコメもどきを続けるのもかったるいだろうに。
「風情が無いなあ。まあいいけど。アキラくんのために隙を見せるサービス、気に入らなかった?」
「そんなことだろうと思った。別にかまわないが、心臓に悪いので今度からは事前に言ってくれ」
「気が向いたらね」
それにしても、と考えてしまう。
こんな事が必要なくらい、俺の精神状態は不安定だったのだろうか。
トリシューラは振る舞いによって俺の精神を安定させようとする。それが演技だと理解できてはいても、そう意図して行動をしてくれたという事実は単純な人間の脳に安らぎを与えるからだ。
たとえば挨拶、たとえばちょっとした礼や謝罪。
そんな些細な振る舞いでも『好印象』は人の認識に残り、『快』の感情を喚起する。それは感情制御の網をすり抜ける振る舞いによるクラッキングだ。
振る舞いを行う人物が内心で何を考えているかは関係が無い。
先日の戦いでロドウィやクレイが見せた肉体言語にも通じる理屈である。
してみると、これは試験の準備なのかもしれない。
トリシューラは肉体言語魔術師の試験も受験するらしいからだ。
日程が数日間に渡るのでトリシューラはほぼ一週間ほど不在になる。
その間、留守をしっかりと預からなければならない。
そうでなくとも、現在は【変異の三手】という明確な敵がいるのだ。
「ていうか、その件も含めての対策なんだよね、これ」
「思考に肉声で答えるのやめろよ――対策ってどういうことだ?」
「んー、マーキングみたいな? 私のものだーっていう匂い付け。ほら、襲撃来るとしたら今日かなーって思ったから」
言っている事がよく分からない。
が、確かに俺たちが離れる今こそが襲撃の好機だろう。
当然、お互いに対策はしてあるが、それでも物事に絶対は無い。
「強化外骨格と戦闘用ドローン、あと杖型オルガンローデも連れて行くから大丈夫だよ。地上までの転移は一瞬だし、その後はリールエルバとメートリアンに合流するから戦力も十分。何か他の黒百合組も記念受験するとか言ってたから、結構な大所帯だね。【変異の三手】が一斉に襲いかかってきても返り討ちじゃないかな」
「黒百合組――っていうと、呪文の座の勢力だっけか。ってことは」
「うん、そう。何か伝言ある?」
「あー、そうだな――やっぱりいい。それは多分、余分だろ。相手にとっても余計な気兼ねになると悪いし」
とりあえず同じくあっち側らしいリーナには頑張れとでもメールしとこう。
彼女に対しては比較的気兼ねなく連絡できるのは、直接会った事が一度も無いからだろうか。それともあの快活な姿を知ってしまっているからかもしれない。
「少なくとも、フル装備の私は火力面ではほとんど最強だから安心して。刺客が来ても返り討ちにできる。それより、私はむしろアキラくんの方を心配してるの」
「俺の方を? だが敵の目的はトリシューラを倒してあの【ダモクレスの剣】ってのを落とすことだろ?」
「そうだね。多分あの説明は嘘じゃない――けど、それだけだと断定するのは危ないと思うよ。もしかしたら、暗殺を恐れた私がドラトリアに亡命、ガロアンディアンが無防備になった隙を突いて乗っ取る、という作戦かも」
トリシューラが挙げたのはあくまでも一例だが、トリシューラに対する襲撃だけを警戒するのも良くない、ということだろう。
つまり、不在を守る俺の責任は重大だということだ。
「気をつけてね。【変異の三手】の最後の副長、そしてリーダーのグレンデルヒは、多分これまで以上の強敵だから」
まるで、襲われるのが確定しているかのような言葉。
トリシューラは、何か俺の知らない判断材料を握っているのだろうか。
こうなると引き留めたくなるが、試験も他勢力との会談も必要な事だ。
気を引き締めて目の前の事に当たるしかない。
その後、今朝の朝食当番であったレオが用意していた食事を手早く済ませて、それぞれ一日を開始する。
トリシューラは、彼女にしては珍しい出で立ちに着替えていた。
色彩はいつも通りの黒だが、鍔の広い三角帽子に金の縁取りがされたローブ。
魔女らしいな、となんとなく思ったが、どうも前世の常識っぽい――のだが、この世界でもこれは典型的な魔女のイメージらしい。
「私が流行らせた!」
「またお前か」
何かクロウサー家の代表であるリーナも好んで着ているということで最近の魔女たちの間で流行しているとかなんとか。
巡槍艦から出て、第五階層の端にある『港』に到着する。
転移門はそのすぐ傍だ。
巨大な機械竜やらドローンやら強化外骨格を格納したコンテナやらをぞろぞろと引き連れて、トリシューラを転移門まで送る。
最後に、トリシューラは人差し指を立てて一つずつ架空の項目をチェックしていくような素振りをしながら、
「行政局と環境整備局のメンテは済ませたから大丈夫だし、入管ゲートも異常無しで正常運転中。マグドール商会への対応はレオに任せていいから。夜警団の応援要請あったらマレブランケの人員適当に回しといて。アキラくんの判断でいいけど、私はファルファレロとカルカブリーナに経験積ませといてくれるとうれしいな。何かあったらちびシューラに相談してね」
と早口で捲し立てていく。
それからこちらを覗き込むように身を屈めた。
「それじゃあ行ってくるね。アキラくん、私がいなくなるからって変な事しないように。しっかりお留守番するんだよ?」
「了解。そっちも気をつけてな――あと、幸運を祈る」
「運じゃなくて、実力で結果を勝ち取りに行くんだよ、私は。まあでも、激励は受け取っておくよ。アキラくんのお陰で、今の私は無敵だから」
転生者の使い魔を得たトリシューラは、本来苦手な邪視や呪文、使い魔といった他系統の呪術適性が上昇しているらしい。
確かに感情表現やテクスチャで再現している質感、溢れんばかりの活力は、日々増しているように思える。
それが俺と共にいることによって獲得できたものなら、使い魔になった甲斐もあるというものだ。
そこまで考えた時、トリシューラが、素早くこちらに身を寄せた。
躱す気は起きなかった。
少し身を低くして、右肩に手を置かれる。
がぶり、と左腕に齧り付かれた。
義肢との接合部に歯を当てて、
(いってきますのちゅー)
などと言っているが、どこまで本気なのやら。
意外に強く噛み付かれている。何か、記憶の底で刺激されるものがあった。
それが何かを意識するより先に、トリシューラは手を振りながら転移門へと駆けていった。
さて、俺も目の前の事を片付けなければならない。
振り返って、一歩を踏み出した。
そのメールを見た瞬間、即削除しようと思ったが、差出人を見て思い留まった。
リールエルバからのものだったからだ。
が、内容がひどすぎた。良くフィルタリングされずに届いたなこれ。
『出稼ぎに行った主人がトントロポロロンズに挑んで壮絶に討ち死にしてから一年が経ち、私もようやく立ち直りつつあります。ですが、毎日独りきりで寝台に横たわると、不意に身体の火照りを覚える瞬間があります。私はドラトリアの王族です。つまり謝礼は幾らでもお支払いできる、ということです。毎晩疼いて止まらないこのいけない身体を、どうか貴方様が鎮めて下さいませんか? もし興味を持っていただけたなら、こちらのURLをクリック♪』
ひどい。あらゆる意味でひどい。
ドラトリアの王族の主人って多分その人も王族なのに何故出稼ぎに行くのかとか、トントロポロロンズってあの豆腐っぽい無害そうな生き物だよなとか、全体的にもうどうしようもない。
が、添付された立体幻像のリールエルバの姿態はぞっとするほど美しかった。
魔性の美貌、均整のとれた身体。文面がどんなに頭の悪いものでも、この美しさにくらっと来てついつい『踏んで』しまう者は一定数いるだろう。
(はーい、アキラ。お元気?)
視界に出現する小さなリールエルバを半眼で見ながら、呆れて思考の中だけで言葉を紡ぐ。
(そちらも試験なのでは?)
(まあそうなんだけど、トリシューラを迎えにいく途中で思い出した事があったから、貴方に連絡しておこうと思って)
はて、何だろうか。
こうして顔を合わせることは多いものの、直接やり取りをするのはトリシューラである。俺が彼女とこうして対話することは少ない。
リールエルバは緑の長髪を波打たせながら口を開いた。
(ちょっとした忠告よ。トリシューラが不在ってことも含めて、そこは今かなり不安定になってるだろうから)
(不安定、というのは?)
(今のガロアンディアンはかなり危うい。言震――ワードクェイクのリスクが世界トップだって事はご存じかしら)
言震、というと前にトリシューラに軽く講義を受けたことがあったような。
この世界特有の災害で、呪術的な断絶が引き起こされて文化が分断されるとか、言語が引き裂かれるとか、正直イメージしづらい。
(ありとあらゆる言語が雑多に混淆された自然発生の言語、ガロアンディアン語は言語秩序を安定させている太陰――イルディアンサの管理下に置かれていない『混沌』の言語よ。不安定なそれが放置されているのはトリシューラの国策であり武器でもあるけれど、同時に巨大な爆薬を抱え込んでいるに等しい)
キロンに敗北して転生者としての性質を殺されて以来、俺の思考言語は一時的にこの世界のものに置き換わりつつあった。
が、現在ではトリシューラとコルセスカの復旧作業がそこそこ順調に進んでいるお陰で、日本語による思考を取り戻している。
第五階層特有の混淆言語――ガロアンディアン語もある程度なら覚えることができるようになったのは、俺がこの場所を自らの居場所であると認識できるようになったからだという。
最近は日本語の語彙と文法を使うのが流行ということもあって、感覚としては日本の端から端に引っ越して新しい方言に慣れるような、そんな言語の学習が行われていた。トリシューラの学習プログラムも大変わかりやすい。
(日本語を核にすることである程度安定していると聞きましたが)
(そうね。だからこそ、発生源である貴方を経由すればガロアンディアン語にクラッキングを仕掛けることもできる。あるいは、言震を人為的に発生させることすら可能かもしれない。そうなればガロアンディアンは崩壊する)
ということは、俺もまた敵に狙われる危険性があるということだ。
トリシューラだけでなく、俺の敗北もまた決して許されない。
思えば今までの刺客は二人とも言語魔術師だった。呪文使いのクラッキングには今まで以上に気をつけないとまずい。
(そのレベルの改竄ができる言語魔術師なんて、それこそ上級言語魔術師くらいだけど――英雄たるグレンデルヒは数少ないその一人。そしてついさっき、彼が太陰のデータベースにアクセスして日本語の言語情報を参照していた事が明らかになったの。気をつけて)
真面目な顔で警戒を呼びかけるリールエルバの表情にいつものような『遊び』は無い。それだけ危険な相手だということだ。
グレンデルヒ=ライニンサル。四英雄の一人。地上最強の男。
近いうちに激突することはほぼ確定事項のようだった。
(それともう一つ悪い知らせよ。ラクルラール派に動きがあったわ)
それは確か、使い魔の座を占める末妹候補トライデントが所属する星見の塔の派閥、だっただろうか。
(そう。トライデントの協力者――末妹候補じゃないけれど、その仲間といったところね。私みたいな立場よ)
トライデントの使い魔たる【細胞】ではないが、それに近い立場の末妹の予備候補たち。トライデントが何らかの都合で末妹候補では無くなった際には使い魔の座を占める候補になるという予備の人員がいるということらしい。
(第六位全権代理、人形師ラクルラールの弟子にして被造物――紅紫のアレッテ・イヴニルと砂茶のミヒトネッセが星見の塔を出てアルセミットに入国したわ。その後の足取りは不明だけど、多分エルネトモランに向かったはず。そのままこっちに干渉してくるか、そっちに干渉してくるかは不明。気をつけて)
(わかりました。連絡、感謝します)
(いいのよ、同盟相手のことだもの)
こうしてトリシューラを介さずに普通に話していると感じの良い相手だと思う。本体との同期が切れて待機モードになってはいるものの、意識が普通にあるちびシューラが脇で威嚇しているのはさておき。
(殿下は確か上級試験を受験されるのですよね。主共々、幸運を祈ります)
(あら。私の応援なんかしていいの?)
(試験が別ですし、両方受かって困ることはないでしょう。それに、同盟相手のことですから)
(ふうん。そう。それもそうね――ねえアキラ、やっぱり私の下僕にならない?)
(いえ。あくまで俺は、トリシューラとコルセスカの使い魔ですから)
(その返事を聞くと、ますます欲しくなってくるわね。まあいいわ、今日はこの辺で引き下がるとしましょう。またいずれ――そうね、直接会う事があれば、その時に改めて勧誘しようかしら)
どこまで本気なのか分からないが、止めて欲しい。
リールエルバが姿を消したのを確認して、小さく溜息を吐いた。疲れる。
あの吸血鬼の少女は最近になってようやく地下から表舞台に出てこられるようになったと聞いている。
が、監禁生活が長かったせいでまだまだリハビリが必要らしい。
今回も特別措置で遠距離受験をするようなので、直接顔を合わせることはしばらく無いように思える。
何故か知らないが、妙な悪寒がある。
まさか近いうちに来るんじゃないだろうな。
トラブルの予感がする。絶対トリシューラと揉めるだろうなあ。
とりあえず思考を現実に戻すとしよう。
道場で稽古と検討会を終わらせた後、俺は急ぎ足で夜の街を歩いていた。
ちなみに検討会というのは最近の戦術傾向の流行を分析して、現環境における動作プログラムの最適解を考案したり、その対策やさらにその対策などを想定した上での最適解を模索するサイバーカラテ道場の研鑚行為である。突き詰めていくとサイバーカラテの戦いは読み合いに行き着くのだ。
それはさておき。
俺が今いるのは、ガロアンディアンに新たに作り出された歓楽街――通称『花街』の中央通りである。
目的地はとある公営娼館。そこである人物と待ち合わせをしているのだ。
貧民が押し込まれ、物乞いや街娼たちに溢れていたその場所は、かつてとは随分と様相を変えていた。
公社の管理下におかれている事は変わらないが、トリシューラによって環境の改善がなされ、公営化された賭博場や娼館。
取り仕切っていた犯罪組織は一切の慈悲無く物理的に駆逐され、夥しい量の血が流れた結果として、そこには一定の平和が訪れていた。
国家がその過酷な労働環境を管理することで、犯罪組織が入り込む隙間を無くすという国策。
公然と売買される合法なドラッグや、徹底的な健全化が図られた賭博場。
定期的な健康診断が無料で受けられ、巡回ドローンや監視カメラの設置によって安全への配慮がなされた公営娼館。
公娼、あるいは娼妓と呼ばれる彼ら彼女らはガロアンディアンに登録された相手と安全に仕事をすることができる。
これは性行為を切っ掛けとして発生する感染呪術リスクを低減させ、被害を防ぐためには当然の措置であるらしい。性病予防みたいなものか。
今や花街はその名の通りとても華やかで明るい空間になっている。
道の各場所には色とりどりの植木鉢が並び、中央の細い街路樹は仄かな呪術の光を宿して街中を照らしていた。
狭い路地裏には監視の目が行き届き、違法な取引などはほぼ不可能。
雰囲気そのものが明るく、客に声をかける娼妓らの表情も以前に比べて明るい。
『上がり』がより見えやすく、明確になったためだろう。
ガロアンディアンの医療水準ならばその前に死ぬこともまず無い。
トリシューラが彼ら彼女らの呪術的地位向上を行った事も大きい。
『ポルノスター』として名が売れれば、高い社会的ステータスと収入を得ることだってできる。
あらゆる原始的な欲望が向かう先であるポルノスターは一種の偶像であり、呪力の発電機であるとも言えた。
この世界では性的な事柄からも呪力を引き出せるので、正しい呪術の知識を持って取り組めば公娼は極めて安定した主要な産業にもなり得るのだ。
なにしろ欲望には果てが無い。
それがある種の文化を生むのなら、奨励しない理由が無いのだ。
昼も夜も動き続ける花街は、作り上げられた明るさと、本来の低俗で退廃に満ちた空気が混ざり合って独特な雰囲気だ。
視線を巡らせる。
ショーウィンドウに展示された商品は、かなりどぎつい代物だ。
それらが、ポップな音楽や笑顔の店員と並存している。
多様な形態の人工交接器。簡易脱着可能な男性用乳房。感覚を任意の箇所に移動させるサービス。一時石化系の嗜好に対応した店。ウェアラブルコンピュータを湿らせてショートさせる危険度の高いプレイを行っている店は安全管理が大変で初期に揉めたのを覚えている。
あとは幻影呪術でありとあらゆるシチュエーションを楽しめる施設だとか、ドーラーヴィーラ監修の元で製作された高品質コスチュームを使用したイメージクラブだとか、呪術を活用した快楽の追求はどこまでもそのクオリティを高めていく。
性的なことがここまでオープンに扱われていると、逆にアンダーグラウンド感が無くなってくるのが不思議だ。
先日、地下迷宮で目にした時もそうだが、女性の乳房とかもう見慣れすぎて何も感じなくなってきている。
男性がファッションで身につける人工乳房なんかは店頭に当たり前のように陳列してある。戦闘用に内部装甲が仕込んであるものとか、ミサイルのように射出していざという時に攻撃できるものとか、もうわけがわからない。
先日、多腕系の格闘動作制御プログラムを構築しているインドアユーザーの一人が『人工乳房を拡張することによる戦術について』というトピックを立ち上げた時は正気かと思ったが、割と真面目な内容だったので今では俺も暗器としては意外と有りかもしれない、と思い始めている。
つまり思わず購入してしまったのは、サイバーカラテの研鑚のためであって変な事に使うつもりではない。
だからちびシューラは落ち着け。だから違うって。
馬鹿な事を考えつつ歩みを進める。
目的地である建物に辿り着く。
公営娼館の中でもそこは少々他とは雰囲気が違う。
探索者――それもとある集団の拠点としてトリシューラが用意した、ガロアンディアンの内部に存在する『城』。
事実上の治外法権であるそこは、『自由』を己の信条とする者たちが集う宿であり食堂であり、更には地上にある探索者協会の支部の一つでもある。
強面の門番に挨拶して中に入る。
広々としたエントランスホールには丸テーブルが並べられている。
活気にあふれた空間。給仕が忙しく動き回り、酒や食事、あるいは地図や巻物、魔導書などを卓上に並べて次の探索について話し合う人々。
壁のパネルには無数の依頼書が立体映像として表示され、端末か奥のカウンターで依頼の受注と報告が可能である。
公営娼館としても機能しており、中には娼妓にして探索者という者もいる。魅了呪術に秀でた娼妓は使い魔を支配したり敵の動きを妨害したりといったことに向いている。
周囲の視線が俺の両腕に集まるのを感じるが、いつものことだ。
ちりちりとした警戒の空気――そして好戦的な感情。
喧嘩っ早い連中の中には決闘を申し込んでくる者もいる。
最初の頃はそんなふうに揉め事に発展することもあったが、今となっては挑まれることはほとんどない。
この場所の頂点と俺たちが手を組んだ事が一番の理由だ。
俺は奥の方にその姿を見つけると、近付いて声をかけた。
「悪いな、待ったか?」
「いいや、時間通りだ」
視線を下に向けたまま、低く重い声が返ってきた。
男は、卓上で静かに果実酒を飲んでいる。そして、深く椅子に背を預けて、大きな魔導書を片手で支えながら読み耽っていた。
集中した表情。
眉間に皺が寄っているのは、呪文を意識に焼き付けているからだろう。
彼はこうやって覚えた呪文を消費して呪術を行使する。
「顔色が悪いな。また徹夜か」
「ああ。もう二徹目だよ。そのぶんかなりストックできたけどな。このあと【死人の森】の探索だ。とはいえ、あまり期待はしないでくれ」
「いや、助かってるよ」
専門的な呪術師ではない彼でも、高度な呪術を一時的に記憶して、使い捨てのように使用することはできる。
高い記憶力と集中力、そして膨大な準備時間が必要な上に、寝れば全てが台無しになるという欠点があるにせよ、専門の呪術師がいない探索者集団にとっては有効な戦術である。
「まあ、探索が終わったら一日くらい泥のように眠るだけだ。起きたらまた呪文を頭ン中に詰め込んで探索。その繰り返しだな」
「不規則極まりない生活だな。いつか破綻するぞ」
「その時はその時さ。俺はお前みたいに何から何まで管理されんのは勘弁願いたいんでね。自由に気ままに束縛されずに――俺の王は俺だけだ。だからこそ、ガロアンディアンの中にあってさえ、『ここ』だけは俺の王国だ」
徹夜の影響でやや気怠げに、少し陰気に言葉を連ねるその男は、隈のある目を魔導書から俺の方に向けた。
キャカール系霊長類――地上のマジョリティだという、コーカソイドに近い容貌の種族。彫りが深い顔立ちは陰気ながらも整っており、暗い茶色の瞳に暗い黒髪。
暗色のシャツにベスト、ベルトに吊り下げられた拳銃嚢には大型の――大型過ぎる拳銃が二丁。
腰の後ろには魔導書を吊り下げるホルダーまであり、呪術的には三丁の杖を保持していることになる。
黒いテンガロンハットはトリシューラが面白がって贈った品だが、当人もいたく気に入ったらしく今も身につけている。空間拡張の呪術を用いることで実際に十ガロン――三十八リットルの水が収まるらしい。
探索者にして銃士、更には四英雄きってのならず者と呼ばれた男。
無法者である彼は、自ら定めた法秩序に従って動く。
ガロアンディアンにとっての同盟相手の一人。
どこか薄暗い陰を纏ってはいるが、不思議な人当たりの良さがある男だ。
「奥に部屋を用意してある。そっちで話そう。お前は酒はやらないんだったな。ならメシにしよう。今日は俺の奢りだ」
【盗賊王】ゼドは気前よく言い放ち、薄く笑みを浮かべた。