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4-5 工場


 階層周辺部に立ち並ぶ倉庫街、そこから少し離れた位置に築き上げられつつあるのが工場街である。

 第五階層の物質創造力と外から持ち込んだ建材を組み合わせた複合型の建造物群が辺り一面を灰色に染め上げていた。


 ものが行き交うばかりだった第五階層に、『生産』の拠点を作ること。

 それはトリシューラがガロアンディアンという王国を築き上げるために必要なプロセスの一つだ。


 この世界特有の現象により、エネルギーという面で考えれば、人が次々と流れ込んでくる第五階層では資源が枯渇する心配はほとんど無い。インフラもまた第五階層そのものが生み出す物質創造能力でほとんど賄えてしまう。


 文化的営為は呪力を生む。

 ガロアンディアン建国以来、生活の質が底上げされたことで生み出される呪力はその量と質を増していた。


 しかし、たとえ裏面の土地を最大限有効に活用できたとしても、食料自給や工業製品などの生産力ではどうやっても外界に劣る。

 それどころか、依存せざるをえない。


 そこで、何かしらの呪術的付加価値を積極的に『発信』していく必要がある。

 トリシューラが国策として推し進めているのは主にそうした呪術的な生産活動で、彼女自らそれを率先して行っている。というか、それが本来の目的だ。


 文化摸倣子――すなわちミームの発生源にして奉納先でもある女王トリシューラのために存在する国家。

 住人たちは女王に庇護され、また住人たちは庇護される事で女王の力を高める。

 それがガロアンディアンという『王国の形をした祭壇』の構造だ。


 とはいっても、あらゆるものを外界に依存するわけにもいかない。

 ある程度――例えばドラトリアとの関係が悪化した際に、次の手立てを講じるための時間を稼げるくらいの生産力と備蓄は確保しておかなければならない。


(そこでこの工場街。空間圧縮技術が普及しつつあるおかげで倉庫もガンガン潰せるからね。スペース有効活用して地下と上にもガシガシ作っていこうってわけ)


 密集させすぎて大丈夫なのか。事故ったときのリスクとか考えてるよな?

 この世界特有の、呪術的な汚染とか公害がありそうで怖いが、まあそのへんはなんとかやり繰りしているらしい。放置して後々困るのはトリシューラだからな。


 昨晩の襲撃から夜が明けて、翌日。

 俺とトリシューラは、そんな工場街を訪れていた。

 道場は休みである。


「怪我の調子はどう?」


 普段は左右で分けられている長い赤毛は珍しく後頭部で一つに束ねられており、馬の尻尾のように揺れていた。これはこれで似合っている。

 冬場ゆえのコートも長袖のブラウスも、いつものように黒。スカートからタイツに包まれた脚がすらりと伸び、人狼毛皮付きのブーツは相変わらずの猟奇趣味だ。


「トリシューラがすぐに処置してくれたからな。問題無いよ」


 【変異の三手】が放った刺客、イアテムとの戦いを思い出す。

 負った手傷は問題無いが、また襲撃された際の対策は講じておかないとまずい。

 そうでなくとも、その探索者集団は同格の副長をあと二人、更にはその上に立つ四英雄の一人を擁している。


 コルセスカやゼドと並び称される、地上最強の男グレンデルヒ。

 その思惑は不明だが、企業に所属する探索者だというのならばその背後には巨大複合企業群メガコーポの思惑が絡んでいるのかもしれない。


 前途は多難だが、とりあえずは当面の仕事を片付けなければならない。

 進行中の『とある計画』のために建造している工場の視察、そして『駆除』。

 トリシューラとしては光学映像でも送信して貰えばそれで事足りるのだが、実際に足を運んで権威を示すという『それっぽさ』の儀式はやはり必要らしい。


 彼女は護衛として使い魔である俺と、【マレブランケ】から一人を選んでこの場所を訪れているというわけだ。

 トリシューラを挟んで反対側で、一人の男が面倒臭そうに愚痴る。


「というか、何で俺なんですかね。俺、近接戦闘はそこまで得意じゃないんですが。護衛任務ならマラコーダの姐さんとかでいいんじゃ」


「マラコーダには別館任せてるからな。今はどっちかっていうとあっちの収入メインだからなるべく続けときたいんだよ」


 カルの両目は大きな色つきのゴーグルに隠れて見えづらいが、心底うんざりしているような気配が感じられた。

 いやまあ、【変異の三手】に襲撃されるかもしれないから覚悟しておけ、なんて言われて張り切る奴もそういないだろうが。


「了解――っと。カルカブリーナ、身を粉にして女王陛下の御為に命を散らす所存であります」


「心にも無いことを言わなくていいし死ななくていい。やばくなったら逃げろ」


「あ、そうですか。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」


 ディティールの多いゴーグルを弄りながらカルはどこか気の抜けた口調で応じる。防具にして端末でもあるゴーグルで何か検索でもかけているのだろうか。一応勤務中なんだが、マイペースな奴である。


 体格は俺と同じくらいだが、この男はとにかく装備が多い。

 隠すこともなく見せびらかして周囲を威圧するように、多種多様な武器を腰や背中から飛び出させている。まるで孔雀のようだった。


 投石器、長弓、弩、投槍、呪符、巻物、魔導書、杖、短剣、短槍――節操のないチョイス。武器と呪具の数々。カルはこの全てを使いこなす。

 有り合わせの手段で最適解を模索する、サイバーカラテユーザーらしいこの世界の住人である。


 最初期にサイバーカラテを使い始めた一人でもあり、彼が使用感を語った動画は今でもアストラルネットに残っている。

 元修道騎士だったが、紆余曲折あって地上から第五階層に移動、【マレブランケ】に加入したという変わり種だ。


「今回カルを連れてきたのは、きっと貴方が一番に志願するだろうと思ったからでもあるんだよ?」


「はい?」


 不可解そうに首を傾げるカル。

 そうやって話しているうちに、巨大な建物の入り口に到着する。

 待っていたのは、恰幅のいい体と四肢を持つ壮年から老年に差し掛かりつつある男性――公社の『副首領』ロドウィである。


「いやあ、これはこれは女王陛下、お迎えも出せずに申し訳ありません。遠いところをご足労いただき誠に恐縮でございます」


「いいよ、このへん見て回りたいって私が言ったんだから。それより、早速中に案内してくれる?」


 俺たち三人は灰色の建物の中に案内される。

 流れ作業による生産、組み立て工程を自動機械が行い、要所要所の点検やどうしても精密なチェックが必要な所も機械が行い――つまり人がいない。


 当たり前と言えば当たり前だが、トリシューラの『配下』である自動機械たちは非常に高性能で、自律的に駆動し、時には高度な判断を下すことさえできる。そのように専門化されているためだ。


 相互に連絡する際には冗談を織り交ぜたり、愚痴をこぼしたりと芸が細かい。

 たまにサボる奴がいたりするが、それでも全体は正常に機能しているのはそれ込みで設計されているからなのだろう。


「工員たちは、あちらの別室で絵を描いたり詩を綴ったり、工芸品を作ったりしております。あとは服飾のデザイン画を描いたりパターンを引いたり――ま、いわゆる文化的な活動とみなされている労働をしているわけですな。定期的に工場対抗で品評会などが行われ、優秀な者は表彰され賞金も出ますので、みな精力的にやっとります」


 なるほど。呪力の人力発電をしているわけだ――発電?

 機械が人間的に働いている横で人間が機械的に文化を生産している転倒した光景はたしかにガロアンディアンっぽい。


「あそこにいる奴ら、遊んでないか。なんかゲームしてるように見えるけど」


「あれはプロです」


「プロ」


(スポンサー、あの人の場合はクロウサー社の支援を受けて大会に出たり広報活動をしたりする人たちのこと。今はこっちで筐体の設置式とデモンストレーションに来てるみたい。ちなみにウチ所属のプロもいるよ)


 国家所属のプロゲーマーは特別文化振興員という正式な公務員らしい。

 ゲームをするという行為は熱狂を生み出し、トッププレイヤーのスター性は呪力の発生源にもなる。この世界ではスポーツ選手のような位置付けらしい。

 ひょっとしてコルセスカもプロゲーマーだったりするのか。


(セスカは存在自体がパブリックドメインだからプロにはなれないの)


 ごめん何言ってるのかよくわからない。

 ロドウィの解説が続く。


「あそこの『キロン使い』は反応速度と読みに定評があり、国内では屈指の実力者といわれております。先日の大会では『冬の魔女使い』を破って一位に。前大会の雪辱を果たした形になりますな」


「あー、セスカが超悔しがってたやつだ」


 何やってんだあいつ。


「あっちの筐体はシューティングで、草原ステージと丘ステージで遊べるよ。もうじき森林ステージも実装予定。あっちのタワーディフェンスは、空と地底から襲撃してくる敵を迎撃して市街地を防衛するってやつ」


「なあトリシューラ、まさかとは思うんだが」


「自動機械ってどうしてもアストラル系統の攻撃が苦手なんだよねー。だからまあ、楽しくご協力願おうかと思って」


「事前の承諾は」


「緊張するといけないでしょ? 純粋な体験に水を差すのも良くないし。心配しなくても上位ランカーにしか実際の防衛は任せてないよ。失敗しても彼らが責任を問われることは無いし、それにめげずにどんどん上を目指してほしいよね


 これ、いいのかなあ。よくないよなあ。

 後で事実が発覚して、トリシューラが窮地に追い込まれて涙目になる確率は何パーセントくらいだろう?


「大丈夫だって。そうなったらそうなったで対策はしてあるから。あと誰がどのドローンやタワーを操作しててどの敵を撃ったのか、わからないようにしてるし。個人の特定が一切できないから『殺害』は実感されない」


「本当に大丈夫か? 俺やお前にとっての『当然』がこの世界で普通に通用するとは限らないだろ。支持を失っても知らないからな」


「その『異物である当然』をこの世界に根付かせるのがガロアンディアンっていう呪術なわけでしょう」


「それが、負の側面であっても?」


「そうだよ。だって正も負もひとつのものだもの」


 なるほど。

 トリシューラの言葉に頷いて、俺はその光景を受け入れた。

 

 工場内を進んでいく。個別の部分だけ見るとごく普通の呪具製品を生産しているように見えるが、全体を俯瞰してみると違った絵図が見えてくる。


 トリシューラの解説によると、この工場は一つの巨大な呪術の儀式場だという。

 意味付けは多重化され、一つの行動が全く別の意味を持ち、それらが組み合わさることで複合的な意味を創造していくとのことだ。


 施設内部の表示は、日本語による暗号化が施されている。

 日本語がこの世界に定着しており、事実上ガロアンディアンの公用語の一つにもなりつつあるとはいっても、全ての文脈を完全に移行できているわけではない。


 ハイコンテクストな――特定の文脈に沿った解釈をしないと意味が取れない日本語というものがある。

 音読みでも訓読みでもない漢字の『ルビ』――例えば宇宙そらとかみらいとか乙女はなとかあおとか歴史ものがたりとか。


 換喩と提喩あるいは内包と外延、とかトリシューラが色々専門用語を並べていたが良く覚えてない。

 重要度の低いものは通じやすいように言葉の意味からある程度類推できるレベルなのだが、奥の方に進むにつれて暗号化の度合いは増す。


 三角錐かいぞうとか黒衣へんかとか猫耳こうかんとかこの世界の常識を知らないと理解できない暗号は、更にその文章内部での文脈――つまり配置によって意味が変化する。黒衣の後に三角錐が置かれると三角錐の意味の否定になるとか、もうわけがわからない。ここまでくるともう文法めいてくる。


 先に進めば進むほど文脈が外部から分かりづらくなり、最終的には方言が外国語に切り替わるように完全に意味不明になってしまう。

 第五階層特有の常識、更には公社の内部でのみ通用する文脈――というように狭い範囲でしか通用しない『意味』への変化。


 そして、ついにはこの工場内部の最深部でのみ通用する、全ての言葉が何らかの文脈を『参照』した暗号に満ちた場所に至る。

 そこは、一見してごく普通の工場、ごく当たり前の注意書きがされた空間だが、全ての言葉の裏にはもう一つの意味が隠されているのだ。


(というわけなの。わかった?)


 なるほど。

 よくわからん。

 全体的に、何なんだここは。


(何って、アキラくんと前に話してたアレだよ。最速で今月中に試作機が完成するから、楽しみにしててね)


 ああ、あれか、と納得する。

 ベルトコンベアを流れていく紅玉髄カーネリアンを眺めながら、ふと最深部にいる人間が俺たちだけではないことに気付いた。


 気配の薄い、闇の中に溶け込むかのような暗い雰囲気の男たち。

 松明の紋章が刻印された甲冑に身を包んだ彼らは、影の中に並んで俺たちをじっと見ている。


 特徴的なのは、その口から長く伸びた上顎犬歯。

 長さや大きさに個人差はあるが、まるで牙のようなそれは吸血鬼――ドラトリア系夜の民と呼ばれる者たちの特徴だった。


「お疲れ様、早々にこんな所に押し込めちゃってごめんね」


「いえ。我々は暗所や閉所での警備を得意としておりますので」


 集団の中心である壮年男性が口を開いた。

 赤毛の厳つい顔つきの男で、濃い顎髭は燃えるようだ。

 彼の名は、【鬼火】のバル・ア・ムント。


「現在のガロアンディアンにとって最重要施設なんだから、当然精鋭を警備に付けるよね。【鬼火】だけじゃなくてオルガンローデも配備してるよ」


 トリシューラの説明によれば、他の工場にも戦力を配置しているらしい。

 外に配置して周囲との軋轢を生んでもよくないし、機械だけのこの場所を任せるのは良策かもしれない。重要な機密も暗号化によって漏れる心配はほぼ無いし、漏れたとしても情報公開が前倒しになるというだけのことだ。


 かつて修道騎士、あるいは聖騎士と呼ばれた者たちの中で十位という極めて高い位階にあったが、三ヶ月前の『事件』で失態を演じ、敵に討ち取られたことで十三位に降格されたという。


 いずれにせよ高位序列者には違いないが、彼は敗北した際にほとんど死んでいたらしく、吸血鬼化することでかろうじて一命を取り留めた。

 同様の経緯で、吸血鬼の修道騎士が松明の騎士団に大量発生していた。


 急遽特設された『吸血鬼部隊』のまとめ役の一人として選ばれたのがその中で最も序列が高かったバルであったという。


 槍神教の修道騎士やエルネトモランの住民たちに対して『人道的な救助』を行ったリールエルバおよびドラトリアに対して友好的な派閥の筆頭でもあり、同時にガロアンディアンに協力的な修道騎士でもある。

 

 キロンとの一件があったせいで松明の騎士団は未だに俺の中では『敵』という括りだ。実際、複雑怪奇に膨れあがった組織(霊性複合体とか言うらしい)の内部ではガロアンディアンを攻め滅ぼせという声も上がっているらしい。


 だが、アズーリアやキール隊の事を思い出すとそう単純に彼らを憎悪することはできない。というよりも、『彼ら』という括りが既に大雑把すぎるのだろう。


(セスカの未来の恋人のこともあるしねー)


 やめろその話はやめろ。

 はい終わり、今後ちびシューラが何か言っても無視するからそのつもりで。


(目を逸らしていてもしょうがないと思うんだけど)


 無視。

 ――と、俺たちについてきていたカルが何かを言いかけ、失敗する。

 同様に、バルもまた彼を見て『古い名前』を口にしようとして思い直したようにやめた。二人は、修道騎士時代に縁があったのだと聞いている。


「よう」


「――どうも」


 なんだか微妙な空気だった。

 あまり立ち入るような事でも無い。

 トリシューラの歩みに付き従って歩く。


「さて――地下に行くから、【鬼火】部隊のみんなで露払いお願いできるかな? アキラくんとカルカブリーナも一緒にね。私はロドウィと一緒に後ろからついて行くよ」


 トリシューラの命令に従って、最深部に存在する地下への階段の扉が開く。

 第五階層の地下というのは、ガロアンディアン建国以前から公社が開発を進めており、下水道や呪力線といった様々なインフラの敷設にはある程度成功していた――しかし、その更に下の空間に広大な闇が広がっていることを知る者は少ない。


 それどころか、現在下水道やこの工場街の地下に溢れつつある『危機』についての詳細は関係者たちの間で箝口令(呪術的な拘束力があるらしい)が布かれている。それはガロアンディアンそのものを揺るがしかねない不祥事だからだ。


 長い長い階段を下った先。

 強烈な照明があるにもかかわらず、何故か闇の濃さが増大し続ける異様な空間。

 増殖していく『骨の壁』によって複雑化する内部構造。


「【迷宮の主】とは休戦協定結んだはずなんだけどな――まーた迷宮って、やんなっちゃうよねー」


 トリシューラの呟き通り、地下は白骨が積み上がって出来た壁によって狭い迷宮と化していた。

 奥から這い出してくる動く白骨死体たちを、バルたち吸血鬼の修道騎士らが斧や槌矛で打ち払っていく。


「こいつらが地上に這い出してこないのが救いだが――」


「それだって何の保証も無いんだよ。いつ地下から溢れてきて三ヶ月前のエルネトモランみたいに死人だらけになるかわからない。三ヶ月前の第五階層みたいに迷宮化するかわからない。両方いっぺんに起きたら、ガロアンディアンは崩壊する」


 ガロアンディアンは、極めて危うい状況に置かれている。

 薄氷どころの話ではない。

 俺たちの足下には、動く白骨死体や腐乱死体――死人たちが蠢いているのだ。


「【死人の森】との戦いは、既に始まっているんだよ――それじゃみんな、今日の駆除、よろしくね」


 トリシューラの言葉に応じるように、俺の掌打が剥き出しの頭蓋骨を粉砕した。

 








 床の上で三角形の図像が輝き、その頂点に三つの人影が並ぶ。

 部屋の右手側に立つ男――イアテムは静かに腕を組み、瞑目している。

 刺々しく言葉を発したのは中央に立つ男、クレイだ。


「口ほどにも無い。南東海の底も知れる」


「――言い訳はせん。敵の力量を見誤ったにせよ、俺の力量が足りなかったにせよ、『狙撃』に失敗したという結果は同じだ」


 イアテムは超遠距離へと水の分身を飛ばし、アストラル体を憑依させることによって暗殺を行う純粋な『後衛』である。

 分身には本体の精神が宿るため、精密な動作が可能。よって近接戦闘もこなせるが、その上で敗れてしまえば撤退するしかない。


「恥じることはありませんし、詰ることもありませんよ。彼らがそれだけ手強かったというだけのこと――特に、あの方は特別ですもの」


 左手側に立つ女性がどこか陶然たる口調で言った。

 空気が、静かに張り詰める。

 二人の男が纏う気配が途端に険呑さを増していく。


「やけにあの男を買っているな。それは貴様が言うところの『未来の記憶』とやらに基づいた判断か? それとも、同じ転生者として感じる所でもあるのか」


 イアテムの問いかけに、女性はくすりと笑った。


「どちらでもありませんわ。ただ――」


「ただ?」


「【女の勘】です♪」


 ――それは、認知バイアスと女性の社会的立場から発生する呪力によって事後的に事象を言い当ててみせる呪文と使い魔の複合呪術。

 取り扱いが極めて難しい呪術ではあるが、女性の放った言葉は世界に浸透し、『真実』として固定していく。


 結果として生まれたのは、


「シナモリ・アキラ――油断ならぬ男よ。次こそは必ず」


「奴は俺が斬り殺す」


 男たち二人の敵意と警戒心だった。

 それを愉しげに見ながら、女性は煽るように言葉を重ねていく。


「あらあら、血気盛んなこと。でも、貴方たちに彼を殺す事はできないでしょう」


「何だと」


 気色ばみ、怒気を露わにしたのはイアテムの方だった。

 中央に立つクレイは一瞬だけ不服そうな気配を見せながらも、女性に対して反論するようなことはなかった。


「根拠はあるのだろうな。言ってみろ、女」


「しいて言えば」


 女性は軽やかな声と共に細く長い人差し指を顎に当てた。

 少しだけ思案するような間をとる。

 それがもったいぶっているように感じられたのか、イアテムは焦れたように、


「何だ」


 と問う。

 女性は朗らかに答えた。


「【女の勘】ですね」


 ――水流が、闇の中を走った。

 戯れるような返答がイアテムの怒りを誘発したのか、残像すら見える速度で踏み込むと、瞬時に女性の前に現れる。


 水の刃が女性の胸を貫いて、床に縫い止める。

 勢い良く流れる水が赤く染まり、女性が吐血した。


「あまり調子に乗るなよ、女」


「んっ――もう、痛いじゃないですか――」


 捻り込まれた刃が女性の体内を蹂躙し、抑えた悲鳴が上がる。

 突き入れられていく剣の輪郭が暗色を纏い、揺らめく靄となって立ち上った。


「【魔女殺し】の剣がどれほどのものか、その身で体験してみるか」


「ふふ、流石は【イアテムの呪いの剣】ですね。呪術基盤に名を刻んだ方の刃は、中々に堪えます」


 胸を貫かれながらも女性ははっきりと言葉を紡いでみせるが、荒い吐息に余裕は無い。苦痛に呻き、もがきながら剣から逃れようとするも、流動する呪いは彼女を捉えて離さない。


 その時だった。

 イアテムの首筋に、鋭利な刃が添えられる。

 ――否、それはただの手刀だ。白手袋に包まれた、何の変哲もないクレイの手である。


 意味が無い行為のように見える。

 手刀とは打撃。勢いをつけ、『重さ』と『速度』を乗せなければ相手に痛手を与えることはできない。


 それが刃であったなら、『引く』ことで首を切断することもできようが、手刀を密着させたところで大した脅しにはなりえない。

 それが物理的な――杖的な道理というものだった。


「その薄汚い剣をどけろ。それ以上の不敬を働けば――」


「殺す、とでも言いたいのか、クレイ。貴様にそれができるのか」


 二人の男はお互いが刃を手にしているかのような前提で話をしている。

 片や水。片や手刀。共にごくありふれたもので、一見しただけでは武器にはなり得ないような代物だ。


「試してみるか?」


「やってみろ。この場で貴様ら二人を切り伏せる事など造作も無い」


「貴様らを殺すのは僣主トリシューラの後と決めていたが、そちらがその気ならばやむを得まい。陛下、ただ今この無礼者の首を――」


「――お静かに」


 一触即発の空気を、女性の抑えた声が断ち切った。

 胸を貫かれている苦痛を微塵も感じさせぬ、それは巫女が託宣を受けるかの如く厳かな言葉。


「出ますよ」


 ――【ダモクレスの剣】。

 闇に染まった天から吊り下げられた、巨大な剣。

 僣主への刺客を選定する指針でもあるそれが、姿を現していた。


 イアテムが無言で腕を引き、水流の剣を消失させる。

 女性は大量の血を床に零しながらもその場で姿勢を直した。それに伴って各々が所定の位置につき、静かに揺れ動く剣が誰を選ぶのかを待つ。


 巨大な切っ先が選んだのは、部屋の中央に立つ男――クレイ。

 変異の三角錐ペレケテンヌルは三つの手を持つと言われている。

 その中央の主肢を司る、【変異の三手】の副長が戦意を膨れあがらせる。


 狙うはガロアンディアン女王、トリシューラ。

 そしてその使い魔たるシナモリ・アキラ。

 クレイは女性の傍に歩み寄ると跪き、己の『剣』を捧げた。


「我が剣と勝利を、貴方に捧げます」


「はぁい、頑張って下さいねー」


 朗らかに応じる女性の足下に血だまりは既に無く、貫かれた筈の胸には傷一つ残っていない。

 女王と、傅く臣下。

 その光景を、嫌悪に満ちた視線でイアテムが睨み付けていた。










「ところでロドウィ、貴方が私に内緒で地下に作ってた工場と牧場についての話なんだけど」


 闇の中を歩きながら、不意にトリシューラが口を開く。


「何の事でございましょう」


「だから、稀少種族の赤ん坊製造工場と人間家畜牧場。あれ、潰すから」


 背後で聞こえてくる会話に、何とはなしに耳を傾ける。

 今回の『駆除』対象にはそれも含まれている。

 場合によっては、ロドウィ当人も。


 レオによる公社の掌握はほとんど済んでいるし、要たるセージは師に刃向かう程の忠誠を新たな主に捧げている。

 古い中枢を残したまま活用するべきか、それともこれ以上は害になると切り捨てるのか、その瀬戸際が今だった。


 迷宮を進むたび、骨が砕かれ、腐肉が潰されていく。

 過去の遺物はいずれ駆逐される定めにある。少なくともトリシューラの治世ではそういう決まりだ。


 それが朽ちた屍であっても、ぶよぶよと肥え太った生者であっても、例外は無い。そうならないためには、ある種の適応が必要である。


「そういえば【変異の三手】のことだけど」


 トリシューラは脈絡無く話を切り替えた。彼女にはよくあることだが、妙な所で話が繋がったりするのであまり油断は出来ない。


「元々公社には【変異の三手】と深い繋がりがあった。鰓耳の民を中心とした貴方たちにとって【白眉のイアテム】は同胞にして尊敬を捧げるべき英雄だよね」


 ロドウィからの反応は無い。

 ただトリシューラの声と、俺やカル、修道騎士たちが死人を駆逐していく音だけが迷宮に響く。


「魔将討伐後、第五階層に【暗黒街】が築かれた最初期に、公社と【変異の三手】は協定を結んだ。裏面の――【死人の森】の攻略は【変異の三手】が行い、市街の『攻略』は公社が行う、というね」


 移動しながら、骨の壁に呪符を設置していく。

 リールエルバが構築した対抗呪文が記された高位呪符。

 【死人の森の断章】という魔導書を基にして作り出されたその呪符は、この【死人の森】に属する力を効果的に『解呪』していく。


「けど、何らかの理由で地下空間に異形の怪物たちが発生してからその状況は変化し始める。当初それはエスフェイルが遺した死人の残党だと思われていた」


 実際の所、それはトリシューラがエスフェイルに提供した肉体操作と変異呪術の産物なのだが、ここではそれは置く。


「でも違った。地下に現れた死人はもっと異質な何か――【死人の森】が地下から第五階層を浸食したことによって発生した【死人の森の軍勢】だったんだ」


 エスフェイルが有していたのは、生前の意思や知性をほとんど持たない死体を操作する能力だ。死者が持っていた技術はそのまま反映されるが、高度な連携や瞬時の判断はエスフェイル自らが行わなければできない。要するに遠隔操作式の生体機械なのである。


 だから全滅したキール隊は、生前のような連携がとれていなかった。

 模造の月に取り込まれた状態で襲いかかってきた彼らを、俺とアズーリアが二人だけで撃退できたのはそのへんの事情が大きい。

 本来の『キール隊』を相手にしていたなら、恐らくもっと苦戦していただろう。


 この地下迷宮に溢れる死人たちは違う。

 完全に自律行動し、仲間同士で連携し、状況によっては撤退すら行う。

 統率のとれた『軍勢』なのだ。


「【変異の三手】は当初の協定に従って【死人の森】の攻略を行った。つまり第五階層に広がりつつあった地下迷宮の攻略を。公社もまた、次々と溢れてくる死人たちに対処すべく【変異の三手】に縋らざるを得なかった――そうして、第五階層の勢力図は密かに、けれど着実に【変異の三手】側に傾きつつあった」


 三ヶ月前の時点で既に、公社の支配というのは盤石ではなかったことになる。

 複数の勢力がしのぎを削っていた真下では、【変異の三手】がその勢力を広げていたのだ。【死人の森】を打ち倒す事で。


「そう――恐らく地下の覇権を巡る争いは、【変異の三手】が勝利したはず。このタイミングで主力である副長の一人が襲撃を仕掛けてくるっていうのは、目の前の大状況が終息して次の段階に移行したってことだから」


 四英雄、グレンデルヒ=ライニンサルは生きている。

 未確認だが、【死人の森の女王】との戦いを制し、次の狙いをガロアンディアンに定めたのではないかと、トリシューラは考えていた。俺も同じ意見だった。


「少なくとも現在優勢なのは四英雄が率いる探索者集団。けれど、この地下の状況は【死人の森】も未だに健在であることを示している。これは現在も戦いが続いているのか、あるいは【死人の森】が【変異の三手】に組み入れられたのか、もしくは別の可能性か――いずれにせよ、当面の敵が【変異の三手】と【死人の森】であることは確かだね」


 現在の公社のトップであるレオはトリシューラの信奉者だ。巡槍艦内部にあるミニチュアの第五階層、人々に義肢を与える呪術機械を目にしたときから彼はずっと『先生』の事を純粋に信じて付き従ってきた。


「で、【変異の三手】と協力関係にあった貴方としては、今後どうするつもりなのかな。そのあたりをはっきりさせておきたいんだけど」


 旧派閥の首魁たるロドウィは、これから身の置き場をどうするつもりなのか。

 問いの答えは一つしかない。


「はて? 協定? 覚えがございませんなあ。何かの間違いでは?」


「三ヶ月前、キロンが貴方たちと協力してばらまいた紙幣には、グレンデルヒ=ライニンサルが描かれていたんだけど? あれは彼に信仰ミームを集める目的もあったんじゃないの? ほぼ駆逐したけどさ」


「さて。あの件に関しましてはキロン殿に一任しておりましたので、私めからはなんとも。それこそ口寄せでもして聞いてみないことにはわかりません」


「二回も殺した後に自死に追い込んだんだから、もう降霊術でも魂が劣化してて意味のある情報なんて引き出せないよ。分かってて言ってるでしょう?」


 ひたすらすっとぼけるばかりのロドウィの面の皮はどこまでも厚い。

 

「この下は完全に『敵』に占拠されております。ここで何が見つかったとしても、それは『敵』どもの邪悪な企みの結果でしょう」


「へー。じゃあ遠慮なく潰しても構わないし、誰かが働いていても倒していいってこと――ロドウィ、なら貴方が手を下せるんだね?」


 ロドウィが、押し黙る。

 公社の前身は、同胞を家族になぞらえた秘密結社だったという。

 血のつながりのない幹部たちを四姉妹と称し、娘として扱っていたのはその証拠だろう。


 家族同然の同胞を殺め、『彼らと自分は関係無い』と言い張ることができるのか。保身を図り、その上でトリシューラに服従できるのか。

 極限状況での問い。


 迷宮では肉と骨が砕かれ、道が切り開かれていく。

 背後ではリールエルバの用意した呪符がゆっくりと効果を発揮し始めたのか、骨の壁が徐々に崩壊しているようだった。


「無論でございます。誰であろうと、ガロアンディアンの敵は討ち滅ぼすのみ」


 ロドウィは、表面上穏やかにそう答えて見せた。

 『家族』、『子供』と認識しているはずの者を、殺せるのだと。

 否、それらは『家族』では無いのだと。


「そ。じゃあ、前に出て。何故か死人に襲われてない人たちを、全員始末してくれるかな。ああ、証拠隠滅なんてしようとしたら撃ち殺すからね。壊されてる家畜と機械たちは、私が人に直すんだから」


 闇の奥に、公社の理念を体現するかのような空間が広がっていた。

 薬物や呪術によって精神を破壊された男女が、家畜として飼育されている。

 縄で繋がれ、柵の中で四つん這いになりながら意味を為さない鳴き声を上げる多種多様な種族たち。


 機械的に子供を生産し、産声を上げる命をカプセルに入れてベルトコンベアに乗せてどこかへ送り出す。

 暗闇の彼方で、ふつりと赤子の声は途絶えて無くなっていく。その行き先は判然としない。


 広い空間の一区画では、特徴的な人体の部位を掛け合わせて新たな部位を作るといった研究が行われているようだ。第六階層の複合種めいた合成種族が数体、興奮したように檻の中で動いていた。

 

 ロドウィは、のろのろとした動きで前に出て、そこで働く公社の人員たちに手を下そうする。

 しかし、その足が止まった。同様に、俺たちの足も。


 修道騎士たちの甲冑の胸に刻まれた松明の紋章。そこから放たれる光が、空間の詳細な情景をはっきりと照らし出す。 

 悲惨な光景を更なる凄惨さで塗りつぶさんとするかのように、その場には鮮血が飛び散っていた。


 皆殺し。

 工場、あるいは牧場と称されるその場所で働いていた公社の人間は、既に一人残らず斬殺されていたのだ。


 切れ味鋭い刃で切断されたことが明らかな死体の数々。

 首を飛ばされ、四肢を切り刻まれ、胴を両断された者たちの死に様を見て、ロドウィが絶叫を上げる。


 人――それも親しい家族や同胞が殺されれば人間は強いストレスに晒される。

 どれだけ口でトリシューラに従う素振りを見せたところで、ロドウィもその習性からは逃れられない。嘆き悲しむ老いた男の傍で、家畜として飼われた人が知性無き鳴き声を上げた。


「屑め。貴様に人らしく嘆く権利などありはしない」


 声は、断罪の刃のように振り下ろされた。

 澄んだ音だ。どこか女性のような艶を持ち合わせた、けれど低く鋭く響く声は紛れもなく男のもの。


 光に照らされて、鋭い美貌が露わになる。

 手弱女と見紛うばかりの整った造型。化粧で整えれば女性を演じることすら可能であろう繊細さは、しかし『斬撃』の効果を有した邪視かと思うほどに鋭い眼光によって、微塵も優雅さや落ち着きを感じさせない。


 あるのはただ戦意のみ。

 自分は目の前のものを切断すると、その気配そのものが告げていた。

 後頭部で束ねた長い黒髪に、同色のコートという姿。身長は俺より高く、カーインより低い程度。


 ふと俺は男の容姿を見て、奇妙な既視感を覚えた。

 見たことがあるような気がする。だが、誰なのかがわからない。

 誰かに似ている? あるいは、どこかで見かけた?


(今はそんなこと考えてる場合じゃないと思うよ? 多分あれ、【変異の三手】の刺客だから。証拠隠滅とシューラの暗殺狙いかな)

 

 ちびシューラの言うとおりだった。

 男の長い指を包む白手袋が、鮮血に濡れている。

 この場にいる公社の人員は、一人残らずこの男に殺されたのだ。


「貴様、よくも、よくもおおおお!」


 激怒するロドウィが、重量級の全身に気迫を漲らせて絶叫した。

 同胞たちを殺された怒りからか、公社最強と呼ばれた達人の呪力が膨れあがる。

 大切な誰かを殺された者による仇討ちという良くある構図が、ごく当たり前の物理法則のように生み出されていた。


「外道が。醜悪の極みだ」


 刃の如き細身の男が吐き捨て、重量級の巨体が突撃する。

 腹の出た体型からは想像もつかない速度で踏み込んだロドウィの掌底を、男は踊るようにしてひらりと回避した。翻るコートの裾は舞い手の羽衣のようだ。


 壁に叩きつけられたロドウィの打撃が、甚大な破壊をもたらす。

 激震と共に亀裂が走り、地下を揺らした。直撃すれば脆い人体など一撃で砕け散るだろう。


 刺客の手刀が斬撃のようにロドウィに放たれる。横薙ぎの一閃を、老人は身軽に仰け反って避ける。そのまま床に手を突いて、後方に倒立しながら回転して跳ぶ。

 身体の反りを利用しながら何度も回転しつつ間合いをとり、離れた地点で構え直すまでの一連の動きは流れるような速度だった。


 圧倒的な重量と鍛え上げられた肉体、そして超人的な反射速度とバランス感覚。そこから生み出される打撃の速度は驚異的の一言だ。

 更に、ロドウィの力はそれだけに留まらない。


「はぁぁぁぁぁ」


 深く息を吐きながら、腰を落とし、半身になり、腕を引いていく。

 打撃を放つ構え。だが刺客は遠く離れている。この距離では、俺が十四番ヴァレリアンヌで空間制御するような『遠当て』でも使わなければ打撃は届かない。


 しかし、公社最強と呼ばれた拳法家はその条理を超越する。

 老人の形相が悪鬼羅刹そのものと化し、皺と血管が浮き上がって白目を剥いた。

 言語化不可能な奇声が発せられると同時に、掌底が前に突き出された。


 声もなく、刺客が吹き飛ばされる。

 咄嗟に両腕を交差させていたために致命傷とはならなかったようだが、空間を越えた打撃は直接叩き込まれたのと全く同等の衝撃を伝導させていた。


 あれこそがロドウィの『遠当て』――その名も【肉体言語】である。

 空間を歪めたわけではない。

 ただ、彼が打撃をするという意思が、その動作を通じてあまりに真に迫って周囲に感じ取れる為に、現実が騙されてしまうというだけのこと。


 出会ったばかりの頃、彼は絶妙なジェスチャーの技術で言葉が分からない俺と意思疎通を図ってきた。それも当然だ、彼は国際的な認可を受けた、ある程度までなら動物とすら会話できるという専門家なのだから。


 一級言語魔術師――それも身振り手振りによる意思疎通能力に特化した専門職、肉体言語魔術師。

 呪侠として肉体を鍛え上げた彼は、その技術を掌法・拳法に応用している。


 要するにジェスチャーによる呪文詠唱だ。

 遠くから打撃されたように錯覚してしまい、実際にその衝撃を受けてしまう――というと催眠術めいているが、この世界ではそれはより実際的な破壊力を持つ。


 奇声と共に次々とロドウィが両腕を前に出す。

 そのたびに壁面が陥没して砕けていった。

 牧場の柵や合成種族を捕らえている檻、実験機材が破砕されるに至って、トリシューラが掌に収まるサイズの拳銃でロドウィに対して発砲する。が、老人は睨み付けただけで弾丸の軌道を逸らした。


 疾走しながら攻撃を回避し続ける刺客の動きは風のようだ。

 コートの裾を翻しながら長い脚を前に出し、跳躍して不可視の打撃を躱していく。世界や無機物すら騙す指向性を持ったジェスチャーを躱すことは己の認識を騙すに等しい芸当で、ある種の『コツ』が必要だ。


 それを軽々とやってのける刺客もまた、ただ者ではない。

 ただでさえ、初撃によってロドウィの剛力を思い知らされているのだ。それを冷静に対処し続ける胆力とはいかほどのものか。


 と、刺客の足が止まった。

 鋭利な視線が老人に向けられる。

 逃げることを諦めたのではなく、攻撃に転ずる意思を露わにする気配。


「もういい。『呼吸』は大体読めた」


 ロドウィの掌底が奇声と共に放たれ、動作を視認し、殺意の籠もった声を聞くというプロセスを経て打撃が遠距離へと伝わっていく。

 その、瞬間。


「その虚勢、解体する」


 剣が、拳を切断した。

 腕を肘まで断ち切られたロドウィが、鮮血を吹き出させながら絶叫する。

 刺客の男は手刀を振り抜いただけだ。だというのに、遠く離れた位置にいるロドウィは斬撃によって腕を切断されている。


「同じタイプの呪術――!」


 トリシューラの言葉で、ようやく俺も目の前で起きた事態に理解が追いついた。

 刺客もまた、肉体言語魔術師なのだ。

 『手刀』は手を刃になぞらえたもの。ならば、真に迫った一振りは斬撃となりあらゆるものを両断するのは至極当然の道理。


 ジェスチャーという呪文によって打撃を繰り出す者、斬撃を繰り出す者。

 共に『迫真』という呪力を操作する一級の言語魔術師に他ならない。

 だが、その鋭利さという点で刺客に軍配が上がったようだ。


 当然だろう。少し考えればわかることだ。

 素手で剣に挑めば、腕は切り裂かれる。

 認識によって戦う者だからこそ、単純な常識によって敗北してしまうのだった。


 次々と放たれる距離を超えた不可視の斬撃を、ロドウィは額に脂汗を浮かべながら意思の力のみで回避する。時に一喝し、時に足を踏みならし、時に手話で盾や壁を表現して斬撃を凌ぐ――が、圧倒的な鋭さは老人の認識を引き裂いて次々と全身を切り刻む。


 疾風のように、男が走った。

 瞬時に間合いを詰めると、直接ロドウィの両腕に手刀を当てて切断する。

 鮮血と共に腕が飛び、追加の袈裟斬りが衝撃すら発して老人を吹き飛ばした。 


 腕を振って血を飛ばしながら、刺客は先程から延々と繰り出されている修道騎士たちの援護射撃を視線で切って捨てる。

 どこまでも刃のように。

 男が宣名によって呪力を研ぎ澄ませた。


「クレイ=ライニンサル――ロドウィよ。貴様の命、断頭台の露と消してくれる。ここが貴様の十三階段だと知るがいい」


 宣名と異界の文脈の引用によって発生した呪力は、意外なほど弱く、薄かった。

 だが極限まで研ぎ澄まされた言葉は鋭利な刃となる。襲撃者クレイの両腕に宿った自己認識が、大気を、呪力を割っていく。


 我こそは全てを切り裂く剣なのだと、世界に名乗りを上げるように。

 手刀がロドウィの命を絶とうとしたその時。

 解き放たれた合成種族が、異形の全身を闇の中に踊らせて、空間を激しく破壊していった。


 地下で繰り広げられた激しい戦いの余波によって、強固な檻が破壊されてしまっていたのだ。

 おぞましい改造や実験の結果として第六階層の複合種コンプレックス――あるいはその上位の狂怖種ホラーにすら匹敵する怪物となった者たちが、破壊の呪術を無差別に撒き散らしていく。


(ていうか、多分あれメガコーポの人造ホラー計画の成果だね。ベルお姉様、相変わらずだなあ。メートリアンの身体弄り回すくらいで満足しとけばいいのに)


 ちびシューラによると、どうやらあれは地上の思惑によって生み出された『使役型寄生異獣』らしい。

 恐らく、第六階層の攻略用に開発しているのだろう。


 修道騎士バル・ア・ムントが槍を手に走り出し、弩を構えたカルカブリーナがそれを援護する。

 呪術を付与された矢が雷撃を迸らせ、赤く燃える穂先が怪物に突き刺さった。


 だが実験の成果か、強靱なその肉体にはまるで通じていない。

 暴れ狂う人造ホラーにバルが吹き飛ばされていく。

 そこは流れ弾を回避したクレイがいる場所だった。


 既に走り出していた俺は、バルに振り下ろされた手刀を右腕で防ぐ。

 乱戦めいてきた状況は、更なる変化を続けていった。


「グガアアアアアア」


 満身創痍のロドウィが獣じみた声で吠えながら立ち上がる。

 全身から可視化された呪力が溢れ、無数の泡となって傷口から浮上していった。

 その光景を見て、クレイが目を見開く。


「まさか、あれは――」


 直後、ロドウィの全身が破裂した。

 変身した、と言った方がより実状に合っているかもしれない。

 肉体が膨張し、巨大化し、色彩が変化し、形状が変質する。


 それは巨大な蛙だった。

 俺の感覚で言うところのメートル法で、およそ二メートル五十センチはあるだろう。頭頂部から伸びた真っ赤な珊瑚の角を含めれば三メートルに届く。


 霊長類を始めとした人類種族のように直立二足歩行しているが、上半身はまるきり蛙そのものだ。膨れあがった腹と指の間のヒレはぬらぬらと湿り、口からは泡が溢れては立ち上り、次々と弾けて消えていく。


 俺はそれに似た種族を見たことがある。

 店員さん――ラズリ・ジャッフハリムが召喚した使い魔の中にこんな姿をした者たちがいたはずだ。サイズが違うのは個体差だろうか。

 確か名前は。


(【珊瑚の角を持つ蛙ジヌイービ】だね。生態や文化様式が近い鰓耳の民に変身して槍神教の目から逃れていたみたい)


 ちびシューラの言葉通り、実のところ地上からは『人』とみなされていなかった『動物』が獣の雄叫びを上げた。

 猛々しく宣名する。


「我が名はロドウィ・フーシィ・インギィ! 千五百七十八泡に連なる緑の群れの末裔にして、闘うことのみを存在理由とする雄の性よ! 唯一なる海神ハザーリャの名にかけて、同胞の仇は皆殺しにしてくれるわ!」


 長大な珊瑚の角から呪力が放出され、虚空に次々と泡が生まれていく。

 連なるそれは爆弾だった。

 一つが破裂すると、連鎖的に弾けて凄まじい衝撃を放出。ありとあらゆる場所を破壊していく。


 無差別な攻撃に修道騎士たちがトリシューラを守りながら撤退する。

 離れた場所にいた俺とバル、そしてクレイは分断され、更に暴れ狂う人造ホラーが泡の攻撃で手負いとなってより凶暴化して天井と大地を砕いていく。


 出鱈目な攻撃で広大な空間が破壊されていく中、泡の爆弾が流れ弾となって『牧場』の方向へと進んでいった。

 わけも分からず、ただ何か恐ろしい事が起きているということだけを察して怯える男女たちの目の前に、致命的な破壊力を内包した泡が迫る。


 風のように、黒い影が舞い降りた。

 手榴弾を全身で抱え込んで、被害を抑えるという捨て身の行為。

 僅かに残っていた前世の記憶が、そんな断片的な知識を呼び覚ました。


 男女の盾となって爆発をその身で防いだクレイが、吐血しながら膝をつく。

 驚異的な実力を持った刺客として現れた男の、信じがたい形での負傷。

 倒れていたバルが立ち上がりながら小さく呟く。


「あいつ――」


 倒れたクレイに迫る人造ホラーを見て、修道騎士は何を思ったのか走り出す。

 咄嗟に逡巡した俺に、ロドウィの巨体が迫っていた。


「シナモリ・アキラァァァ!! 我が娘の仇だ、貴様もまとめて殺してくれる!」


 角を右腕で防ぐが、超重量の突進を受け止めきれない。

 発生した泡の爆発で加速するロドウィが、宙に浮かされた俺を吹き飛ばした。


「恩を仇で返しおってぇぇ! 皆殺しだ、もう誰も彼も皆殺しだあぁぁぁ」


 理性を失ったロドウィの瞳からは、あらゆる保身が吹き飛んでいた。

 捨て身で同胞の仇討ちに走る老人の呪力は、地下空間を滅茶苦茶に崩壊させていく。人造ホラーが撒き散らす破壊が床に致命的な亀裂を走らせ、巨大な質量と呪力がもたらす圧力が遂に底を砕いた。


 奈落が口を開く。

 崩落した床から俺とロドウィ、バルとクレイ、更には人造ホラーまでもが落下していった。全身の浮遊感に伴って生まれる焦りを冷気が打ち消す。


(すぐ救助に行く。どうにか生き残って。あと出来れば『敵』を始末しといて)


 了解。

 ちびシューラの言葉に思考で応じながら、奇妙なことに、俺は脳裏に先程の光景を思い浮かべていた。


 家畜として飼われた男女を咄嗟にかばったクレイという男。

 おそらくは、【変異の三手】の刺客。

 彼は何故、あのような行動に出たのだろうか。


 【変異の三手】と公社が手を組んでいたのなら、あの光景には彼もまた荷担していたはずではないのか。それとも、この認識は間違っているのか。

 そして、刺客として現れておきながら任務以外の事に気を取られて負傷するという奇妙な在り方。


 あれは一体、どういう男なのだろう。

 落下しながら巨大な蛙と格闘する俺の思考に、そんな意味の分からない好奇心が付きまとって離れない。


 これはきっと『余分』な何かだ。

 俺はトリシューラの使い魔。

 『敵』は全て倒す。それだけでいい。

 

 掌底を防ぎ、関節技を仕掛ける。ぬるぬるとした体表面が滑って失敗。反撃の泡を右手で振り払い、更なる攻防を組み立てていく。

 すぐに落下が終わり、積み上がった何かの上に着地した。


 衝撃を吸収したのは腐肉と骨。

 起き上がるのは、無数の死人たち。

 闇の中での戦いは、まだ終わらない。



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