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4-4 ダモクレスの剣

「師範代、折り入ってお願いが」


 トリシューラの配下にしてサイバーカラテユーザーの集団【マレブランケ】の一人、ファルことファルファレロが俺の所にやってきて頭を下げたのは、今日の稽古が終わった直後だった。


「新しい姿勢制御プログラムのテストか?」


「いえ、それはそれでまた今度頼みたいんですけど。別件でちょっと」


 眼鏡の位置を直しながら口ごもるファル。

 この少年は俺よりかなり年下で、確か十代半ばだったはずだ。

 いや、前世の基準で言えば俺は『生後約九ヶ月』とされるのだが、まあ再構成型の転生で正確な年齢も何もないだろう。


 俺がこの年頃の時って身近な相手に相談なんて高度な真似ができたっけかな――というか何故俺に尋ねるのだろう。

 技術的な事ならある程度は答えられるが、マニュアル以上の何かは出てこないことくらい彼にだってわかっているはずだ。


 その上であえて、というのなら、まあ必要なことなんだろう。

 構わないと言えば構わないが、今日はこれから約束があったりする。


「どうしたもんかな。いや、これからマラコーダとメシ行く予定だったんだが」


 端末で連絡すると、男性の肉体を持つ美女はすぐさまやってきた。


「あら、それならファルちゃんも一緒にどう? 相談って例のあれでしょ? 折角だから私も付き合うわよ」


「本当ですか。実は少し緊張していたので助かります」


 どうやら先にマラコーダに相談していたらしい。

 で、彼女がより相応しい相談相手として俺を推薦した、という流れか。

 なんだろう。動作の組み立てで悩んでるとか?


 とりあえず道着から着替えて行きつけの店に向かう。

 俺とファルはどうということのないシンプルなシャツで、後から合流してきたマラコーダはユニセックスな装い。


 ゆったりとしたカーディガンと長い脚にフィットしたデニム生地が上下のコントラストを生んでいる。アンバランスなようでしっかりと着こなしているのは、ドーラーヴィーラの専属モデルだけあると言うべきか。


 第五階層中心部の繁華街も近頃ではかなり治安が良くなってきた。

 警備ドローンが巡回し、【夜警団ナイトウォッチ】の精鋭たちがマスケット銃を手に目を光らせている。


 しばらく前までの【夜警団】と言えば自警団気取りで騒動に介入してはかえって被害を拡大させるはた迷惑な集団だったが、トリシューラが人員の『総入れ替え』を行ってからは真っ当な治安維持組織として機能するようになった。


 全員が第五階層の物質創造能力によって義肢を獲得した者たちであり、トリシューラの許可が下りた時のみ発砲が可能という安全装置付きの武力だ。


 銃を悪用しようとすると義肢が爆発するので、皆よく言う事を聞いて仕事に専念している。そうでなくても一度発砲するとこの世界特有の銃に対する反動で義肢が破損するので滅多な使い方はできない。


 とりあえず、ある程度の抑止力と雇用対策には繋がったらしい。ほとんどが元探索者なので腕に覚えはあるわけだし、それが銃を担いで立っていればそれなりの効果は見込めるということだ。


 俺たち三人が向かったのは、最近ガロアンディアンに進出してきたクロウサー社系列の外食チェーン店だった。

 比較的高めの価格帯だが、ペリグランティア製薬との技術提携によって開発された薬膳が身体機能を向上させると評判になっており、前々からマラコーダと機会があれば行ってみようかと話していたのだ。


「ヤバイ薬とかじゃないですよね」


「トリシューラによると、薬膳ってのはごく普通に食品として使われてる生薬を用いるらしいから、そういうものは出ないんじゃないのか」


 クロウサー社は大手だし、そういう不祥事に繋がるような事はしないだろう。

 

「トリシューラ大姐が言うなら安心ですね」


 信頼されてるなあ。

 トリシューラの配下の中でも、【マレブランケ】のメンバーは特に忠誠心の高い奴らが多い。俺のように『足りないもの』を与えられた事をきっかけに、己のこれまでの立場と名前を捨て、ガロアンディアンに身を置くことを選択した者たち。


 一番古株のマラコーダなんかは俺が正式にトリシューラの使い魔になる前から彼女の手足として動いていたらしいので、その意味では俺の先輩格に相当するはずなのだが、


「私たち【マレブランケ】は女王陛下と使い魔である貴方の爪となりあらゆる敵を討ち滅ぼすべく身を粉にして働く所存――どうかこき使って頂戴ね」


 などと、俺の部下として振る舞っている。

 トリシューラによると、末妹候補としての使い魔はあくまでも俺一人とのこと。

 面映ゆいような、肩にのし掛かる重さが空恐ろしいような。

 妙な感覚だ。


 広い店内の中央には特設のステージがあり、そこでは毎日様々な演目が出されている。『文化』を発信することで呪力を発生させる、いわば人力発電のようなものらしい。小さなステージ、大方の人にとっては暇つぶしの見せ物という認識とはいえ、発表の機会に飢えている表現者には需要がある。


 上手くすれば店とステージを管理しているクロウサー社の目にも留まり、更なる成功の可能性もある。多くの大企業がそうであるように、クロウサー社もアマチュアの表現者に対する支援を惜しまない。『呪力を生む金の卵』が見つかればそれまでの投資額は全て回収できるからだ。例えば歌姫Spearのように。

 

 歌、演劇、お笑い、大道芸、手品、調理の実演まで様々な演目が行われるが、今日はどうやら舞踏のようだ。

 薄布が翻る。ディティールの多い衣装を纏った動きは優美ながらも鋭く、ぴんと伸ばされた指先はまるで刃である。


 録音だろうか、背後では語りに近い美しい歌声が響いている。

 その内容が、俺の興味を惹き付けた。

 【死人の森】に関する伝承を詠ったものだ。


 偉大なる女王に仕えし六人の高位再生者(オルクス=ハイ)

 【死人の森】よりも更に古い六つの王国から死後甦った偉大なる六王。


 一人はドラトリアを興した瘴気の真祖。瀉血狂いの吸血鬼。 

 一人は断絶したガレニス・クロウサー。【空使い】を僭称した偽りの当主。

 一人はカシュラム人の祖、カシュート王。権力を選定し終端を弑する者。

 一人はイルディアンサの純血の王子。狂気が弾けて兎だけの未来は無くなった。

 一人は単眼巨人の始祖。言葉と知性を動物に与え、奪う力を持つ亜竜の巨人。

 一人は亡国ラフディの王。その美しい髪は見る者すべてを魅了した。


 王たちは【死人の森の女王】の死せる従僕であり生ける花婿であり生まれ死んでいく息子たちであるという。


 意味の掴めない不可解な伝承だが、それなりに有名な話だ。【死人の森】を調査するにあたって、こういった言い伝えくらいならば俺も調べている。

 とはいえ、それが実を結んだことは無いのだが。


 優雅に舞い踊るのは、一人の男性だった。

 鋭く整ったどこか中性的な顔立ち。舞台用の化粧で濃く顔を彩っているが、眼光の強さまでは覆い隠せない。邪視めいた意志の強さを感じる。


 目が、合った。

 遠く離れているにも関わらず、その時何故か俺は斬り殺される、と錯覚した。


 こちらを見据える眼差し、安定した重心から独楽のような身体の捻り、横薙ぎの手刀、ぎりぎりまで引き付けられた後急速に回転して元の位置に戻る頭部。見事なスピン。ごく自然な踊りの一動作。


「どうしたの?」 

 

 マラコーダの声で我に帰る。

 なんでもない、と言って店の奥へと進む。

 そうだ、なんということはない。


 舞台で行われているのは、見事ではあるが通常の舞踏。

 文化的行為は呪力を生み出すため、事故で呪力が暴発しないように何重にも安全装置が設置されている。こちらに危害が及ぶようなことは無い。


 舞踏は終わり、次の演目が始まるようだった。

 去り行く男の後頭部で、馬の尻尾のように束ねられた一房の長い黒髪が静かに揺れる。彼がこちらを見るような事は無い。ただの自意識過剰、偶然からくる錯覚に過ぎない。


 どうしてだろう。

 その男の灰色の瞳が、ひどく気になった。






「いらっしゃいませー!」


 とにこやかに接客しているのはなんかどこに行ってもバイトしてるお馴染みの店員さん、ラズリ・ジャッフハリムである。本業は探索者とか請負人のはずだが、なんかフリーターが主になってないか。大丈夫なのかこの人。


「三名様ご案内します――こんばんは、意外と早くお会いできましたね、お客様」


「お世話になります。今日も素敵ですね。その制服姿も良く似合っている」


(キモイサイテー死ねばいいのに)


 ささやかな挨拶だというのにちびシューラの罵倒は苛烈になるばかりだ。

 おまけにバイト上がりの時間を聞こうとしただけだというのに左腕をジャックされて自分で自分を殴ることになってしまった。おい変な目で見られただろ。


(うるさい味無しドッグフード喰わせるぞ)


 いや、夜遅くに帰宅するのは何かと物騒だから送って差し上げようと善意を働かせただけであってだな。


(この辺そんな治安悪くないし相手は夜の民だしこないだ実力見たばっかだしそもそも一番危ないのはアキラくんっ!)


 がーっと捲し立てられた。頭がガンガンする。

 ちびシューラは腰に手を当てて頬を膨らませた。


(全くもう、心配だよ。一週間後、トリシューラが月に行ったらアキラくん好き勝手しそう。まあちびシューラは残すけどさ)


 信用が無い。当たり前か。

 いや自覚はあるんだが、どうにも止められないというか。

 馬鹿をやりつつ、四人がけのテーブルに到着。ファルの対面にマラコーダと二人で座ると、何やら意味深なやり取りが。


「流石ですね」


「ね? だからアキラちゃんが適任だって言ったでしょ?」


 何の話だろう。

 とりあえずそれぞれ物珍しいメニューを頼み、食事を摂る。

 干物とか乾燥した果実とかが混ざった独特な料理だったが、食べてみると意外にも美味だった。スパイスが効いているのだが、そのバリエーションが非常に豊かで全く飽きない。


 歓談しながら夕食を済ませ、デザートを待つ間、ファルの相談事とやらを聞くことになった。

 ――が、その内容を耳にした俺は、多分苦虫を噛み潰したような表情になったと思う。


「実は僕、そのー、気になっている人がいるんです」


 眼鏡を弄る少年の告白に、間抜けな答えしか返せない。

 いや、だって。


「はあ」


「いわゆる恋の悩みよ、恋の悩み!」


 マラコーダが何やら興奮したように要約する。

 いや、それはわかるけど。

 なんで俺にそれを相談するんだ。


「実はですね。その人が、実は師範代も良くご存じの――」


 まさかトリシューラとかコルセスカとか口にしないだろうな。

 杞憂だった。


「公社のレオさんいるじゃないですか。その秘書の、セージさんです」


 思わず瞬きしてしまった。

 ええと、誰だっけ。

 ネームタグを検索してようやく思い出した。そういやそんなのいたな。


 かつて敵対した公社の幹部、四姉妹の次女。【水使い】セージ。公社が誇る一級言語魔術師。賢者とも呼ばれる四大系統全てに通じた高位呪術師。トリシューラとアストラル空間とやらで何度か矛を交え、最終的にはいつの間にかレオの仲間に収まっていた少女のことだ。


 現在は公社のトップであるレオの部下として精力的に働いているらしい。

 というかロドウィを除く他の幹部がいなくなった為、公社の実務面を回しているのはそのセージという呪術師だとか。


「レオならともかく、俺はその相手と接点無いぞ? ていうか、あれってレオに惚れてるんじゃないのか」


「そうなんですよ、そこなんです!」


 何故かテーブルに身を乗り出して勢い込むファル。

 落ち着け。デザートを持ってきた店員さんが戸惑ってる。

 食後のお茶と冷たいプディングを口にして少し落ち着いたのか、ファルは眼鏡の位置を直しつつ言葉を続けた。


「はっきり言って、セージさんは恋をしています。僕にはわかるんです。彼女がレオさんを見つめる姿はまさに切ない恋情に身を焦がす悩める乙女――同じような狂おしい病に苛まれている身だからこそ、それを悟ってしまう、そしてどうしようもなく共感してしまう! けれど、ああ、彼女の瞳が僕を捉えてくれることは絶対にありえないんです! なんて苦しみだろう!」


「結論出てると思うんだが、帰っていいか」


「落ち着きなさいよ、これはまだ前振りよ」


 長いな前振り。そして暑苦しい。

 要するに不毛な片思いというやつだろう。

 難儀なことである――少々共感しなくもないが、それはともかく。


「で、まさかレオから略奪するとかそういう話か。なら俺は関われないとしか言えないんだが」


「いいえ。師範代に教えていただきたいのは、ずばり不義の恋についてです」


「不義の恋」


 オウム返しに口にしてみたが、何を言っているんだこいつ。


「いわゆる不倫よね、不倫」


「それはわかるけど」


「僕は不毛だと分かっていてもこの恋を諦めきれない。そこで、師範代のことを思い出しました。師範代はその道、いや道ならぬ道の達人じゃないですか。なので是非、ご指導いただけないかなと」


「いやいやいや待て待て待て」


 何? 道ならぬ道? 達人?

 不義の恋だの不倫だの、一体どうやったら俺と結びつくというのだ。

 意味が分からない。


 そこで店員さんが俺の分のデザートを持ってきた。にこやかにお礼を言って、今度食事でもどうですかと誘うが軽くあしらわれる。端末にコルセスカからメールが来たので周りに一言断りを入れてから即返信。


(死ねよ)


 ちびシューラの冷ややかな一言。

 あれ?

 

「やっぱり凄い――トリシューラ大姐というものがありながら、婚約者持ちの四英雄と使い魔契約を結び、それだけでは飽きたらず評判の美人アルバイターにまでちょっかいをかける師範代には人倫なんてゴミ同然なんですね!」


「こういうの、日本語だと鬼畜外道って言うのね。女王陛下を守護する悪魔としてはいい感じなんじゃないかしら。サイテーだけど」


 喧嘩売ってるのかこいつら。

 婚約者の件は知らなかったし、あの時はトリシューラに見捨てられたと思ってたし、店員さんは完全に別枠だというのに、なんか話が大きくなってないか。


「というか、ガロアンディアンの法と道徳にその辺の規定は無かったはずだが? 未設定なだけかもしれないが、今更既存の『倫理』も何も無いだろう」


「えっと、まあそれはそうですが」


 少し真面目に言うと、ファルは戸惑ったような顔になる。

 ていうかアドバイスなんて出てこねえよ。話聞かせろとか言われてもドッグフードとかそんなんだぞ。


「ファルファレロ、お前はその名前をトリシューラに下賜された時、これまでに築き上げてきた人生の全てを捨てたはずだ。なら、その決意にいちいち『不義』だの『不倫』だのと余計な言葉をくっつける必要は無い。欲するがままに動け。俺に相談する意味などない」


 いやまあ、相手次第なんだけどな?

 こっちは適当に突き放しただけなのだが、何故かファルは目を輝かせた。

 勢い良く立ち上がり、大きな声で、


「僕が間違ってました! これから告白してきます!」


 と叫ぶ。やめろ早まるな。 

 止める間もなく、ファルは走り出していく。


「あらら。行っちゃった」


「でもちゃんと自分の分の勘定は払っていったな」


 仕方無い。このまま放って置いて盛大に討ち死にしてそのまま自殺とかされても寝覚めが悪いし俺がけしかけたようなものなので幾らか責任がある。

 デザートを素早くかき込んで、立ち上がる。


「多分、まだ遠くには行ってないでしょ。行き先は本社ビルだと思うし」


「ああ、悪いな付き合わせて」


「私が巻き込んだようなものだしね。というか流石に無茶よ。まずはデートに誘うくらいに軌道修正させなきゃ」


 マラコーダはメールを送ったようだが、興奮した少年の視界には届かないようだった。仕方無く後を追いかける。

 ていうか、別にまだレオと付き合ってるわけじゃないなら不義でもなんでもないような気がする。


 あの少年は話を妙に大げさにする癖でもあるのだろうか。

 まあ思春期なんてそんなものかもしれない。

 






 暗い闇の中で、三つの光点が線を結ぶ。

 光る三角形が、冷たく固い床の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。

 三つの頂点に、静かに立ち尽くす三つの人影がある。


「どうだった」


 暗い部屋の右手側に立つ人影が問いを放つ。

 深く、厳かな声。雄々しさというものを巌のように押し固めたような低さ。

 それに対して、中央に立つ人影が答えを返した。


「殺気には気付いたようだ――しかし、あれが言われる程の男とは思えんな。本当にあれが【転生者殺し】に勝利した【女王の猟犬】なのか」


 澄みきった男性の声だったが、吐き出される大気の震えは刃のように鋭い。

 言葉が切断力を持つのなら、聞いた者を全て斬り殺しかねない強烈な指向性を持った声の持ち主だった。


「間違いありませんよ。私の権能が戻った時、確かに彼の痕跡を感じましたもの。『逃亡を許さない』という再会の約束を、ささやかですが交わしていたようですね――あまり効果的には使えていなかったのかしら?」


 左側から響くのは女性の声。

 柔らかく甘く、けれど聞く者の心胆を寒からしめる呪いのような音。

 三角形を取り囲む三人は、三者三様に言葉を紡ぐ。


「ロドウィが三ヶ月前の騒乱で動けなかったのはその権能の力が働いていたからであろう。恐らく、適性の問題だと思われるが」


「きちんと罰則を想起しないからですね。どちらにせよ、みんないい子にしていれば何の役にも立たない権能ですけれど」

 

 左右の男女が言葉を交わす。

 中央の男性はやや苛立たしそうに、


「それで、俺たち三人が呼び集められたのは一体何のためだ。襲撃はきぐるみの魔女が不在の間ではなかったのか」


 と誰に向かってなのか問いかける。

 すると、右側の男が答えた。


「それは振り子が決めることだ」


「まさか、『上』からの要請なのか? 一体何を考えている。まさか市街地を戦場にするつもりか」


「クレイ」


 女性の、柔らかく、しかし強い声。

 クレイと呼ばれた中央の男性は口を噤んだ。

 その女性の声には逆らえないとでも言うように。


「静かに――現れます」


 女性の声に導かれるように、二人の男が天を見上げた。

 室内の天蓋は暗闇に包まれている。

 その彼方から、途轍もなく巨大な存在が降りてこようとしていた。


「遂に出るのか――【ダモクレスの剣】が」


 クレイの呟きと共に、刃が振り下ろされる。

 それは長大な直剣だった。勢い良く落下して三人を圧殺するかと思われたが、それは上空で静止した。

 柄尻から細い糸が伸び、闇の彼方に繋がっているのだった。


「あれが僣主トリシューラを殺す刃。真なる正統を取り戻す為の力」


「そして、僣主殺しを選定する指先」


 クレイが、そして女性が呟くと共に、巨大な剣先がゆっくりと揺れ動く。

 莫大な呪力が鮮やかな黄緑の稲妻となって剣の周囲を走る。

 暗闇そのものが鳴動するかのような恐るべき呪いの力。


 剣の先端が、三人の頭上を順番に通り過ぎていく。

 誰を選ぶべきか、慎重に悩むように。


 ――この世界では、剣は槍に比して一般的な武器ではない。

 槍こそが戦士の武器であり神官の祭具。

 槍神を象徴する、世界の根本言理とされるためである。


 秩序の象徴たる槍に対する秩序を切り分ける剣。

 槍が外敵に向けられるものならば、剣は内敵に向けられるもの。

 『正しい秩序』を維持し、時に『間違った秩序』を処断する。


 それはたとえば、王を僭称する偽りの君主のような。

 邪悪な暗君が築き上げた空虚な王国のような。

 世界の歪みを切り裂くための武器、それが剣だ。


 圧倒的な呪術的質量を支えるのは、かの【風の王】ハルバンデフが三本足にしていたという名馬の尾、その毛を鍛えたものである。

 時に呪術師たちは異界から『形式』を引用することで呪術儀式の効力を高める。巨大な剣の名は【ダモクレスの剣】。『彼ら』に与えられた切り札。


 それこそは呪術文明が生み出した猛毒。

 世界を破滅に誘う、大量破壊兵器である。

 揺れる振り子の切っ先が、右手に立つ男を示した。

 重く巨大な肉体が、静かに動き出す。


「――俺か。では、参ろう」


「【魔女殺し】の異名が張り子でないことを祈る」


 巌のような背中に投げつけられた、クレイの冷ややかな――ある種の憎悪に満ちた声。それを無視して、男は静かにその場から姿を消す。

 しばらくして、残る二人もその場から立ち去り、いつの間にか巨大な剣も見えなくなっていた。


 三角形の輝きが薄れて、その場所は闇に包まれた。









「ず、ずっと前から見てました。貴方の可憐な姿に胸を――あ、いや、長すぎるのもちょっとな。ええっと、そうじゃなくてもっと」


「何やってんだお前」


 物陰でこそこそしながら独り言を呟く背中に声をかける。

 びくりと反応してファルは振り返った。

 そして、そこにいたのが俺とマラコーダであることを確認してほっと溜息を吐き、それからうつむいてしまう。


「ヘタレですみません。でも怖いですよやっぱ、いざとなると!」


「だろうなあ」


 マラコーダがファルに「もうちょっとソフトに」とアドバイスをする傍ら、俺は少年が覗いていた方向を何とはなしに見た。


 公社が第五階層で活動拠点にしている本社ビルは三ヶ月前まで六階建てだったが、レオが来てからは増築して九階建てになっていた。

 呪術的な理由でこれ以上階を積み上げる予定は無いらしい。


 そろそろ夜も遅い。正面にある硝子張りの入り口からは退社する姿がちらほらと見え始めており、夜行性の社員が交代で出勤していく。


 レオは基本的に昼間に活動する。巡槍艦やクロウサー社の第五階層支社、その他あちらこちらを飛び回って忙しそうにしており、最近は朝に出勤する際に顔を合わせて短く挨拶するくらい。


 とても真似できない、と思う。

 定時に出勤して毎日決まった業務をして、ということが不意に面倒になってサボり出す俺とは大違いである。


 そう言う時は、適当に気晴らしをした後で営業と称して競合する道場や民間警備会社、呪具店に殴り込みをかけてはサイバーカラテの力を売り込んで後から仕事をしていたことにするのがいつものやり方だ。


 時には右手でクラッキングを仕掛けて強制的に契約を結ばせる。

 この場合、クラッキングを許す方は防壁が弱いということなので実際サイバーカラテの導入は正しい。公益に利していると言えよう。


 また、辻試合を仕掛けたり仕掛けられたりして道場の名声を上げることも師範代としては必要な仕事である。


(うん、やっぱりアキラくんが真っ当な社会人やるのは不可能だね。社会っていうかまず人が無理)


 だろうな。

 と、そんな愚にも付かないことを考えていると自動ドアが開いて中から猫耳の少年が現れる。目ざとく――いや、耳ざとく俺に気がついた。


「あ、アキラさんだ!」


 笑顔で手を振るレオの姿は殺人的に愛らしい。後ろで蝶の翅を持った少女が鼻血を吹き出して、レオの護衛であるカーインが無言でハンカチを差し出した。なんか馴染んでるな、あいつ。


 それにしても、相変わらずいい『耳』をしている。

 レオの猫耳は俺のような呪術的な感覚に乏しい者とは違って、『アストラルの音』とかいうよくわからないものを聞くことができるらしい。幻聴かな?


「はー、レオくん可愛い、もう超可愛い」


 熊のぬいぐるみを強く抱きしめる少女こそ、ファルが好意を抱いている相手なのだが――どう見てもレオ以外眼中に無い。抱きしめたぬいぐるみから綿がはみ出しているだけでなく、鼻血とか涎とか色々出てはいけないものが出てしまっている。


「恋するセージさん、素敵だ」


 こっちもこっちで大概だった。

 ファルの目にもセージ以外が映っていない様子だ。なんだこいつら似たもの同士か。実は相性が良かったりするのか。


「アキラくんもこのくらい一途だったらいいんだけどねー」


 三人に続いて、ビルから出てきたのはトリシューラ。

 折り目正しい黒の服装はいつも通り。というか謎のオフィスカジュアルに身を包んでいるが、この世界にそんなもの存在しないよな?


(うん。そっちから引っ張ってきた。雰囲気出るでしょ?)


 ちびシューラが一瞬でスーツ姿に変身するが、意味が分からない。


「今日はそっちにいたのか」


「そうだよー、一緒に帰ろ? まあ私はこの後お部屋でメルマガ配信とデザイン画と裏面調査ドローンからのデータサルベージと忙しいけど――けど――」


「大丈夫か。あと少しでいいから寝ろ」


「うん。一時間くらい表層意識の整理する。アキラくん抱き枕してー」


「お前それはちょっと、せめて膝枕とかにしとけよ」


 アホみたいな冗談を交わしていると、それを聞いていたファルが妙な唸り声を上げて頭を抱えはじめる。いいのかそんな奇行かまして。意中の相手に引かれるんじゃないのか。


「うがあああ羨ましい、僕も彼女といちゃいちゃしたい同棲したい人目を憚らない恥ずかしい言動で周囲を引かせたいいいいい」


 いや、だから冗談だって。

 ただ単に、トリシューラが以前から俺を模した人形を抱き枕にしているというだけで、実際に意識があるうちにそういうことをした事実は無い。 


(うん、寝てるときしかしてないから大丈夫だよ)


 そう、寝てるときだけだから問題は無い――ん?

 ちょっと待てどういうことだと問い質そうとしたその時、レオが猫耳をぴくりと動かす。何かに気付いたように、素早く頭上に視線を巡らせる。


 少し遅れてトリシューラとセージが警戒を呼びかけた。

 第五階層ではよくあることだ。全員慣れたもので、襲撃に備える。

 肉体を活性化させるための薬を口に入れる。心臓が大きく拍動して、両腕が『拡張』されていく感覚に心身が震えた。


 直後、レオが叫ぶ。


「九階の上、屋上の給水塔!」


 あろうことか、襲撃者は本社の真上に立っていた。

 天蓋の照明を背にしたシルエットは長い弓を手にしており、既に限界まで引き絞られている。張り詰めた時間が破られて、手が離れた。


 鋭く飛来する矢。【弾道予報ver2.0】が無くなったことが惜しまれるが、無い物ねだりをしてもしかたない。

 射線上に出てトリシューラを庇いつつ右手を前に出すが、俺の行動は無駄に終わる。他の人員が優秀だったからだ。


 セージの形成した水の障壁が矢の勢いを削ぎ、神速を誇るマラコーダの蹴りが真下から速度の減じた矢を叩き折る。

 続いて、この世界特有の現象が発生。弦音が奏でる呪文によって広域破壊の呪力が伝播していくが、ファルが中指を軽く眼鏡のブリッジに当てつつ呪文を妨害して無効化してしまう。


 トリシューラが左手を突き出すと、五指がそれぞれ根本から分離し、断面から炎を噴射しながら飛び立っていく。

 超小型ミサイルと化したトリシューラの指が次々と襲撃者のいる屋上に着弾。舞い上がる爆炎、墜ちてくる破片。


「なんだそれ」


「新機能! かっこいいでしょ!」


 そ、そうかなあ。


「流石です先生!」


「トリシューラ大姐すげええええ」


 レオとファルが目を輝かせてトリシューラを見ている。

 少年の心を忘れない、純粋な子たちだなあ。というか少年なのか実際。


「んー、でもまだやってないっぽい?」


 ややぼんやりした口調でセージが再度の警戒を呼びかける。

 そしてそれは正しかった。

 その男は、矢のように落下してきた。


 正確に言えば、矢の上に乗っていたのだ。

 信じがたいが、トリシューラの反撃の直前に矢を放ち、跳躍してその上に乗る、更にそこから矢を射て同じ事を繰り返しながらジグザグにこちらへと接近してきているのだった。


 セージとファルが呪術による遠距離攻撃を繰り返しているのだが、異常な動きのせいで全く命中しない。

 間近にまで迫った男は腰の矢筒から太めの矢を抜き取り、弓を背中に仕舞う。

 矢を直接突き刺して攻撃するつもりだろう。


 トリシューラを狙って上から振り下ろされた一撃を、前に出て右腕で受ける。

 凄まじい衝撃。

 一点を突き刺すようなものではない。

 回転しながら対象を削り取るチェーンソーのような音。


「剣、だと?!」


 襲撃者が柄のように握りしめる矢、その矢尻から長く伸びる薄い水流の刃が氷の右腕を上から押し切ろうとしていた。

 加圧された水流の速度は恐らく音速の数倍以上。当たった部分を吹き飛ばすそれはウォーターカッターと呼ばれる工業用の技術――呪術だった。


(ただの物理攻撃じゃセスカの【氷】を突破できないよ。多分水流の中に呪文を混ぜて高速で循環させてるんだ)


 呪術の水を弾けさせながら、水で足場を作って空中を移動していく男。

 俺たちから離れた位置に降り立つと、水の剣を真正面に構えて宣言する。

 ご丁寧に日本語だ――同じ文脈に立って戦ってやるという意思表明のつもりか。


「僣主トリシューラ。その命頂戴する」


「させると思うか?」


 ガロアンディアン建国宣言以来、トリシューラの命を狙う者は幾らでもいる。

 どの勢力が差し向けた刺客かは不明だが、この男もそういった良くいる手合いらしかった。


 カーインを超える長身。屈強な肉体を包むのは薄衣のような青白い民族衣装。そして特徴的なトビウオのヒレめいた両耳。形態が多様な魚人マーフォークは見た目通り水に関係した呪術を得意とするらしい。


 この人数、この戦力が揃っている所に襲撃を仕掛けるとは、よほど腕に覚えがあるのかそれともただの愚か者なのか――狙撃が失敗したにも関わらず接近戦を仕掛けてきた所を見るに、恐らく本業は射手ではないのだろうが。


「お師匠様――」


 奇妙な発言に、場が一瞬凍る。

 蝶の翅をワンピースの背から伸ばした少女が、呆然と男を見ていた。

 まさか知り合い、しかも師弟関係なのか?

 そういえば、水を使う呪術師という明らかな共通点がある。


「俺が不在の間、留守を任せた筈だがな――負けただけでは飽きたらず、敵に膝を屈したか、セージよ」


「ち、違うし。そこのきぐるみには一回勝ったし」


「私は二回勝ったんだけど? あとその一回もセスカに負けたでしょ」


 慌てふためくセージは襲撃者を見て、トリシューラを見て、それから不安そうなレオを見て「うあああああ」と頭を抱えた。大変だな。

 とすると、奴は公社の『残党』ということでいいのだろうか。


(多分、ちょっと違う。奴の素性がシューラの推測通りなら、今の所属は――)


 分析より先に、騒ぎを聞きつけてやって来た夜警団や聴衆たちに膝を着かせる程の凄まじい威圧感が周囲に拡散する。

 【宣名】の予兆だった。


「名乗らせてもらおう。我が名は白眉のイアテム! 【変異の三手】が右副肢にして副長である!」


(うわやっぱり!)


 もの凄く嫌そうなちびシューラの反応。

 周囲も彼の名前に聞き覚えがあるのか似たような表情をしている。

 知らないのは転生者である俺と記憶喪失のレオだけらしい。


(四英雄のグレンデルヒが率いる探索者集団【変異の三手】に三人いると言われてる副長の一人で、【ウィータスティカの鰓耳の民】の英雄って言われてる人だよ。グレンデルヒの下についていなければ、間違い無く英雄として数えられるほどの傑物って話)


 なんか思った以上に大物だった。

 もの凄い怯えようのセージは何だかんだ言いつつもレオを守る為に即座に身の置き場を定めた。くまのぬいぐるみ型の端末から無数の文字列を走らせ、水流コンピュータを周囲で流動させて不正アクセスを仕掛ける。


「脳を焼き切っちゃえば叱られる心配ゼロ! レオくんのために頑張るし!」


 戦う理由が恋する乙女なのはいいが、思考が完全に第五階層の住人だった。

 対するイアテムもまた周囲に水流を発生させて対抗する。

 電流のアナロジーとして機能する水流が論理回路を形成。それらは『大河』あるいは『大海』のアナロジーとして作用し、並列で超大規模な演算を実行。


「たるんでいるぞっ」


「うああ、ごめんなさいごめんなさい」


 セージが涙目になって縮こまる。

 一級言語魔術師のクラッキングを容易く防御した相手は、ちびシューラ情報によれば同じく一級言語魔術師。だがその年季は桁違いだ。

 水流の斬撃が複数に枝分かれして鞭のようにこちらに襲いかかる。


 カーインがレオを抱えて後方に退避し、俺はトリシューラの前で攻撃を防ぎきる。重い、速い、手数が多いと面倒極まりない斬撃の波濤。

 物理攻撃と平行して情報的な侵入が試みられる。ちびシューラが迎撃するが、数が多すぎて対応が間に合わない。

 

 半透明のトビウオのビジョンが次々と飛来しては水流の刃と波状攻撃を仕掛けてくる。俺が右腕で弾き、セージとファルが防壁を展開して遮断しているがそれでもまだ押され気味だ。


 しかし、圧倒的な実力があっても数の利はこちらにある。

 側面から風のように回り込んだマラコーダが長い脚で上段蹴りを繰り出した。狙いは延髄、命中すれば死ぬか重傷を負って半身不随になるかという一撃。


 イアテムは軽々と躱すが、独楽のように回転したマラコーダは続いて第二撃を叩き込み、それも防がれると間合いを詰めながら掌打を放つ。

 飛び退ったイアテムの攻撃が一瞬だけ緩む。


 その隙を突いて、俺とファルが同時に走り出した。

 【サイバーカラテ道場】の多人数戦闘制御プログラムを起動。

 俺と【マレブランケ】の構成員たちが最適な連携を行う為のプランはファルが中心となって構築し、トリシューラが太鼓判を押した優秀なものだ。


 前衛である俺たち三人は己の主観視点に映し出される軌跡をなぞるようにして移動、タイミングを完璧に揃え、あるいは絶妙にずらして連続で攻撃を仕掛ける。

 マラコーダの蹴りが牽制し俺の掌打がイアテムの斬撃を吹き散らすと、懐に潜り込んだ小柄なファルが掌底を撃ち出した。


 体格で劣るファルは分厚い筋肉に覆われたイアテムに物理的な痛手を負わせることはできない。しかし、その腕に巻き付いた文字列が掌から相手の体内に直接注ぎ込まれていく。


 呪的浸透勁クラッキング――薄衣の呪的防御を貫通した衝撃が、イアテムの物理的実体という情報体を介してアストラル体への扉をこじ開けた。

 呪的、あるいは霊的侵入と呼ばれるこの世界の呪文攻撃。


 普段は防壁に妨げられて困難なそれを、物理的な打撃を絡めることによって強引に成立させる、サイバーカラテの技術である。

 元からあった情報的浸透勁をこの世界用に調整しただけのものだが、ファルのような本来インドアユーザーであった者が使えばその威力は破格となる。


 呪力が可視化されてスパークし、水流を蒸発させイアテムの全身を灼いていく。

 低い呻きを上げて硬直したその横っ面にマラコーダの蹴りが叩き込まれ、俺の左拳が脇腹を抉る。

 確かな手応えに勝利を確信したその時だった。


(駄目っ、みんなもう侵入されてるっ)

 

 ちびシューラの叫び。

 遅れて、俺とマラコーダ、そしてファルは目の前からイアテムが消えている事に気がついた。


 いつの間にか背後に出現していたイアテムは、丸太のような腕を振るいファルを吹き飛ばし、マラコーダに回し蹴りを喰らわせ、高圧水流の散弾を俺に浴びせる。咄嗟に両腕でガードしたが、脚や肩を衝撃が貫通していく。激しい痛みを首筋から広がる冷たさが打ち消した。


 共有している【サイバーカラテ道場】の脆弱性を突いたクラッキング。

 高度な連携を可能とするが故に、一度侵入されてしまえば同時に情報を欺瞞され、手玉にとられてしまうという弱点が露呈していた。


 イアテムの言語魔術師としてのスキルは第五階層トップクラスの言語魔術師たちが構築したセキュリティを突破するほど高い。

 公社随一の言語魔術師の師というのは伊達ではなかったのだ。


 倒れ伏す俺たちを顧みず、イアテムは水流の刃をトリシューラに射出する。セージが障壁を張って防ぐが、イアテムが一歩、また一歩と近付く度に障壁が大きく揺らいでいく。接近され、至近距離で斬撃を受ければ耐えきれないだろう。


「無駄だ。今のお前では俺には勝てん」


「ぐううう」


 震えるセージは縋り付くようにぬいぐるみを強く抱きしめた。

 トリシューラは表情を変えないまま右手で掌に収まる程度の拳銃を取り出して無言で引き金を引く。


 目にも留まらぬ斬撃で銃弾を切断――というか吹き飛ばしていくイアテムの技量は卓絶していた。

 カーインはレオを遠ざける事が最優先で離れた場所にいるし、このままではトリシューラが斬られてしまう。


 物理的実体を破壊されるだけならば活動的生活――意識総体レベルが一段階低下するだけで済むが、相手は言語魔術師だ。

 斬撃と同時に強制侵入されてしまえば、最悪の場合、本当にトリシューラという総体が殺されてしまう。


 それだけはさせてはならない。

 左手で印相を形作りながらどうにか立ち上がる。

 それは、何かの呪術なのだろうか。

 異常な光景が広がっていた。


 イアテムに水の剣を向けられているトリシューラ。

 その上から、半透明の巨大な剣が吊り下げられていた。

 今にも彼女の頭の上に落ちてきそうな不安定な質量体。

 女王を脅かす刃は、まるでイアテムの殺意と連動するように揺れ動く。


「【ダモクレスの剣】は貴様の死と共にこの偽りの王国を滅ぼす。何もかも、砂上の楼閣であったと知るがいい」


 イアテムの斬撃が水の障壁を切り裂き、セージが絶望の表情でくまのぬいぐるみを取り落としたその時。


「残念ですが、そこまでです。見事な侵入でしたが、データを与え過ぎましたね。僕たちの勝利確率は揺るぎない八十七パーセント――受け取って下さいセージさん、届け僕の愛!」


 亀裂の入った眼鏡を光らせながらよろよろと立ち上がったファルが、腰の入らない姿勢でそこだけびしりと伸びた指先でセージを示す。

 虚空を走っていく文字列が、少女を取り巻く水流コンピュータに吸い込まれていった。


「うわなにこれキモい」


 冷めた目で呟きながらもセージはファルが構築した呪文を水流に乗せてイアテムの水流に直接叩き込む。

 物理的に注ぎ込まれた情報が拮抗し、やがてバラバラに解けて水流が全て崩壊、煌めく粒子となって飛び散っていった。


 低く呻くイアテムの周囲に、燃える翼を象ったエンブレムが次々と表示されていく。視界を埋め尽くし動作を妨害する幻覚ウィルスだ。


「これはまさか、中傷者クリミナトレスかっ」


 それは、かつて第五階層で不正アクセスを繰り返し、犯罪組織の情報機密性を嘲笑し続けた脅威のクラッカーの名前だ。


 調子に乗りすぎて追い詰められ、物理的に死にかけていた所をトリシューラと俺が救出したのは記憶に新しい。名前を変えてトリシューラにヘッドハンティングされた少年は、会心の一撃をイアテムに喰らわせてみせた。


射影三昧耶形アトリビュート十四番ヴァレリアンヌ


 左腕を空間制御の義肢に換装。

 サイバーカラテにおける【遠当て】を繰り出す。すなわち距離を短縮することによる遠距離からの打撃。無防備なイアテムを今度こそ完璧に捉えた。


 血反吐を吐く男の首を、トリシューラの右手が掴む。

 食い込む五本指。

 魔女はにこやかに微笑んだ。


「この距離なら、回避はできないね?」


 小型ミサイルが至近距離で炸裂。

 イアテムは首から上を爆発四散させた。

 同時にトリシューラの頭上に浮かんでいた巨大な剣も消えて無くなる。


 砕けた頭蓋の欠片と脳漿を撒き散らしながら、煙を吹き上げる頭部が落下。首無しの死体がどうと倒れると、それは一瞬で水になって地面を濡らした。


「逃げられた」


 トリシューラが不満そうに呟く。

 え、マジで? あれでまだ倒せてないとか冗談だろ?

 その横でセージが、


「ていうか、お師匠様は水コンピュータで実体と完璧に同一構造のアバターを作ってそこにアストラル体を憑依させて操るの。本当の肉体はどこかに隠れてて、アストラル体も一部だけ囮として残してどっか逃げてったと思う」


 と解説。蜥蜴の尻尾切りみたいだな。

 おそらく、狙撃に失敗した後で単身突撃してきたのはそういう絡繰りがあったためなのだろう。水で作った分身を遠隔制御しているのなら突っ込ませて消費したとしても痛くもかゆくもないわけだ。


 しばらく全員で周囲を警戒するが、どうやら相手は撤退したらしい。

 これで諦めたとは思えない。

 襲撃はまたあると考えておくべきだろう。


 四英雄が率いる探索者集団、その副長自らが襲撃してきた。

 それはとりもなおさず、【変異の三手】それ自体の宣戦布告を意味していると考えて間違いないと思われる。


 【死人の森】の攻略を巡っていずれ激突するだろうと予想してはいたが、まさかあちらから直接仕掛けてくるとは予想外だった。

 下手をすれば全面戦争かもしれない。


 大きな戦いの予兆を感じつつ、その場はひとまず負傷者の治療をすべく拠点である巡槍艦へと帰還することになった。

 階層の端に新たに築き上げられた『港』へと向かう途中、セージがふらふらのファルに近付いて言葉をかける。


「ファルくんだっけ? さっきはありがとね」


「ふぁ?! はは、はいっ、とと、当然のことをしたまでで」


 どもりながらあたふたとする少年に、


「なんかキモいね?」


 と辛辣な事を言い放ってさっさと離れていく少女。

 レオに擦り寄って話しかけるその頬がうっすらと染まっていた。

 震えるファルに近寄って、何と声をかけるべきか思案。すると。


「――いい」


「は?」


「ドライで辛辣なセージさんにどうでも良さそうに罵倒される――これだ、これこそが僕に本当に必要なものだったんだ!」


「お前、本当にそれでいいのか?」


 思わず、涙を流しながら新しい世界の扉を開けようとする門下生の未来を心配してしまう。

 隣を歩くマラコーダが呆れたように呟いた。


「貴方がそれを言う?」


「何が言いたい」


 いや、解説はいい。

 ちびシューラも張り切るのはよせ。

 変な詰り方とか考え出さなくてもいいから。

 

「ていうか、セージって確かアストラル体を若い肉体に憑依させ続けてるから、実年齢がそれなりのそこそこだったはずなんだけど」


 トリシューラが小さく呟いたが、感涙にむせぶファルには届かなかった。

 正確な年齢を言わなかったのは情けだろうか。

 知らない方が幸せかも知れない。


「魔女が見た目通りの年齢じゃないことなんて普通だから、大した障害じゃないか。年の差カップルっていうのも普通にありだと私は思うよ?」


(例えば、生後九ヶ月の赤ちゃんとかねー)


 それだけ聞くと最悪な鬼畜外道だな。

 まあ、鬼畜外道同士で相性はいいのだろう。

 間違い無く最後にはあの世行きだろうが、簡単には墜ちてやらない。


 この世界には天獄と地獄があるという。

 だが、俺たちが根城としているここはどちらでも無い。

 正しい道を外れたこのガロアンディアンという王国は、当たり前の方法では崩壊したりはしない。


 イアテムの言葉はトリシューラだけでなくガロアンディアンそのものへの敵意を示唆していた。

 だが、そう簡単にやらせはしない。

 

 ここには女王を守る為の爪牙が揃っているのだ。

 どのような敵が立ち塞がろうと、残らず喰い殺してトリシューラの道を切り開くだけだ。決意を新たにして、俺は主と共に夜の第五階層を歩いていく。




 



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