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2-4 六淫操手

 

 

 

 減速符は自分へ向かう攻撃の速度を削ぎ、ダメージを軽減する事を主な用途とする呪符だが、高所から落下している際には別の使い方も可能になる。


 自分に対して使用することで、このままでは墜死すると思われるほどの落下速度が、僅かずつではあるがゆっくりとしたものになっていく。呪符の周囲にしか効果を及ぼせないとはいえ、極めて有用な呪符である。一枚で一週間分の食費に相当する値段だが、ここで出し惜しむ理由はない。


 暗闇が唐突に消失すると、そこは既に戦場だった。

 

「ようこそ。そして死ね」

 

 燃えさかる火炎がそう告げると同時、下から熱波が迫ってくる。既に発見されている。奇襲が成立していない。このままでは殺される。幾つかの思考が稲妻のように脳裏を駆け巡り、咄嗟に防御用の呪符を取り出すが、炎に向けて投擲したはずの呪符は何故か効果を発揮することなく消失してしまう。


 窮状を自覚し、悪寒に身を震わせる。だがその直後、俺の背後からその悪寒すら温く感じるほどの猛烈な寒さが出現した。

 

「先走りすぎです、アキラ。貴方一人では、これの相手は難しいでしょう」

 

 右腕を掴まれて、急激に真横に引っ張られる。炎が上へ流れていき、熱波が頬を焦がす。膨大な熱量が天井に空いた穴に飲み込まれていくが、やがてその穴も小さくなって消えていった。あれ、上にいるトリシューラに被害が行ってたりしないよな。大丈夫だろうか。

 

「は、久しぶりだなあ、氷女」

 

 粗野な口調で言い放つのは顔に派手な刺青を入れた男だ。異様なことに、そいつは空中に直立していた。というよりも、浮遊する小さな火球の上に立っていたのだ。


 俺の右腕を掴んでいるコルセスカもそれと同様に、氷の宝珠につま先を乗せて浮遊している。宝珠タイプの呪具は空中で足場になるらしい。

 

「よう外世界人、てめえにも分かるように日本語ってヤツを使ってやってるぜ。俺の喋りは伝わってるか? 悪ぃがラーニングはあんま得意じゃなくてよ。丁々発止のやりとりがしたけりゃあそう言うのが得意なカーインの野郎とでもやってくれや。前回の因縁も晴らしてえだろ? お互いによ」

 

 男はそういって下を指差した。俺にとっては見慣れた第六階層の一区画だ。その壁際、何処かから持ち込んだらしい椅子の上で意識を失っている少年と、その周囲に群れるモロレクと三報会の構成員が見える。更にその中で最も目を引くのは、やはりと言うべきか、一度は敗北したあの男。

 

「まあ俺も、てめえをぶち殺しとかねえと三報会のアタマとしては面子ってもんが立たねえんだけどよ。こないだの一戦でちょいと因縁めいたもんができちまったからなあ。てめえらもそうだろう?」

 

 三報会の幹部と思われる炎の呪術師が殺意を放射する先は、俺ではなくコルセスカだ。前回は互角の戦いを繰り広げていたようだが、その決着を望んでいるのか。

 

「だからまあ、てめえの始末は下の連中に任せるわ。俺は今、もっと旨そうな獲物から目が離せねえ」

 

「粘着質な男。まあいいでしょう。貴方の底はもう見えている。ここで私が凍らせて差し上げます」

 

 冷気が立ちこめ、炎が燃え上がる。空中で始まろうという戦いに、ただ宙ぶらりんになっているしかない俺はどうしたものかと呆けていたが、コルセスカがそういうわけでとばかりに、ひょいと手を離したことで悩みは解消された。

 

「貴方は、ご自身の戦いに決着を。そして、願わくば――」

 

 言葉は、彼女に向かって押し寄せる炎によってかき消えてしまったけれど、その中には何か哀願するような、切実な想いが込められているような気がした。きっと気のせいだろう。他者の内心を忖度しているような余裕は、俺には無い。


 落下していく。複雑な形状と色彩に満ちた、悪趣味な世界。重厚な教会音楽らしきメロディが響く、奇怪な空間。

 第六階層。


 多様な異獣が生息していることをその特質の一つとするこの階層には、今モロレクと三報会という二つの勢力が犇めいている。ここは本来モロレクたちの領域なのだろう。他の異獣は見あたらない。だが、黒々とした小さな生物が大量に犇めくその様子はまさしく異獣に満ちた迷宮の姿。敵だらけであるという時点で、その性質は他の場所と何ら変化がない。ここは敵地。ただそれだけだった。


 着地と同時に、地上を駆け抜けた。

 足裏で床を強固に捉え、下方を踏みつぶすほどの勢いで踏み込む。事実それによって床が陥没し、発生した推進力が肉体を疾風のような速度で前へ進ませる。瞬く間に敵集団との距離がゼロになる。


 既に臨戦体勢に入り、おのおのが刃物や長物などを手にしていたモロレクと三報会の集団に向けて、俺は閃光符を投げつけた。目を瞑っていても強烈な光がこちらの感覚を奪っていくのが分かる。不意打ちで喰らった敵集団は行動不能に陥った筈だ。対閃光ゴーグルは敵にこの攻撃を警戒させないために着けていない。では視界のきかない中でどうやって戦うのかと言えば、答えは一つしかない。


 音響処理アプリ『Doppler』は、反響する音の位置を正確に拾い、その正確な距離を算出する。最適な音響を作り出す為の機能は、今この時、戦場の耳となって俺の先制攻撃を支援していた。怒号、呻きを発する相手はいい的だ。腕を振るい、拳を閃かせ、音源である喉や頭部を叩きつぶしてその命を奪い取っていく。もう目が見えないなら無くても同じだろうとばかりに眼窩に指を突っ込んでそのまま握力に任せて顔を握りつぶす。断末魔すら上げられずに血漿をまき散らして死んでいく。


 光が消えると共に次の閃光符を起動させ、再び音の世界に突入する。事態を把握し、息を潜めようとする者もいるが無駄な足掻きだ。生きているのだから、呼吸を永遠に止めることは不可能である。


 生きている者はすべて死に絶えろ。俺の敵は残らず息の根を止めてやる。呼吸音が聞こえなくなるまで殺し尽くす。囚われて安らかな寝息を立てている無関係な一人を除き、誰もいなくなるまでこの行為を繰り返す。


 俺の強さとは即ち彼らの持っていない技術によるもので、換言すると金の力だ。だからこの閃光符を惜しみなく消費する戦い方は、俺のやり方として理に適っている。何度もやれば対策されるだろうが、今回限りで皆殺しにすれば何ら問題は無い。


 誰一人、生かして帰さない。

 がむしゃらに棒を振り回している奴もいる。風切り音でその動きは手に取るように分かる。棒の質量が見た目通りでないために音が必要以上に響いているのもそれを助長していた。

 

「だが、無意味だ」

 

 俺の呟きに反応して誘い出された悪鬼の攻撃後の隙を狙って叩き伏せる。

 どれだけ攻撃の威力が高くても、どれだけ人数を揃えても、一方的に攻撃をされれば死ぬしかない。なんといっても俺の方が移動速度で上回っているのだから、誰も俺を捉えることができない。


 ほとんどの攻撃速度は音よりも遅い。生身を超えた音の処理能力と戦場での情報処理能力を有する俺にとって、来ると分かっている攻撃を回避することは造作も無いのである。


 『サイバーカラテ道場』と『Doppler』を同期させることにより、こと対多数の戦闘能力に関して、俺はこの第五階層の水準を大きく上回っている。

 やがて光と音が消えていく。後に残ったのは死体の群れだけだ。俺の視界も徐々に回復していく。これであとは少年を救出すればいい。そう油断していた俺が、横合いから繰り出された一撃を回避できたのは運が良かったとしか言いようがない。


 無音。

 呼吸すら止め、動作の起こりで余計な音をさせないようにと細心の注意を払って放たれた貫手は、俺のすぐ目の前を掠めるだけに終わる――が、はっきりとした脅威を肌で感じた。


 音を立てる者は一人残らず殺した。それは確実だ。回復してきた視界にも斃れ伏す死体の山が映っている。


 その中に一人、呼吸を止めて無音で立ち続ける者が居る。俺の攻撃の性質に気付いて、一人だけ気配を絶って隠れ潜むことを選んだのだ。大声を出して周囲に警戒を呼びかけることもできたはずだろうに、俺に奇襲をかけるためだけに周囲全てを捨て石にしたということだろう。


 今度こそ仕留めるという殺意を込めて、紅白の道衣に身を包んだ男がこちらを見据えていた。褐色の肌。長い黒髪。不敵な表情。何一つ前回と変化がない。両の手は貫手の形に構えられている。奴にとってあの両手こそが蹴り技と双璧を為す必殺の武器なのだろう。


 もはや隠しておく意味も無いと判断したのか、気息を深く大きく体内へと導引していく。呼吸音が凄まじく長い。圧倒的な肺活量によって無呼吸の状態を維持していたのか。つまり奴には閃光符による目眩ましが通用しない。俺は、前回完膚無きまでに敗北した相手と、正面から戦うしかないというわけだ。

 

「待っている間、君の国の言葉を学んでいたよ。どうだろうか、ネイティブスピーカーの君にとって、私の日本語はおかしく聞こえないかね?」

 

「流暢すぎて非の打ち所がないな。この世界の人間の言語習得能力はどうなってるんだ一体」

 

 渾身の奇襲を回避されたにも関わらず、この男の立ち姿には動揺が微塵も無い。泰然自若とした振る舞い、自然体の構え。臨戦態勢だとは思えないほどに緩みきった様子。気安く話しかけてきてはいるが、鋭利な目だけが油断無くこちらを観察していた。

 

「実は少し不安だったのだよ。外世界人である君は、我々のような慈悲や義の心を持っていないのではないか? この少年を助けたというが、それはただの偶然や気まぐれだったのではないか、とね。しかしそれは取り越し苦労というものだった。君は情に篤い、善き人格を持っていることを証明した!」


 どの口でほざいてんだクズがぶち殺すぞ、という言葉が喉元まで出掛かったが、飲み込んだ。相手が調子良く喋っている間は喋らせておいたほうがいいと思ったのだ。相手が不用意なら俺にとって有利な情報を漏らすかもしれないし、呼吸の間隙を突けば正面からでも不意打ちができる可能性もある。極小の確率だが、格上を相手にするならどんな小さな勝機であっても見逃すことはできなかった。


 にしても、この男はよく喋るタイプのようだ。言葉が通じなかった時にはわからなかったが、ひどく耳に障る。

 

「そしてそのお陰で私は君と再戦する機会を得たというわけだ。いや全くすばらしい」

 

「――負けた俺が再戦を望むならともかく、お前が俺と戦いたがる理由がよくわからないな」

 

 惚けたことを口に出して、相手の様子を見る。目の前の男が俺を狙うのは純粋に利害関係からだろう。それはわかっているが、問いに対する相手の反応が見たかった。俺が戦おうとしているこの男は、いったいどのような人物なのか?


 問いは、思った以上の成果を上げた。男は余裕に満ちた表情を一瞬だけ硬直させ、やや温度の下がった声で言葉を返す。

 

「君は負けてなどいないだろう。私は必殺の技を破られ、殺せるはずの標的を仕留め損ねた。いや、技は破られなかったにも関わらず何故か私は反撃を受けてしまった、というのが正確な所かな? いずれにせよあれは私の敗北だよ。雇い主からはそう見做されたし、何より私がそう認識してしまっている」

 

「なるほど。俺を殺すという目的を果たせなかった時点でもう勝利とは呼べない、という訳だ」

 

 納得できる理屈だった。だとすれば、この男には俺の前から退けない理由がある。誇りや名誉、そして己の立ち位置を守る為には、もう敗北は許されないのだろう。集団に身を置く事の厳しさ。俺にとっては縁遠い現実だった。

 

「己の誇り、そして流派の誉れを回復するため、私は今度こそ勝利しなくてはならない! さあ構えられよ! 我こそは奉竜山青海が門下、姓はロウ、名はカーイン、人呼んで『六淫操手』。名を告げたからには必ず殺す。シナモリ・アキラ、覚悟!」

 

 『似た名前』だと、反射的に思ってしまい、即座に動揺を打ち消す。どちらかといえばその響きは元の世界における大陸風のものに近い。偶然そういう音だっただけなのか、外世界人である俺向けに合わせたものなのか、微妙に気になる。

 

「そのノリなら字とかで名乗ってくれよ頼むから……」

 

 この世界で敵に対して名乗るという行為は、呪殺されるリスクを背負うことで不退転の覚悟を持って戦いに挑むという意味を持つのかもしれない。理屈はわかるのだが殺伐としすぎていないだろうか。どうやら名前を広く知られているらしい俺は、手当たり次第に殺人を繰り返さなくてはならなくなる。ハンドルネームだからセーフだとは思うのだが。


 ロウ・カーインとの二度目の戦いはあちらからの踏み込みによって幕を開けた。

 会話の間に目は完全に回復している。奴の攻撃は蹴りであろうが貫手であろうが受ければこちらの負けは確実と思われるほど強烈だ。つまり、相手に先手を取らせるのは悪手。


 足下に転がっていた小柄なモロレクの死体を蹴り上げ、音響処理アプリの終了と共に弾道予測アプリを起動。『足での投擲』を想定した予測線がカーインへと伸び、拡張現実空間に放物線を描いて、死体が飛んでいくであろう数秒後の軌道を点滅させる。


 並列起動させていた『サイバーカラテ道場』がアプリ同士の連携機能によって『現在の戦況において最適と思われる投擲予測線』を自動選択。それに従って死体を蹴り飛ばす。『good!』の文字が閃いて、敵は回避を余儀なくされる。向かって右への移動。狙い通り。


 カーインが移動した先に待っていたのは、それを見越して俺が右手で投擲していたスローイングナイフだ。

 最初にやや大きめの物を投げて注意をそちらに向けさせて、その動作に紛れるようにして本命を投擲させる。回避先も含めて、単純な誘導である。


 単純なだけに相手にも予想されていた。カーインはそれを軽く体をひねって躱すと、続く脚への一投も半歩ずれただけでやり過ごす。高速で飛来するナイフを完全に見切った動きだった。


 にもかかわらず、第二のナイフを躱そうとする瞬間、その動きが一瞬だけ遅滞する。結果ナイフは脚を掠めただけだったが、カーインの動きは止まり、俺はその間に大きく距離をとった。捕らわれた少年は奴を挟んで向こう側だ。大きく回り込んで救出するのは難しいだろう。しかし目的の一つは達成できた。

 

「成る程、狙いは私だけではなかったか。君はどうやら、目先の敵にかまけて熱くなるタイプではないらしい」

 

 と、カーインが意外そうに呟く。俺が普段他人にどう思われているのかがよく分かる。


 死体蹴りに続く最初のナイフ。あれは奴に向けての攻撃でもあり、同時にその背後で拘束される少年に向けたものでもあった。無論助けに来たはずの少年を攻撃する筈もない。その身を束縛する縄をナイフによって断ち切る事が目的である。


 本当の目的がどちら、ということはない。一つの行動についでの目的を持たせたというだけのこと。もし仮に、カーインに勝つ見込みが全く無い、ということになれば、少年の救出だけ優先して撤退するということも考えられる。その時に拘束を解く手間があるのと無いのでは状況が変わってくる。念のため、程度の布石である。

 

「しかし残念だ。君は戦いの最中に、私以外の相手を意識していたのだからね。こちらはずっと、君以外は眼中に無かったというのに。一方通行の想いというのもいささか悲しいものだ」

 

「意外だ。戦いに熱くなるタイプだったんだな」

 

「少し違う。私が熱くなっているのは、『君との』戦いだ」

 

 喋りながら、更にナイフを投擲。徹底した脚狙い。相手の息の根を止めるのではなく、行動を阻害することを目的とした投擲だ。

 

「だから不本意なのだよ。そうやって、君が私をまるで『ついで』のように扱い、対峙している事が!」

 

 当然のように回避しつつ熱く語るカーインだが、その動きが少しずつ精彩を欠いていく。本人もそれに気付いたか、不可解さを表情に浮かべた。

 仕掛けに気付かれたか。相手の気を惹きつけようと、俺はことさら挑発的に言葉を返した。

 

「悪いが俺にとってお前は大した価値を持たない。俺からすれば殺す相手ってのはゴミだよ。一山幾らの、そのへんに転がっている屑だ。この戦いに、ゴミ掃除以上の価値は無い」

 

 相手の言動から性格を予測する。誇り、面子、そういったものを重んじる武人タイプにとっての、最大限の侮辱である『戦いを汚す言動』はいい挑発になる。足下に転がる死体を派手に踏みつけ、押しつぶし、ぐりぐりと踏みにじる。更に先程よりも荒っぽい動作でナイフの投擲。回避したカーインは、単調な繰り返しに奇妙さを感じている様だった。

 

「どうも、君の言動はさっきからわざとらしい。芝居がかかっている」

 

 お前に言われたくない、と言い返したい所だったが、その指摘は正鵠を射ていた。相手も馬鹿ではないので都合良く思い通りには動いてくれない。しかしこちらの狙いは八割方達成済みだ。

 

「気付くのが遅い」

 

 まさか気付く速度まで減速したとも思えないが。

 床に突き刺さったナイフ、その柄に巻き付けておいた減速符がその効果を発揮し始める。脚に向かって低い角度で投げ放たれたナイフは、狙い違わずにカーインの周囲を取り囲むようにして床に刺さっていた。


 減速符は自らを中心として半球状にその効力を発揮する。中心から離れるほど効力は薄れるが、効果範囲を重ねるとその領域内における物体の運動が均質に減速していくという特性を有する。今、カーインの周囲を取り囲む減速符は内部の速度を低下させている筈だ。一つでは大した障害にはならないが、減速効果が累積すれば話は別だ。


 つまり奴は『行動を阻害』されている。見切ったはずのナイフを完全に回避しきれなかったのも、減速符が奴の動きを遅らせた為である。

 俺とて半年の間、何もこの世界の技術を一切活用せずに生きてきたわけではない。傷を癒すために呪符を奪ったり、迷宮に挑んで探索者の真似事をして糊口を凌いだりもしたのだ(長続きはしなかったが)。


 幾つかの呪符には応用方法がある。ある時知り合った探索者が使っていた戦法の見よう見まねだが、どうやら上手くいったらしい。

 二戦目の今、相手が近接戦闘においてこちらの上を行くことは既に判明している。格上に勝つために必要なのは、防御も回避も間に合わない完全な奇襲を行うことか、相手を弱体化させることだ。


 無防備な相手を一方的に殴り殺す。白熱した戦いや名勝負などというものは、今の俺には必要ない。殴れば死ぬ。それだけでいい。


 『サイバーカラテ道場』が踏み込みからの打撃をシミュレート。最適な行動パターンは極めて少ない。そのほぼ全てが『直進』を提示していた。減速符の包囲、その境界線の手前にカーインが位置するように投擲を行った為、俺の攻撃は減速する心配が無い。それはカーインは少し移動すれば包囲を脱出できる事実も意味するが、その前に決着を着ければいい。全ては、投擲前に弾道予測とサイバーカラテ道場によるシミュレートを行っていたからこそできた曲芸に近い芸当である。右足で床を割り砕きながら、全力の突撃。


 咄嗟に両腕で首から頭部にかけてをガードするカーイン。先程までの鋭い動きに比べれば遙かに鈍い。全力で振りかぶった右腕が渾身の踏み込みと共に旋回。拳打が弧を描き、がら空きとなった胴体、人体の急所である鳩尾に吸い込まれていった。直撃。


 突進の速度、踏み込み、輝く『Excellent!!』の文字、それらが渾然一体となって進む。減速符の呪縛によってこちらとの速度差は絶望的なまでに開いており、相手は回避はおろか防御すらままならない。肉体を押し出す後ろ足が運動量を過不足無く伝達し、右拳の先に伝導されていく。床を踏み砕く程の反作用。即ちそれは、この右手が胴を貫くほどの一撃であることを証明している。


 ――であるにも関わらず。

 

「何、だと」

 

 ロウ・カーインの肉体は微動だにせず。そしてまた、傷一つ無いまま、俺の右拳を受け止めていた。


 呆然とする俺を、猛烈な悪寒が突き動かす。咄嗟に飛び退ると同時、周囲の減速符が軋むような音を立てて千切れ飛んだ。

 

「中々、面白い戦い方だ。が、君は少々考えが甘い」

 

 悠々とした仕草で呪縛を脱しながら、カーインは指を立てて指摘する。表情にはわずかな動揺も無ければ、痛みを感じている様子もない。余りの異様さに反射的に距離をとろうとするが、脚に力が入らない。数歩下がって、ふらついてしまう。

 

「まず第一にああした安価な呪符は格上の呪力の持ち主には効果が低い。君はより高価で強力なものを用意するか、不足分をさらなる量で埋めるべきだ。少々気を充溢させれば、こちらから解除することは容易い」

 

 生徒の勉強不足を指摘する教師のように、カーインは淡々と俺の失敗を解説してみせる。対する俺はというと必死に感情制御アプリを稼働させ、動揺を抑え込まなければならない始末だ。弾道予測は終了させ、次なる戦術を考えなくてはならない。

 

「そして第二。君は典型的な外家拳の使い手のようだが、私は違う。たった今君の攻撃を受けきったように、内功を鍛えれば鋼鉄の腕による一撃に耐えることも可能!」

 

「内、功――?」

 

 呆然と聞き返す俺の表情は、恐らく傍から見ればすさまじく間抜けだったに違いない。が、その時の俺はそれくらいショックだったのである。いや、だって、内功って。

 

「君は正確に私の鳩尾を狙った。内家拳法使いであっても経絡秘孔を突かれれば致命傷は免れない。其処までは正着だが、相手が悪かったな。私は自らの急所にあえて腫瘍を作り出す事で、経絡の流れを常人のそれと別物にしている。通常の急所概念は通じないし、単純に外功を極めた程度の打撃では傷一つ付けられん」

 

 自らの体に腫瘍を作り出す? 経絡の流れを変える?

 想定外過ぎて理解が殆ど追いつかないが、自らに人体改造を施して神経の集中する場所や血管の配置、臓器や筋肉など体の構造をいじっている、ということだろうか。しかしそれ以上に、打撃が通じない、という事実が俺を打ちのめしていた。

 

「肉体を冒すあらゆる病は気候の変動、すなわち六つの気が異常になることによってもたらされる。私は肉体に外部からの刺激を与え、気、血、水を操作して風邪、寒邪、暑邪、湿邪、燥邪、火邪の六淫を人為的にもたらすことができる。いわば人の形をした六淫、環境による病を体現し操作する者だ」

 

 気持ちが沈んでいる。こんな事はいつもの俺なら考えられない。感情の制御は正常にできているのだ。だとすれば、これは体調の悪化と、それに伴う体力の低下が原因だ。人間、病気になると気分が沈んでくる。体が熱い。喉が痛むし、鼻水が出そうだ。

 

「『六淫操手』の呼び名が示す通り、私は貫手で対象の経絡秘孔を突く事により、その肉体に六淫いずれかを原因とする病を擬似的に発生させることができる。以前君を行動不能にしたのもこの点穴の技によるものだ。しかし直接手を触れるだけが私の芸ではなくてね。まさしく今、君は体験しているだろう? 気分はどうだね」

 

「そうか、ウィルス!」

 

 頭痛がする。体がひどくだるい。以前は皮膚から直接流し込まれた為に複数の病が併発し、症状が重篤になり過ぎた為にわからなかったのだ。

 これはつまり、風邪だ。

 

「こっちが近付いた時に、空気感染したってのか」

 

「正解だ。私は常日頃から肉体の気、血、水を操作、調整することによって症状を抑え込みながら、複数のウィルスを飼い慣らしている。君に移したのは、そちらの世界ではインフルエンザウィルスと呼ばれている、いわゆる流感だよ」

 

 正体が不明だったカーインの攻撃、その内実が明らかになったが、俺にとってあまり意味は無い。対処が思いつかないのだ。体内の微細機械群が肉体を健常に戻そうとフル稼働しているのだが、効果は薄いようだった。


 『他者の気や血や水を操る』ということがどういうことなのか、その理屈は全く分からないが、どうやら俺が、そして微細機械が前提としている医学知識とは異なる体系の論理が働いているらしい。そしてここが呪術の世界である以上、より正しくより強いのはそちらの論理なのだ。


 結果として策は不発、こちらが不利な状態で戦わなくてはならなくなった。俺は『残心プリセット』を起動して、用意していた第二の策を使うことを決めた。成功率は低いだろう。そもそもこれは敗北を前提とした戦法だ。それでも、次の行動を起こさなければならない。踏み出す。鈍く地を這う虫のように。

 

「悪足掻きでしかないと、自分でもわかっているだろう?」

 

 勝ちを確信した様子で、カーインは語り続ける。その饒舌さが、耳障りを通り越して苦痛になっていた。頭痛は時間経過と共にひどくなっている。言葉が頭に直接響いてくるようだった。

 

「速度が減じた君の打撃はなまくらの槍のようなものだ。君は左腕が無い為に右腕を使わざるを得ない。それ故に右半身を前にした構えが主体だ。右前の構えは防御を主眼としている為に拳打の威力が減じている。身体を旋回させる代わりに踏み込みと引く脚の力で打撃力を上げているのは見事だと言っておこう。よく練り上げられた外功だ。しかし足技において私に一日の長があることを理解しているから、下半身はあくまで攻撃の始点と割り切り直接の武器にはしようとせず、打撃の狙う点も角度も酷く限定されてしまっている。君の選択肢は極めて狭隘な」

 

「うるせえ黙れ」

 

 そして死ね。話が長いんだよ。俺はだらだらと喋り倒すカーインの文節の間に渾身の打撃を割り込ませた。

 左腕で。


 肘から先が存在しない、がらんどうの左。しかし脚から腰、胴を伝って肩から肘へと伝達される運動は紛れもなく『左の拳打』であり、真に迫った一撃だ。『サイバーカラテ道場』がアラート音をがなり立てているが無視。無意味で非合理的な行動だが、この空虚な一撃はフェイントとしての意味がある。


 相手の虚を突く奇策。

 たとえ当たらなくても、これで相手の機先を制することができれば、続いて肩をぶつけることで相手の体勢を崩すことも可能。奴が『内功』をどんなに鍛えていても、本人の質量は見た目からそうそう乖離しているとは思えない。こちらの全体重をかけた突撃なら効果はあるはずだ。

 

「悪足掻きだと――」

 

 果たして機先を制されたのは、こちらの方だった。先手を取ったはずの俺は、機を見失う。


 フェイントは通じなかった。完全にこちらの挙動を見透かした反撃の一手。カーインの貫手が、俺の左肩に突き刺さる。

 後の先。先制攻撃の権利を、俺は奪われたのだ。

 

「――言った筈だ!」

 

 右からの蹴り。耐えることすらできず、吹っ飛ばされ、地を這いずる。呼吸が乱れている。視界が揺れ動き、安定しない。痛みが無いままに、肉体が危険域に置かれていることだけがはっきりとしている。いや、先程よりも状態は悪化していた。右肩を突かれた時、何かの病を発生させられたのかもしれない。身体が熱いのか寒いのか、それすらよくわからない。

 

「まだやるのかね、その身体で?」

 

「黙れよ。お前の言葉はそれ自体が攻撃だ、耳が腐る」

 

 だらだらとした長広舌は戦闘中には似つかわしくない。

 しかし今ので分かった。カーインの言葉はそれ自体が貫手や蹴りと組み合わさって戦術を構成する一要素だ。


 自分の『点穴』がいかに脅威かを知らしめることで敵の意識を両手に集中させる。更に敵の戦闘スタイルの特性や欠点を指摘し並べ上げる事で、それを意識させて行動を特定の方向に誘導していく。情報の提示によって相手の思考に一定の指向性を与えようとする。アレは言葉によるフェイクだ。


 事実、普段の俺なら『サイバーカラテ道場』に従った戦術を選択する筈だったが、『相手に知り尽くされた戦法では勝てない』と無意識に思い込んで、まんまと相手の思い通りに動いてしまった。機先を制されるのも当然だ。


 互いの共通言語は、奴にとっては武器になり得るものだったのだ。感情を制御している俺に安い挑発などは通用しない。しかし単純な情報の並び、事実や推測などはそのまま処理してしまう。『俺に対しての戦術分析』という情報を意識させる事によって、俺自身の行動を牽制、制限、誘導していく。いかなる時であっても平常心を保つ『E-E』は俺に多大なアドバンテージを与えてくれていた。俺が半年間生き延びてこれたのは、このアプリのおかげといっていい。


 だが、ロウ・カーインはその構造的な弱点を知ってか知らずか、的確に突いてくる。こいつは、俺の天敵だ。

 

「これはこれは。嫌われたものだ」

 

 どこを探しても、勝てる要素が見当たらない。相手は単純に格上で、更には油断が無く、俺よりも頭が回る。しかしそれでも、俺は立ち上がった。

 

「そして全く、大したものだ。一体何が、君をそんなに駆り立てるのだ?」

 

「お前をぶち殺したいだけだ」

 

「ほう――そうだな、趣向を変えようか。このまま勝っても私には君がよくわからないままだ。それではまるで勝った気がしない」

 

「何を、ふざけたことを!」

 

 ぬかしてやがる、と叫ぼうとした瞬間、鳴り響くアラート。咄嗟に後退して横合いからの攻撃を回避する。


 見れば、それは今し方全滅したはずのモロレクの攻撃だった。一体だけではない。致命傷を負い、斃れた筈の黒い異獣たちが、次々と立ち上がっているのだ。

 

「まずその精神を折り砕いてみたいのだよ。彼らは痛みと怖れを知らぬ悪鬼の群れ。死を厭わずに迫り来る彼らを前にして、君の心はいかなる有り様を見せてくれるかな」

 

「ほざけっ」

 

 モロレクだか悪鬼だか知らないが、一度敗れた雑兵の群れに遅れなどとるものか。一方的な虐殺が繰り返されるだけだ。


 傷が癒えたわけでは無いのか、重傷を負いながらもかろうじて、といった様子で襲いかかってくる敵集団。その攻撃を躱すことは容易く、反撃で今度こそ首をねじ切り、頭部を破砕することで完全に息の根を止めていく。首から上が破壊されてもなお立ち上がる者は流石にいなかった。しかしそれは、それ以外の傷ならばどんな重傷も物ともしない、という事実を意味している。

 

「無慈悲な事だ。君には彼らの嘆きが届かないかな」

 

 悪鬼たちはしきりに呻いていた。生前に観た古いゾンビ映画の光景に、どこか通じる物がある。

 

「彼らはただ当たり前の感情に従って戦っているのみだ。情に狂い、怒りに身を焦がし、憎悪でその身を黒く染めている。見たまえ、君が今手にかけたのはまだ年端もいかない幼子だぞ」

 

 その言葉に、一瞬だが息を飲む。これも言葉による心理攻撃だと理解していても、右腕の先を注視してしまった。小柄な悪鬼だ。両手に凶悪な刃を握り、両の目に殺意を漲らせながらこちらを睨み付け、絶命している。その黒く皺だらけの顔は、よく見れば幼く、また普段第五階層で見るようなごく平凡な『下』の住人のものだった。

 

「これは――」

 

 他の悪鬼たちもそれは同じようだった。黒い肌。皺の多い表皮。異質な顔立ち。極端な矮躯。異獣という呼称。しかし、言うまでもなく彼らはこの世界の住人である。

 

「そうだ。光り物など包丁くらいしか持ったことがないであろう女もまた悪鬼と成り果てている。わかるかね、モロレクという集団とはそういう異獣なのだよ」

 

 共通するのは俺への尽きることのない殺意だ。武器ですらない日用品を振り上げて襲い来る女の首を貫手で破壊し、掴んだ死体を振り回して別方向から繰り出された刺突への盾とする。

 

「彼ら悪鬼は君を殺すまで止まらない。彼らは同胞を殺した相手を決して許さない。夫を亡くした妻子から、子を失った両親とその係累、祖父母や叔父叔母に至るまで。血族に仇為す者全てを殺し尽くすと誓い、その身を呪詛によって異形と変貌せしめる。無力な幼子であろうが枯れ木のような老人であろうが、その全てが復讐の鬼となるのだ」

 

 つまりこいつらは一つの血族。家族の仇である俺を殺す為、血のつながりで結束しているのか。

 

「正気の者は決して彼らに手出しをしない。永遠に付け狙われ続けると分かっているからだ。彼らはその全てが血を分けた家族。故にその復讐心は燃え尽きることを知らないのだ」

 

「復讐か。確かに知らずにこいつらを殺したことがあった。納得のいく理由ではある。しかし不毛だ」

 

 吐き捨てる。気怠さに抗いながら、次々と迫る攻撃を回避し続ける。次第に、悪鬼の攻撃が身体を掠めつつあった。

 

「おや、君は復讐など無意味だと説く類の人間かね? 後に何も残らないから止めるべきだと? それとも復讐の連鎖に足を踏み入れるからかね?」

 

「そうじゃない。不毛だって言ったのは、俺相手に復讐をすることが、だ。俺以外を相手に仇討ちするんなら勝手にやってくれって思うし、俺が仇討ちする分には全く問題ない」

 

「ほう?」

 

「後に何も残らないってんならすっきりしていいだろうよ。復讐の連鎖ってのは復讐してくれる相手のいない孤独な奴だったら成立しない話だろ。あとは殺しても誰からも文句のつけられようがない悪党とかな」

 

 俺は割とその類だ。俺の仇討ちなんかをするお人好しに心当たりは無いし、生前の行いは褒められたものじゃあなかった。

 

「殺し殺され恨み恨まれ、そういう連鎖はあるだろうよ。だがそれは暴力のラリーが成立した場合の話だ。誰かを殺したらそいつの縁者に復讐される? ならそいつを返り討ちにすればいい。一回殺して終わらないなら子供だろうが親だろうが友人だろうが知人だろうがそいつに関係してる奴を皆殺しにすればいい。最後には誰も俺に復讐しようなんて奴はいなくなる。簡単な理屈だろうが」

 

 右腕をモロレクの顔面にぶち込んで、頭蓋を陥没させる。血漿が飛び散ると、その肉体が急速にやせ細り、小さく衰えた老人のものに変貌していく。

 

「一族郎党皆殺しだ。俺の敵は流れる血ごと根絶やしにしてやる」

 

「はっはっは! これは傑作だ! 君は予想以上に獣じみているな! 理性を捨てた悪鬼でも、君ほど言葉が通じないということはないぞ!」

 

「お前ら揃って、人のことを獣だなんだと――」

 

 俺はそんなに狂犬じみているだろうか。そこまで理性を失ってはいないと思うのだが。

 

「いやこれは愉快だ。しかしこの世の中、知り合い程度であれば、数人を介せば世界中の人々と繋がると言うぞ。地獄と地上の断絶も半年前までのこと。電子的、呪術的な情報網がある現代ではその傾向はより一層高まると言っていいだろう。さてこの場合、彼らの知り合いというのにこの私も含まれるかどうか」

 

「そんなもん、ひたすら殺し続けてればはっきりするだろうよ。まずお前から死ね」

 

 無造作な踏み込み。呼吸の間隙に飛び込むようにして掌打を叩き込む。

 

「君の底はもう知れた。狂犬め、死ぬがいい」

 

 そして、あえなく外に弾かれた。片腕しか無い俺は左で更なる追撃をかけることが出来ない。右腕が伸びきったこの状態は、完全な死に体だ。無防備な懐に潜り込んだカーインが、今度こそ致命となる貫手を俺の正中線のいずこかに打ち出そうとしたその時。何かの勘が働いたのか、カーインは俺への攻撃を中断して真横に跳んだ。

 

「ああ、今のでわかったよ。さすがの『内功』とやらも、延髄への攻撃は無効化できないらしい」

 

 唐突な回避行動は、前後の状況から考えれば意味が通らない。俺は完全な死に体だった『筈』だ。

 

「無論、忘れてなどいないとも。君は死に体でも動けるのだったな」

 

 『残心プリセット』は既に起動していた。

 カーインが俺に攻撃すれば、その後人体の動きを無視して動いた右腕がその首筋を後ろから狙い撃っていただろう。勿論、無理な動きの代償として自らの右肩を自壊させながら。


 俺の初撃が回避されるのは既に目に見えている。体調を崩し、体力を消耗した今の俺が格上のカーインに無事に勝てる要素はどこにもない。ならば、その『無事』を度外視するまで。


 自分が致命傷を負う事を前提にして戦術を組み立てる。まともな攻撃が通らないなら、死後の攻撃によって相手を打ち倒せばいい。カーインに隙ができるとしたらそれは勝利を確信したその瞬間だろう。

 

「安全性を優先することによって不可避的に発生するセキュリティホールを塞ぐために、現代の日本では使用するアプリケーションはほとんどのセーフティをマニュアルで解除できるようになってるんだよ。つまり俺は、自分の身体をぶっ壊しながらこの右腕を振るう事が出来る」

 

「正気か。君は死を恐れていないとでも?」

 

「珍しくも無いだろう、そんな奴。ほら、そこら中にいる」

 

 重傷を負いながらも立ち上がり、俺に挑みかかろうとしている悪鬼たちこそ、死を恐れていない。それどころか、死ぬ事を前提として戦っているふしすらある。

 

「彼らは意図して狂っているのだ。目的を果たすために、死を恐れる人としての心を捨て、呪術によって悪鬼と成る。恐怖を克服するために彼らは全てを捨て去っている。だというのに君は、何故人のまま死を受け入れている」

 

「感情を制御しているからに決まっている。死の恐怖を度外視して、相手を殺す為の最適を実行できるのはそのためだ」

 

「感情を抑え込む事で死への恐怖を克服? 君は本気でそんなことを言っているのか?」

 

 心底意外そうに、それこそ理解不能といったふうに聞き返してくる。カーインの態度は、俺にとってこそ不可解だった。

 

「当然だ。大体お前ら、効率が悪いんだよ。お前は明らかに俺より数段強いだろうが。なら戦力は俺じゃなくてあっちのコルセスカに割り振るべきだ。無傷で俺を殺せるならともかく、相打ち覚悟の俺に殺されたら俺とお前の実力差分だけの損失が生まれる。俺を瞬殺できるくらいの圧倒的な格上が用意できないなら、やや格上程度の奴をぶつけるのが一番経済的だ」

 

 カーインは、しばらく真剣な表情のまま、俺の言葉を吟味するかのように沈黙し、ややあって耐えきれなくなったのか吹き出した。

 

「これは傑作だ! そうか、『経済的』か! その観点は確かに重要だとも! 確かに君の言うことの方が理に適っている!」

 

 なにがそんなにおかしいのか、カーインは心底愉快げに笑い続けている。本当に、なぜそんなに楽しそうなんだろうか。俺は別に面白いことなど言っていないし、滑稽な様を晒したつもりもない。大体奴は、先程俺の底は見えたとか失望した様子で言っていたではないか。俺の言動は、そんなにも奴の関心を惹くものだったのか?

 

『そっかそっか、それが君の『世界観』なんだねえ』

 

 唐突に。それはまったく脈絡無しに。聞き覚えのある音声が、耳朶の奧から直接響いてきた。

 

『彼があんなに笑っているのはね、アキラくん。貴方は死への恐怖を克服していることを感情制御アプリで説明したけれど、本質的な理由がそこにはなくて、貴方の人格の基盤を成す思想、そして世界観にあることを理解したからだよ』

 

 日本語の文章が、ややこしい構文で、音声と共に視界の下隅に表示されていた。

 驚くべき事に音声として、そして文章として認識されているのに、それを俺が理解するのにカーインの哄笑一回分の時間すら経過していない。


 圧倒的な情報転送速度。脳に直接情報を送り込んで、それを俺が事後的に音声や文章として再現しているかのような感覚。時間の順序が遅滞し、因果が逆転している。俺は違和感の正体を探ろうと、必死に目をこらした。

 そしてようやく、目覚めて以来俺の中にあったその違和感の正体に気付く。


 視界内の拡張現実空間に投影されているのはいつも通りの『サイバーカラテ道場』のデフォルト表示画面である。それはいい。問題は、その端に見慣れないアイコンが存在していること。なんだこれは。ヘルプとかサポート用のキャラクター?


 二頭身のキャラクターで、髪は赤くおさげにしている。黒い服にファーストールにはどこか見覚えがある。

 

『それは未知の環境によって育まれた、異質な世界観を有している事の証明でもあり、貴方が外世界人であることの意味でもある。貴方は異物だからこそ意味を見出されるんだよ、まだ左手を持たないゼノグラシア』

 

 ゼノグラシア?

 似たようなことを、確かコルセスカが言っていたが、それは一体何なんだ?


『というわけでこんにちはアキラくん。ちびシューラだよ、よろしくね!』

 

 いやお前トリシューラだろ。どういう事だ。なんで人の頭の中で喋ってる。

 

『貴方が寝ている間にちょっといじらせてもらったんだよ。罪のない悪戯だと思ってゆるしてね!』

 

 知らない間に端末に得体の知れないソフトを入れられてたり設定を変更されたりして許す人間がこの世にいるだろうか。いねえよ。開頭手術をしたとか言っていたが、こういうことだったのか。命の恩人だと思って感謝していたがそれはそれ、これはこれ。後で覚えとけよ。


 というかこの世界の技術レベルがよくわからない。やっぱり俺の元いた世界と同じかそれ以上なのだろうか。

 

『ほとんどの人――たとえばセスカなんかには私みたいな真似は無理だよ。シューラとセスカでは専門が違うの』


 専門? 呪術にもそういう分類があるのか。

 

『そう。シューラたちはそれを、四大とか、四大系統とか呼んでいる』

 

 いわゆる、火風水地とか温乾湿冷とかそういうのだろうか。

 

『そういう考え方の学派もあるけど、シューラ達『星見の塔』の魔女は自分たちの使う技術を『邪視』『呪文』『使い魔』『杖』の四系統に分類しているよ』

 

 知らない分類だった。聞いただけだと詳細がよく分からないが、なんとなく視覚的なイメージは思い浮かぶ。睨み付けただけで石になってしまうとか、特別な言葉を唱えると超常的な現象が起きるとか、黒猫やカラスを操ったりだとか、そういう感じのやつだ。いかにも呪術とか魔術って雰囲気だった。

 

『シューラは『杖』が専門なんだよ。道具の作成に始まって、テクノロジーやエンジニアリングといった分野にまでその領域は及ぶの。肉体を生体部品の集合だと捉えるから、医術もここに含まれる。『杖』の魔女は四系統で最も実体に関連した呪術師なんだよ』

 

 つまり技術・工学系だ。道具の作成ってことは、よく店先で売っている呪具や呪符なんかも『杖』系統呪術の産物ってことになるのだろう。俺の治療をしたり、アプリに細工したりといった行為もトリシューラが『杖』を専門にしていたからできたというわけだ。

 

『そういうこと♪』

 

 イラっと来た。

 で、なんでトリシューラは今更、このタイミングで俺に通信? してきたの? 死ぬの? 空気とか読む能力が欠如してるの?

 

『あれっ、そんなこと言っちゃっていいのかなー。ピンチっぽいから助けてあげようかと思ったのになー』

 

 数回会話したくらいじゃ分からなかった新事実。このトリシューラとか言う闇医者、非常に鬱陶しい。

 

『ごめんねー。でもアキラくんがボロボロになりながら勝ち目ゼロの戦いしてるのがあんまりにも楽しくって、つい。『つまり俺は、自分の身体をぶっ壊しながらこの右腕を振るう事が出来る』(キリッ)――って相手より弱くないと言えない台詞かっこ良すぎる! ステキ!』

 

 そして性格が悪い。

 ひどい。

 

『あっあっ、ごめんごめん、良い子だから泣かない泣かない、ほら飴あげるよ~』

 

 二頭身のアバターが棒付きのキャンディを主観視点での『こちら』に差し出すと、キャンディが光の粒子と共に消滅、味覚に甘みが発生する。聴覚や視覚をジャックされている時点で気付いていたが、こちらの感覚を支配しているようだ。異常なまでに加速している体感時間、この会話そのものが一瞬であることも、全てこの魔女の仕業なのだろうか。

 

『まあそんな感じ。あと思考も基本的に筒抜けだと思ってもらって構わないよ。だからいやらしいこと考えたらすぐわかるんだからね! ――ってぎゃー! 何考えてるの!』

 

 成る程、本当らしい。最悪である。俺の中でのトリシューラの位置づけが『命の恩人の闇医者』から『覗き魔』にランクダウンした瞬間だった。

 

『シューラのはやらしい目的じゃないから! アキラくんの思考を追いかけて、どういう人物かを見極めたかっただけ!』

 

 勝手に試されてる時点で不快だし、目的が正しければ手段も正当化されると思うなよ? 異世界人に倫理や法や道理を説いたところで無駄かもしれないが。

 

『あっ異世界差別は感心しないなあ。シューラの行為はこの世界基準でも最低だって非難されるレベルの犯罪だよ!』

 

 俺はまさかこいつに逐一ツッコミを入れなければならないのか? 脳内でひたすら喋り倒すこの覗き魔相手に? 不毛過ぎない?

 

『まあ悪いことくらいへっちゃらだよ。だってシューラは魔女だもの』

 

 そう、トリシューラは魔女だ。であれば、今この瞬間に割り込んで俺に語りかけてきているのには、意味がある。恐らく、この上なく悪辣な意図が。

 

『そういうアキラくんの察しの良さ、シューラは嫌いじゃないよ』

 

 何が目的だ。この魔女は俺に、何を望む?

 

『アキラくん、力が欲しくない?』

 

 また典型的なパターンで来たな。

 

『貴方は今窮地に立たされているけれど、それって貴方に頼るべき片腕が無いからだよね? 万全の貴方はこんなモノじゃないでしょう』

 

 大げさだ。左腕があれば、それはいくらかマシにはなるだろうが、絶対的な力の差は埋められない。それに、失ったものを今更嘆いても仕方がないだろう。

 

『そう? じゃあ、より大きな力が左腕の代わりに手に入るとしたら? それを、シューラが用意できるとしたら?』

 

 続く言葉は、『それがあれば、勝てるとしたら?』だろう。都合のいい話だ。

 

『ふふ、誰にとって、だろうね』

 

 本当に、絶妙なタイミングで話を持ちかけてきたものだ。何せ、選択肢があるようで実は無い。トリシューラはコルセスカをさも悪女であるかのように語っていたが、とんでもない。こいつに比べれば、コルセスカなんて可愛げだらけだ。

 

『シューラと話してる時に他の女を褒めるなんて、アキラくんたら命知らず♪』

 

 可愛らしい笑顔を示す二頭身を眺めながら、俺は魔女の囁きを受け入れざるを得ない事を理解した。今の俺には力が必要だ。たとえそれが、魂を差し出す悪魔との契約であったとしても。

 

『そうそう、まあ正直、シューラはアキラくんの返事とか最初から無視するつもりだったけど』

 

 だろうな。選択肢を与えない状況で相手に選ばせるっていうのはそういうことだ。完璧なまでの傲慢さ。俺たちの関係は、トリシューラを上位とした主従にも似たものになるのだろう。


 で、具体的に俺は何をすればいいんだ?

 

『大丈夫、丁度いま、シューラが到着したから』

 

 意味を図りかね、問い返そうとしたその瞬間だった。

 

「こっちっ! 掴まって!」

 

 骨伝導を利用したトリシューラの電子音声ではない。外部からトリシューラの声が聞こえている。


 声の聞こえる方向を見ると、異様にディティールの多い自動二輪に跨ったトリシューラがこちらに向けて車体を疾走させていた。正気か。それはどういう技術レベルの産物なんだ。そんな疑問は今更だろうか。


 側面には流線形のサイドカー。独立した構造ではなく左右がほぼ一体化しており、側車の車輪も駆動しているため悪路にも関わらず速度を維持している。


 カーインが俺への止めを急ぐが、車両の前面から銃座がせり出しかと思うと快音と共に短機関銃が火を噴き、それを妨害する。

 

「え、マジで?」

 

 ああいう火器とかあったのかこの世界。

 射程も命中率も低い銃撃ではあったが、牽制には役立ったようでカーインの足が俺から離れていく。自動二輪はその間に俺のすぐ側に滑り込んで急停止。素早く伸びてきたトリシューラの腕が意外なほど強い力で俺をサイドカーに引き摺り込み、再びの加速。

 

「逃がすなっ、追え!」

 

 カーインの指示に、周囲で待機していたモロレク達が一斉にこちらへ殺到してくる。行く手を塞がれているにも関わらず、トリシューラの顔は以前と変わらぬ微笑みのままだ。

 

『シューラを信頼して欲しいな。ちゃんとこの場を切り抜けるし、目的もきちんと達成するよ』

 

 俺にだけ聞こえるようにそう言って、弾丸をばらまきつつ彼女が向かうのは出口ではない。一度は遠ざけたはずのカーインの方だ。

 それで気付いた。彼女はこのまま俺だけを連れて逃げるつもりが無い。

 目標は、カーインの背後で囚われている人質の少年だ。


 させまいと目の前に立ちふさがるモロレク達だが、突然上空から降り注いだ巨大な氷柱に貫かれ、悉く絶命する。串刺しになった死体は瞬く間に凍り付き、再び動き出すことが叶わない。

 

「今の、コルセスカか?!」

 

「お待たせしてしまいましたね。もう少し早く終わらせるつもりだったのですが」

 

 後方に、傷一つ無い姿を見せたのは氷の魔女。超然とした佇まいの背後には、氷柱によって貫かれた三報会の構成員たちがずらりと屍を晒している。まるでそこだけが処刑場と化したようだった。


 コルセスカの周囲には相変わらず氷の球体が浮遊し、今は更にもう一つの小さな氷が周回していた。

 

「ありえない、こんなことはありえない、俺が、この俺が負けるなん、て」

 

「まだ息がありましたか。存外にしぶとい」

 

 コルセスカの背後、最も高い位置で手足と腹を貫かれていた呪術師の男が、最後の力を振り絞ったのか、拳大の火の玉を生み出す。この状況で日本語使ってるのは俺に対しての親切なのか、それともコルセスカの手によるなんらかの呪術が働いてそう聞こえているだけなのか。


「喰らえ必殺! 聖絶の神火(サクリファイヤー)!」


 えっ何そのノリ。さっきの内功云々といい、俺はこの世界のジャンルがよくわからなくなっていた。いやジャンルとか無いのか? 考えてみれば一人のデザイナーが整えた異世界というわけじゃないんだよなあ、ここって。


 天然ものの世界に統一感を期待する方がおかしいのかも知れない。

 裂帛の気合いと共に撃ち出された炎を、コルセスカは振り返りざまにその巨大な右眼で睨み付けただけで停止させた。

 

「凍れ」

 

 燃えさかる炎が、凍り付いた。

 現象として意味が通らないが、それは確かに目の前で起きた。揺らめく形のない火の玉がその時間を停止させたかのように、突如として出現した氷の中に包まれたのである。

 

「キーワード定義『凍結』。スタック上にある呪術は『解決されない』」

 

「ふざけんなぁぁっ! そんなもん、インチキだろうがあっ」

 

 敗北を受け入れられない男が、残り少ない命ごと吐き出すように絶叫する。

 対する魔女の反応は、当然のように冷淡だった。

 

「――現環境において、貴方の手札で私に勝てないことは、戦う前から明白でした。卑怯と貴方は言いますが、現在の環境を知悉し、あらゆるスキルパターンを想定していない方が悪いのです。この情報に溢れた時代、ネットを参照すれば実用レベルのプランは全て把握できるのですから」

 

 敗者の運命は過酷だった。槍のような氷塊に肉体を貫かれ、生きながらに凍結していく。恨み辛みの声も次第にかすれて消え去り、なによりおぞましいことにその肉体から血液が抜き取られていた。


 吸っているのは、肉体を貫く氷柱だ。

 成人男性一人分の大量の血液が、長大な氷の中を移動して魔女の下へ流れ落ちる。

 

「クソがっ。この、吸血鬼めっ!」

 

「丁度良かった。ドレスに合うアクセサリが、欲しいと思っていたのです」

 

 いかなる神秘的な力のはたらきによるものか、血液だけは凍ること無く、それでいて小川の流れのごとく緩やかに宙を滑り、コルセスカの手元にある小さな氷に吸い込まれていく。


 よく見ればそれは氷でできた精緻な五十八面体。つややかな光沢を持ったリングが形成され、魔女の指にあつらえたように嵌っていく。

 その内側に赤い血を並々と湛えた、氷の指輪。

 この場にいる全員が、この魔女と戦えば死ぬと確信した。

 

「――さて」

 

 コルセスカが視線を巡らせ、ロウ・カーインを探し始めた時、既に奴は複数の悪鬼の陰に隠れていた。

 視線を向けただけで相手を凍り付かせる。

 正気とは思えないほど強力な呪術だが、視線を遮るものさえあれば即座に死ぬ事は無い。


 次々と悪鬼達が凍り付いて行く中、俺とトリシューラは首尾良く捕らわれていた少年のもとに辿り着き、自動二輪に乗せることに成功していた。

 

「じゃ、目的も達成したことだし、コルセスカが足止めしてる間に逃げようか」

 

「なんかもう、一人だけで勝ってしまいそうな勢いなんだが」

 

「うーん、それがそうも言ってられないんだよね。いや、あの程度の相手ならいいんだけど」

 

「どういう意味だ?」

 

 まるで他に脅威となる敵がいるような言い回しだ。

 その意図は、すぐに判明した。

 迂闊なことに、俺はすっかり失念していたのだ。


 ここは迷宮の第六階層であり、その支配者が別に存在しているという重要な事実を。

 

「あのね、私達はあんまり強い呪術を使うと、その呪力反応を感知されて見つかっちゃうの。第五階層は上下どちらの勢力下にも置かれて無いから比較的安全なんだけど、一歩外に出るともう危ないんだ。私もセスカも、それぞれ厄介なのに目を付けられてて」

 

「ほう。その厄介なのってのは例えば、なんだかふよふよ宙に浮かぶ眼球とかでトリシューラ達を探してたりする?」

 

「うんそうそう、自律型の邪眼群で、標的を発見すると位置情報を使い手に送信する、小型で移動能力のある監視カメラみたいな――うん? なんでアキラくんはそんなことを知っているの?」

 

「なんだトリシューラ、視覚情報は共有してないのか? じゃあ落ち着いて上を見るといい」

 

『あー、まあ言われるまでもなく知ってたんだけどさ』

 

 現実から目をそらしていたわけか。

 

『なにしろアキラくんを介していれば現実を直視せずに済むからね!』

 

 やかましい。

 よっぽど殴ってやろうかと思ったが、捕らわれていた少年を右腕で抱えているためそれはできない。この時ほど左腕が欲しいと思ったことは無い。

 俺の不穏な思考を無視しながら、隣にいるトリシューラが恐る恐るという感じで上空を見上げる。

 

「まあとにかく。実は私、いろいろ『上』でやらかしたせいで聖騎士たちに狙われてる賞金首で、セスカはセスカで、かなり昔に『下』の王である火竜を氷の中に封印したせいで、やっぱり最大級の賞金首として狙われてるんだよね」

 

「そうか。で、あの浮かんでるのは、上下どっちの『目』なんだ?」

 

「『下』。けどセスカだけ狙ってくれるなんて都合の良い展開は期待しない方が良いよ。あれ、見境無いから」

 

 しばらく前から俺たちの上空に浮遊している、奇妙な目玉。拳の中に収まってしまいそうな大きさであるため、装飾過多な第六階層の風景にともすれば紛れてしまいそうだが、それは確かに俺たちを睥睨していた。


 ただの眼球である以上、感情など読み取る余地は無い筈なのだが、どうしてかこちらを圧迫するかのような敵意が放出されているような錯覚を覚え、俺は密かに戦慄する。


 文字通り、やばいのに目を付けられた。

 救援が来たにも関わらず、先程の戦闘をも上回る危地にいるのだと本能が告げていた。

 

「飛ばすよ、しっかり掴まってて!」

 

 トリシューラがアクセルをひねると同時、浮遊する目玉が空中に溶けるように広がり、巨大な円形になる。

 その向こう側から、轟くような獣声が鳴り響き、何かがこちら側に来ようとしているのがはっきりとわかった。


 扁平に広がった目玉は門、あるいは扉としての役割を果たしていたのか。

 眼球の中央、黒目部分から鋭い先端が突き出され、膜を引き裂くようにしてそれが現れた。

 

 

 

 

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