3-32 澄明なる青空に
彼方から飛来した光が、過去に遡って自分の歴史を貫いていく。
理解不能な現象。圧倒的な絶望。根源的な恐怖が喚起され、死を意識する。
一瞬のうちに一生の記憶を――遠い昔を回想していた。
そこは、色の無い地底にある閉じられた一室。
『彼女』は、そこで育てられた。
「さてマリー。色とは何でしょうか?」
幼い『マリー』は意味がわからない、とまず首をかしげた。
色は色じゃないのかな、と思ったけれど、『お姉様』が当たり前の事をわざわざ問いかけてくるだろうか。
もっと良く考えて答えを出さないと。
けれど、考えて見れば、色が何かということについて、考えた事が無いという以前によく知らないのだった。
だって、『マリー』の育った世界には色が無い。
色彩の無い大地の底。
知っているのは、高い所から降りてくる『明るさ』と『暗さ』、そして『濃さ』と『薄さ』だけ。
色が無いのは、狭い世界の中で一番大きな存在であった『お姉様』もだ。
「だからこそ私はこのようなおかしな『号』なのでしょうね」
と言っていたけれど、よくわからない。
「ではまず、知識から。それが終わったら実践に移りましょう」
妖精特有の気まぐれに変幻するアストラル体を揺らめかせながら、『お姉様』はいつもの考えが見えない表情でそう言った。
そして、色についての勉強。光についての勉強。杖における自然科学的な説明と、邪視や呪文における人文科学的な説明の両面から学び、更に使い魔の観点からそれらを結ぶ関係性やそれが人や社会に与える影響についても学んだ。
相変わらず色の無いその世界で、ひたすらに色について知っていく。
色は何か、という質問をされたなら、どのような文脈であっても正しく答える事ができる。
勉強の時、彼女はいつも指から『振り子』を揺らしていた。
いつだったか、『お姉様』がその道具のことを説明してくれたことがある。
自己相似形を生み出し続ける再帰的な紀元槍の逆位置。
純粋な乱雑さ。それを、紀元錘と呼ぶのだと。
『お姉様』が持っているのは、自ら作り出したその『制御盤』であるらしい。
世界に既知が増えれば増えるほどそこからは純粋なランダムは見出せなくなってしまう。
秩序を貫いて世界を更新する紀元槍には決して勝てない、矮小な対存在。
言っている事がわかるようでわからないのはいつものこと。
授業の後に、聞いた事のない『伝承童謡』を一緒に歌って、それで一日はすっかりおしまい。
『お姉様』は朝も夜も無い場所に帰っていく。
それを見送って、ひとりぼっちで地下室の中。
毎日まいにち、ずっと一人。
色のない世界に存在する光は、『お姉様』だけだった。
どれだけの時間が経過しただろう。
その域に至ったとき、『お姉様』はそろそろいいでしょう、と言った。
そして、絶えず姿を変える振り子のとがった先端を(次の瞬間には丸くなっていた)こつんとこちらの額に当ててくる。
全身が、揺れたような気がした。
自分が自分ではなくなってしまうような感覚。
恐ろしい、とても恐ろしい予感。
このまま、『お姉様』がどこかにいってしまうのではないか。
そんな気がして、朦朧とする意識を必死に繋ぎとめながら色の無い『お姉様』に縋り付く。
彼女は優しく微笑んでくれた――いつも通りに。
けれど、その口から発せられたのは、別れの言葉。
「貴方はこの暗闇から旅立たなくてはなりません。貴方の持つ巨大な運命を狙って、これから災厄が貴方を襲い、確実な死をもたらすでしょう。それを阻止するために、私は貴方の存在を揺らがせる」
借用したその『猫に名付けられた名前』が、災厄の矛先をずらす助けになればいいのですが。
『お姉様』の言う事はよくわからない。
けれど、万能にも見える彼女にも抗えない何かがあって、そのために私はどこかへ逃がされるのだということはかろうじてわかった。
運命の調律者――世界の修正力。
第三の創生竜は運命を司る。守護竜クルエクローキは世界の揺らぎを修正しようとする秩序の象徴。
たとえば世界を脅かそうとする誰かがいたら、なんとしても無害なうちに殺そうとしてしまう。
「いずれ、『その時』が訪れたら貴方には己の為すべき事がわかるでしょう。だから、それまでは静かに守護竜から隠れていて」
視界の端から端まで振り子が移動して、次に目が覚めたとき、知らない場所にいた。空が青い。太陽が眩しい。人ごみにはありとあらゆる雑多な色彩が溢れている。今までの色の無い部屋とはまるで違う、世界の――地上の色。
――特別な驚きは、何も無かった。
だって、『お姉様』はありとあらゆる情報を与えてくれた。
蓄積された『白』の知識、認識を切り分ける『黒』の言葉。
光を受容した眼球が視神経を通じて視覚野を反応させること。
生化学的な人体と言葉の関連を、間違いなく知っている。
杖使いとしての優れた適性。
光についての全ての物理的知識を有していた『マリー』にとって、新しい体験など何も無い。
そのはずなのに。
目の前で、あるはずのない振り子が揺れるのを幻視した。
次の瞬間、地上のありとあらゆる人がそうであるように、肉体と重なるもう一つの体――アストラル体が形成されていく。
エーテル体、魂魄、体内呪力――そうした『地上人にとっての当たり前』が次々と備わっていき、『マリー』はそうしてどこからどう見ても地上人そのものになっていた。
胸に、感動が溢れていく。
世界には未知が溢れている。知識だけでは得られなかった、この感覚はなんだろう? 表面的な言葉ではない。色という体験の『質』が『心』を奮わせる。
自分の体もまた、色彩に溢れている。
呆然としていると、誰かに声をかけられた。
人の良さそうな、穏やかな男性。
『金色』の瞳が、なんだかひどく印象的だったのを覚えている。
街中で座り込んでいる小さな女の子を案じているのだろうか。
手を差し出して、お父さんとお母さんはどこかを尋ねられた。
『お姉様』は何ていっていたっけ。確か。
「お空にいます」
「ご、ごめん! つらい事を思い出させちゃったね――」
「えるねともらん? なる都市の一番高い位置にある第一区とやらにいるとかいないとか。なーんか、小さな私を不憫に思って湖中穴から投棄したとかなんとか」
まさしく、その場所こそがエルネトモランの第一区だったのだけれど、それはともかく、金色の目をした男性は愕然とした様子で、
「え、ええ? まさか捨てられたって事かい? よく無事だったね――いや、それより通報しないと」
と義憤に駆られたように拳を握る。
慌てて制止した。
「あ、やめてやめて。『お姉様』に迷惑をかけたくないんです」
「そうか、君は家族想いなんだね」
なぜか、男性は目を潤ませていた。
そんなにひどい仕打ちをうけたのに、とか、一人でも大切な人が家族の中にいてくれればそれは救いになるよね、わかるよ、とか良くわからない独り言を呟いて勝手に納得しているようだった。
良くわからないが、多分この人頭悪いんじゃないかな、と『マリー』は考えた。けれど、同時に人が良くて信用はできそうだ。それならば。
「あのー、お願いが」
それは直感だった。
なんとなく、自分は彼といるべきだと、そう思ったのだ。
色々な不都合は、それまでに得ていた知識と杖の呪術、そして男性が持っていた謎の権力によってどうにかなった。
クロウサー家、という権力者一族の一員だと知ったのはかなり後になってからのこと。いずれにせよ『マリー』は、そんなふうにして新しい生活を――逃亡と隠れ潜む日々を始めたのだった。
「僕はガルズ。ガルズ・マウザ・クロウサーっていうんだ」
「どうも。マリーと言います」
――運命に追いつかれる、『その時』まで。
【骨組みの花】なんて気取りながら、仲間たちと過ごす時間は楽しかった。
それはもう、楽しかったのだ。
だから、何もかもがめちゃくちゃになって、全てを失ってしまった第六階層の絶望の闇の中で、こう思ってしまった。
もう、待つのは疲れた。
いつか『運命』という名の終わりが自分を喰いにやってくるのなら、早く『その時』とやらが訪れてくれればいいのに。
耐え続ければ、いつかは疲れる。
その辛さがわかると思ったから、『マリー』は苦しむばかりのリオンを、殺してくれと懇願するギザンを、槌で潰して、鑿で貫いた。
それが合理的な思考だと考えたからだ。
『お姉様』の下で学んだ杖的な思考の枠組み。
楽にしてあげることこそ正しさだと判断して仲間たちを『殺してあげた』。
けれど、その行為はどうしてかひどく彼女の心を苛んだ。
本来自分には存在しないはずのアストラル体が、『心』という形の無い何かが悲鳴を上げている。
それがこの地上の常識なのだと、初めて実感した。
――所詮、自分は地上の人間では無かったのだ。
仲間ごっこ。【骨組みの花】なんて、調子に乗って命名した自分の愚かさを、仲間たちはきっと滑稽に思っていたに違いない。
ガルズが賛成するから仕方なく同調する振りをしていただけ。
仲間を殺すなんて事をした自分は、もう地上の住人ではいられない。
ガルズが霊魂を具現化して行おうとした慰めさえ、もう苦痛で苦痛で仕方が無くて、たまらなく耐え難い。
――優しくしないで。私は、最初からガルズたちの仲間じゃなかった。
最後に残っていた骨花の使い魔に自分を攻撃させて、アストラル体を粉々に砕いた『マリー』は、そうして色々なものを失った。
もしかしたら、最初からそれはまやかしだったのかもしれない。
外見上は何の変化も無く、『マリー』はかつてのような状態に戻った。
けれどもう無いはずの『心』を苛む痛みは一向に消えなくて、それどころか益々苦しみは増すばかり。
ガルズにまで更に苦しみを与えてしまって、何もかも嫌になったその時。
そいつは前触れも無く現れた。
ねじくれた角と翼を持ったどぎつい色の【猫】。
こことは違う世界からやってきた、審判者を名乗る存在。
ヲルヲーラと名乗り、ガルズを甘言で唆したそいつは、ガルズには内緒で【左目】である『マリー』に話を持ちかけてきた。
『このまま地上に挑めば、【右目】は確実に死ぬでしょう』
自分に何かをさせたいのだと、すぐにわかった。
【脳】からの指令。それとは別に、【神経】であるヲルヲーラも何らかの思惑を持ってトライデントという組織に所属している。
多世界連合。そこから送り込まれた不可解な外なる神の一角は、外世界からの次元侵略者を妨げる地上と地獄の結界に阻まれて現世に降臨することができない。
『成功しても失敗しても彼は壮絶な苦しみの果てに死んでしまう。ガルズ・マウザ・クロウサーを救いたくはありませんか。私ならば、死ではなく生に満ちた新しい秩序で世界を更新することができます』
世界など終わって欲しいと思っていた。
けれど、ガルズがそんなふうに苦しんで死んでいくのはどうしようもなく嫌だったから、その言葉に頷いた。
口では彼と同じように終末と滅びを望むふりをしながら。
その願望は決して嘘ではなかったけれど、それよりも大事だと思えるものができてしまったから。
だから。
【骨組みの花】副長であるマリーは、乱戦の中、たった一人で聖女クナータに挑み、あっけなく敗れて死に行く中で、今が『その時』なのだと確信した。
『未来から過去へと時空を貫通していく弾丸』が生まれた瞬間の自分を、そして存在の起源を穿つその直前。
発動した渾身の禁呪が青い流体で藍色の記憶を包み込み、古い古い灰色の過去を現在と融け合わせた。
目の前に広がっていくのは、目の醒めるような朱色の夢。
紀元錘に存在を誤魔化される前の、本来の自分が『今』に現れる。
運命という名の形のない創生竜が、世界の秩序を維持するために自分を殺しにやってくるのがはっきりと予感できた。
運命に追いつかれた。
けれど、それよりも早く、速く、なにより先に。
巨大な稲妻が、世界を切り裂いてマリーを焼き尽くし、消滅させる。
そして、分岐したもう一つの稲妻が模倣子と反応し、新たな存在が誕生する。
類似を凌駕した完全なる同一の、けれど同じではない個体。
それは転生。
『沼女』として復活を果たしたマリー=ズタークスタークが、地上に閃光を撒き散らす。
死者が蘇り、過去が現在と混濁しつつある第一階層――エルネトモランは、混沌とした狂騒に満ちていた。
天地から溢れる死者たちは実体、非実体を問わずに地上に次々と出現していき、それぞれの信念に従って行動を起こす。
槍神教の秩序に疑問を抱きながら死んでいった修道騎士たちがガルズやエスフェイルに加勢し、地上に同胞を残して滅んでいった異獣がその身を盾にして市民を守ろうとする。
探索者たちは利益と信条とを天秤にかけながら状況を見定め、サイバーカラテの技を手にしたごく普通の人々が連携して降りかかる危険を振り払っていく。
人々が抱く無数の世界観が顕在化し、泡のように浮かび上がっては夢まぼろしのように弾けて、空を無数の輝きが乱舞する。
もはや星と霊魂の区別などつかない。
時の尖塔は崩壊し、中にいた者は残らず外側にはじき出され、新しく生まれていく足場の上に放り出される。
第一階層を塗り替えていくのは、流動する霊魂の世界。
世界槍から伸びる無数の枝は泡や繊維質、奇怪な肉腫に変貌していた。
荘厳な天の御殿があらゆる扉を開放しながら地上を睥睨し、天を衝く世界槍は失われた死と再生の天使と同化しながら世界を更新していく。
序列十三位――つまりは異獣の天使ハザーリャは深海を司ると言われている。
細かい網目状の海綿質繊維によって構成された身体が次元を引き裂いて出現し、エルネトモランを、そしてその中心にある世界槍と一つに融け合いつつあった。
海綿質の繊維に変貌していく世界槍の細部は、気の遠くなるような精緻さだ。
それは無限の再帰的形状。
正方形をより小さい合同な正方形に九分割し、中央の正方形を取り除く。
同じ処理をそれぞれ残りの八つの正方形に適用していくことで、自己相似な形を作り上げ続けているのである。
それが立方体、無数の細胞となって世界槍を隙間だらけの構造体にしていた。
零次元は座標軸が無いため、表現不能な原点という抽象的概念である。
線である一次元、面である二次元、立体である三次元と軸が増えていき、ようやくそれらは三次元の住人にも認識可能になっていく。
二次元よりも大きく、三次元よりも小さい次元。それは、表面積が増加して無限大に発散していくが、体積は逆に極限の零へと収束していく。
そして孔だらけの空洞に、非実体の呪術の血液が流れ込んだ。
天の御殿からあふれ出した霊魂が青い流体――融血呪によって一つになり、ハザーリャを構成する海綿質繊維に浸透して膨張させていた。青い血によって屹立する世界槍は無数の非実体の触手を蠢かせながら伸び上がっていき、天の御殿の中に侵入すると死の記憶を強制的に書き換えていく。
死者の復活には際限がない。このままいけばエルネトモランは蘇った人々――十三番目の眷属種である【再生者】で埋め尽くされてしまうだろう。
それを推し進め、地上の秩序を破壊しようと目論むガルズとマリー、それに便乗して聖女を殺害しようとするエスフェイル。
更には【死人の森の断章】を使って『世界の更新』処理に割り込みをかけ、こちらに有利になる戦力を優先的に復活させつつ、ガルズとエスフェイルの術を打ち破ろうとするリールエルバ。
「正直、あの二人を同時に相手にしながら天使を送還するのはかなりきついわ。どっちかだけでも倒してくれるとありがたいんだけど。姉様はそう仰っています。セリアもそう思います」
叫びながら、群れをなして攻めてくる大量の人狼を殴り飛ばしていくセリアック=ニア。仲間たちもまた協力してくれていた。
歌姫の高位呪文が強力な大狼たちを薙ぎ払っていくが、次の瞬間には復活して襲い掛かってくる。きりがない。
『降りかかる火の粉は私が全て払う! アズはエスフェイルをっ』
ガルズとエスフェイルのどちらかさえ倒せれば、あとはリールエルバに任せられる。なら、やることは一つだ。
私は神働装甲を変形させながら新たな形態に変身する。
宣名によってかつて無いほどに呪力を高めていた私は、翼持つ牡鹿でも霊長類でも不定形の触手生物でもない、全く新しい姿に生まれ変わる。
それは、黒百合の子供たちのみんなが考えてくれた『私のデザイン案』の中で一番優れていると満場一致で採用された作品だ。
神働装甲が影の中に沈み、そのシルエットが重鎧のものになる。
鎧と共に黒衣までも脱ぎ捨てていく。
露わになったのは、霊長類体を元にしながらも肩甲骨のあたりから青い翼、頭から黒い枝角を生やした私の姿。
今の髪と瞳の色はミルーニャを参照した純白と赤。服装も彼女とお揃いだ。
半幻獣形態。それが自分の名を掌握した、私の新しい自己像。
「ぬ――? あの面差しは、いやまさか、そんなことが」
歌姫の呪文を相殺しながら、エスフェイルが私のほうを見て小さく呟いた。理由は漠然と予想がつく。
けれど、それには構わずに私は戦意を高ぶらせていく。
雄々しい戦士として。妖しき魔女として。
邪視代行機能を搭載した斧槍【闇夜の希望】を、月光のように淡い白に輝く左手を前に出し、両手で構える。
対峙するのは、左手を暗い緑の刃に変えて二本足で立つ人狼、エスフェイル。
上空ではガルズが放つ金眼の邪視を回避してリーナが奮戦している。
「かわいいじゃねえの」
「かっこいいですよ、アズーリアさん」
カインが茶化すように、マフスが心からの賞賛を込めて言った。
リールエルバが一時的に顕現させた私の味方たち。
私という存在と紐付けされたキール隊の五人は、現世の理を歪めないように仮想使い魔として実体化させられている、あくまで一時的な存在だ。
つまりは、私と同じ。
私たちは六人一体の幻獣となって夜空に飛び上がった。
「行くぞアズーリア、一番槍はお前に任せる」
「了解っ、いつも通りで!」
キールが【鼓舞】を発動させながら私を支援し、その呪力を纏って突出した私は【影棘】を掻い潜りながらエスフェイルに急降下しながら刺突を繰り出す。
迎え撃つエスフェイル。呪文殺しの剣が致命の一撃を放ち、斧槍とぶつかり合って呪力の稲妻を撒き散らす。
「今度は易々と貫かれたりはせんぞ!」
テールが乱射される黒い棘を防御しながら突進する。
護衛として付き従っていた人狼の副官たちを盾で薙ぎ倒しながら、槌矛の一撃をエスフェイルに叩きつけた。
重装備の一式をマフスが照明の呪術で輝かせており、エスフェイルに対する防備は完璧だった。
更には的確なトッドの槍による支援が繰り出され、たまらずエスフェイルは後退する。
「学習しねえな、頭上と足元に要注意だ!」
足元で閃光と衝撃。カインの仕掛けた罠術がエスフェイルの動きを止める。
私に続いて宙から舞い降りたキールが体勢を低くしつつ槌矛の一撃を精確にエスフェイルの膝裏に命中させ、そこに私の影の触手が襲い掛かった。
束縛に成功する。
呪文を断ち切る致命の剣、【言理の真葉】が光り輝くが、影の束縛は維持されたままだ。
「何だと、どういうことだ!?」
「もうその剣は何度も見た。私一人じゃ対応しきれなかったけど、一度ユネクティアに『斬られた』経験を基にしてみんなが解析を進めてくれたの」
そして今、ようやく完了した。
私の胸で輝く幾何学的な図像。三角形を中心にしながら自己相似形を描く呪文。
ミルーニャ=メートリアンが開発した【闇の静謐】が、黒百合の子供たちの協力によって更に強化されて私に力を与えていた。
「その呪術は、もう効かない」
【闇の静謐】は私とミルーニャがその身に受けた呪術を記憶し、自動解体する最強の対抗呪文だ。
対抗呪文の構築合戦には終わりが無い。
対抗呪文に対抗する呪文、それに対抗する呪文、更にそれを打ち消す呪文――というように、対策の立て合いが際限無く続いていくのだ。
それを制するのに必要なのは、言語魔術師としての技量、相手の呪文を理解するための情報、そして多様な呪文に対抗するための広範な知識――あるいは複数分野の専門家。それはたとえば黒百合の子供たちのような。
エスフェイルは先ほどから他の魔将たちの力を復活、融合させて次々と解き放とうとしているが、それらは全て打ち消されていく。
エスフェイルの使う『魔将の力を蘇らせる』呪術を解体したのだ。
あれだけの強力な個体たちを実体として復活させるだけの猶予なんて与えない。
そしてエスフェイルはかつて私がフィリスで解体している。いかに肉体の組成を変えようとも、この距離で斧槍を叩き込んで内部から直接解体すれば死を掌握する人狼の魔将といえど完全な滅びは免れない。
一方、空の上で繰り広げられているリーナとガルズの戦いも決着を迎えようとしていた。
目にも留まらぬ速度で金色の視線を回避し、死霊が生まれる泡を全て潰していくリーナ。
地上から呪石弾を放っているのは投石器を構えたミルーニャと、膝を立てて弩を頭上に向けた彼女の父親だ。襲い掛かる死人をミルーニャに雰囲気の似た女性が、短剣を巨大化させる青年が、黒檀の民の大男が撃退していく。炸裂する呪術の閃光が夜空を花火のような彩りで飾る。
立て続けに発射される呪石弾の対空砲火を、ガルズはかなり長い間防御し続けていたようだが、ついに限界が訪れた。
ミルーニャの一撃で体勢を崩したところにリーナの【空圧】が命中。
世界槍の壁面に激突し、両手を広げた状態で磔にされる。
リーナが手にしている小さな盾のような道具は、ミルーニャが託した【成し得ぬ盾】の模造品だった。
互いの存在を完全に固定しながら、リーナが叫ぶ。
「ようやく、捕まえた」
「離してくれ、リーナ! 僕は地上を、この地上を壊さなければならない! 誰かがやらなければならないんだ! 君だって『上』が絶対の正義で、『下』が絶対の邪悪だなんて事を信じているわけじゃないだろう!」
叫ぶガルズの金眼は神滅具までは打ち消す事ができない。模造品とは言え、あれはミルーニャが改良を加えて作り上げた本物に迫るかあるいは凌駕しうる逸品だ。
魔将との戦いを乗り越えて秘められた才能を完全に開花させたリーナは、ガルズを完全に無力化していた。
「そうだね。正しいとか間違ってるとか、善とか悪とかで言えば、きっと地上の方がひどいんだろうなーって想像はつくよ」
リーナは少しだけ目を伏せて、言葉を探すように間を置きながら続けていく。
「――あのね、ガルズがあの時、会場でサイリウスお爺様に殺されたじゃん。沢山の人が『かわいそう』って言いながらガルズを殺すことに賛成して――私、あれがすごく怖かった。あれってごく普通の感性で、状況によっては人を助けるための原動力にだってなる感情でしょ? それがガルズを殺しちゃうんだってことが、人はそういう本性を持ってるんだってことが、どうしようもなく恐ろしかった」
人間の本性――それは善でも悪でもない。
優しさが人を殺し、悪意が人を救う。道理にそぐわぬ現実は存在し得る。
結果が事象に後付けで意味を付随させるだけに過ぎない。
「ねえ、ガルズが新しく作り出した世界って、全ての人が死んでしまう世界? それとも死んだ人が何も考えずに徘徊したり、周囲の動くものに襲い掛かるだけの世界? どっちだとしても、そんなのは極端すぎるし勝手すぎるよ。地上の人が私たちクロウサー含めて、許されない悪いことをしているんだとしても、だから単純に全員殺して裁くのって、何か違うと思うんだ」
リーナは、帽子に何気なく触れて、そこで何かを思いだしたかのように小さく息を吸い、それから帽子をぎゅっと握った。
何かに想いを巡らせるようにして、目を瞑る。
私は、クロウサー家の娘としてのリーナを知らない。
きっと、ガルズだけじゃなくて、色々な積み重ねや想いがそこにはあるのだろう、と思った。
「そして、もし死んだ人が生き返る世界になるだけなら、きっとみんなは同じ事を繰り返すだけなんじゃないかな。既存の秩序を破壊して、新しい何かを創造するって、確かに凄い事だと思うけど――それだけで世界の何もかもを変えるのって、難しいよ。悪いところを変えたらもっと悪い結果になるかもしれないし、その逆だってあるかも」
地上で、拘束されたエスフェイルが目を見開く。
半人狼の特徴を有した老女が、血溜りに沈む霊長類の女性に縋り付いて涙を流している。黒い棘の流れ弾が命中したのだ。
幸い、それを見つけたイルスがすぐさま駆けつけて救命措置を行う。
かろうじて一命を取り留めたらしい。安心したように黒檀の民の医療修道士に礼を繰り返し述べる老女は、拘束されたエスフェイルを見て、表情に強い怒りと憎しみを浮かべる。人狼を迫害した地上の人間に向けられる感情。同胞同士を憎しみで結んでしまう暴力。似たような光景が、至る所で繰り広げられていた。
「人類の変化とか、世界の更新とか、そういうことはわかんない。地獄の方がもっといい世界を作れるのかもしれない。けど、酷い事はやっぱり酷いよ。人が死んだら悲しいよ。人が人を傷つけて、殺しちゃうことだって、やっぱり怖いよ」
リーナは探索者だ。
だからお小遣いを稼ぐ感覚で、『異獣退治』をした事だってあったはず。
彼女の経験と想いを、私は正確には知らない。
だから、そんな風にして優しい言葉を口にする彼女を見て。
――やっぱり、リーナとは仲良くできても相容れることはないんだろうな、と私は思った。
「だからもう誰にも死んで欲しくないし、ガルズにもこれ以上誰も殺させない。捕まえて、ずっと生きててもらうから」
「そんなこと、奴ら槍神教が許すとでも?」
弱々しく笑うガルズを強い目で見据えて、リーナは答えた。
そして彼女は、自分の道を決定的に選択する。
「私、【空使い】リーナ・ゾラ・クロウサーは、亡きサイリウスお爺様の後を継いで、クロウサー家当主になることを宣言する!」
愕然と目を見開くガルズ。
彼が忌み嫌い、滅ぼすと誓った血族。
リーナは、それそのものになると言っているのだ。
「殺して楽になんかしてあげない! クロウサー家に専用独房を作って、ずっと私の目の届く所で拘束してやる! 死ぬまで、私が、幽閉して監禁するから!」
誰よりも自由を愛する少女は、その口で不自由を他者に強制した。
箒を滑らせながら、空中を移動するリーナ。
ガルズとの距離が縮まり、勢いのまま胸元を鷲掴みにする。
「だから、私のことをちゃんと見てて。私、馬鹿だからきっと一人じゃ間違えちゃう。世界中に散らばった血族の人たちの言いなりになっちゃうかも」
「リーナ、考え直すんだ! クロウサー家は滅ぼすしかない!」
「それが正しくても、今生きている人を殺すのは駄目だよ――ううん、私が嫌なの。だからやらせない。ガルズにも、そうじゃない方法を探してもらう。これは決定だから! 従ってもらうし、嫌がるなら無理やり押し通す!」
高みからの傲慢な物言い。
ともすれば幼く身勝手な、偽善にも解釈可能な意思。
けれどその性質は、あるいはクロウサー家当主という雲上人の中の雲上人に相応しいものかもしれなかった。
私とリーナの戦いが決着した。
天地での戦いが終わり、リールエルバが世界の改変を食い止める。
その時だった。
別の場所で繰り広げられていた戦いの決着が、状況を更に変化させていく。
巨大な肉塊となった世界槍の頂点付近で、凄まじい呪力が放出された。
吹き飛ばされ、宙に放り出されていくのは、単身聖女暗殺に動いていたマリーだった。
十字に輝く瞳で敗者を見送るのは、守護の九槍第二位たる聖女クナータ・ノーグその人だった。
使い魔らしき紫槍歯虎がマリーの武器である槌と鑿を噛み砕いている。
落下するマリーの額に古傷らしき貫通創が『思い出され』ていった。
見る間に傷口が広がると、過去に処置不能な致命傷を負っていた事になる。
その負傷が原因で、たった今、マリーは死亡してしまったのだ。
未来から過去方向へと突き進む致命の一撃。
聖女クナータの神働術を受けた者は、既に死んでいたことになってしまうのだ。
更に、そこに高速で突っ込んでくる者たちがいた。
雷光を閃かせながら激突しあう超人たちが、別次元の戦いを繰り広げている。
燃え盛る炎と雷そのものになったアルマが稲妻の仮想使い魔、ズタークスタークと一瞬のうちに数百、数千を超える攻防を繰り広げ、蝙蝠のような翼で飛翔するサリアが氷の三叉槍を投擲して大魔将の頭部を消滅させる。
一瞬にして再生した稲妻の少女を、背後から音速移動する守護の九槍第五位が二叉の槍を振動させて呪文を発動、動きを止める。
アルマがズタークスタークを殴り飛ばす。
大魔将の稲妻の身体が、決定的な崩壊を始めた。
同じ仮想使い魔だから理解できる。大魔将を構成する呪文の密度は以前見た時よりも遥かに低くなっており、明らかに弱っていた。
だが、空中を高速移動しながら戦う三人も既に満身創痍だ。ソルダとフラベウファ、そして聖火楽団と聖歌隊は全滅してしまったのだろうか。
あと一撃もアルマが繰り出せば戦いは決着する筈だ。
しかし、大魔将は最後に自身を維持するための呪文まで解放した。
凄まじい勢いで放たれた雷撃は三人の超人たちを貫く。
おそらく現在の地上における最強の存在が落下していくが、大魔将もまた相打ちとなって消滅しつつあった。
これで全て終わりだと、誰もが思った。
だが、ガルズがマリーの名を呼び、エスフェイルが絶望の咆哮を上げた瞬間。
大魔将が二条の稲妻となって、マリーと世界槍の外壁に突き刺さった。
マリーが一瞬で蒸発し、世界槍を焼く稲妻が急激に呪力を増して、膨れ上がっていく。
「おいおい、ありゃあ沼女現象って奴じゃねえか? 一定の確率で、稲妻で死んだ奴が哲学的ゾンビになって復活するっていう」
博識なカインが推測を口にする。
仲間たちも似たような事を口にしているようだ。
だとすると、マリーは大魔将ズタークスタークによって再構成されつつあるということになる。
それは、ただの復活を意味するのではない。
より強力な存在として『生まれ変わる』――すなわち、転生。
融血呪の青い流体が、稲妻の呪文と組み合わさって新たな性質を得ていくのがはっきりとわかった。
私たちの目の前で、稲妻の色合いが変化していく。
黄色と緑の中間たる、鮮やかな色彩。
黄色寄りの眩さは、目の眩むような幻覚芸術じみていた。
エレクトリックライム。
見た事は無いはずなのに、どこかで感じた事があるような呪力の波動。
歌姫が何かに気付いて【心話】で伝えてくる。
『あの呪力の波形は、ナンバーサーティーンのライム――?』
『それって、【賢天主】アリスが介入してきたって事?』
半透明のリールエルバが世界の改変を食い止めつつ訊ねる。
歌姫は撒き散らされる壮絶な威力の雷撃を全て押さえ込みながら答えた。
『哲学的ゾンビを統べる冥府の女王――もしかしたら、ズタークスタークだけじゃなくて、あの『マリー』もまた最初からアリスの使い魔だったのかもしれない』
冥王アリス。哲学的ゾンビを統べる女王にして、かつてフォービットデーモン・押韻の操り手だった末妹候補の一人。
彩石の儀の参加者でありながら、一切戦いに参加せず、しかし一度も負けず、誰にも姿を見せないという異様なデーモン。
私も存在しか知らなかったその魔女の思惑が、この状況に介入しているというのだろうか。
圧倒的な呪力を纏って転生を果たしたマリーであり大魔将ズタークスタークでもある少女は、周囲を威圧しながら浮遊していく。
歌姫の呪文が直撃するが、大魔将の力を得たマリーはそれを片手で事も無げに受け止める。
そして手を頭上に掲げると、稲妻状の呪文で天の御殿と肉の世界槍に干渉を始める。大魔将の力で、世界の更新を引き継ごうとしているのだ。
「マリー?! 君は、一体何を――?」
「大丈夫です。ダメダメなガルズの代わりに、私が全部、やってあげますから」
いつも通りの低い声の調子で、マリーは答えた。
そして、わずかな笑みを浮かべる。
「みんなを殺すけど、ガルズを殺さない方法。私が、ガルズと一緒にいられない理由。それを全部、壊します――全人類を、哲学的ゾンビにする。そうして、『本物よりも優れた偽物』であるアリスお姉様に世界を救ってもらうんです」
地獄の別勢力。
エルネトモランの直下に存在するジャッフハリムではなく、北方の地底都市ザドーナの企みが、そしてマリーが密かに抱き続けていた思惑が、状況を根底からひっくり返していた。
更に、混乱によってあらゆる加護が一時的に失われた地上に、新たな脅威が出現する。
世界槍内部を突き破って現れたそれは、途方も無く巨大な翼を持つ【猫】だ。
無数の小さな翼猫が隙間無く組み合わさって構成された大規模な群体。
迷宮の審判にしてトライデントの細胞の【神経】たるヲルヲーラだった。
秩序が崩壊した地上では、もう何が起きてもおかしくは無い。
それでも、立て続けに出現した災厄に思考が麻痺しそうだった。
巨大な翼猫が、非実体の天の御殿を突き抜けながら【心話】でエルネトモラン全域に響き渡る声――否、精神干渉波を発した。
『聞きなさい、ゼオーティアの凡庸な人類たちよ。我々多世界連合は、あなた方の有する強大な軍事力と、それに見合わない野蛮さ、文明および知的レベルの低さに対して、深い憂慮と懸念を抱いています』
アストラル体を揺さぶる強大な支配能力。
複数人でアストラル体とマテリアル体の両面から心身を構成、維持している私ですら全身にラグは入ってしまうほどの衝撃だった。
もしアストラル体が希薄かほぼ存在しない哲学的ゾンビであれば、たやすく支配されてしまいかねない。
予感があった。
この瞬間を狙って現れた外世界の存在。
彼らは、必ずしもこの世界に対して友好的なわけではない。
たとえば、次元を超えて侵略を繰り返す恐ろしい外なる神々という怪物たちがいる。
セリアック=ニアの影の中で、【猫】の一柱が唸り声を上げて天上の猫を威嚇していた。
『合理的な正義に準ずる事が出来ない愚かな土着民族。善き魂を持たぬ者は、生きながらにして死んでいるのです。未だ悪しき魂しか持っていない状態。それは生きているとは言えない。あるいは幼年期とも言えますね。地上の表現で言うならば、守護天使を選択する前の十二歳。未成熟な子供。大人未満の存在なのです』
天から降り注ぐ高圧的な声に、複数の反発が上がる。
それを精神干渉波で黙らせて、ヲルヲーラは続けた。
『原始的な土人の皆さんには我々の導きに従っていただきます。序列化というあなた方のルール、槍神教の正しさを、更なる正義で修正して最適化して差し上げましょう。我々多世界連合が、愚かな泥沼の紛争を繰り返すこの世界を、人類未満のあなた方を、完璧に管理して差し上げます。それこそが真に良き世界への第一歩。そうすることで、あなた方も多世界連合の一員となる資格を得るのです』
「そんなことはさせないです。世界を更新したら、お姉様と一緒に世界を一つにして、お前たちをゼオーティアから追い出してやる」
『何を愚かな。世界干渉の為に必要な知識を全て私から得ているあなたが、私に逆らうと? 大魔将の力を手にして増長しましたか、【左目】よ』
世界を改変しようとしている沼女マリーとそれを利用しようとしている翼猫ヲルヲーラが睨み合う。
状況を見れば、協力しているようでもある二人。
けれど、同じトライデントの細胞であってもその思惑は大きく異なるようだった。互いを利用し、己の目的を押し通し合う。
だとすれば、それは私たちも同じことだ。
エスフェイルの束縛を維持したまま、私はキール隊の仲間と共に飛翔する。
リーナもまた、ミルーニャに神滅具の維持を任せて飛び上がった。
「そんなこと、絶対にさせないっ」
「ぽっと出のにゃんこなんかお呼びじゃないっての! ぶっ飛ばしてやる!」
人類の峻別。人間とゾンビ、眷属種と異獣、『生きている』と『死んでいる』。
価値を決定付ける権力。
特権者として天上から地獄を見下ろすこと。
それこそが地上の価値観、槍神教の秩序である。
私は、それを否定できない。
自分の都合で迷宮を攻略し、『異獣』を殺し続けて英雄と呼ばれている私には。
妹が何より大切。
そして、幼馴染たちのことも、私の命と同じくらいに大切に思っている。これは、全く言葉通りに、みんなが私の命であり存在そのものだから。
私もまた地上の秩序に従って、人に価値を定めて、序列を付けている。
そんな私に、人の価値を勝手に定める傲慢さを否定する資格は無い。
だとしても。
「マリーは、私が止める」
そうしなければいけないのだと、私は直観していた。
マリーは地上が定めている一つの『世界観』を破壊しようとしている。
それは哲学的ゾンビたちを苦しめているものだけれど、同時に私や歌姫の幻想を成立させているものでもある。
立場上その結論とは相容れないし――それ以上に、私はきっと彼女と同じものを見ていたはずだ。
だとすれば、この左手もきっと届くはず。
最後の金鎖を握りしめる。どこにいるのかはわからないけれど、メイファーラの存在を近くに感じる。
羽ばたいて、私たちキール隊は空に飛び立つ。
そこにマリーから無数の稲妻が放たれた。斧槍をかざして防御結界を張り巡らせるが容易く貫通され、マフスの【祝福】による支援を貰ったテールの盾が一撃で消滅してしまう。
非実体のテールの身体は負傷したまま、治癒ができない。
大魔将ズタークスタークの凶悪な呪文は、同じように仮想使い魔として構築されている私たちの身体を再生不可能なまでに崩壊させてしまうようだ。
黄緑色の雷撃が夜空に踊る。
死者すら殺す最悪の稲妻は、サリアやアルマとの戦いで弱体化しているとはいえ大魔将に相応しい必殺の呪術。
一斉に襲いかかってくる雷が構成する呪文は多種多様な形に組み替えられた、全てが別々の術である。対抗呪文では全てに対処する事は不可能に近い。
その不可能を可能にする至高の『歌』が、私の背後から追い風となって吹き付け、稲妻をことごとく消滅させていった。
歌姫の頌歌――【過去】の呪術儀式がその本質を露わにする。
死の記憶――その散文的な事実を生贄にして、叙情的な真実をこの世界に具現させる。世界槍を埋め尽くす青い血を上書きして、黒い血が溢れ出す。
天を衝く槍が、漆黒に染まった。
『天空世界の言い伝えに曰く、その槍こそは紀元槍の枝の一つ、名は『威力』。月に放てば月を滅ぼし、陽に放てば陽を滅ぼす』
それは究極の一撃。
あらゆる呪いを凌駕する絶対の威力。
紀元槍の枝とは世界槍のこと。
自己相似形を描き続ける『樹』にも似た形をしているとも伝えられている万物の根源、紀元槍。その枝の一つを、『威力』であると定義して撃ち放つ。故にそれはあらゆる威力を上回る、威力という概念そのものである。
『万象貫け――【ゲルシェネスナ】』
漆黒の世界槍の穂先から巨大な黒の極光が放たれた。
天の御殿を貫いて闇の彼方に伸び上がっていくそれは、余波でマリーを稲妻ごと弾き飛ばし、巨大なヲルヲーラに突き刺さる。
しかし。
『無駄です』
翼猫の群体は、究極の一撃を真正面から受け止めた。
炸裂した威力に耐えきったわけではない。
あれは、歌姫の呪文の性質に干渉して書き換えているのだ。
『多世界連合が定義するあらゆる世界群は抽象的な情報空間に記述された情報を参照して存在している情報の系。物理的状態と現象的状態の二相によって表現される世界は、情報の書き換えによって自在な改変が可能です。今や究極的な実在としての情報に干渉できる私にそんなものは通用しない』
ヲルヲーラは巨大な翼で天を覆い尽くし、天の御殿と世界槍を経由して紀元槍にアクセスしているのだった。こうして地上が混乱し、不安定になる瞬間こそ槍神教の隙を突いて紀元槍の力を掠め取る好機。
迷宮の審判にしてトライデントの細胞――そしてその本質は次元侵略者。
その姿はまるで神――あるいは悪魔そのもの。
異界より飛来し、多次元を侵略し続ける邪神の軍勢だ。
群体から無数の翼猫が分離、投下されて地上に降り立っていく。
無差別に人々に取り憑いて、精神干渉波で支配しようとしているのだ。
それぞれに対抗しようとする人々だったが、無尽蔵に飛来してくる翼猫――外なる神群の数の暴力には抗えない。
だが、その絶望的な物量に真正面から刃向かおうとしている者もいた。
「ニアちゃん、リールエルバ! 力貸してっ! アズーリアも仲立ちお願い!」
リーナが箒に乗って飛翔する。私は瞬時に狙いを理解して、左手の中にかろうじて残留していた藍色、緑色、黄色の三色を繋ぎ合わせる。
暗黒の霧となったリールエルバ、ナーグストールに乗って飛翔したセリアック=ニア、そして箒に乗ったリーナが一つに収束。
歌姫は言っていた。
それは融血呪による融合に近いようで違うもの。
参照先である仲間たちの力が主体となるから、金鎖を砕いてフィリスを全力で活性化させずとも発動できる切り札。
絶対的な差異から『決して一つにはなれない』という事実を確定させ、そこから想定される幻想を形にする『あり得ない可能性』の顕現。
【連関合成】。
光を、色を、響きを、像を、言葉を、複数のものをひとつにする呪文。
だからそれは、幻想しか参照できない。
ゆえにこそ強固な呪文となってより大きな力を生み出すのだ。
藍、緑、黄の明るい三色が一つに凝縮され、その中には含まれない色が燃えるような輝きを爆発させる。
リーナとリールエルバが力を合わせて作り上げた最強の吸血鬼幻想、エルネトモランの吸血雲。それにセリアック=ニアの【猫】が加わり、新たな力が生まれる。
真っ赤な気体によって構成された猫が、エルネトモラン上空に出現した。
巨体といい呪力といいヲルヲーラに引けを取らない。
『たかがアバターと侮らないでいただきたいものですね。私の本来のスペックならば、この世界程度は容易く――ぐっ』
前足を差し出し、スナップをきかせて敵を招き寄せるかのように足裏で攻撃。
接触した肉球が輝き、呪宝石の爪が飛び出して翼猫の群体を引き裂いていく。
猫特有の凶悪無比な攻撃が、翼猫ヲルヲーラをよろめかせていた。腹の辺りで受け止めていたゲルシェネスナが僅かにめり込む。
三人が生み出した巨大な幻獣の名は【レッドレッデル】――遠い昔、散らばった大地の時代に数多くの邪神を生み出してこの世界から去っていったと伝えられている怪物である。
「ニアアアアアアアアア!!」
『フシャアアアアアアア!!』
天上で、人知を超えた巨大な幻獣たちによる壮絶な死闘が幕を上げた。
そして、無数の小さな翼猫に襲われている地上でも変化があった。
どこからとも無く、手を叩く音がする。
その度に溢れるのは小さなお菓子。
最初にそれに気付いたのは子供たちだった。
可愛らしい外見の動物が通り過ぎる度に歓声が上がる。
何故なら、それは子供たちの大好きなものを落としていってくれるから。
単純な欲望が喚起され、翼猫の精神干渉波が打ち破られていく。
透明の号を関する私たちの『先生』。
常識を超えた白黒兎が、お菓子を乱舞させながら大量の翼猫の侵攻を阻止する。
更に、帽子の中から小さな黄色い斑がついた桃色の袋を取り出して、その中から水と砂糖を高熱で溶かした濃い褐色の液体を大量に噴射。
加熱によって分子が壊れ、酸化反応と同時に無数の化合物が生成され、多様な香りと苦味が発生。
極微な領域における複雑な化学反応によって生じるお菓子作りの神秘。
確定しない模倣子の振る舞いを外的な意味と文脈によって操作する魔女の呪術が発動し、糖液に包まれた翼猫たちはそのままアバターを構成する情報を書き換えられてお菓子そのものになってしまう。
粘性の高い濃厚な糖液はかぐわしくとろとろだ。
霊樹になる林檎の果汁と神々が食するという蜜が混ざった至高の甘味。
それにつつまれた、精巧な幻獣を模した砂糖菓子。
降って湧いた贈り物に歓声が上がり、子供たちやお菓子好きの者たちがそれを食べ始める。
「翼の焦げ目がチャームポイントですわ。肉球を押すと爪が飛び出すのでご注意を。ゼリー状ですが。そして皆さん、食後の歯磨きと適度な運動を忘れずに。でないと丸々太った虫歯ドルネスタンルフが誕生してしまいますからね!」
星見の塔第三十四位、【まじない使いでない師】タマラの真骨頂。
絶望的な状況を笑い飛ばす冗談みたいな古代の『言語魔術』が、地上をお菓子まみれのふざけた世界に変貌させていく。
一方で、激しく殴り合う猫を背景にしながら私はマリーに飛びかかる。
斧槍の一撃を真正面から素手で受け止めたマリーは、鮮やかな黄緑を迸らせながら私を吹き飛ばす。
入れ替わりで前衛となったキールとテールが雷撃で傷を負い、トッドの絶妙な刺突は虚を突いたものの通用していない。
大魔将級の雷撃がマリーの頭上で収束し、無数に枝分かれしながら襲いかかってくる。振り下ろされた絶対死。その時、私の背後から伸び上がるものがあった。
地上にいるプリエステラの両腕が太い樫に変貌し、急速に伸び上がっていたのだ。
自己相似形を生み出し続ける枝葉は、同じように枝分かれを繰り返しながら小さな自己相似形を生み出し続ける稲妻の鏡写しだった。
天地からまったく同じように伸び上がった樹木と稲妻が激突し、呪力を放散していく。
プリエステラは生み出した樫を腕から切り離して必殺の一撃を回避。
古来からティリビナの民たちを天災から守ってきた守護の霊樹を利用した防御呪術【避雷針】が私たちを守ってくれていた。
「今のうちに!」
仲間の援護によってマリーに一瞬の隙が生まれる。
私は、左手に残された最後の金鎖、その九つ目を割り砕く。
メイファーラの力を参照して、灰色の光を左手に収束させる。
それは無彩色のグレースケール。
白黒の濃淡だけで表現されるそれこそは原初の呪い、その具現。
死の無意味さに耐えることは、とても難しくて、悲しい。
だから私はこう思う。たとえそれが作り事であっても、悲しみから他の何かへと変移させる視座があれば、それは幾ばくかの救いになるだろうと。
無造作に投げ出された悲劇に時間的秩序を与え、再演を以て物語と成す。
「遡って、フィリス」
「邪魔しないで下さいっ」
無数の稲妻を、大樹が、キール隊のみんなが盾になって防いでくれていた。
その時間を使って、私は迅速に『呪文』を紡いでいく。
いかにメイファーラの力があっても、解析は未だ完全ではない。
けれど、想像でしかないけれど、私の言葉は彼女に届く。
根拠のない確信があった。
たとえそれが幻想でも、私の言葉は何かに届くと信じたかった。
呪文の基本骨子は三つ。
【哲学的ゾンビ】と【色無しマリー】――そして【骨組みの花】。
「全ての人を哲学的ゾンビにすると貴方は言った。それは地上の理ではアストラル体が無い事が『死』と見なされるから。貴方たちは生ける死人という異獣として迫害され続けてきた。異獣は殺してもいいから」
「貴方だって同じなくせにっ、仮想使い魔は人じゃないっ」
「そう――人が人じゃないものを殺すのは許される。けれど私が人じゃなくなれば、対等な人以外で殺し合うだけ。そこに特権は無い」
「だから何っ、自分は言い訳をしないから偉いとでも言いたいんですかっ」
大樹の避雷針を焼き尽くし、一条の稲妻と化して私に肉薄するマリー。
高精度の先読みによって斧槍でかろうじて防御。
灰色の左手が天眼の力を最大限に引き出してくれていた。
「『心』や『魂』、『アストラル体』といった形の無い、杖的には間接的な観測しかできないものが無いから貴方たちは人ではないと否定される。私がガルズに一度殺されたのも同じ理由。人ではない、生きていないと認識を押しつけられて私は自己を崩壊させてしまった」
「だから、それがどうしたっ」
「貴方もそう! 地上の世界観を押しつけられている。『哲学的ゾンビ』っていうのは、地上人類が協力して展開している世界を塗りつぶす認識――浄界なの」
呪文を乗せて、斧槍を振り払う。
愕然とした表情のマリーにマフスによる神働術が突き刺さる。
呪文を一時的に拡散させる妨害の術だ。
時間稼ぎの間に、言葉を繋ぐ。
「私は仲間たちによって呪文的な手段で再現された。アストラル界ではなくグラマー界に記述される呪文の構造体。私の夜の民としてのアストラル体は、仮想使い魔としての情報の影や煙のようなもの」
アストラル体は人間の精神活動、感情、そして感覚などを司る。
現象世界を知覚する感覚質。
色を見て、『赤い』とか『青い』とかの『感じ』を捉える感覚器でもある。
哲学的ゾンビは、色を物理的な光学現象として識別できるが、その『感じ』が理解できないとされる。
ゆえに杖的には何ら普通の人間そのものだが、邪視的に見ると人ではない。
おそらくマリーもまた色の『感じ』がわからないはずだ。
かつて、私――マリー・スーと呼ばれていた頃の幼い私もそうだった。
あらゆる『繋がり』を見失って、ひとりぼっちで浮いていた。
色無しマリー。命名したダーシェンカお姉様が何を参照していたのかは知らないが、少なくとも私は色が何か、きちんと理解していたと思う。
スキリシアの村では色彩について物理的な説明をビーチェや長老様からきちんと教えて貰っていたし、黒百合宮でも沢山勉強した。
リーナが『アズーリア』としての名前を思い出させてくれてからは、世界に満ちていた『色』が確かな質感を持って感じられるようになった。
「色の感じを知らなかった私は、始めて色を感じた時、劇的な体験だと思った。知識と認識には溝があった。新しい『色の感じ』――アストラル界を知ることができたって思ったよ」
「否定します。私だって色のない地底都市の地下室で育てられました。私は色について全ての事を教えられてから色を知ったけれど、新しい事なんて学んでいません! 全ては脳内で発生している物理的な反応でしかない」
マリーの頭髪が稲妻そのものとなって輝く。
頭部から放たれる呪文の雷撃は、沼女として再構成された脳内で発生している電気信号を増幅して呪文として放つ呪術、【思考の根茎】だ。
枝分かれする稲妻が、複雑に絡み合って大樹と激突、相殺される。
「全ての心的現象は杖的な物理現象に還元可能! ゆえに全ては空虚なんです! 邪視はまやかしですが、唯一肯定できる邪視があるとすればそれはガルズの世界観だけっ!」
「それが、貴方の望みなんだね」
灰色の呪文がマリーの言葉を解析していく。
安易な認識による切り分けを拒絶して、目の眩むような閃光を振りまくマリーが絶叫する。
「私はただ、私たちを肯定してくれるガルズの世界観を肯定したいだけです!」
「どうでもいい」
告げた言葉に、マリーが怒気を膨らませる。
罵声と雷撃が放たれるより先に、相手の感情に言葉を滑り込ませた。
「それらは同じことだから。そんなのはただの言葉。あるいは、概念や様式に過ぎないから」
「呪文使いめ、それもまやかしですっ」
キールが雄叫びを上げながら打ちかかるが、神経反射を加速させたマリーは超人的な反応速度で回避すると、体格で勝る相手を細腕で殴り飛ばした。
大魔将の力を得たマリーの実力は未だに底が知れない。アルマやサリアさえかろうじて相打ちに持ち込むのがやっとだったズタークスターク。
まともにやり合えば決して勝つことはできないだろう。
「私は色んな連関を知って、新しい何かを獲得したと思った。けど違った。だって私は、それより前にもアストラル体を持っていた。スキリシアにいた頃も、フォービットデーモンだった頃も、ちゃんとアストラル界を飛んでいた。それは、私が呪文で飛んでいたから」
私とリーナの飛び方は似ている。
共に呪文を使って飛翔する。邪視の適性が彼女より低い私はその分だけ劣るけれど、過程や方法はどうあれ結果は同じ飛翔だ。
記憶を失った私が一時的に弱体化していたのは、黒百合宮で得た認識まで忘れてしまっていたからだろう。
「私は新しくアストラル体を獲得なんかしていなかった。それは知識で理解していた色彩という言葉や物理的な光を、新しい様式で再解釈したというだけ。方法が違うだけで、参照先は同じ。既知の物事でしかない『光』を認識する視点を変えて、あたかも別の『色の感じ』を新しく知ったかのような『邪視』を手に入れた」
それは、人の呪術的思考。邪視の呪術に関する才能の開花だ。
グラフィカルユーザーインターフェースであるアストラル界は、テキストユーザーインターフェースであるグラマー界の言い換えに過ぎない。
そして同時に、物理現象であるマテリアル界の反映に過ぎず、それら全ては実のところ情報によって記述されるものでしかない。
どれが『ほんとう』とかじゃない。
そんなことはどうでもいい。
どれも真実で事実で本当であり、同時にそうではないからだ。
「地上と地獄。地上と天獄。二つの世界に存在する視座の違いとギャップ。それが全ての原因。遠い過去に起きた言震が、人類と哲学的ゾンビを分断してしまった」
多くの異獣――異言の民が生み出された大災禍。
言震は言語の混乱――呪文秩序の崩壊によって引き起こされる情報的な破壊だ。
ならば、それは呪文によって修復できる。
「そんな歴史っ!」
「そう、ただの歴史――散文的な叙述。それは語り直して再解釈できる。たとえば物語で、たとえば歌で」
その瞬間。
歌姫の呪術儀式が、佳境を迎える。
最後にして最長の、定型を大きく外れた新曲。
無意味な音の羅列であった歌が変貌していく。
それは過去の歌。
ただの事実や古典的なフレーズを繋ぎ合わせた摸倣と寄せ集めの言葉。
けれど、それらが生贄に捧げられて、新たな幻想が紡ぎ出される。
作詞は私。
曲名は――。
「だとすれば、言語の混沌を絶対言語の秩序によって繋ぎ合わせれば、アストラル体という視座を、地上人類の世界観を否定するのではなく、肯定することで平和をもたらせるかもしれない!」
「地上の世界観に守る価値なんてないっ」
「そんな風に否定して排除して、それこそ槍神教のやり方と同じじゃないの?!」
「だからってこの世界を肯定するんですか? 結局貴方も同じです! 我が身可愛さじゃないですか!」
「そうだね。私はあらゆるものに価値を定めて、『大切なもの』と『それ以外』とを峻別してる。けどそれは、大切な人を守る為。貴方のガルズへの想いと同じ」
マリーの動きが、一瞬だけ静止する。
私は斧槍の鉤部分から光の帯を放つ。最も得意な呪術の一つ【陥穽】を、ミルーニャはしっかりと使えるようにしてくれていた。
虚を突かれ、マリーは頭部を光の帯で覆われてしまう。私を見失って稲妻を乱射するが、全てプリエステラの大樹によって吸い取られていく。
「それが人を殺す為の言い訳だって分かってる。けど、『人』を殺すのは怖いよ。『人』が死ぬのは悲しいよ。それが嫌だから、『異獣』を殺す――『上』も『下』も、それは同じ」
魔将たちの死に際が脳裏に甦る。誰もがごく普通に意思のある人。仲間の死に怒り、悲しみ、その遺志を無駄にしないために必死に戦っていた。
リーナはそれが嫌だから『人』を生かし、地上を内側から変える決意をした。
アキラは異獣と化した『人』を殺して、至極当たり前のように苦しんでいた。
――白状すれば、私はそれが怖かった。
だってそれは、私の欺瞞を暴き立てる糾弾に等しかったから。
『大切なビーチェ』の為に『異獣』を殺し続ける私が、本当は同じ価値を持った『人』の命で『人』の命を贖っているのだという事実を突きつけられるようだった。だから私は彼に嘘を押しつけて、自分まで誤魔化した。
結局の所、あれは私の利己的な行為に過ぎない。
ガルズは私と同じ行為をして、マリーを救えなかったと言っていた。
でも、それは違うんじゃないか。
マリーはきっと、嘘の慰めじゃなくて別のものが欲しかったんじゃないだろうか。それは彼女が強かったから。『人じゃない』からこそ、全てを『人』として殺して、そのぶんだけ苦しんで、それを引き受けたかったから。
なら、それはきっと悲劇じゃない。
「【骨組みの花】の仲間を貴方は殺したって、ガルズは言っていた。貴方を慰める為に死者の霊魂を再現して、それが失敗したとも。けどそれは、貴方がガルズの『死は空虚だ』っていう世界観を肯定したかったからなんでしょう? 死者の言葉を代弁なんかしたら、その世界観は揺らいでしまう。貴方はただ杖使いとして死をありのままの死として受け止めた。そして、ガルズの世界を守ったんだ」
「私はっ――!」
拘束帯を破壊して何かを言おうとするマリー。
けれど、言葉にならない。
稲妻の呪文は大気の中で減衰して消えていく。
アキラの言葉を聞いて、私はこの上ない程の救いを感じた。
恨まれているどころか感謝されて――胸に暖かいものが広がるようだった。
私が彼を救ったんじゃない。彼が私を救ってくれた。
事実はいつだって双方向の解釈を許す。なら、ガルズとマリーも同じだ。
「仲間の死を引き受けて、ガルズを守ろうとした。そんな貴方の『振る舞い』を、私はとても尊いと思う。それはきっと、誰の目にも『心』として映る」
私の言葉を聞いていたガルズが、捕縛されたまま叫ぶのが聞こえた。
泣きそうな呼びかけに、マリーは呆然としたまま動かず、答えない。
「私はやっぱり地上の人間だから、『尊い』と価値を付けてしまったものを否定なんてできない。だから、私に――私たちに任せて欲しい」
「任せる――?」
「世界を平和にする。地上の人間として地上の在り方を変えてみせる。それが私たち、呪文の座の願い。【チョコレートリリー】の目的」
天では幻獣がぶつかり合い、地上では人々が戦っている。
誰もが、それぞれの意思を胸に抱いている。
その多様な世界を全て否定するやり方では、結局『哲学的ゾンビの槍神教』が出来上がってしまうだけなんじゃないかと、私は思う。
だから私はこの歌を信じたい。
この光景を信じたい。
そして、魔将たちの誇り高い死もまた、同じように。
「きっと、『上』も『下』も同じなんだと思う。きっと、槍神教って最初は共同体を維持するためのシステムだったんじゃないかな。外敵を排除して、仲間を守り、内部の秩序を厳格に維持し続ける――その果てが、この天の獄」
結果として、それは序列化と排除の恐怖によって人を縛り、管理する余りにも清浄で潔癖な世界を作り出した。
けれど、その中でも意思は完全に死んだりしていない。
まだ人は、ちゃんと『生きて』いる。
「哲学的ゾンビは杖的には『生きている』けど邪視的には『死んでいる』。なら、私たちは呪文使いとして、その溝を埋めて、断絶を繋ぎ直す。視点をひっくり返す言葉遊びだけが、私たちにできることだから!」
フィリスがその本領を発揮する。
世界の色調が反転して、白が黒に、明が暗に、次々に切り替わっていく。
「まずは、物理的現象から間接的にアストラル界を観測する邪視の再現呪具、『眼鏡』で『哲学的ゾンビにはアストラル体が備わっている』と定義し直す!」
ミルーニャとリールエルバが仕掛けたサイバーカラテアプリに含まれていたプログラム。それは、眼鏡に表示される映像を書き換えて人々に新しい現実を見せる。眼鏡をかけていない人には幻覚ウィルスが作用していく。
全ての人がその罠にかかるわけではないけれど、まずは一手目。
「そして、個人的な体験から間接的に物理的な事実を知らしめることで、『人の心は脳の活動によって生まれる煙や影のような随伴現象でしかなく、アストラル界など幻覚に過ぎない』という認識を広める!」
それは杖使い、鉄願の民、そしてサイバーカラテ使いの理念。
絶対ではないけれど、その冷たい確信は人に理性をもたらす。
矛盾した知識と経験に人々は混乱し始めた。
けれど、それが同じ一つの事なのだと、響き渡る過去の歌が幻想を知らしめる。
「『生きながらにして死んでいる』――今までと同じ言葉。解釈をひっくり返しただけ。だからこれは、槍神教への叛逆じゃない。秩序は秩序で覆せる」
それは二重スリット実験で杖使いが観測する極微レベルでの粒子の振る舞いのように。量子力学と導波理論のように。
重ね合わせ。どちらとも言える。どちらでも辻褄が合う。稚拙で強引で本質から都合良く目を背けたアナロジー。
それは結局、現実の追認。
そして人が認識できるのは結局それのみ。あとは頭に思い浮かべた幻想だけ。
第五階層で見たアキラは実体としての性質が余りにも強く、その他の性質が酷く希薄だった。それはカインを殺した事で精神が弱っていたからだとばかり思っていたけれど、もしかしたら彼もまた哲学的ゾンビ――沼男だったのかもしれない。
極限状況に置かれた人は容易く歪み、暴力的になる。
ならそれは環境の問題だ。
必要なのは、世界を変える事。
人の数だけある膨大な認識と言葉、その連関を、私たちは呪文で変幻自在に揺り動かす。
その為に、どれだけの『世界観』が必要だろう。
引き裂かれた世界を一つにするために、どれだけの願いが、祈りが、言葉が必要になるのだろう。
気が遠くなるような道のりだけど、それでも私は、私たちは願った。
月の歌姫が優しい世界の秩序を祈った。
白い少女は人の本性に抗い、ただ強く優しく在ろうとし続けた。
空を舞う魔女は自由を望み、けれど絆もまた慈しんだ。
樹妖精の巫女は多くの悲惨を目にしながら、それでも仲間を信じた。
吸血鬼の公女は己の憎悪を支配欲に変えて、復讐によって人々を守ろうとした。
聖なる姫はその信仰の為に誰よりも強く、姉を信じる自分を信じた。
天の瞳は、全てをありのままに見届けた。
その先が果てしなくても。
どれだけ不可能に思えても。
有り得ない幻想だから、それは信じようとする渇望に繋がる。
乾いた事実の裏側に想像の余地を広げていく。
私の左手が、世界に響く歌声が。
幻想を解体し、再構築する。
異獣をまつろわせ、人という枠組みの中に組み入れる。
哲学的ゾンビを鉄願の民に。枯れ木族をティリビナの民に。人狼と吸血鬼を夜の民に。人の心を守る為の『異獣』というラベルを書き換える。
けれど結局それは、武力によって平定し、無力化するという前提が無ければ意味が無い言葉だけの変革だ。
心を安堵させる為に武力としてのサイバーカラテがあり、同じように未来への希望として英雄がいる。
英雄として望まれた以上、私はこの戦いを終わらせないといけない。
迷宮を進み、人を殺し、屍を積み上げ、その果てに地獄に辿り着く。
三界に歌を響かせて、二つの世界を一つに繋ぐ。
だから私は、それまで戦い続ける。
――この夜が明けるまで、あと百万の祈り。
今はまだ、遠くても。
見たことのない、見ることができない幻想を、想像することだけはできるから。
血まみれの道を切り開くのは私の役目。
平和を作る秩序の歌姫、未来の月の女王である私の主人は、ただ幻想を歌い続けて欲しい。
これからも私は人を殺し続ける。妹の為に、主の為に。
その邪悪を、受け止めきれるだろうか。
全てを引き受けたマリーのように。
灰色の光が収束して、マリーから世界槍への干渉は完全に打ち消されていた。
マリーはただ静かに、私を見て、ガルズを見て、眼下の人々を見て、それから、自分を見る目が少しだけ変わっていることを知った。
「絵空事。ただの夢でしょう、それは」
「うん、そうだね。ただの言葉。けれど、私たちは呪文使いだから。嘘を嘘のまま、本当よりも本当らしく語ってみせる。それだけは、保証できる」
「――馬鹿みたい。ダメダメじゃないですか。何もかも、穴だらけで、言い訳しか無くて――けど、そうですね。もし、それが最後まで貫き通せるのなら。貴方が本当に血まみれの英雄として地獄への道を切り開けるのなら」
マリーの瞳が私を見て何かを告げようとした、その時。
闇に包まれていた空が、突如として揺れた。
恐ろしい脅威を感じた私は天を見上げる。
天の御殿に重なり合うようにして、リーナたちが作り出した幻獣が邪神を倒していた。
ヲルヲーラに覆い被さり、その巨体を構成する群れの大半を吸収していくレッドレッデル。歌姫のゲルシェネスナが大半の個体を消滅させると、翼猫は全体を維持できずに崩壊していく。
だが、完全に勝利したはずであるのにも関わらず嫌な予感は消えなかった。敗北したはずのヲルヲーラが【心話】で叫ぶ。
『まだです! この為に、緻密な誘導を繰り返して餌を地上に運んだのですから。世界の修正力は言震の火種を見逃さない! 決定的な瞬間が訪れる前に、秩序を守護する世界法則に下らない呪文を破壊してもらいましょう!』
完成した過去の歌を破壊しようと現れたものがいる。
それは世界の修正力。
歌姫の頌歌は、秩序を破壊する秩序だと非難する悪意。
かつてプリエステラに牙を剥き、今は私や歌姫、そしてマリーまでもを亡き者にしようとする第三の創生竜。
それを利用することこそが、ヲルヲーラの狙いだった。
『私の勝ちです! 自らの世界の理で自滅するがいいでしょう、行き止まりへ向かう子供たち! あとは我々が正しく優れた真の大人に教育して差し上げます!』
竜の顕現と同時に、蓋然性の理が飲み込まれていく。
その瞬間、極めて不運な事に、天の御殿が数億年に一度の魂の整理を始めた。
解き放たれたのは光。
全ての門や扉、窓から霊魂が吐き出されつつあった。
ガルズとエスフェイルが段階的に行おうとしていたものとは、その規模と速度がまるで違う。このままでは全ての魂が一斉に放出され、荒れ狂う呪力は制御される事無く全てのアストラル界、全ての視座、全ての世界観を破壊する暴力的なエネルギーの嵐となって世界を蹂躙する。
星空のような魂の奔流。
理論上、仮定されているだけの天文学的なスパンで発生する自然災害。
だが起こり得る事は呪術的には必ず起こすことができる。
蓋然性には偏りがあり、運気は呪術によって操作可能。
それが呪術世界の摂理だ。
最悪の不運が、この瞬間、ヲルヲーラによって呼び込まれていた。
かの竜の『餌』を一カ所に集め、攻撃の余波によってアストラル界を消滅させることで、次元侵略を容易にする為だけに。
悪運の蓄積。
言震を防ごうとする私たちの行為を、更なる言震を呼び込みかねない危険な試みだと自動的に判断した世界の防衛機構が、運命を強引に修正する。
運命の修正力たる守護竜クルエクローキが吼える。
形の無い絶対的な力。
私は、天の御殿に巻き付く有翼の大蛇を幻視した。
天から地上へと放たれる極大の閃光。
全てのアストラル界を消滅させるための、それは死の奔流。
ヲルヲーラの崩壊と共にレッドレッデルも崩れ、リーナたちが地上に落下し、ハルベルトは呪術儀式を歌いきって不滅の歌姫モードが解除されてしまっていた。
私もまた、金鎖を完全に使い切っている。
絶望的な状況で、ただ一人動いたのは、マリーだった。
「そんなの、ダメですっ!」
稲妻が天に昇り、大魔将の圧倒的な力が絶望的な死を一時押し留める。
だが天の御殿から降り注ぐ膨大な霊魂の流れ、滝のような霊的エネルギーは止まらない。
全身を構成する呪文を崩壊させながら、マリーが消滅していく。
ガルズの絶叫。金眼の邪視が【成し得ぬ盾】の拘束を突き破って霊魂の嵐に突き刺さるが、大海そのものが滝となって降り注ぐような勢いの前に、それは余りにも弱々しかった。
フィリスはもう使えない――使えば、私は浸食を抑えられなくなる。
それどころか、同じようにフィリスを引き受けてくれている私の詠唱者たち、黒百合の子供たちまでフィリスに喰われてしまうかもしれない。
更に言えば、フィリスは世界を浸食する呪祖。
紀元槍に繋がって、より多くの人々の世界まで浸食した場合、結果としてヲルヲーラの目論見よりも酷い結果が引き起こされる事だってありうる。
パラドキシカルトリアージは一瞬の誤魔化しにしかならない。
時間遡行はマロゾロンドの顕現という更なる災厄を呼び込みかねないし、サリアがすぐ傍で同じ能力を発動させていないと上手く成功させる自信が無い。
私は、翼を広げた。
周囲で、マリーとの戦いでぼろぼろになったキール隊のみんなが苦笑いしていた。無茶な作戦無視や独断専行で周りに迷惑をかけるいつもの癖。死んでからも迷惑をかけ続けることになるなんて、我ながら信じがたいほど愚かだ。
けれど、私は天高く飛翔して、左手でマリーを掴んだ。
消えかけたマリーを、マリーだった私という類似した存在に重ねる。
仮想使い魔として再構成された私たちは、とても似ている。
だから、同一であるとみなすことも可能だ。
死の記憶を参照し、私の一部である仮想使い魔として再生されているキール隊のように、マリーを私の中に組み込んでいく。
私は幼馴染たちの記憶を参照して生み出されている仮想使い魔。
記憶を参照して、幻想を呼び出すことが私の本質だ。
(いいんですか? 貴方の一部を私は削ってしまう――それに、貴方の仲間たちにだって負担がかかります)
刹那、思考に届くマリーの言葉。
私の中のマリーという領域を埋め尽くしていく彼女という情報。
でも構わない。
今の私は、アズーリアだから。
(――いいでしょう。なら、力を貸して下さい。力を貸してあげますから。私は、いつでも貴方の内側で見ています。もし道を誤るようなら、その時は道を切り開く為の稲妻が内側から貴方を焼き尽くすことでしょう)
それでいい。
私は、左手に目が痛くなるような黄緑の稲妻色が宿るのを確認して、斧槍を伝う色彩を天に解き放った。
限界を超えてフィリスを行使して、幻想韻雷の雷が死の奔流、創生竜の吐息を押し留める。
限界を超えた侵食。
私を、世界を食らうフィリス。
この身を維持する呪文が、崩壊を始める。
それだけではない。仮想使い魔の術者である仲間たちもまた苦痛に襲われているはずだ。
それでも、皆は必死になって私の維持に力を注いでくれている。
地上を、人々を守る。ただそれだけのために、意思を一つにして。
だが、大魔将マリー=ズタークスタークの力をもってしても押し寄せる死、過去に存在したあらゆる記憶や世界観を凌ぎきることは不可能だった。
それは邪視。
今までに存在してきた、ありとあらゆる視座が私の呪文を破壊していく。
私はこれまで、何度も邪視に敗れてきた。
その度に仲間たちの手を借りて立ち上がって――けれど、今度ばかりは仲間たちの力を持ってしてもどうしようもない。
次第に私は押されていき、地上へと近付いていく。必死に斧槍を押し込んで雷撃を放出するが圧倒的に出力が足りていない。
その時、仲間たちの共有仮想使い魔である私の中を複数の通信が通り抜けていく。それはこの場を切り抜けるための議論だ。
言葉を交わしているのは、ハルベルトとミルーニャ。
(あらゆる呪術はオープンソースであるべきです! 今こそ、秘匿された言理の妖精の本質を開示するんですよ! そうすれば、アズーリア様をきっと救える!)
(あらゆる呪術は神秘であるべき。閉ざされた幻想がアズーリアの呪力を高めるの。そんなことをしたらアズーリアが消えてしまう)
二人は対立しながらも、共に私を、地上を救うために必死だった。
けれど、私は確信する。
きっとこれが、勝利のために必要な最後の鍵。
白と黒の反発する輝きを、私は即興で繋ぎ合わせた。
無味乾燥な悲劇、残酷な事実、確かな現実を。
収拾不能な喜劇、滑稽な真実、柔らかい幻想に。
暴力によって流される鮮血を、言葉を紡ぐためのインクで翻弄する。
(貴方の不死は、不滅は、永劫は、こんな事で揺らいだりしないでしょう! いいえ、たとえ揺らいでも、です。私の不死を否定した幻想は、何があっても壊れない。師であり幻獣としての存在の根幹を支える貴方の他に、誰がアズーリア様を信じられるって言うんですか!)
――違う。これは私の思いつきじゃない。ミルーニャの意思が私という仮想使い魔に反映されて、その反響が私の意思としてみんなに拡散しているんだ。
存在が響いていく。
それは世界を浸食するように。
フィリスの活性化が抑制限界を超え、遂に暴力的に周囲に感染と拡大を始める。言理の妖精は摸倣子に入り込み、まずエルネトモランの人々に取り憑き――更に、ミルーニャが、それに続いて仲間たちが全世界に拡散させた呪文によってありふれたものに陳腐化してしまう。
幻想は瞬時に零落してその力を減じ、私もまた死の奔流に負けて消滅するかに思われたが、そうはならなかった。
なぜなら、その万能の呪文には肝心の中身がない。
お定まりの起句、ただそれだけ。
万能なのは当たり前だ。何をどうやって幻想を紡ぐのか、自分で考えなければならないのだから。
開示されたのは、その為の入り口。
切っ掛けであり道具であり補正具である、最初の一言。
「言理の妖精語りて曰く」
世界に、言理の妖精が満ちていく。
誰かが言った。
「言理の妖精語りて曰く」
誰かが囁いた。
「言理の妖精語りて曰く」
誰かが呟いた。
「言理の妖精語りて曰く」
誰かが歌い、唱え、吟じ、叫び、吼え、念じ、祈り、願った。
「言理の妖精語りて曰く」
世界に呪文が満ちていく。
一人ひとり、その形は違う。
詠唱の抑揚、想像の細部、言葉が発せられるまでの文脈、それぞれが抱えた意思、果たすべき目的、全ては違ったけれど。
それらは幻想として一つの大きなうねりとなり、地上から天へと解き放たれる。
膨大な量の呪文が、私の背に収束し、斧槍の先から放出された。
天の御殿に巻き付く守護竜が吐き出す死の奔流が、一瞬だけ押し戻される。
だが、その勢いと蓄積された量には終わりがない。
過去の死は現在の生命より遙かに膨大な量を誇る。
たとえ全世界の人が協力してくれたとしても、世界そのものの具現である創生竜の一角に抗うことなど不可能なのだろうか。
その時。
私は、既知のはずなのに未知の何かを耳にした。
それは、完全に寄せ集めの馬鹿馬鹿しい発想。
人々の囁きが聞こえる。
「言理の妖精、発勁用意!」
「おい何か混じったぞ」
「サイバーカラテ道場の理念に曰くだが、これって妖精の使い方の情報を共有して効率化図った方がいいんじゃね?」
「それだ。全員で試してない呪文片っ端から試していった方が速いな」
「これとこれ組み合わせたらどうなるか誰かやってみた? まだだったらこっちでやるけど」
「報告待ってるー」
サイバーカラテの使い手たちが、妖精の扱い方についての情報を交換し、その使用方法の最適化を試みた時から、それは始まった。
試されていない可能性の穴が次々と埋まっていく。
効率化された手法。
試行錯誤は精錬、高速化され続ける。
可能な有限の文字列から、状況に対応することができる蓋然性が高いパターン、すなわち必要な呪文だけを選別して次々に構築。
呪的発勁と誰かが叫んだ。
膨大な呪文のデータを共有、相互参照して、サイバーカラテという杖的な理によって呪文を操り、集合知によって最適化する。
広がる神秘。膨れあがる幻想。
幻想が幻想を参照し、架空の体系内においてのみ整合性が保たれるという疑似科学の枠組みが無数の宇宙となって開闢しては終わっていく。
世界観が、言葉が、関係性が、身体性が拡張されて、気付けば現世に満ちていたのは溢れんばかりの情報の渦。
それは虚構と幻想の誤情報でしかない。
先人が築き上げた叡智、世界に積み上がった屍、大量死の記憶――その確かな質感と重みに比して、量で上回っているだけの言葉だけの数の優位。
事実の単純な蓄積――過去。
その硬質な世界に、幻想に幻想を重ねた砂上の楼閣たる呪文が立ち向かう。
青い翼を広げ、枝角に呪力を纏わせ、斧槍から稲妻を迸らせる。
そして左手には、夥しい数の色、色、色。
「言理の妖精語りて曰く――【万色彩星】」
立ち塞がる死に、勝てないという確信しかない。
けれど、世界中の勝利への渇望が私の背中を後押しする。
仲間たちの信頼が私の心を塗り替える。
だから、私は竜の吐息を引き裂きながら飛翔した。
勢いを増して襲いかかってくる霊魂の滝。
道を切り開く為に、キール隊のみんなが盾となり、私の身を守る。
無茶な行為の反動で、ついに彼らの肉体が崩壊を始めた。
「我々の事は心配するな。お前の記憶にキール隊が刻まれている限り、我々はお前の一部としていつでも力を貸すだろう」
先陣を切ったキールが背中を見せたまま散っていく。
「降りかかる火の粉は盾である俺が全て振り払う。お前は一番槍としてひたすら前に進んでいけ」
テールがその身体を盾にしながら霧散していく。
「支援が必要なら、いつでもどこにでも駆けつけて槍を突き出すさ。君の呼吸は掴みやすい。後ろからですまないけど、こうやって君を守らせてもらうよ」
背後から突き出された槍が襲いかかってきた霊魂を弾くが、その反動でトッドもまた消えていく。
「アズーリアさん、あなたの行く手に、神のご加護があらんことを――あなたが信じ、胸に抱く決意こそがあなたの神です」
マフスが全ての力を振り絞って私に神働術による支援を行い、私の全身に力が漲っていく。
「いいぞアズ公、行きやがれ。お前は俺を救ったあいつを救ったんだぜ。気負わず行けよ、今度も上手くやれるさ」
背後から私に襲いかかろうとしていた翼猫ヲルヲーラの生き残りが、カインに突き飛ばされ、諸共に死の奔流に巻き込まれていく。
過去を引き裂いて、邪視を貫通して、事実を切断し、悲劇を引き倒す。
斧槍を縦横無尽に振り回し、私は雷鳴を轟かせながら突き進む。
竜の吐息の中に侵入した私は無数の霊魂に包まれる。
真横からも襲いかかってくる激流。
迫り来る死を、真下から投擲された致命の刃が悉く両断していく。
暗緑の剣。エアル・ア・フィリスが、闇色の体毛に包まれた人狼の腕に握られて天にまで届いていた。
余力が無くなった私の拘束を振り解いたエスフェイルは、世界を侵略しようとする外敵の目論見に抗う為、自らが傷つく事も厭わずに戦う。
振り回された刃はやがて砕かれ、脚の一つと共に消滅していく。
その隙に更に上昇する。
天の御殿はもう間近。巨大な竜がはっきりと実体化して、明確な敵である私を滅ぼすべく襲いかかる。
それは、途方もなく巨大な世界法則のほんの一端でしかない。
だが、それだけでも私を滅ぼすには十分過ぎる程の呪力を内包していた。
過去最大の破壊、ある意味ではゲルシェネスナすら凌駕する【運命】という紀元槍の枝が竜となって牙を剥く。
――発勁用意。既に、とてもありふれたものになった声が響いた。
竜の顎下を、鎧のような右腕が鋭く打撃する。
断端部から機械的な部品を覗かせたちっぽけな腕。
天の御殿の内部から出現したそれは、私を襲うこと無く反転し、自身に数倍する巨竜に挑む。
金属質なその腕を、私はかつて見たことがある。
けれど、それがこんな所にあるはずがない。
彼がこんな所にいるはずがない。
だからそれは、私が見た都合のいい幻想だったのかもしれない。
それでいいと思った。
幻想に救われて、支えられて、今私はここにいる。
鎧の腕が稼いだ一瞬が、私の左手を空の色に染め上げた。
「射影即興喜劇――瑠璃彩星」
長大な蛇竜が放つ運命操作の視線を、視線ごと鉤で引っかける。眼球を抉り出して、網膜を灼き尽くす稲妻が竜の邪視を消滅させる。
吐き出された毒液が蓋然性を狂わせ、あらゆる『あり得ない悪運』を必然レベルにまで貶めようとする。直前に斧が牙を粉砕し、穂先が口を縫い止める。
膨れあがった幻想の刃が斧槍から溢れ出し、守護竜クルエクローキの口から入って目と目の間を通り脳を断ち切り首を裂いて鱗を砕き翼を吹き飛ばし心臓を始めとした臓器を蹂躙し尾へと抜けていった。
そのまま天の御殿それ自体へと光を撃ち込み、今まで解放された全ての霊魂を強引に束ねて内部に押し込んでいく。
私の枝角と両足から伸びた影の触手が、深淵の底と繋がって黒衣の天使を引きずり出した。
物言わぬマロゾロンドは、私とリールエルバ、そしてセリアック=ニアの祈りに応じて本来の役目を果たす。
それは神話に名高いマロゾロンドの御霊送り。
己の存在を保つ為、古き神たちはその本質に沿った要求を断れない。
渋々ながらといった風に無数の触手を伸ばし、私たちに召喚されたマロゾロンドが地上を彷徨う魂を天の御殿へと正しく送り返していく。
それは、中断された葬送式典の正しい閉幕でもあった。
天の御殿が閉じられ、ゆっくりと次元の彼方へと去っていく。
役目が終わったマロゾロンドがやれやれとばかりに小さくなっていき、極小の黒い点となって消失した。
私が解き放った呪文がいつの間にかガルズが展開した夜の浄界を切り裂き、世界には真昼の明るさが戻っていた。
青。
抜けるように高い空が、頭上に広がっている。
透き通る空の端に、欠けた太陰がうっすらと見えた。
夜のように強くは輝かない第四衛星は、広がる蒼穹に包まれて、いつもよりも青色に近いような気がする。
周囲の色に認識が引きずられただけの目の錯覚なのだろうけれど、私にはそれがとても綺麗に思えてならなかった。
地上を襲う脅威は去った。
リールエルバによって死霊術は完全に無効化され、ガルズはマリーを失った事で打ちひしがれ、もはや抵抗する気力を失っていた。
傍に寄りそうリーナが、少しだけ眉を下げる。
聖女クナータは取り戻した掌握者としての権限で第一階層を迅速に修復して時の尖塔を再構成。そこから繋がっていた各区画までも修復していくと、全壊しかけていたエルネトモラン全域がかろうじて崩落一歩手前で持ち直す。
仲間や地上の人々も、フィリスの反動でそれぞれ精神力をごっそりと削り取られながらも、どうにか一命を取り留めているようだった。
吸血鬼化によって救われた者たちは日陰に隠れ、陽光の恐ろしさに怯えながら縋るようにリールエルバの名を呼ぶ。
事前の対処が間に合わず、助からなかった者もいる。
重傷者が次々と息絶え、イルスとプリエステラを始めとした医師たちが駆け回り、ミルーニャが大量の治癒符で迅速に手当を施し、救える者と救えない者とを冷静に切り分けていく。
そんな中、地上に降り立った私は斧槍を構えたまま、静かに口を開く。
「何か、最後に言う事は」
私を殺すための最強の剣と腕の一つを失い、模造の月と夜の浄界を奪われた魔将は、ごく普通の狼となって私の前に三つの脚で立っている。
ぴんと立った耳は誇り高く、瞳の戦意は衰えていない。
その足下からは、かつて対峙したときのような凶悪さはまるで感じられなかった。天の御殿は去り、顕現していたハザーリャもまたリールエルバによって送り返された。全てを失った人狼は、無力な身体で吠える。
「我こそは魔将エスフェイル! 槍神を滅ぼす者にして、狂信者どもの屍で未来への道を築き上げる邪悪なり! 憎まれ、恨まれ、呪われることこそが悪の証明、この道の本懐! 地上の狂信者ども、我を恐れよ! 英雄気取りの愚か者め、喰い殺してくれようぞ!」
離れた場所で、半人狼の老婆がその叫びを聞いていた。
傍らには、一命を取り留めて安らかな寝息を立てている家族らしき女性。
老女の嘆きと悲しみ、怒りと恨みの感情を魔将がどう受け止めたのか。
その上で選択された叫びを、私は真正面から受け止めて、こう返した。
「邪魔だ。死ね、エスフェイル」
飛びかかってきた狼の肩に穂先を突き入れ、割れた石畳に叩きつけ、鉤で肉を抉り、引き倒して仰向けに倒すと斧を振り下ろす。
鮮血が飛び散った。そして、改めて思う。
エスフェイルは、こんなに小さかったのか。
「くく、上等な面構え――まるで、我が師のようではないか。邪悪さに染まり切った鬼畜外道。正しく人殺しの目よ」
弱々しい掠れ声。
死を間際にしながら、エスフェイルは私をそう評した。
「そう――ようやく私は、ビーチェに並べたんだね」
エスフェイルはわずかに目を見開き、それから納得したように息を吐き出した。
「そういうことか。貴様が、あの方の――くはは、奇縁よな。否、これは必然というものか」
笑うエスフェイルに、私は宣言する。
その背後にいる、誰かに届かせるように。
「私は妹を取り戻す。何人殺しても、どれだけ屍を積み上げても、必ずあの子にもう一度会う」
「あの方は、我らの側に立つ事を自ずから望まれたのだ――それでもか」
そうじゃないかとは、思っていた。
そうだったらいいな、と都合のいい部分だけを夢想していた。
そうであって欲しくないという願いは、儚く散った。
相補の魔女セレクティフィレクティは転生のたびに魂を上書きする。
けれど、その魂が他の魂を上書きできるほど『優先度』の高い転生者の魂だったらどうなるのだろう?
もしかしたら、妹ベアトリーチェは逆に身体の掌握権限を取り戻して魔女の魂を乗っ取ったりして生き残っているのではないか。
神童と呼ばれた彼女になら、同じく転生者であったかもしれないビーチェにならできるような気がしていた。
「二重転生者たるあの方は、外世界人にして内世界人。今や古代の魂と完全なる共存と融合を果たし、号通りに『相補』の体現者となっておられるのだ。迷宮の主ベアトリーチェ=セレクティとして。更には貴様の本来の妹もまた、フィレクティ様の――」
人狼の口から、大量の血液が溢れ出す。
消えかけていた命の灯火が、ようやく尽きようとしているのだろう。
急き立てられるように、私は本当の願いを口にしていた。
「それでも。私は、ビーチェの願いを踏みにじってでも、あの子が欲しい」
「やれるものならやってみるがいい、アズーリア・ヘレゼクシュ。あの方は決して負けぬ。最後に勝つのは、我が主だ」
力強く言い切ると、魔将エスフェイルは獰猛に牙を見せたまま、灰となって風の中に消えていった。
闇色の体毛が、青空に散っていく。
その向こうに、私は必然の未来を思い描いた。
きっとそれは、最期の瞬間にエスフェイルが幻視したものと同じだろう。
戦いの果て、辿り着いたその場所で、私と妹は対峙する。
永続者アズーリア・ヘレゼクシュ。
迷宮の主ベアトリーチェ=セレクティ。
譲れない願いの為に、私たちはぶつかり合う。
その先に待つのは、悲劇だろうか。
それとも取り繕っただけの偽りの喜劇だろうか。
端末越しに聞こえた声が脳裏に再生される。
私は無性にあの隻腕の外世界人の言葉が欲しくなって――それから、そんな甘えを振り払うようにすうと息を吸い込んで、空を見上げた。
死が堆積する過去を足場にして、不安になるほど広大無辺な世界を現在が動かし、その先に未知なる未来が待っている。
煉獄から地獄へと向かう過酷な道行きに、青空は無い。
だから、せめてこの瞬間だけは地上の空を目に焼き付けておこうと、私は首が痛くなってもずっと空を見続けた。
いつまでも。
祈るように。