3-23 睥睨するエクリーオベレッカ
「ゆーるーしーてーよー」
部屋まで起こしに来たリーナの声を、私は完全無視した。
昨夜の事を未だに引き摺っている、わけではない。
呪文の構築に悩む私のために、視点を変えてアキラに助言を頼んでみたら、などと言っていたが、あのにやついた顔は絶対に何か妙な事を勘ぐっていたに違いないのだ。まったくこのお調子者はいつもこうだ。
とはいえ、いよいよ葬送式典の当日だ。
リーナに怒りを向けている場合ではない。
無視しているのは、何をされても許す相手だと侮られないための措置である。
ミルーニャに言われてずっと無視しているが、流石に少し心が痛む。
「ていうか第五階層がやばいって気付いたの私なのにー! 手伝いとか色々やってるのも私なのにー! いっぱい働いてるのに扱いが悪い! 許されざるよ!」
「――うん。だよね。なんかごめんね。アキラが大変なことになってるって、考えてもみれば当たり前だったのに」
守護の九槍の一人、第九位キロンが第五階層に向かったことは知っていた。
そして、王獣カッサリオがいるということは近くに迷宮の主もいる可能性が高い。第五階層に異変が起きつつある事くらい予想がつきそうなものなのに。
命の恩人と妹――その二人がアキラと戦うかもしれないと考えると、なんだかひどく心が窮屈になって、息ができなくなりそうになる。
「ま、なんとかなるよ。あっちにはフルブライトとノーレイのお化け姉妹がいるんだし。私、あの二人に一回も勝ったことないよ」
リーナの気楽な声は、いつだって私に救いをもたらしてくれる。
部屋を出る準備をしながら私はリーナの明るい黄色の髪を左右で三つ編みにする。今度は、左右両方ともしっかりと。
「そう、だね。それに、アキラだって負けてない」
「大狼の投爪を投げ返して、魔将と渡り合える前衛、だったよね。サイバーカラテ、だっけ。なんか先輩がめっちゃ興奮しながら『もっとはやくこれに出会っていれば』とか言って奇声を上げてたけど」
私にとっては、これが一番意外だった。
ミルーニャは私たちの中で一番あのサイバーカラテなる武術に関心を示し、早速ネット経由で入門をしたらしい。
ミアスカ流脚撃術という武術を体得している彼女は恐らく強くなる事に関して貪欲なのだと思うけれど、そう言うことをしても大丈夫なのだろうか。なんか武術とかそういうのって掛け持ち? みたいなことしていいのかな。
「あとはこっちの仕掛けが間に合うかどうかだよね。こっちが先にライブやっちゃえば、あとは録画と録音でどうにでもなるんだけど」
「そこは、あっちが持ち堪えてくれることを祈るしかない」
そうすればきっと、ハルベルトがアキラを――みんなを救ってくれる。
通し稽古での白昼堂々とした凶行は完璧に行われた。恐らくマリーはこのまま最終日の今日、呪術儀式を行う為にこの場に現れるだろう。
だからこの十三日目、葬送式典こそが正念場。
「さ、行こうか。みんなが待ってる」
「おっし、それじゃあいっちょ行きますか!」
まずはこの都市の外周部。
もうすぐ遠い異国から【門】を渡って訪れる幼馴染み、セリアック=ニアを迎えに行こう。
エルネトモランの外周部からは地脈列車の駅から線路が複雑に交差しながら外へと伸びている。呪術的に意味がある幾何学模様が淡く光を放ち天に向かう柱を作り出す。その先で浮遊しているのは空港で、毎日数多くの航空機や飛翔型の使い魔が訪れ、また飛び立っていく。
個人単位の車輌や箒といったものも陸路、空路の別を問わずに行き交っている。葬送式典があるこの日、エルネトモランには遠路はるばるやってきた人々が殺到する。熱心な槍神教信徒はもちろん、物見遊山の観光客はいつもの倍以上。
修道騎士たちの多くは警備と交通整理で休む暇もない。
メイファーラもまた私の警護ということで朝から合流することになった。
私、リーナ、メイファーラの三人が向かうのは、基幹となる交通機関とは別に存在する、各国の要人たちが使用する転移門。
九つの円柱が半球状の屋根を支え、その下で浮遊しながらゆっくりと回転する巨大な円環。それが転移門である。
軽く足を上げれば円環内部をくぐれる程度に細く薄いが、その高さは途方もない。ミルーニャの石像とプリエステラの樹木巨人が肩車をしてようやく端から端に届くほどだろうか。
同じ都市の外周部であってもその他の交通機関など重要な設備からは遠ざけられているのは、かつて転移門が軍事利用されていた時代の教訓である。
移動コストを大幅に減少させる転移門は、同時に安全保障の面で繋がった双方の地に大きな危険を抱えさせてしまう。
国際法で厳重に規制され、その運用には細心の注意が払われるのだが、使用できないというわけではない。
リールエルバが方々に手を回して膨大な事務手続きを処理してくれたお陰で、セリアック=ニアは無事にエルネトモランに到着した。
美しくカットされた呪宝石が散りばめられた浮遊する円環型転移門は、ドラトリアの呪宝石加工技術が使われており、アルセミットとドラトリアとの友好の証であるとされている。
アルセミットの武力の象徴たる松明の騎士団の本拠地エルネトモランと、ドラトリアの首都カーティスリーグが繋がっている事実は、険呑な想像をかきたてずにはいられないけれど。
聖姫セリアック=ニアは、円環の中で揺らめく光の膜から、ゆっくりとその姿を現した。
かつてと変わらない――いや、かつて以上に美しく清らかに成長して、セリアック=ニア・ファナハード=オルトクォーレンは異国の地にふわりと降り立った。
ドラトリアの至宝と謳われた宝石のような瞳はきらきらと純真に輝き、黄色い髪はゆるやかにカーブしながら背中に流れている。
乳白色と薄い黄色のドレスは控え目であり、首飾りに光るのは豆粒よりも小さな宝石ばかり。けれどその全てが最上級の仕立てであり、国宝級の呪力を宿していることは間違いが無かった。
「まあ、リーナ!」
出迎えの為に集った修道騎士(私たち含む)の槍や棍を天に向ける敬礼には目もくれず、セリアック=ニアはリーナを見つけるとぱっと顔を輝かせてスカートを摘んで駆け寄っていく。
私は礼装である黒衣姿で槌矛を立てたまま、高い踵の靴でよく走れるなあと感心した。
霊長類型の耳とは別に存在する、頭頂部の三角耳がぴんと立って微かに動く。喜びの表現だった。
「ニアちゃーん! 直に会うのひさしぶりー!」
「会えてとっても嬉しい。今日はよろしくね」
旧交を温める二人を微笑ましく眺めながら、私は首を傾げる。
おかしい。ここに来る予定だったのは、セリアック=ニアを含めた護衛や神官、使節団を含む総勢百人にも及ぶ集団だったはずだ。
「あの、殿下? 他の方々はどうされたのでしょう?」
恐る恐る問いかけてみるが、セリアック=ニアは私の言葉が聞こえなかったかのようにリーナに話しかけ続けている。
仕方無く、同じ内容をリーナが繰り返すと、
「ああ、それならもうすぐ到着します。ほら」
セリアック=ニアが示した先で、転移門から巨大な質量が転がり落ちた。
存外に柔らかく着地したそれは、球体だった。
私はそれを見て、小さい頃に読んだ絵本を思い出した。
かつて大地が球体だった頃に第九位の天使だった、まあるいドルネスタンルフ。
ふくよかな体型の人を喩えるときによく出てくる名前だけど、しかしそれは人というか、人のような何かといった方が適切に思えた。
白から褐色のグラデーションを描く、肌色の表面。
よくみると、体毛や関節の皺、うっすらと浮き出した血管が見えている。
まるで、人の皮を用いた大玉のようだ。
だが継ぎ目は一切見当たらない。最初からそうであったかのように、自然な生き物として球体はそこにいた。
時折、各所から骨ばった何かや人の顔じみた輪郭が浮かび、微かな呻きが聞こえるのがひどく不気味だ。
「あの、殿下、あれは一体」
私の問いかけを無視するセリアック=ニアに、仕方無くリーナが同じ問いを投げかける。
セリアック=ニアはにこりと微笑んで、
「みなさんです」
「うーん、ニアちゃん、最初から説明してくれる?」
「護衛と神官団に刺客が混ざっておりまして、出立の直前に襲撃されました。特に問題なく撃退したのですが、事前に規定の人数を申請した以上、それを曲げては姉様の顔に泥を塗ってしまいます。そこで、生きたまま一緒に来ていただいたのです。それに護衛の数が足りないとなればドラトリアの威厳にも関わりますから」
最後の理由をついでのように付け加えるのがセリアック=ニアらしいといえばらしい。しかしだとしても、全員まとめて肉団子にする必要までは無いはずだ。
リーナがその理由を問い質すと、セリアック=ニアは首を傾げて、
「まだ内通者がいるといけないので。それに、儀式やお話でしたらあの中からでもできるでしょう? 護衛の方々には外周部で中心部の方々を守っていただくということで、合理的ではないでしょうか」
セリアック=ニアの手招きに従って、ごろごろと肉塊が転がってくる。
並んで道を作っていた修道騎士たちが一歩退き、その異様さに呻いている。
「あれが猫の取り替え子か」
「おぞましい、なんと冒涜的な」
「しっ、聞こえるぞ」
囁き声から滲み出るのは畏怖と嫌悪。
視線は、自然と極めて稀な身体的特徴である三角の耳に集まる。
非霊長類系の耳など珍しくも無いが、それが幻獣【猫】ともなれば話は別だ。
かの獅子王キャカラノートと同じ特徴を有するセリアック=ニアは、敬われる以上に忌避される存在である。
「ニアちゃん、さっすがにやり過ぎじゃないかなあ。ってかあれじゃ苦しくて儀式とか無理だと思うよ」
「それならそれで良いのです。葬送式典の御霊送り程度、セリア一人で十分ですもの。誰かの手を借りるまでもありません」
セリアック=ニアはこれまで一度も私の方に視線を向けていないが、その言葉が棘を剥き出しにしているのは明らかにこちらの方向だ。
私もまた、マロゾロンドの使徒として葬送儀式の締めくくりに参加することになっている。
だから、その補助のために訪れたセリアック=ニアとは協力して儀式にあたらなければならない、のだが。
「そういえば、セリアがお手伝いするはずの使徒様はどこでしょう。先程から探しているのですが見当たりません。遅刻ですか」
「あの、ここにおります」
「あら使徒様。お久しぶりです。背が低すぎて見えませんでした。ふふ、今日も小さくて可愛い夜の民流のぶりっこがお上手ですね。今度はどなたに媚びていらっしゃるんですか?」
「ニアちゃーん、抑えて抑えてー」
にこやかに毒や敵意を向けてくる相手に対して、私はただ縮こまるしかない。
セリアック=ニアは姉であるリールエルバと昔から仲の良かったというリーナを除けば、私に対してだけ個人的な感情を露わにする。
それは誰に対しても無関心な笑顔を見せる彼女としてはとても珍しい、怒りや恨みに類する感情だ。
私がアズーリアとしての自分を取り戻したあのフィリスの事件まではそんなことは無かったので、原因は二つしかない。
ひとつは、あの頃から私とリーナが仲良くなって、セリアック=ニアと一緒に過ごす時間が減ってしまったこと。同じ理由で、なんだかミルーニャに対しても態度がやや冷たい。
そしてもっと大きい理由は、私の中にいるフィリスが彼女の師であったディスペータお姉様を過去に追放してしまったこと。
あの時、私に意識は無かった。
けれど、大好きなディスペータお姉様と引き離されてしまったセリアック=ニアとしてはそう簡単に割り切れるものでもないのだろう。
その時、セリアック=ニアの背後にうっすらとした輪郭が滲み出る。
姉のリールエルバが、超遠隔地からアストラル投射をしているのだ。
緑色の長髪と赤い瞳、均整のとれた半透明の裸体が浮遊している。細部や輪郭の曖昧な肢体は溜息が出るほど美しく、伝説の彫刻家サーク・ア・ムントの作品のような見事さだ。
男女問わず、誰もが見惚れずにはいられない成熟した美貌。あれで私の一つ上だというのだから驚くしかない。
「こーら、駄目よニア。使徒様に失礼でしょう。と姉様は仰っています。セリアもそう思います」
セリアック=ニアが姉の言葉を代弁するが、本心から同意しているとはとても思えなかった。
少しだけ俯いて、独り言のように姉に語りかける。
「セリアにはわかりません。セリアの中にいるナーグストールはセリアです。なら使徒様の中にいるフィリスだって使徒様ではないのですか」
それは、同じように内側に異質な存在を飼っているからこその視点だった。
セリアック=ニアの存在そのものと深く結びついた猫は、彼女にとって自分自身に等しい。ゆえに、似たような私とフィリスとを切り離して考える事ができないのだろう。
セリアック=ニアの言うことは間違っていない。私とて、同化と浸食の繰り返しでもうどこまでが自分でどこまでがフィリスなのかという境界は曖昧なのだ。
感情は容易く割り切れるものではない。
リールエルバは、仕方なさそうに腰に手を当てて息を吐くような仕草をして、それから薄く微笑んだ。
「仕方無いわね。使徒様、リーナ、メイファーラ。そして松明の騎士団の皆様方。本日はお忙しいところお出迎えいただきありがとうございます。早速ですが、式典の会場まで案内していただけますか? と姉様は仰っています。セリアもそう思います。あのね、それは貴方が言うべきことであって余計な補足は必要無いのよ?」
相変わらずな姉妹姫を連れて、私たちは専用の航空機に乗って世界槍の穂先に最も近い第一区へと移動していく。
広々とした機内前方の貴賓室で、セリアック=ニアとリーナが並んでゆったりとした座席で歓談している。その両脇で護衛としての任についているのは私とメイファーラ、それと修道騎士たち。巨大な球体の護衛(と言っていいのかどうかわからないが)は後方の一般客室を占拠しているようだ。
今回、私は式典の参加者でありながらセリアック=ニアの護衛でもある。メイファーラは私の護衛であり、護衛なのに護衛されるというよくわからないことになっている。どこだろうとクロウサー家の威光を振りかざしてふわふわ移動できるリーナの方がよくわからないが。
ふと、セリアック=ニアの背後で浮遊しているリールエルバが表情を変えた。
高密度の呪力が収束し、半透明のアストラル体が揺らぐ。形良く膨らんだ胸が指で押されたようにへこんでいる。痛みに表情を歪めた姉を見てセリアック=ニアが指先から爪を飛び出させる前に、私が素早く槌矛を隣の修道騎士に突きつけた。
「退出を。死にたくなければ急いで」
リールエルバは腰の後ろで組んでいた両手でさっと身体を抱くとうつむいてしまう。緑色の髪が赤くなった顔を隠す。
文字通り穴が空きそうな程に投射型の邪視で注視していた修道騎士に周囲から冷たい視線が集まる。
それほど強い邪視ではなかったので兜越しならばれないとでも思ったのだろうが、リールエルバのアストラル体は非常に繊細だ。下手をすれば怪我をしていたかもしれない。
「し、失礼しましたっ」
その修道騎士が泡を食って貴賓室から出て行くのを見届けて、私は嘆息した。
危なかった。私が動くのが遅れていたら、リールエルバが怪我をしていただけでなく、セリアック=ニアによって修道騎士が殺害されて国際問題に発展していたかもしれない。
投射型の邪視者は視線が現実に影響を及ぼすので、不躾な凝視をしていればすぐに露見する。
羞恥に震える姉を見て、憤慨したセリアック=ニアが立ち上がろうとする。それをリールエルバは制止して、余裕を持って口を開いてみせる。依然として顔は赤いままだが。
「いいのよ。どうせそんなにはっきりとはわからないのだし。それに、見惚れられたと思うと気分がいいわ。と姉様は仰っています。セリアもそう思いますが害虫はやはり殺すべきです」
セリアック=ニアは繰り返し爪を出し入れしている。正直気が気ではない。場合によっては私が力尽くで止めなければならないのだ。その場合、多分あっちは容赦してくれないだろう。嫌だなあ。
「どんな形であれ、人に認められるって嬉しいものよ。ごてごてと着飾った姿や肩書きなんかではなく、私そのものを見られていると思うと素敵な気分になるわ。と姉様は仰っています。セリアもそう思います」
思えば、リールエルバは昔から誰かに話しかけられると嬉しそうにしていた。狂喜するあまり言葉が大波のように押し寄せてくるのが玉に瑕だが、認められたい、かまわれたいという欲求が強いのだと思う。
美しいアストラルの裸身を晒す彼女の肉体は、豪華絢爛なドレスに包まれて地下千メフィーテに幽閉され、長年の拘束でひどく痩せ細っているという。
ずっと誰とも会えないまま、身動ぎ一つできない環境で雁字搦めに縛られてひとりぼっち。
セリアック=ニアが瞳を潤ませて手を伸ばすが、非実体のアストラル体に触れることはできない。
窓の外、雲の向こうの遙かな異国に思いを馳せる。
自らを傷つけかねない強い承認欲求によって存在を維持せねばならないほどに危うい存在。それがリールエルバだ。
生き霊、幽体離脱、背後霊。
ドラトリアからここまで、肉体との接続が消失しかねないほどの距離だが、リールエルバは妹であるセリアック=ニアを媒介としてアストラル体を憑依させることによって、【血の絆】の呪術で存在を補強している。
吸血鬼が使い魔との間に結ぶ契約の呪力経路。
王墓の底に潜む吸血公。
ドラトリアの地下で密かに受け継がれてきた王族の血統。
マロゾロンドが直接作り出した始祖吸血鬼によって築かれたドラトリアでは、大神院によって夜の民が私たち【青い鳥】のみとされた後も吸血鬼の王族を絶やさぬため、王墓の下にある巨大な地底王宮に真の王族を匿っていた。
しかし最後の血は想定外の事件によって余りにもあっけなく絶えてしまう。
その血脈を復活させることを望んだドラトリアは星見の塔に縋り、そしてそこに末妹選定という儀式が結びついたことで、その計画は実行された。
最後の姫君、リールエルバのクローン。
人工的に培養された吸血鬼。地下深くに埋められた呪術培養の魔女。クローンであることを示す魔女名はトリシル=リールエルバ。その名を二度目に呼ぶことは彼女に敵と認定されることを意味する。
存在しないはずの非公式な王族。
決して日の光を浴びることが敵わず、複製であるという事実により常に自己同一性の崩壊の危機に晒され続けるという非業の運命。
その振る舞いから、いつしか彼女はこう呼ばれるようになった。
狂姫リールエルバと。
端末に着信。
断りを入れて、メールを開封する。
『やっぱり、内側にかなーりいるわね。できる限り目星を付けて知らせるようにするけど、いざという時はニアをお願いね』
画面から顔を上げると、リールエルバと一瞬だけ視線が交錯する。
ハルベルトと並ぶ一流の言語魔術師を頼もしく、危なっかしい猫の取り替え子を恐ろしく感じながら、私たちは第一区に向かう。
枝のように伸びた第一区の根本付近、分岐する枝の集まる区画。
葬送式典の会場は、その中心で威容を誇っている。
擂り鉢状の客席は二十万人を収容可能だ。これは地上でも有数の規模であり、アルセミット国ではこれを上回るものは首都アルセミアの大聖堂しかない。
浮遊する積層型の映像投影鏡は今日のために運ばれてきたものであり、本番では中央の祭壇――舞台の詳細が大写しにされる。
もちろん、この場に来ることができなかった遠い地の人々にもその映像は配信される。地上全土に配信されるこの葬送式典は、厳粛な儀式であると同時に娯楽でもあるから、多くの人が注目するのだ。現在も鏡には広告主である多数の複合企業体の名前が次々と表示されている。広告幻像が乱舞する会場に、一般客たちがざわめきながら着席する。
特設された貴賓席にセリアック=ニアとリールエルバを案内していく途中、ミルーニャとプリエステラから連絡が入り、準備が整っている事を確認する。
私たちの出番は最後の最後まで無いので、何事もなければこのまま特等席で娯楽要素たっぷりの式典を眺めていられるのだが、おそらくそういうわけにもいかないだろう。
会場の周囲には修道騎士たちが厳重な警戒網を敷き、更には各国の来賓たちが連れてきている護衛はいずれも歴戦の強者揃いである。
貴賓席の端に見えるのは、中原の騎馬民族である草の民たちだろう。一人一人美しい毛並みの馬を連れており、席の横には馬専用の空間が用意されている。
馬と共に生きる彼らは眷族種としては三本足の民に分類されるが、独立心が強く槍神教との小競り合いを繰り返してきた。
その隣には魚を思わせる耳をした一団。南東海諸島からやって来た【ウィータスティカの鰓耳の民】だろう。複数の布を重ねたような服の肩に、第四位の天使デーデェイアを示す大蛸の紋章が縫い付けられている。
内陸部であるエルネトモランでは鰓耳の民は少数派だ。しかし今日だけは、遙か遠方から主要三大氏族であるリク族、テロト族、キュラト族の族長やその代理といった要人たちがこの場に集まっている。
周囲を固める戦士たちは巨大な銛を手にしており、呪術師たちは彼らが開発した水流のコンピュータを羽衣のように身に纏っている。
更に北辺帝国の有力諸侯、東方諸国や三千都市連合からの使節などが続く。伝統的な槍を構えて身辺を警護しているのは統制のとれた【ジャスマリシュの天眼の民】たちだ。第七位の天使シャルマキヒュの加護によって優れた索敵能力を持つ彼ら彼女らがいれば、いかなる敵だろうと敵意を露わにする前に察知可能だ。
「うへー、壮観だー。つかこれ私らの出番無くね?」
リーナはそう言うが、そういう油断こそが一番の敵だと思う。
というか、決戦に向けて意気込んでいたあの格好良さはどこに行ってしまったのだろう。
仲良く並んで腰掛けるリーナとセリアック=ニアはほどよく落ち着いている。
空は晴れ渡り、この世のあらゆる悲惨な出来事が嘘のよう。
ふと、私は新たな集団が貴賓席に現れた事に気付く。
棒で吊された四角い駕籠を前後で担いで運ぶ兎の集団。
第六位の眷族種【イルディアンサの耳長の民】たちは、垂れた耳をぱたぱたとうごかしながらせっせと駕籠を運んでいく。
御簾に遮られて内側はわからないが、それを見て私は思わず声を上げそうになった。信じがたいほどの強烈な呪力が駕籠の隙間から漏れ出ているのだ。
近くで駕籠を担いでいる兎は抗呪繊維で編まれた長衣に身を包んでいるが、呪波汚染の凄まじさに額に汗を浮かべ、ついにはふらついて倒れそうになる。
駕籠が傾きかける。近くにいた私は咄嗟に駆け寄ってその兎と棒を支えた。
「大丈夫ですか?」
「も、申し訳ありません」
顔面蒼白な兎はどうにか持ち直し、所定の場所に駕籠を降ろす。私たちの席のすぐ隣だった。と、御簾の中から声がかけられる。
「ありがとうございます。親切な夜の民の方」
ひどく儚げな、喧噪に掻き消されてしまいそうな女性の声だった。
発言の直後に、小さく咳き込むような音。身体が弱いのだろうか。
「顔も見せぬ無礼をお許し下さい。ですが、私がこの駕籠から出れば穢れを地上に振りまいてしまうのです」
「いえ。それを言うならば、私たち夜の民だって常に全身を隠しております。人にはそれぞれ事情があるものですし、それを咎める権利はこの地上の誰にもないと思います」
「そう言っていただけると助かりますわ。素敵な人がお隣で良かった」
穏やかに言って、ここまで駕籠を運んで来た兎たちを労い、倒れた者に休憩するように言いつける。兎は一礼し、私にも感謝の言葉を告げてその場を離れる。
「あの子には可哀想な事をしてしまいました。私は本来ならばこの地上に降り立つ事も許されぬ身。我が侭に付き合わせて、私は人の上に立つ者としては失格ね」
どう返事をするべきかわからない。肯定するわけにもいかないし、貴人らしき相手の言葉を否定するのもどうかと悩んでいると、相手の視線がこちらに向かうのを感じた。強烈な呪力の波。なるほど、これは高い呪術抵抗がなければ傍にいるだけで体力を消耗するだろう。
「――貴方が、アズーリア・ヘレゼクシュね?」
面食らう。とは言え、貴賓席にいる夜の民は私だけである。更に今日の私が身に纏う黒衣は暗い青の縁取りがされた最上級の礼装。葬送式典の進行の概要は発表されているので、推測は容易だ。
肯定すると、何故かしばしの沈黙。
「――ふうん。なるほど、ね」
黒衣の内側まで見透かされたような感覚。どうしてかぞっとする。
が、その感覚はすぐに消えた。ほっと一息を吐く。
相手はまだ何かを言おうとしたが、その時またしても新たな集団が現れる。
貴賓席に用意されていた一番大きな空間。
他の座席よりも数段高い位置に設置――というよりも浮遊しているそこに、同じく浮遊しながら移動する一団が到着する。
それを見て、リーナが「げ」と呻く。
高みから眼下を睥睨する雲上人たち。第一の眷族種【エルネ=クローザンドの空の民】たちが厳かに登場する。
高位の邪視者や言語魔術師たちの護衛の中央に、誰よりも高い位置を浮遊する長身の老人がいた。
白い頭髪は背後に流され、顎から伸びた髭は胸元まで垂れ下がっている。
白と青を基調とした長衣は最上級の逸品で、すっと伸びた背筋は老いをまるで感じさせることが無い。
爛々と光る眼は恐るべき威圧感で大気そのものを屈伏させていた。
そして、霊長類ならば両耳がある場所からは長大な翼が生えている。
純白の翼耳。ゾラの血族の証として有名なそれが、周囲の大気を掌握する。
息が苦しい。窒息しそうだ。
「頭が高い。頭を垂れよ地虫ども」
その場に立っている者が、全員揃って膝を突いた。すぐ傍にいた空の民たちも例外ではない。
ありとあらゆる貴種たちが集うこの場所で、誰よりも高みから全てを見下ろすこの老人こそ、他でもないクロウサー家の当主。
四つの血族を束ね上げる家長、サイリウス・ゾラ・クロウサーである。
老人は一瞬だけリーナを一瞥したが、声をかけることなく通り過ぎていく。
その代わり、同じく白と青の長衣を着た男がリーナに目を止めて話しかける。
「おやおや。誰かと思えば落ちこぼれのリーナじゃないか」
「――どーも」
目を会わせないように三角帽子を目深に被っていたリーナは、観念したように顔を上げて相手に視線を向ける。
にやにやと笑うその男は、円筒状の鍔突き帽子を被っていた。リーナの黒い帽子とは対照的に色は白。
「妾種の分際で一体何を勘違いしてこの場に紛れ込んだ? 全く、ガルズといい地虫の血は碌な結果を生まんな。ほら、お帰りはあちらだぞ」
「っんのクソ従兄弟、調子乗んなよこの場でぶっ飛ばすぞ」
「おお怖い怖い。野蛮なカラスもどきが何かわめいているようだ。ここは大人しく退散するとしよう。いくぞユバ」
「うむ。だが俺にはお前が何を言っているのかわからんぞハルティール。そこに何かいるのか?」
「俺もユバと同じだよ兄さん。俺達の高貴な邪視には雲の中に紛れた卑しい白カラスなど映らないのさ」
「おっと、そうだったなウィティールよ。すまんすまん」
帽子を被った空の民の男――ハルティールは高笑いしながらその場を通り過ぎていく。同じように通り過ぎていく男たちもまた、同様に様々な色彩と形状の帽子を被っている。
中にはリーナを見て露骨に嘲笑を漏らしたり、鼻を鳴らしたりする者もいる。
私は心の中で一回ずつ全員を吊しながら、帽子を被った連中を見送った。
その次に通り過ぎていった空の民は耳が鳥の羽のようになっている。彼ら彼女らはリーナに対して何かを言うことはなかったが、リーナは居心地悪そうに俯いたままだった。
その両耳は、典型的な霊長類や三本足の民と同じものだ。
まだ黒百合宮にいたころ、空で雲をいじって会話する遊びをしながら、ふとした拍子にリーナが零したことがある。
『あのね、私は翼耳が無いから、本当はあんまり高く飛べないんだ。でも、私はお姉ちゃんと一緒のこの耳が好き。おかげで箒の扱いも空の民としてはかなり得意な方だしね』
自分の耳を好きだと言ったリーナは、けれどそのせいで一族の中で肩身が狭い思いをしているのだろうか。
あの言葉は決して強がりだけじゃない本心だと思う。
けれど、私はなんだか腹が立ってしょうがなかった。
リーナは落ちこぼれなんかじゃない。そう力一杯叫んでやりたい。
――駄目だ。今はあんな連中に注意を向けている場合じゃない。
深呼吸して落ち着く。
気がつけば、葬送式典が開始される時刻だ。
私は激発しそうなセリアック=ニアを抑え続けているメイファーラの負担を和らげるべく、彼女に【安らぎ】をかける。ごめんね。私がセリアック=ニアに話しかけると余計にこじれそうなんだ。
そんな風にしているうちに時間は過ぎていき――遂に、その時が訪れた。
式典の開幕と同時刻。
全ての修道騎士に、下方勢力が第四階層に侵攻を開始した事が知らされる。
審判ヲルヲーラは戦闘の開始を受諾し、第四階層の掌握者たる守護の九槍第七位を中心に第三位、第四位、第六位率いる修道騎士たちが防衛戦に入る。
地上に配置された兵力の半数はこのまま式典会場の周囲で待機とされたが、残りもう半分が急遽再編成されて第四階層に向かうことになった。
侵攻の規模が、想定を超えていた為である。
「巨人種が?」
私が思わず声を漏らすと、メイファーラは囁き声で返す。
「うん。第十七魔将ガドール率いる小人種の軍勢と第十八魔将マーネロアが率いる呪力兵と金毛種の混成軍はいつも通りなんだけど、そこに巨人種が加わってて大変なことになってるって」
「巨人って、先代の団長に大負けしてから第八階層に引きこもってるんじゃないの? 名誉を賭けた決闘の掟に従った休戦協定がどうとかで」
「そのはずなんだけど、過去に戦った氏族とは別の少数氏族みたい。智神の盾の分析によると、シェデク邪神群とフォドニル=フルス邪神群っていう旧時代に信仰されていた神々らしいよ」
よくわからないが、地獄は地獄で面倒な派閥争いみたいなものがあるのだろう。
いずれにせよ、相手はかつて槍神教に追いやられた『かつて神だった存在』たちだ。零落した邪神とは言っても、全個体が固有種であるその力は最強の異獣と称されるに相応しいと聞いている。
「アズ、なんかあたし、嫌な感じするよ」
「だね。というか、偶然じゃないと思う」
第四階層への侵攻によって、地上の警備は手薄になった。
まるで、地獄が葬送式典に対する襲撃を支援するかのように。
――逆だろうか。この時に地獄が侵攻を始める事を知っていたからこそ、ガルズは葬送式典の襲撃を計画した?
いずれにせよ、ガルズやマリーといったトライデントの細胞は地獄と通じている。それはわかり切っていたことだが、恐らくあの二人だけではないのだ。
内通者は、恐らく私が想像していた以上に地上の奥深くに入り込んでいる。
式典は迷宮の戦いとは関係無しに進められていく。
小さな蝋燭の火によって死者を慰撫する厳粛な祈りをその場の全員が捧げ、神官たちが厳かに祈祷の文言を唱え、伝統的な疑似火葬を行う。
巨大な杯の上に踊る橙色の猛火の中に故人を模した人形や棺桶が運ばれていく。
炎の中に消えたそれらは実際は舞台の下に消えているのだが、火葬の形式をなぞることで迷宮で散っていった命を葬送したことにするのである。
今まさに、迷宮で多くの命が散っている事を思うと、酷く暗鬱な気分になりそうだった。
立ち上る煙が浮遊する積層鏡の中に吸い込まれていく。ああして鏡という異界の入り口に吸い込まれた魂は、現世とは異なる位相に存在する天の御殿に届くのだと言われている。
炎の葬送が終わると、続いて水を用いての葬送。美しく光を反射する水流が舞い踊る鰓耳の民の周囲で複雑怪奇な絵図を描く。
更には無数のカラスたちが舞い踊り、浮遊する墓石が積み上がって巨大な塔を作り上げ、穏やかな風が色とりどりの紙吹雪を散らせていく。
様々な手法の弔いが行われ、最後に現れたのはプリエステラである。
樹妖精である彼女の登場に会場がざわめくが、ソルダ・アーニスタによる特例措置で異獣というラベルが解除された彼女たちを攻撃できる者はここにはいない。
彼女が杖を降ると、色とりどりの花々が舞台から咲き誇る。
それから詠唱と共に小さな苗を舞台の中央に置くと、それはぐんぐんと成長して立派な黒檀となる。
と、反対側から祭服を纏った黒檀の民の男性が現れる。
イルスだった。彼は膝を突くと槍神への祈りを捧げ、更には『樹木の天使』であるレルプレアと精霊たちへの祈りを高らかに唱えていく。
静まりかえっていた会場から再びざわめきが聞こえ始める。目の前の光景をどう受け止めるべきか、判断しかねているのだろう。
実を言えば、私はこの件に関して詳しい経緯を知らない。
意識が無かったり、その後は部屋に籠もりきりで作業をしていたからだ。
ただ、プリエステラとイルス、そしてハルベルトやソルダとの間で何らかのやりとりがあったらしい。
槍神教の有力者が数多く死亡した結果、エルネトモランではちょっとした混乱が起きた。
そんな状況の中、黒檀の民出身の有力神官が協力したことで実現したのが目の前の光景なのだと聞いている。
これが地上にとってどのような意味を持つのか、今はまだ何とも言えない。
ティリビナの民と黒檀の民、ひいては槍神教との和睦の第一歩なのか。
それとも、ティリビナの民が誇りを捨てて地上に隷属したことの証なのか。
その場のだれもその正否や善悪を判断できぬまま儀式は終わり、プリエステラとイルスは退出していった。
その後に現れたのは両耳をすっぽり覆い隠すほど大きな摸倣子可聴変換装置を付けた女性だ。
葬送式典の為に地上に残らされた守護の九槍第五位を中心として、聖火楽団と聖歌隊が並んでいく。
眠たげな眼が突然ぱちりと見開かれ、世界が一変する。
第五位が展開した浄界が会場をすっぽりと覆い尽くし、大聖堂となったその場所に神を讃える音楽が鳴り響く。
第五位は周囲に途方もなく巨大なアストラル体の霊筒鍵盤を出現させた。
彼女が半透明の鍵盤を叩く度、無数のパイプに呪力を纏った風が送り込まれて荘厳な音を鳴らし、槍や槌矛の代わりに弦楽器や管楽器を手に持った修道騎士らが流麗な旋律を奏でていく。
アストラル体に直接響いてくるかのような圧倒的な音に当てられて、先程の一幕で動揺していた会場が再び落ち着きを取り戻していく。
その場に復活する、槍神への絶対的崇敬。
洗脳にも似た圧倒的な神働術――教会音楽という小儀式によって、プリエステラやその賛同者たちに釘が刺されているのだと感じた。
やがて演奏が終わり、浄界が解除される。
それが葬送式典の前半、つまり厳粛な儀式が終了したことを示す合図だった。
宗教画が描かれた大聖堂の天井が消失していくと、澄み渡った青空に巨大な構造体が出現していることに誰もが気付いた。
天空から逆さまに屹立し、四方にある大きな門から大量の呪力を放出していく。
半透明のアストラル体によって構成された、超巨大な建造物。
それは無数の槍のような尖塔を有する宮殿であり、同時に墓標だった。
第一位の天使、睥睨するエクリーオベレッカ。
この日、この最も天に近い場所で、所定の儀式を行うことで出現する、建造物の天使。
天を覆い尽くす逆さまの御殿にして墓所にして槍そのもの。
その威光に誰もが祈りを捧げ、そこから会場は明るい雰囲気に包まれる。
娯楽性の度合いが一気に増し、煌びやかな行列が光の呪術で観客の目を楽しませ、有名俳優や運動選手などが手を振ると叫び声が上がり、毛長曲牙象や紫槍歯虎などの珍しい動物を引き連れた曲芸団が様々な趣向を凝らした呪術曲芸を行う。
更には次々と打ち上がる大小の花火。
それと同時に、会場の隅で情報を管理していたフラベウファが骨花によって襲撃を受け、第一区の各所に設置された呪力信号の発信塔が爆破される。
この日のために運び込まれた墓石に紛れていた呪石が妨害呪術を発動したことで、あらゆる通信網が途絶していく。
情報の遮断によって会場に供給されていた呪力が一時途絶え、会場は呪術的に孤立してしまう。
その瞬間、貴賓席の周囲に緊急事態に備えた呪術障壁が展開された。
貴賓席が外部から完全に切り離される。
そしてそれこそが敵の狙いだった。
クロウサー家の一人の腹を突き破って現れたマリーは、サイリウスの背後をとるとその延髄に鑿を突き込む。
必殺を期した一撃。
だが、マリーの身体は私の放った拘束帯によって縛り上げられ、リーナが放った【空圧】で地に叩き落とされ、メイファーラの短槍を首に突きつけられて身動き一つとれなくなってしまう。
サイリウスはというと、微動だにしていないどころか背後を振り返りもしない。
「なんで、こんな」
「こちらメイファーラ。目標を捕縛しました」
マリーは妨害したはずの通信を平然と行っているメイファーラの声を聞いて、愕然としていることだろう。
「まあ、このくらい予想済みってこと。ほら、あっちも無駄」
リーナが指差した先にある舞台では、状況を混乱させるべく現れた巨大な腐肉人形がペイルによって粉砕されていた。
筋骨隆々とした上半身裸の巨漢が怪物を倒していく光景は松明の騎士団の模擬演舞か何かだと解釈されているのだろう。
天を衝くような巨大な人体骨格が擂り鉢状の会場に張り巡らせた結界を引き裂いて襲いかかろうとするが、その頭蓋に無数の弾体が直撃、後退させていく。
太陽を背に飛翔するのは、装甲に覆われた人間ほどの大きさのカラスだった。
優美な白い翼から羽型の攻撃端末が次々と射出されていき、【空圧】を纏わせた強烈な全方位攻撃が巨大白骨を破壊していく。
更にカラスは変形を繰り返し、内部から装甲に覆われた手足を迫り出させて翼を持った騎士となる。
腕に取り付けられた三つの刃を降下しながら振り下ろしていくと、巨大白骨はがらがらと崩れていった。
『まずまずの成果ですね。智神の盾とアルタネイフ工房の技術力があればまあざっとこんなもんですぅ。あ、一応ついでにきぐるみ女の基盤技術も』
ミルーニャからの通信が入る。
あのカラス型と人型、二つの形態を使い分ける新型の甲冑は、神働装甲と名付けられた新武装である。
その試験運用を担当しているのはペイルの仲間としてかつて私たちと刃を交えた三本足の民、ナトだ。
ミルーニャによって四肢を奪われた彼は、その凄惨な体験を経たことによって呪術の適性が大幅に上昇した。
四肢の欠損や臨死体験など、極限の状況に晒される事で魂がより高みへと引き上げられることがあるという。
再現性の無いあやふやな事例だが、ナトは運が良かったらしい。
ミルーニャはかえってナトから感謝されてしまったことがたまらなく嫌な様子で、『不快ですがあのきぐるみ女の真似をするとします』などと言いながら手足の代わりとなる神働装甲の開発を手伝っていた。
ナトはあの鎧の四肢を攻撃端末を操る要領で使い魔として使役しているらしい。膨大な数の羽型攻撃端末を同時に操作するその実力は恐らくかつての比ではない。
「こんな、こんなダメダメなはずじゃ」
絶望の声を漏らすマリーを、私たちは哀れみに満ちた視線で見下ろす。
途絶した呪力の供給はとうに回復し、通信網も復旧している。
会場の外から襲撃を仕掛けていた骨花の使い魔たちを全て破壊されたことを確認して、私は溜息を吐く。
異獣憑き、そして呪動装甲の内部に入り込んだ金鎖細胞は鎖状の円環構造を類似とみなして、離れた場所であっても類感呪術通信を可能とする。
かといって中枢たるフラベウファをどうにかすればそれで通信ができなくなるようなシステムではない。
全ての金鎖が相互に分散処理を行っているため、仮想的なフラベウファは決して死ぬことがない。
そして通信設備を襲撃するであろうこと、妨害呪石を密かに用意していたことは予想ができていた。
ソルダの指揮の下、あえて作られていた警備の隙を狙った骨花の群れはあえなく伏兵たちに潰される。
彼が個人的に雇った(ただし資金は松明の騎士団から出ている)探索者協会の人員たちが、この日のために用意された襲撃用の使い魔を全て駆逐したのだ。
予備の通信機材が起動し、速やかに復旧作業が完了。
そして、マリーを更なる絶望が襲う。
舞台の中央。
円形に空いた穴から迫り上がってくる足場。
その中央に立つ、美貌の半妖精。
少しだけ尖った両耳と僅かに青みを帯びた長く美しい黒髪、黒玉の瞳、奇跡のような美貌。
ゆったりと広がったスカートが綺麗な青と黒のドレス。
複雑に重なる布を揺らしながら、この会場、それどころか地上全土で登場を待ち望まれていた歌姫が姿を現す。
「嘘、嘘だ! 確かに、確かに殺したのにっ!」
マリーは信じられないと絶叫する。
いつもはフードで隠していた両耳は高度な偽装呪術によって半妖精の質感と映像を被せられている。たとえ触れたとしても彼女の耳が左右非対称であることは誰にも分からないだろう。
歌姫Spear――またの名をハルベルト。
盛大な歓声に出迎えられながら、この日の主役が登場したのだった。
それとほとんど同時に、遙か遠くの第五階層からの要請に従って、この場所の映像と音声がアストラルネットに広がっていく。
更にもう一つの仕掛けが駆動する。
やや恥ずかしいが、寝ずに突貫で『加工』した物語素体。
どうにか形になっているといいのだけれど。
私は願う。
遠く離れた場所で戦っている彼の勝利を。
私たちのこの勝利が、遙かな迷宮まで届けばいいと、そう思った。
ディスペータお姉様による『あとでテストに出ますからね』コーナー
【門】:「転移門、大扉とも言われる遠く離れた二点を繋ぐ装置ですよー。空間を切り貼りして繋ぐタイプのものとトポロジー型圧縮異空間でショートカットするタイプが主流ですが、今回出てきたのは後者ですね。列車に乗らないで地下鉄の路線図の上を歩いたら駅に到着、みたいな感じです♪」
【アルセミット】:「お話の舞台である迷宮都市エルネトモランのある国ですね。首都のアルセミアは槍神教の総本山です」
【ドラトリア】:「吸血鬼王ドラトリアが興した東方の国家で、首都はカーティスリーグです。現在では、霊長類系の有力貴族であったオルトクォーレン聖大公を中心に国政が行われていますが、政情は不安定みたいですね。ニアちゃんのそっくりさんは聖大公のご息女だったそうです」
【ドルネスタンルフ】:「まあるくてごろごろ転がります」
【猫の取り替え子】:「生まれたばかりのニアちゃんは取り替えられたのです。彼女は猫のナーグストール? それともニアちゃん? きっとそれは、あの子たち次第」
【獅子王キャカラノート】:「ニアちゃんと同じ猫の取り替え子。古の言語支配者にしてフィリスの創造主たちの一人――あら、これは有罪かしら」
【トリシル】:「クレアノーズの命名だけれど、余りにも酷すぎると思います。どちらにとってもです。トリシューラに負ける度、あの子ったら酷く沈み込んでしまって。見ていられませんでした」
【浄界】:「己の心に描いた世界で現実を書き換える、邪視者の奥義です。術者によってそのかたちは変わりますが、第五位さんのものは実在のアルセミア大聖堂をそっくりそのまま再現するようです」
【神働装甲】:「呪動装甲と何が違うのかと言えば、それぞれの守護天使に関係のある形態に変形できる所ですね。今回使用されたのは第五位型の試作機で、その他の位階に対応した神働装甲も試作機を開発済みだそうですわ」