幕間 『悪夢』
明晰夢。
これは夢だ、という自覚のある夢。
現在、俺が見ているこれがそうだが、しかしどうだろう、それは本当に正しいのか、とも思う。
半年前に戦った石の迷宮、人狼がひしめく無機質な闘争の場。
そこで俺は、誰とも出会わずにひとりきりで戦い続けている。最後には迷宮最深部にいるエスフェイルと対峙し、そこで無数の黒い棘を突き刺され、剣山のような屍を晒す。
気がつくと迷宮のスタート地点、左腕を失って独り。また迷宮を往き、狼の王と戦い、為す術も無く殺される。
死んでは繰り返し、死んでは繰り返し。
これが本来の俺の結末だったのか。もしかしたら、あそこで六人に出会ったというのは死ぬ間際に見た都合の良い妄想だったのではないか。そんなことを考えてしまうほど、長い長い繰り返し。
勿論そんなことは無い。六人と共に戦った記憶は確かな現実だ。
これは夢だ。そうだと分かっているからこそ明晰夢。
この世界に転生して半年、こういう悪夢を見ることはしょっちゅうだった。前世を思い返すと、過去の記憶をでたらめにシャッフルした支離滅裂な夢を見たことはあっても、このような筋が通ってはいるが非現実的な夢を見たことは無かったように思う。
理由はわからないが、この世界では夢とはこうしたものなのだという納得しかできなかった。半年も経てば慣れようというものだ。
だが、ここ数日コルセスカと出会い、話した事で奇妙な不安が芽生えていた。
彼女は、俺の記憶や意識は事後的に解釈されていると言った。
俺という個は、過去を参照することで今を形作っているのだと。
夢とは、記憶の整理、再配列なのだという。
であれば、過去の記憶を参照しながら『これは夢だ』と認識している『今このときの俺』は、一体どこにいるのだろうか。
ここは過去の牢獄だ。現実ならば時間が流れている為、記憶が蓄積され続ける。未来へ進んでいるという実感がある。だがここでは記憶は蓄積されない。全てが既知の記憶だけで構成されているから、どこに行くこともできない。ゆえに出口のない牢獄。
終わりのない迷宮を彷徨いながら、ただ戦い、その果てに死ぬ。
ああそうだ、敗北するとはこういうことだ。
何処にも行けない。
何もできない。
無力感に全身を押しつぶされ、自分すら見失って消えていく。
怖い。
途方もなく心が寒かった。夢の中では感情が制御できない。恐怖。不安。焦り。不全感。未来への展望など一つもない。こんな異質な世界で戦い続けて何になる? 暴力を振るって得た爽快感や財産が本当に欲しかったものなのか。転生して俺は一体何をすればいい? 俺は何を信じて生きていけば良かった?
どうして、アズーリアはあの時来てくれなかったんだ?
気付けば、悪夢の景色は一変していた。
青い造花の庭園。そこで何も言わず、何も見ず、ただひたすら呆けている自分の姿。
それを俯瞰して眺める自分の視点。
ありえない光景だが、奇妙な納得感があった。
あの時の俺は、精神が肉体から離れているようなものだったから。
ただ待つ。ひたすらに耐える。愚か者だと自分を非難しながらも、どこかで希望を捨てきれなかった、あの地獄のように長い一日。
無限にも感じたあの時間が、夢の中では体感した通りに引き延ばされていく。
終わらない。意識を刈り取る謎の敵も、気を紛れさせてくれる翼持つ猫も、そこには存在しない。
ただ無音のまま続いていく待ち時間。
思えば、この半年間とあの一日とは質的に全く同じなのかも知れない。
きっと今でも、アズーリアを待ち続けている。
再び出会わなければ、俺にとって牢獄にも等しいこの第五階層を抜け出すことが出来ないのだという気がしてならない。
『それが、あなたの渇望?』
違う。
たぶん、そうじゃない。本質はそこにはない。
あの再会の約束を特別視するのは、過去の記憶があるから。
共に戦い、失い、勝ち取ったもの。交わした言葉。共有した記憶。
それらが俺の中で輝かしく未来への指針になっているのは、繰り返しこんな悪夢を見ているからだ。あの六人に出会わなかった俺という最悪の結果を夢として見続けているからこそ、反証としての現実の記憶が際立つ。
目が覚める度に自分の記憶を確認して、出会っていたという過去に縋り付いて正気を保つ。その反復が、たった一日行動を共にしただけの相手への飢餓感を煽るのだ。
『じゃあ、その記憶は呪縛なんだね』
そうだ、これは呪いなんだ。
何処にも行けないという恐怖。それは、俺を生きながらえさせてくれた大切な記憶に起因するものであり。
未来を繋いでくれたものから解放されることで未来へと進みたいという、矛盾したこの意思こそが俺の本当の渇望なのだ。だからこれは動機の機能不全。論理の破綻。
俺という思考は、動作不良を起こしている。
だから俺は世界からドロップアウトせずにはいられない。あの世界でも、この世界でも。
人間の社会で生きることは俺には無理だ。
だって感情は機械で制御できても、意思と動機は制御できなかったから。
その二つは一時の感情だけではなく、蓄積した記憶にも左右されてしまう。だから俺はその誤作動を防げなくて、結果として最後には――。
『だから貴方は転生したんだ。いいえ、転生せざるを得なかった』
他の道は選べなかった。
そして、俺はまた、この世界でも同じ結末を辿ろうとしている。
わかり切った敗北だ。
意思によって制御されない暴力に頼れば、すり切れていつかこうなることぐらい、前世で嫌と言うほど思い知ったというのに。何度も何度も繰り返して、死んだ後もこれだ。
馬鹿は死んだって治りはしない。直りもしない。なぜならそれは病でも故障でもない、ただの仕様だから。
俺は、馬鹿だ。
『だったら話は簡単だね』
どこが?
悪いが頭が良くないんだ、何が簡単なのか全くわからない。
そもそも、さっきから一体誰が喋ってるんだ?
『アキラくん、私が、頭を良くしてあげるよ――』
そうして、俺の意識はゆっくりと解体され。
浮上するような感覚と共に、覚醒した。